5-31 本選開幕②
多くの神話では、神々の世界は天上にあるとされる。
階層の異なる世界という虚構のはじまりを誰も知らない。
だが、もしも神話に語られる通り、それが虚構ではないとすれば。
起源神話そのままに、天なる神々によって作られたのが下層の大地なのだとしたら。
俯瞰された地上はさながら盤上遊戯。
駒を動かしながら、『それ』は小さく笑った。
厳密には『それ』と代名詞で語るに値しないほど、存在としては不確かなものだ。
虚構の中に潜み、蜃気楼のように揺らぐ何者かは厳かに口を開く。
「役者は揃った」
選手たちを象った人形を弄びながら、暗がりで二つの異形が語らっていた。
片方は流動する青い血液で、時折内部が盛り上がって肉塊に変わり、帽子や翼や金眼などを覗かせる奇妙な群体。もう片方は黒衣や虹の弓持つ若者など、良く知られているゼオーティアの神々に次々と姿を変える個体。共に尋常な人間ではありえないが、同時に凡庸な想像力の限界を逸脱しない『よくある異常』の域に留まっている。
「あの中には私が最も信頼する右腕もいる。失敗はない」
新しく追加された五つの人形は血のような青で染め上げられている。
空使いの選定レースという試合はあくまでも形式に過ぎない。
それ以前の段階で、特権者たちの手によって大きな流れは定められている。
神々が実在する世界とは、そのようにして動かされるものだ。
「君にしては珍しい。随分とヒトを信じているんだね、ダウザール」
「最古参の部下だ。私に三本目の足があるとすれば、あれこそがそうであろうな」
絶対の自信をうかがわせる口調。
ダウザールと呼ばれた異形の内側から、ゆっくりと人面が浮き上がった。
それを徐々に肉体を得ていく。白髭を蓄えた壮年の男。翼耳、金眼、多関節の長い右腕、帽子や兜や冠をまとめて鷲掴みにする巨大な多指の左手。巨人のごとき圧倒的な存在感。
ダウザールというのは、クロウサー家が持つ特徴の全てを発現させた古い時代の『空使い』の名であり、パーン・ガレニス・クロウサーが挑んだ魔王その人である。
神話の住人が在りし日の姿を取り戻したのは一瞬だった。すぐに溶けて青い流体の中へと帰っていくが、その禍々しい気配は依然としてそこにわだかまっている。
「お前の仕込みはどうだ? 盟友よ」
問いに応じたのは宗教画を渡り歩く幻影だ。
その姿を黒衣の神マロゾロンドに固定し、寡黙という伝承を裏切る雄弁さで語り出す。
「おかげで首尾よく絡みつけた。持つべきものは友達だね。君たちが幽月から来訪したあの時、共存を選択した僕は賢明だった」
「ディスケイムの虫ケラに関しては失敗だったがな。まあ、それもじき解決する。我らの悲願が成就すれば、害虫駆除もたやすかろう」
「槍と翼の蜜月にも意味があったってことだ。全てが終わったら祝杯と行こうか」
怪物たちの間に流れる空気は気安く、ある種の弛緩と油断に満ちていた。
それを傲慢さと言い換えてもいい。絶対的な安全圏から剣闘士が殺し合う様子を鑑賞する王侯貴族たちが共有する愉悦と安堵。
「気が早いな、ハグレス。物事には順序がある。まずはリーナの活躍を楽しめ。ところで、先ほどの茶番は打ち合わせになかったと思うが、何のつもりだ?」
「ミシャルヒとカーズガンは僕からのプレゼントだ。上手く使ってほしい」
「あの幽鬼には既に気付かれているのだったな? パーンめの選定に横槍が入らぬようにという配慮か。健気なことだが、あの草の民には驚いた。奴はソルダの奴隷であろう?」
「『槍の導き』は騎士修道会の指揮系統に優越する。総長ソルダの指示よりも、大神院の神託の方が重要なのは当たり前じゃないか? ああ、それからこっちも」
二人の間で、盤面の四方が蠢く。暗闇の底からせり上がってきたのは新しい遊戯盤と駒。
輝く剣を携えた炎天使、血に濡れた紙幣を数える修道騎士、楽団を従え行進する神官。
実在の人物を正確に模した人形が、天上の神に祈りを捧げていた。
それらは守護の九槍と呼ばれる神のしもべたち。
第三位フォルス。第六位ネッスス。第八位アレッシオ。
「僕の加護に最も適合した槍の民だ。必要に応じていつでも動かせる」
「用意周到なことだ」
「僕は弱い神だからね。賢く立ち回らないと」
