5-28 誘拐婚①:メートリアン
祝祭の二日目が始まった。
撃鉄鳥の鳴き声が街の目を覚まし、かりそめの陽光が空を照らしていく。
セリアック=ニアは小さく溜息を吐いてから、夜通しの調査活動で得た記憶を『別の自分たち』と共有する。分割・縮小した己の心身を『ちびニア』や『ニアホン』などと名付けて運用する奇妙なまじないはこの猫の取り換え子の得意技だ。
疲労は頂点に達しようとしていたが、清涼感のある刺激がどこかから到来して思考がクリアになっていく。同期している別個体が眠気覚ましのカタリア草を口にしたのだろう。一般的には蚊避けのまじないだが、猫にとっては酩酊感と踊り出したくなるような高揚をもたらす精神賦活の薬草だ。
眠らない街は明け方がもっとも静かになる。
動き出す前の予兆を感じながら、デフォルメされた二頭身とは思えないほどの跳躍力で建物から建物へと音も無く移動する。小動物ほどのサイズの魔女の目当てはとある勢力の拠点だった。既に屋上で待機していた別の自分たちと合流し、にあにあと暗号でやりとりしてから換気扇や通気口などを使って内部へと潜入していく。
『創造』によって乱雑に積み上げられた箱型建築の集積体。
その中心に配置された巨大な建築物だけが実際に建材を運び込んで組み上げた『実建築』だ。第五階層内で自在に作り出せるかりそめの宿ではなく、大地に根付いた棲家。
しかしその外観は膨れ上がった出来損ないの砦もどきと言ったところ。亜大陸風の建築様式なのだろうが、セリアック=ニアの目にはひどく不格好に映った。作り手たちに建築家としての素養がなかったのだろう。特徴的な尖塔も丸屋根も、壁面に刻まれた幾何学模様に至るまでひどく歪んでいる。実用面でも見るに堪えず、自然界の諸要素を象徴する呪術的な意味を表現し切れていない。
反復された幾何学模様の中で火の要素は過剰なまでに遠ざけられ、水の要素は不均衡で乏しい。ただ土と風のみが観念的な世界を埋め尽くす、荒涼とした砂漠の風景。
母なる植物を模した要素などは最初から影も形もない。
あるいは、それが現在の亜大陸が持つ世界観なのだろうか。
『ハルムシオンの風』。亜大陸からやってきた黒檀の民たちが作り上げた探索者集団にして民族的な互助組織。その本拠に潜入した猫姫は息を潜めて内部の様子を探っていた。
ちびニアたちがまっすぐに目指したのは最も巨大な建造物の最深部だ。
広々とした空間を間に合わせの祭具と幾何学模様が彩り、申し訳程度に槍と松明が片隅に置かれたちぐはぐな祭儀場。
その奥に、跪くようにして並べられている五人の男女がいた。
呪詛の込められた木製の枷を両足と首に嵌められた哀れな囚人たち。彼らは一心不乱に水晶玉や呪札を使って未来を占い続けている。
第五階層を騒がせる『占い師狩り』。その悪意が彼らを奴隷の身に貶めていた。
中央の目が生き届かない辺境区から拉致されてきた占い師たちを油断ならぬ目で監視するのは、黒檀の肌を持つ屈強な大男だ。
身に付けているのは腰蓑と赤染めの拳帯のみ。
黒檀の肌も露わな男の肉体は屈強な格闘家に特有の厚みを有していた。
丸太のような質感、はち切れそうな筋肉。
男の名はアサブ。『ハルムシオンの風』の頭目である。
アサブは胡坐の姿勢で丸太のような腕を組み、額に皺を寄せて占いの経過を睨みつけた。期待よりも苛立ちの色が強い表情だった。
出し抜けにからかうような声が響く。
「精霊の形に迷いがあるな。びびってんのか?」
「この時間は邪魔すんなって言ったろ、アキレギア」
振り向きもせずにアサブが言った。
天井裏に潜み、装飾の一部に穴を空けて覗き見をしていた猫姫たちは新たに室内に入ってきた者の姿を認め、警戒を強めた。
禿頭の女だった。男性並みの長身と屈強な肉体を、水着のような二枚の布が覆っている。
だがそれ以上に目につくのは左右で性質の異なる呪術義肢だった。