松明の騎士団という組織は決して一枚岩ではない。義国派と呼ばれるこの三名は本国から派遣された監視役であり、槍神教の中枢たる大神院の目である。
第一世界槍文明圏。聖地エルネ=クローザンド。
そこはまさに天上の楽土。槍神教とクロウサー家の本拠地であり、神に選ばれた貴種たる空の民と天使の末裔たる燐血の民たちが集う神聖なる『央都』だ。その影響力は南方辺境にも及び、全ての運命は彼らの意のまま。本来なら、そのはずだった。
「ソルダは中央の制御から逃れ、この世界槍全域の統括掌握者となった。このまま『松明』の増長を許せば、一介の十字槍軍国家であるエルネトモランは地方軍閥レベルの脅威とは呼べなくなる。最悪の場合、義国圏から切り離された独自の文明圏が生まれてしまうだろう」
「我々が苦労して維持してきた揺り籠の危機か。おそらく介入は救世主の降臨直後。背後を突くつもりであろうが、しょせんは多神教世界観の中で一柱の力を簒奪しただけの人の子に過ぎぬ。セレクティやディスケイムほどの脅威と見なすのは過大評価に思えるが?」
「その認識は改めるべきだよ、ダウザール。ソルダは『守護の九槍』に代わる新たな戦力を準備している。『金鎖騎士団』という妙な集団だ」
「『真なる邪視の座』とかいう、エーラマーンのあの噂か? 末妹選定はトリアイナ様の降臨と同時にその役目を終える。手遅れの悪あがきとしか思えんが、留意はしておこう」
「ライラの復活も折り返しの夢界には間に合うだろう。ノゴルオゴルオとスーリウムが介入しようとこちらの優位は揺るがない。愉快じゃないか? 既に勝利条件が僕らの手の中にあることを誰も知らない。誰も彼女の本当の姿をわかってない」
虚空に幻像が浮かぶ。過去の戦いを再現したものだった。
巨大な水銀の蛇と相対するちっぽけなリーナ。
あっけなくその命を散らしたのは、宇宙規模の力を持つはずの魔将だった。
「リーナがあと一度でも到達すれば、全て終わりだ」
遥かな天上で、神々という虚構が勝利を確信して笑う。
定められた運命は揺るがず、あらゆる弱者を踏みつけにして顧みることはない。
それらはただ、君臨と支配を求めるのみ。
そうあるべきと役割を定められた、機械仕掛けのように。
「全ては我らのてのひらの上よ」
祝祭は巨大な虚構だ。
日常への諦念が強ければ強いほど、非日常への耽溺は心地良いものとなる。
為政者への公然たる暗殺予告を茶番だと発表されれば素直に信じてしまうほどに。
あるいは平和、融和、調和。憎み合い対立する両陣営が手を取り合う光景さえも。
見ていて疲れるニュースより、気楽に消費できるコンテンツの方がこの場にはふさわしい。現実から適度に目を逸らして楽しむために、祝祭という場は暗黙の了解という名の呪術で保護されている。バイアス、願望、場の雰囲気、そしてある種の夢想主義。
黒衣の麗人ミシャルヒと魁偉なる戦士カーズガンが、世界槍の中心で握手を交わしていた。ジャッフハリムの四十四士とエルネトモランの守護の九槍が手を取り合う美しい景色に多くの人々が素直な感動を表明し、賛同するように手を叩き始めた。思想や意思というよりも勢いや流れと言うべき現象。祝祭というイベントが生み出す自動的な反応だった。
アストラルネットを楽観的な未来予想が埋め尽くし、ガロアンディアンを駆け巡る噂の風はまたたく間に華やかな色彩で街を染め上げた。SNSには決定的瞬間を捉えた念写スクリーンショットや流行りの写真画像、それを雑にコラージュしたパロディ作品が溢れかえり、何故かシナモリアキラとシナモリアキラが握手をして自作自演の和解をするシーンがミーム化。
氾濫したシナモリアキラ自演画像が検索性を高めるための投稿タグである『#コアート』を荒らしまわるに至りコルセスカが遺憾の意を表明。コルセスカと『王殺し』が相対する緊迫感溢れるイラストや、いい笑顔で祝祭を満喫するツーショット、暗殺そっちのけで箒レース観戦に熱中する二人、一緒にゲーム配信するイラストなどを公式アカウントで紹介して荒らしと全面対決する姿勢を示す。
「いい度胸です。戦争しましょうか、どちらかが滅びるまで、徹底的に」
ネット上で起きているごっこ遊びの戦争を半笑いで眺めながら、同時に現実の緊張緩和を諸手を挙げて歓迎する人々。ガロアンディアンの祝祭は本質的にはそういうものだ。
第五階層はいまや舞台であると同時に観客席でもある。
そこで繰り広げられる全ては競技にして芝居、遊戯にして歓談。空使い選定レースに今さら天主がどうのといった文脈が付与されようと、そのシンプルな事実は変わらない。
「二人の特別ゲストには、レース開始の合図をお願いしてあります!」
トリシューラの言葉を証明するように、二人が音響号砲を掲げた。平和への希望を示した二大勢力の代表者が、闘争を目的としない銃を手にしているという事実は人々に鮮烈な印象を植え付ける。
そのとき、草の民たちの英雄とされるカーズガンに憎々しげな視線が突き刺さった。
「カーズガンよぉ、てめえよくも俺の前にツラ出せたもんだな、ああっ?!」
ガラの悪い怒声を張り上げたのはシード選手のひとり、ファーガストだ。
草の民の走り屋。不良少年上がりの箒乗り。カーズガンとは同じ民族だが、何かしらの因縁があることは誰の目にも明らかだ。たちまち好奇の視線が選手を取り囲む。
既に戦いは始まっていた。多用すると陳腐化する過去回想は原則として一回だけ使える切り札だが、関係性構築による因縁の対決がギリギリのせめぎ合いで最後の一押しになることも多い。試合前のマイクひとつで勝敗が動く。
「落ち着きなさい、ファーガスト。ここで彼と争っても益はありませんよ」
凛とした声が響く。元不良少年の背後から現れたのは半透明の獣。見事なたてがみを風になびかせた、彼の守護精霊と思しきアストラル体の黒馬だ。美しい漆黒の馬身を主に近づけて、荒ぶる激情をそっと宥める。
「わーってるよ。まずは勝ってからだ」
「ええ。オトルベイトの坊やに花を持たせてあげないとね」
愛馬の言葉に素直に耳を傾け、矛を収めるファーガスト。
一方で睨みつけられた巨躯の修道騎士カーズガンは何も言わずに笑みを返すのみ。
若い箒乗りは面白くなさそうに舌打ちして顔を背けた。
その一幕が終わるのを待っていたかのように、芝居がかった台詞が挿入される。
「ふっ、どうやらみな良い相棒に恵まれているようじゃないか、兄弟」
「俺たちほどじゃないけどな、兄弟」
機械女王の計らいか、選手たちの発言は拡声されて観客席にまで届いていた。
寄り添うような距離の近さが印象に残る二人だった。体格の良い兄が細身の弟の肩を抱いている。兄であるエンハが弟のナックスに顔を近づけ、その顎に手を伸ばした。途端、耽美な雰囲気が漂い出す。観客席のファンは歓声を上げる者と白けた視線を向ける者とで二分された。『営業』であるという噂が広まっているためだ。
「ナックス。お前からだ」
「ああ。どこまでも連れて行くよ、エンハ」
しかし、そんなファンたちもこの瞬間ばかりは心を一つにしてその様子を凝視する。
この二人組の『本質』がそこにあるからだ。
探索者コンビのジュティアとミナがそうであるように、『空使い』選定レースは二人一組での参加が認められている。これは過去に『双子の空使い』が存在したことに由来しており、その双子が『二人乗りの箒』を普及させレース競技として成立させたという経緯があった。だが、二人組にとって有利に思えるその前提は、この兄弟にとっては無意味だ。
無造作に。そしてごく自然に。
兄が弟の首を引き千切った。
さながら鞘から刃を抜くように、エンハは競技者というよりむしろ戦士のように闘志を滾らせていた。周囲には鮮血が飛び散るがそれさえパフォーマンスの一部。引きずり出されたナックスの『中身』は加工された脊髄であり『箒』でもあった。取り残された容器の方も異形の変身を遂げる。分離、溶解、再結合、血肉と骨がナックスという名の箒を覆っていき、軸である脊髄を保護する装甲として完成。
兄エンハは生ける箒と化した弟ナックスに跨り、勢い良く排気音を鳴らした。
これこそエンハとナックスの真骨頂、箒化の秘術。
血統術の極限。人体改造の極地。杖の奥義たる『化身』を突き詰めた先にあるもの。
人間と言う一個の神秘を杖に貶める。それこそが彼らの血統が選んだ道の果て。最前面に固定されたナックスの頭部が強烈な邪視で大気結界を構築し、高らかに声を響かせた。
「今度こそクァヒートの血をゾラの本流に! リーナ・ゾラ・クロウサーは俺たちが娶る。邪魔する全てを排除して! 偉大なる空と槍にかけて、俺たちは勝利を誓おう!」
殺し、奪い、勝ち取る。闘争の摂理を内面化した、典型的な『上』の競技者。