左腕が木、右手が砂。枝葉は蛇のようにくねり、砂は絶えず流動し続ける。勝手気ままにゆらぎ、蠢動する二つの生命。義肢は独自の意思を持っているかのようだ。
両方ともいわゆる『杖』の技術が介在しない、『精霊の賜物』だろう。
「硬いこと言うなって。俺とお前の仲じゃねえかよ」
アキレギアと呼ばれた義腕の女は荒っぽい口調でそう言うと、アサブにするりと近づいて背後から抱き着いた。親密なやりとりから、猫姫は確信を強める。
事前に入手していた情報の通りだ。
曰く、『今や組織を牛耳っているのは新しくやってきたアサブの情婦である』、と。
「今までずっと俺の言う通りにして正解だったろ? 今回も同じだ。俺がお前の進むべき道を示してやる。向いてねえのにごちゃごちゃ考えんな。もう迷わなくていいんだ」
「それで枯れ木野郎と仲良しこよしか」
「マイノリティは結束しねえとな。レースはロードデンドロンを応援しろ」
今日から始まるレース本選。テキストベースサーキットは周辺文脈を拾い上げて速度に変換するシステムだ。逆に言えば、周囲が介入する余地が存在する。
アサブは不快そうに眉根を寄せ、深々と溜息を吐いた。自分の首に回された腕を掴み、力ずくで引き剥がしながら振り向く。間近で女と目を合わせた。
「アキレギア。俺はお前を信用している。理由がわかるか」
「精霊が描く原風景が一緒だからだろ。風が運ぶ砂塵と熱波。その過酷さを知ってる」
「そうだ。俺はハルムシオン。お前はルナザール。南部のどん詰まり、造淵士どもと四六時中『緑』の奪い合いやってるクソ以下のド田舎だ。俺たちの地獄は同じだ」
ざわざわと、屋内にもかかわらず風が騒ぐ。
握りしめられたアサブの拳に呼応するように、そのすぐそばに集まった風と砂塵がひとまわり大きな砂の拳を形成する。それと同じく、アキレギアという女の義肢の周囲で砂が流動してもう一つの拳となった。二人は共に精霊使い。それも、同じように大地と風を操る砂塵の支配者なのだった。
「重機改造しただけのザコ呪動装甲が最新式の神働装甲に捻り潰されていく光景をお前も知ってるはずだ。中古の自動小杖担いで部族間抗争やってる連中が炎天使どもの広域神罰で焼き尽くされるのも。呪石採掘のために精霊が封じられて道具に貶められるのも。何もかもが勝手に裏切りやがった北のトゥルサやティシムガンドのカス共のせいだ」
「まーそうだな」
「だよなあ。で? てめえの上司は誰だっけ?」
「ティシムガンド大司教のご子息、ヴィティス特任司教サマだねえ。ついでに俺はそのヴィティス様直属の親衛隊、リビュエー隊の一員アキレギア様だ。こいつは傑作」
「面白くねえよ」
「同感だ。マジでクソ面白くもねえ」
不意に女が表情を消し、それから思い切り渋面を作った。
瞳がまっすぐに男を見据え、濡れたように揺れる。
「だからずっと待ってた。お前みたいな男が現れてくれるのを」
「よせ」
「俺を信じてるんだろ? 覚悟決めろよアサブ。お前は英雄になるんだ」
「器じゃねえってんだよ」
「お前にしかできねえよ。シナモリアキラの『リビコッコ』って役は」
『リビコッコ』あるいは『リビア』や『リビュエー』といったガロアンディアン語は言外の含みを持つ。前提となる参照先は異世界の大陸だ。
猫の国に存在するというアフリカ大陸。
その全容を知らぬ本大陸の人間にとって、古い歴史を持つエジプトという大国から西にある全ては『ざっくりとリビア』であったという。
訳語として対置されたこの『アフリカ=リビア』というイメージは、ゼオーティアにおける亜大陸と重ね合わされている。
すなわち、亜大陸と本大陸の境界部に存在する世界槍都市トゥルサ以外の亜大陸はおおむね『リビア』というわけだ。
本大陸人にとって、黒檀の民はみな亜大陸人だ。
北部のトゥルサ人、中央部のアウラ人、南部のハルムシオン人、東海岸北部のジャホラット人、東海岸南部のトルメルキア人、そして西部のティシムガンド人。