ゾラの分家出身であるからこそ、この二人がレースにかける執念は凄まじい。
家の歴史そのものが二人の背を押しているのだ。
「みなさん随分と剣呑ね。リーナさんはトロフィーなどではありませんよ」
たしなめるように、穏やかな老女の声が響く。声量は決して大きくないが、良く通る言葉だった。レース参加者のひとり、歴戦のビルメーヤが口を開いていた。
「わー! 先生ひさしぶりー!」
上空でぶんぶんと手を振るリーナに、老婦人はにっこりしながら手を振り返した。
彼女はリーナにとっては初等学院時代の恩師にあたる。
若い頃にはその名を知られた箒乗りであり、名コーチとしても知られている人物だが、現役を退いてからは随分な時間が経っている。
はっきり言ってしまえば『当主のわがまま枠』というか、メンタルを奮い立たせるための応援団代表選手、という立ち位置であると見なされている人物だった。
それを裏付けるかのように、観客席から育ちの良さそうなお嬢様の集団がリーナとビルメーヤの名を呼んだ。応援しているのはリーナの大学の友人やかつてのクラスメイトたち。気分は同窓会といったところで、それぞれがレースを楽しみにしているようだ。
ビルメーヤはマイペースに周囲に手を振っていた。間近で闘争心を剥き出しにした男たちを前にしても、微塵も怯んだ様子は見せない。
会場の雰囲気は適度に温まり、選手たちがそれぞれに火花を散らす。
そんな中、ひときわ小柄な選手が立ち乗りの姿勢でふわりと浮かび上がり、一番高い場所で滞空していたリーナの横に並んだ。否、正確にはリーナより頭の位置がやや上に位置するように微調整している。負けず嫌いを見たリーナは面白がるような表情となり、やや上昇。苛立った様子の少年が背伸びをすると、リーナは帽子を手に持って高く掲げた。ゆえあって幼い姿のパーンが高い声で怒鳴る。
「おい、幼稚な対抗はやめろ!」
「そっちが始めたんじゃん!」
『生意気なガキンチョ』に対するようなリーナの言動は当然のようにパーンの逆鱗に触れた。しかし激昂の直前、彼の周囲で微かに風が吹き、淡い光がその頬を撫でる。間近にいたリーナは目を見張った。わずかな一瞬、パーンに触れて消えた無色透明の何かを第六感が知覚したのだ。影のように不確かなそれは、どことなく細い触手のような質感だった。
その謎めいた現象が少年を冷静にさせたのだろう。深呼吸の後、眼下の選手と観客たちを見下ろしながら大声で呼びかけた。
「始める前に、言っておくべきことがある」
いよいよ本番という時に、事態の中心人物が何かを言おうとしている。
それが過去より蘇った伝説的な六王のひとりともなれば、世間の興味は当然のように高い。下から注がれる無数の視線が上にいる少年たったひとりに注がれている。その全てを受け止めたパーンは僅かに身を引き、万の視線をするりと真上に受け流した。
流れに沿うように。突如として天を仰ぎ、『それ』を凝視して言い放つ。
「舐めているのか、ダウザール?」
瞬間。架空の青天、光を抱く逆さの大樹、その全てが砕け散った。
空を覆う漆黒の暗雲。曇天を稲妻が裂き、轟音と閃光が天地の全てを威圧する。
さながら神が矮小な虫ケラに慄けと命じるように。
だが不遜の体現者にそのような虚仮威しは通用しない。
「高みの見物を決め込んで全ては手のひらの上、などと超越者ぶっているだけで勝てるとでも? 認知機能の低下が始まっているのではないか? そうでなければただの間抜けだ」
傍目からはパーンが突然おかしなことを言い始めたようにしか見えないが、浄界の如き天空の激変に人々は騒然となった。これも演出の一環なのか、それとも何か理解を超えた出来事が起きているのか。判断に迷う観客たちは、それでもまだ事態の外側にいるつもりだった。少なくとも、何かに巻き込まれたとまでは思っていないのだ。
しかし。そのごく当たり前の在り方を、パーンは許さない。
「お前たち有象無象もだ。観劇にでも来ているつもりか? ぬるい勝負ごっこで満足か? 基準を突破すれば一位でなくとも構わない? いつから空はこんなに低くなったんだ?」
傲慢な怒りとすら呼べる子供の癇癪。
常識も道理も知らぬ、お前たちが俺に合わせろと言わんばかりの理不尽な怒りを唐突にぶつけられて、人々は戸惑いや反発よりも先に恐怖を覚えた。
雷鳴が轟く。誰もが原始的な本能で理解した。『同じ』だと。
天空に見えているふたつの異常。
意味不明な荒天と、理解不能な怪物。
あれらは共に、本質的には災害でしかない。
「一位だけだ。それ以外は死ね。この闘争で魂を焼き尽くせぬという腑抜けは今のうちに辞退しろ、仕掛けを解除してやる。チャンスはこの瞬間だけだ」
当たり前の事実を、誰もが正しく理解できていなかった。
祝祭。平和。現代的な価値観。常識的な倫理。
それらの対義語が、パーンだということに。
どの時点で成立したのかは誰にもわからない。あるいはこの瞬間に実行したのか。いずれにせよ異常な規模での儀式呪詛が会場を取り囲んでいた。
全方位に撒き散らされた呪いを誰も回避できなかった。一般の観客たちはもちろん、熟練の探索者たちを含む選手たちの誰一人としてだ。
即座に解呪や防御を試みた探索者や修道騎士たちは全身を呪縛する圧倒的なエネルギーに愕然とする。術者であるパーンを含め、レースに関係した全ての者に漆黒の茨にも似た呪いが絡みついている。禍々しいオーラを纏ったそれは、誰が見ても致死の呪術だ。
「勝者だけが生還の鍵を獲得する。それ以外は破滅だ。当然、俺も例外ではない」
「何してくれてんの?! 皆を巻き込むなんて最悪だよ、すぐにやめて!」
怒りに満ちたリーナの表情を見て、パーンは失望したように溜息を吐いた。
憐れむような視線に年若い箒乗りが戸惑う。少年は目を閉じて呟く。
「死へと向かう道。その空虚さを誰もが知る。『空の空、すべては空』だ。あらゆる信仰はその前提から始まる。空使いであればそれを理解していなければならない」
「意味わかんないんだけど」
「生命とは死に向かう疾走であり飛翔だ。選定レースだと? これは呪術だぞ。ならば何のアナロジーであるかを理解しなければ意味が無い。まして『空を使う』など」
謎めいたパーンの言葉に当惑するリーナ。
混乱するばかりで変化のない現当主の表情を見ながら、パーンはぱちりと指を鳴らす。
まやかしの幻術が解除され、少年の背後に鳥籠が出現。
囚われていたのはリーナにとって最も近しい少女。
誘拐されていたミルーニャだった。
「先輩?! 大丈夫? いま助けるからっ」
リーナの呼びかけにミルーニャは応えなかった。
それよりも速く、長い機械義肢が鳥籠を鷲掴みにして真上へと放り投げたからだ。
その直後。
「確かに言ったぞ。『俺と戦い、己の速さを見せつけるがいい』と。余分を捨てろよ現当主。お前の最速を見せてみろ」
冷淡なパーンの言葉が終わるや否や、上空の鳥籠が爆発した。
爆炎の中から焼けただれたミルーニャの身体が落下する。
パーンの腕がその胸を串刺しにして心臓を無造作に抉り出す。
世界が静止してしまったようだった。この瞬間、処刑者は時を支配している。
パフォーマンスのように、鎧の手が血流の中枢を握り潰す。
呼応するかのように、少女の華奢な全身が四散した。
微塵に飛び散っていく人間だったモノの成れの果て。
酸鼻を極める肉塊の雨に人々が悲鳴を上げ、リーナが声にならない絶叫を迸らせた。
「爆破の瞬間、トリックや替え玉、死体が確認できないから実は生きているなどの希望を抱いた連中がいたはずだな? 俺の呪詛も実はそういう仕込みだという妄想も含めて、全て否定してやろう。これはお前たち全ての末路だ、槍と翼の奴隷ども」
侮蔑と憎悪を滲ませて、パーンは厳然たる死を突きつけた。
イベントを楽しむつもりだった人々に対する極大の悪意。
その先端が向いているのは、絶望に打ちひしがれるただひとり。
「さて。たった今、確かに絶命したミルーニャには金錐神が与えた不死なる加護の残滓が宿っている。まだ全てが終わったわけではないぞ、リーナ・ゾラ・クロウサー」
その言葉に息を呑むリーナ。揺れる瞳を覗き込むように、パーンが告げた。
「救う手段はひとつ。俺よりも先に冥府を突破し、天地を満たす藍域に到達して青い血を掌握することのみ。ペレケテンヌルが保管していたロディニオの始原泥とは本質的に超起源獣と同じものだ。容易に魂は親和するだろう。無論、俺が先に到達して独占するがな」
言葉の半分以上が意味不明だったが、やるべきことは明白だった。
絶望、失意、悲愴、全てが反転して激怒に変わる。
燃え滾る闘志は競い合いよりも遥かに単純な結論を導き出した。