気性も文化も顔つきも、肌の色でさえ『黒い』というだけでまるで違うが、外側からその差異を判断することは難しい。だからこそ『リビコッコ』という粗雑さが成立し得る。
実際、亜大陸の文明は複雑に影響を及ぼし合っている。
単純に切り分けることはできないし、民族間の橋渡しとなったティリビナ人との共生がそれを更に複雑化させたという歴史もあった。
ティシムガンドのチャカ伝承はハルムシオンにも伝播して精霊世界の幻想へと変わった。精霊と共存する文明の形は東方でウィータスティカの神話となった。
黒檀の民。その内実がどうであれ、アサブは典型的な人種イメージの体現者である。
屈強な巨漢。精霊使い。伝統的な拳闘の技。
翻訳された『リビコッコ』という言葉のイメージを受け取った人々が真っ先に想起するのは、まさしくアサブのような姿なのだった。
それは噂として囁かれる無責任な未来予想のひとつ。
残る『マレブランケ』の席を埋めるのは誰になるのか。
ガロアンディアンの未来を左右することになる『シナモリアキラ選』の行く末とは。
情報の確かさはともかく、禿頭の女はその未来を確信したように続けた。
「何を遠慮することがある? 『ハルムシオンの風』は第五階層解放の立役者だ。ガロアンディアンの礎を築いたと言っても過言じゃない。それを主張することの何が悪いって?」
「過言だろ。そんな事実はねえよ」
「いいや違うね! 第五階層を巡る魔将との戦いには、確かに黒檀の民が参加していた! この事実を隠して黒檀の民の功績を過少に見積もるのは差別ってもんだぜ!」
言い争う二人を身ながら、猫姫たちはアズーリアと共有した記録を想起していた。
確かに、魔将エスフェイルと先行して交戦していた三人組の探索者の中にはひとり黒檀の民が混じっていた。だから何だと言えばそれまでだが、『だからこそ』とその事実の意味を膨らませようとすることはできなくもない。
あるいは、このアキレギアという女はそういった呪術戦を得意としているのだろうか。
「俺たちは結局、何もできなかった。第四階層での防衛戦も途中で撤退したんだ。イェレイドはヤバすぎたし、あれ以上戦えば被害はとんでもねえことになってた。こっちまで来てたデカい狼野郎を何頭か仕留めはしたけどよ、第五階層まで突っ込んで肝心の魔将と戦えたのはアトゥたちだけだった。俺にはとてもあんな命知らずな真似はできねえよ」
アサブは恐ろしい過去の記憶を振り返り、小さく身震いした。
絶対的な力を持つ魔将への恐怖。
それを克服し、立ち向かえぬ者に英雄たる資格はない。
男は己の致命的な欠落を自覚していた。あるいは、それこそが彼の呪いなのか。
「精霊の扱いなら俺以上だったアトゥも遂に勝てなかった。前に少しだけ顔合わせた大剣野郎もメクセトの子孫とか抜かしてたおっさんも腕は悪くなかったがよ。結局、魔将倒して英雄って器じゃなかったんだよ。俺も含めて、一歩も二歩も足りてねえ」
結局のところ、三人の探索者は魔将に太刀打ちできずに死んでいった。
生き残ったのはたったの二人。
シナモリアキラとアズーリア。その二人だけが第五階層の英雄と呼ぶに値する。
ゆえに、アサブにシナモリアキラの資格があるとは言えるはずもない。
「だが挑んだのは事実だ。身体を張って戦ったのも。あんたたちが奮戦して敵を引きつけてくれたおかげで、シナモリアキラとアズーリア・ヘレゼクシュの戦いは幾らか楽になったはずさ。ギリギリの戦いでその貢献は決して小さくはない」
「無理筋だろ。こじつけだ」
「アサブ、あんたはお上品過ぎるんだよ」
ざらりとした砂の義肢が男の顎を掴み、頬を指が撫でた。
優しく穏やかな、慈愛に満ちたふれあい。
母が子にするような『ゆるし』の言葉。それは甘く、ぬるく、やわらかい。