「その前に、ここでお前が死ね」
大学ノートの切れ端を魔導書と化して烈風を解き放つリーナ。
構えもせずにそれを眺めるパーンに『空圧』が迫るが、両者の間に割って入る影。
漆黒の拳銃を構えた樹皮肌の男、ロードデンドロンがリーナの攻撃を止めたのだ。
「何なの!? 邪魔するなら、まとめてぶっ飛ばしてやる!」
「やめるんだ。プリエステラの友人が自殺するのを看過できない」
「誰が自殺するって?!」
「ひとつ、この場の全員がパーンに命を握られている。ふたつ、儀式の本質は冥界の踏破でありレースという形式に意味がある。みっつ、この方法での蘇生は今しかできない。よっつ、死者蘇生の術は無数に存在するが、この文明圏における冥府である天の御殿に確実に届き得るのはクロウサーの秘術だけ。結論として、今はレースを全力で行うべきだ」
冷静な現状分析と方針の提示にリーナは沈黙を強いられ、苛立つように手にしていたノートの切れ端を握りつぶした。そのかわりに怒りを込めてパーンを睨みつける。
少年は、ここにきて初めて純粋に楽しそうな笑みを浮かべた。
「いい怒りだ。空虚なだけではなくて安心したぞ」
それは本心からの安堵。
つまり彼はこれまで失望していたのだ。
勝負に値しない存在だと、これでは下らない茶番しか演じられないと。
そんな嘆きも、ここで終わる。
「心と魂。激情と俺への呪詛。それでいい。ようやく俺を見たな、リーナ」
「パーン、お前を許さない、絶対に!」
荒れ狂う空さえ霞むようなリーナの怒りと憎悪。
それを眩しそうに見つめながら、少年は柔らかく微笑む。
愛しい孫を見る祖父のような慈愛のまなざし。
それは確かに、最も身近な家族に向けるべき愛情の発露だった。
「そうだ。俺はパーン、お前の敵だ」
しかと見据えろ、そうでなければ戦いにならぬと凝視で応え、パーンは無造作に距離を詰めていく。咄嗟にリーナを守るように前に出たロードデンドロンの脇をするりと抜け、ふと忘れ物をしたように振り返る。
「邪魔だ」
義肢から解き放たれた極大の『波動』を咄嗟に防御しようとしたティリビナ人だったが、その頭上で不意を突くように『爆撃』が炸裂した。猛火による呪詛はティリビナ人にとっては致死の一撃。まるで反応できずに乗っていた箒ごと真下に吹き飛ばされる。墜落したロードデンドロンだったが、愕然とした表情とは裏腹に無傷。機体にも損傷はないようだ。
誰もが男の暴挙を見ていることしかできなかった。
警備のために配備されている機械女王の戦闘ドローンも、自律型呪動装甲も、多種多様な猫科魔獣も、全てが不自然に沈黙している。実況と解説も何かを言っている様子だが音声も字幕も消失して誰にも届いていないようだ。あるいは、最初からそうなっているのか。
予定調和のプログラムを進行させるかのように、パーンの長い右腕が動く。
ミルーニャの胸を貫いた時のように、とても滑らかで自然な動きだった。
誰かが悲鳴を上げた。死を予感させる恐怖が伝播していく。
「お前がリーナになるこの瞬間を待っていたぞ」
パーンの右腕が、リーナの胸元に吸い込まれていく。
溶けるように内部へと沈んでいく鋼鉄の義肢を、信じられないものを見るようにリーナが見下ろす。それは肉体を貫通せず、どこか別空間に入り込んでいるようだった。
長大な多関節の機械義肢は深く遠く『どこか』に繋がり、沈み、遂には『それ』に届く。
「逃がさん」
かっと目を見開き、雄叫びを上げながらパーンはリーナの内側から何かを引きずり出した。鮮血が飛び散る。人体を循環する血液ではない。青い流体のビジョンとして表現される虚構。『血脈』という血液になぞらえられた呪力そのものである。
神に選ばれし高貴なるブルーブラッド。
その価値はこの瞬間に零落し、形ある鮮血へと堕した。
瞬間、会場にいる全ての者が聞いた。
それは事態と無関係に思えるアナウンスだった。
選定レースと連動した『転活体験アプリ・ウィズメモリーbeta』の大規模イベントの実行と、無料転生体験の権利を第五階層に存在する全ての者に一斉に付与するという宣言。
「喜べ。今日はお前の転生記念日だ」
パーンがリーナの中から完全に腕を引き抜いた瞬間、青い血の奔流から何かが現れる。
彼方から引きずり出されたのは、しわくちゃの赤子でありつるりとした老人だった。
形なき神である巨人の受肉。神々しさではなく無様さが衆目に晒される。
「おん、ぎゃあああああ?!」
理解を絶した事態に直面し、涙と鼻水を垂らして喚く赤子同然の肉塊がそこにいた。
それは白髭を蓄えた壮年の男であり、翼耳、金眼、多関節の長い右腕、帽子や兜や冠をまとめて鷲掴みにする巨大な多指の左手を有するクロウサー家という血脈の化身。
パーンの『長い腕』を媒介にして強制的に具現化された神なる存在。
「お前の欲しがっていたガレニスの長腕だ。餌としては極上だろうが」
神が望む正しい贄であるからこそ、形式に則った召喚は神自身の力によって成立する。
パーンは自身の切り札である右腕を賭けることで勝負の土俵に宿敵を引きずり出した。
ここまでの全てはこのための布石。
クロウサーという巨大な血脈の中から、たった一人の老人だけを抽出して転生させる。
強大な神の如き存在を、ただの人に貶める。
パーンが行ったのは『化身』の奥義、その真髄である。
「ハッピーバースデー、ダウザール」
破れた服の胸元を押さえ、呆然と事態の推移を眺めるリーナのことは既に視界に入っていない。パーンは誰よりも高みにいなければならないという拘りをあっさりと放棄して、受肉した怪物の顔面を鷲掴みにする。突然の急降下。誰からもよく見える低い大地に老人を這いつくばらせて、その頭を踏みつけた。
「頭が高い。頭を垂れよ地虫ども」
『新しい誕生日おめでとう!』の表示が目蓋の裏に焼き付いて、覚醒の時を知らせる。
世界槍に記録された魂は第五階層を管理する紀人の権能と掌握者権限によって巡り、新たな器に流れ込む。『転活体験アプリ・ウィズメモリー』の起動を知らせるメッセージと同時に定型の宣伝文句が一帯に響く。
「記録した魂データと一緒に第五階層を冒険しちゃおう! まさに疑似的な転生体験! マッチングした相性の良い相手と心の交流! 大事な記憶や開示しない精神状態などを細かく設定可能だから、ちょっとしたツアー気分で参加するのも良し! 転生都市シナモリアキラは恐いけど、ちょっとだけならその特色に触れたい、という人も大歓迎! ソフトな転生体験は『ウィズメモリー』から! 転生活動、してみませんか」
目を開き、産声よりも先に大量の情報が表示された幻影窓にうんざりさせられる。
必要な設定より広告の方が多いのはなんとかならなかったのか。
突貫作業で仕上げた作戦は即席のため穴だらけだ。通常の転生に紛れるため、『相乗り』という形になってしまっているのもよろしくない。申し訳ないが宿主には強制的に休眠状態になってもらうしかないだろう。
肉体の状態はローティーンからミドルティーン前後と思われるが、発育がいいのか女性にしては身長が高めでうらやましい。いずれにせよ眷属種を選択済みの十二歳以上であることは間違いない。加護はシャルマキヒュ。鬱陶しいペレケテンヌルの加護の残滓は遠ざかり、セルラテリスの無関心もうっすらと感じ取れる程度。肉体の軸足は確実に天眼の民に置かれている。変な癖が無いという意味では『当たり』だ。
転生管理局への各種申請項目にチェックを付けていき、煩雑な初期設定をさっさと済ませてしまう。この辺のユーザーインターフェースは改善の余地ありだ。後で機械女王に連絡しておこう。
現在地を確認する。リスタートポイントは第五階層の隣接異界『虫王の庭』に存在する隠し病院。機械女王が隣界で密かに建設を進めていた拠点のひとつだ。
選定レースの通過地点であり、同時に重要人物である『名無しの王』を匿うための防衛拠点。ある密告のお陰で事前に襲撃を予測できたため、伏兵として敵の予想していない『転生兵』を起動させた、というのが現在の状況である。
つまり、この隠し病院で一斉に目覚めた転生者は全員が機械女王と契約した傭兵や探索者たちである。基本的には全員が味方だと思っていいが、何事にも絶対はない。
深く息を吐いて楕円形の寝台から起き上がる。個室には着替えが用意されていて、袖を通して鏡で自分の姿を確認する。
低血圧ぎみなのかやや眠そうな垂れ目は穏やかな印象。灰に寄った亜麻色の髪をなんとなく纏めたくなって右手側で束ねると尻尾のように揺れる。この肉体の主の意識はスリープ状態にあるはずだが、癖のようなものが残っているのだろうか?