「不当な扱いを受けたら、それは補填されるべきだ。権利の主張、積極的是正措置、けっこうじゃないか。何もせずだんまりしてたら毟り取られるだけだ。特権を批判する。権利を回復する。声を上げなきゃバランスは崩れたままさ」
何かの呪術が働いた。遠くから観察していたセリアック=ニアに判断できたのはその事実だけ。詳細は不明だが、アキレギアという女の義肢の外装に数列と呪文が走っていくのが少しだけ見えた。直後、会話の流れが変わっていく。
「そう、かもしんねえな。何もしなきゃ、奪われるだけだ」
「アサブ。あんたは亡き兄弟の誇りを守ってやるんだ。そのままじゃ何も言えない死者の名誉を回復し、どれだけ強い闘士だったのかをその身で証明してやれ。第五階層のために戦った英雄はここにもいるぞってな。この場所の平和を勝ち取るために命を捧げた同胞たちの遺志を遂げさせてやろうぜ」
力強い抱擁、囁くような懇願。
顔を寄せた女が熱い吐息を男の耳に当てた。
お手本のように情熱的な、魅了のまじない。
「なあ、頼むよ。ここにいる、俺たちのガキのためにもさ」
未来への期待を込めて、義肢が男の手を下腹部に導いた。
その兆候は外からはわからない。だが、当事者である二人だけにわかることもある。
女は妊娠しているのだろう。
やがて生まれるであろう赤子は、あるいはこの時代でガロアンディアン人と呼ばれる最初の世代となるのかもしれない。
決めきれない臆病さを抱えながらも、男の震えは止まっていた。
己の感情よりも大切なもの。
家族という価値は、時にちっぽけな個人を勇者に変える。
「同感、ダな」
不意に割り込んだのは奇妙に音像が歪んだ人工的な響き。
気配もなく、その男はいつの間にかその場に現れていた。
壁際に寄りかかり、じっとアサブたちを見つめていたのは赤亜竜の仮面に灰色のマントという謎めいた男。だが猫姫はその正体を知っている。
『竜牙槍』のアルティウス。クナータを攫った、ノゴルオゴルオのしもべだ。
「闘争ノ果ての死は、報われルべきダ。しかシ、死者に与えラれル栄誉はなイ。そレでも同胞に何か残ルものがあれば、多少は救イがあル」
アサブはアルティウスの登場に驚いた様子もなく小さく笑った。
「いっぺん死んだから気持ちが分かるってか?」
「イや。ダが、英雄になレなかった無念は、よクわかル」
黒檀の民は顔をしかめ、視線を逸らした。
アルティウスのまっすぐな視線は仮面ごしのものだが、その言葉はまっすぐに過ぎた。
「元『守護の九槍』がそれを言うのかよ」
「だが、俺は亜竜王の予備でシかなイ。ノゴルオゴルオにとっテは、使い捨てノ道具ダ。だかラこそ、オ前たチの力が必要ダ。アサブ、俺ト共にシナモリアキラになろウ」
『ハルムシオンの風』はアルティウスを匿っている。
あるいは主人であるノゴルオゴルオに対する不満と不忠を抱えたこの男にとって、彼ら黒檀の民は一時的な同盟者ではないのか、それとも。
「何だっていいの」
続く声の響きに、セリアック=ニアの総体が震えた。
探し求めていた相手のはずだ。
助け出すべき庇護対象でなくてはならない。
だというのに、どうして。
「世界がどうなったって知らない。わたしは、この思い出を変えられるのなら」
その少女がそこにいるという事実が理解できない。
いま、この瞬間。彼女がこの時空に存在している確信が掴めない。
不安定で不確定。
揺らめく光のようなあどけない少女の美貌は、どこか不吉だ。
「だからリーヴァリオン。あのときに一度だけ、使ってあげたわ」
クナータ・ノーグの瞳で、十字の輝きが星のようにまたたいた。
彼女を視認できない。彼女の位置を把握できない。
ただ、その空間に『いる』ことだけがわかる。
四隅に、あるいは中心に、偏在とも遍在とも言えない揺らぎ。
それは不確定な未来のように。あるいはうろ覚えの記憶のように。
セリアック=ニアたちの共有記憶をひとつの疑念がよぎる。
果たして、彼女は本当に囚われの姫君なのだろうか?