「いや~、ていうか起きてるんだけどね」
早速、予想外の展開が来た。
落ち着いて息を吐き、少し考えてから口を開く。
「迅速に行動するため、少々強引な手段を用いたことを謝罪します。貴方も機械女王に雇われた傭兵なら状況は把握していますね? 私の名はメートリアン。機械女王から特別な任務を与えられているため、これから部隊とは別行動をとります。直前の決定であったために調整が不十分で事後承諾になってしまいましたが、協力をお願いできますか?」
「あー、んーっとぉ」
早口で捲し立てたからというのもあるが、宿主の反応はいまいちはっきりしない。
戸惑いや困惑が予想以上に大きいようだ。試験的な運用だから仕方がないが、やはりこの人格共存型の憑依転生方式には問題が多いように思えてならない。
機械女王がユーザーの情報を分析して最適な相性の相手とマッチングするようになっているはずだが、このぶんだと大した精度ではなさそうだ。
『メートリアン』として転生を果たすというこの詐術はかなりの綱渡りだ。
トリシューラの全面的な協力があるとはいえ、パーンが全ての作戦を成功させられるという保証もない。なにしろ不確定要素が多すぎる。倒すべき敵はクロウサーだが、競合する相手はそれ以外にも多い。あらゆる予想外の事態を乗り切って目的を達成しなければ、リーナ・ゾラ・クロウサーが呪いから解放される未来は永遠に訪れない。
焦燥が思考障壁の外に漏れないように注意を払いながら、相手側のやけに強固な思考障壁に軽く探りを入れる。どうにも同居人の得体が知れない。
鏡に映る自分=彼女は困ったような照れ笑いの表情を作っている。
それが何だか胡散臭くて、どこか既視感を覚えた。
思えば、彼女のことは最初から気に入らなかった。
遠い異郷から来たという話にも、何度か口にしていた素性についても妙な違和感がつきまとう。やることなすこと全てが嘘っぽくて、弱々しい好意で周囲に媚びるくせに触れられそうになるとひらりと身をかわす。
触れることができないんじゃなくて、簡単にできるけどあえて遠ざける。
そういう鼻持ちならなさが、どうしようもなく嫌だった。
もう一度、記憶と照合する。容姿の細部は違うが、印象は同一だ。
「あなた、名前は?」
「エレクトラ・ラムンゼンです。よろしくね、メートリアンさん」
知らない名前だが、疑惑は確信に変わった。
自分の声は外から聞くのとかなり印象が異なるが、不思議とこの宿主の声には聞き覚えがある。実際の声ではなく、受ける感覚の問題かもしれない。
端的に言って、イライラした。背後から槍で一突きしてやりたいくらいには。
「で? 何してるんですか、メイファーラ」
「ふぇ? 人違いじゃないですか?」
「んなあざとい声を素で出す奴が二人といてたまるか」
「ぶりっこキャラやってた人がそれ言う?! ていうかけっこういると思うよ?! いいじゃん普通だよそういうの気にしすぎ!」
自分と言い争うという不毛で間抜けな状況にうんざりしつつ、メートリアンは現状を再確認して天を仰ぎそうになった。予想外の事態なら覚悟していたはずだが、初手から最悪を引いてしまったかもしれない。まさか苦手な幼馴染と肉体を共有することになるなんて、誰が予想できただろう? よりにもよって、相手はあのメイファーラなのだ。
「とりあえずよろしく~メートリアン。あと今のあたしエレクトラだから~」
「最悪ですよもう。何なんですかこれ!」
断言するが、この『転活体験アプリ・ウィズメモリー』は最悪だ。ぜったいに星ひとつでレビューしてやる。オープンベータだからといって手心は加えない。
メートリアンはさっそく酷評を送ってやろうとフォームに入力しようとして、レビュー欄のトップに新しい最低評価レビューが表示されたことに気付く。
レビュアーのユーザー名はエレクトラ・ラムンゼン。
内容は『苦手な知り合いとマッチングされてめちゃめちゃ気まずいです! 事前に回避できるように転生前の顔合わせとか必要だと思います! できれば相手にばれないタイプのブロック機能とか充実させて欲しい~! 切実!』
メートリアンは思った。
こいつチョコレートリリーから追放できないかな、と。