超越的なたたずまいで君臨する時空の覇者、屈強な使い手たちの前で悠然と佇むその姿はどちらかと言えば、そう。
「我ガ、主君。俺ノ槍は、アなタのために。こノ心臓を捧ゲまス」
「どうせ、好きにしていたくせに」
身勝手な期待と、無気力な諦念がそこにあった。
非対称な男女の組み合わせ。
不均衡な感情の矢印。
『ハルムシオンの風』の中核と思しき四人が見守る中、祭儀場での儀式がその結果を告げようとしていた。囚われの占い師たちが血の涙を流しながら命がけで未来を手繰り寄せ、口々に予兆を解釈しては意識を失っていく。
「『家』への反逆。『父』への復讐。『尊厳』の回復。誘拐婚を繰り返すこと三度。赦しなき流血の果て、天と地は裏返る」
「三本の燃え木は灰に。広がる炎は国土を焼き尽くす」
「神の審判は三つ。支配か、勝利か、美姫か」
「競争が始まる。戦争が始まる。夢想が終わる」
「うろの女神が、幻想の人類種を覆い隠す」
占い師たちはクナータの下位互換でしかないが、代用品にはなり得る。
時の聖女は彼らを見下ろし、自らの役目を押し付け、予言者という位置から逃れようとしていた。猫姫にはそれがわかる。己の運命、与えられた使命を否定することの意味も。
神を騙し、世界を誤魔化し、代役を立てて舞台裏に飛び降りる。
クナータは囚われのお姫様でもトロフィーでもない。
自ら戦おうとする、ひとりの勇者だ。
「セリアック=ニア。あなたには悪いと思ったのだけど。かえってくれてありがとう」
その気づきが、どんな未来の記憶に繋がったのか。
閃光のような狙撃が過去に遡って飛翔し、小さな猫型端末の意識を刈り取った。
紫槍歯虎の精霊が宿る対霊狙撃杖は少女の背丈を遥かに上回るほどに長大。猫科魔獣を模した四脚が狙撃手と標的間の事象を安定させ、少女は『現在』に伏せて狩りのように狙い呪う。
時空照準器に刻印されたカシュラム十字の彼方で小さな猫の少女がマジックミサイルの直撃で四散。その事実が時空を伝い、猫の気まぐれな分岐体の大半を呑み込んでいく。危機を感知して実体化した守護者ナーグストールが弾丸を受け止め、逸らし、ちびニアの全滅をあと一歩のところで防いだが、情報の大半を喪失してしまう。
そうして、その場には不確定な事実が残る。
未来を占う『誰か』の可能性は確かに残っていた。
けれどそれは集められた占い師かもしれないし、時の聖女かもしれない。
クナータが本当にそこにいたのかは分からずじまい。
セリアック=ニアは決定的な情報を持ち帰ることができず、確信や疑念を時系列ごと吹き飛ばされて別の未来へと歩みを進めていった。
「ごめんね、お姉ちゃん」
どこかで、少女が涙を流した。
届かない声。誰も知らない感情。
そうして、さらわれたお姫様の物語が幕を開ける。
ノックの音、柔らかな声、あたたかな微笑み。
病室に現れたプリエステラの姿を見て、寝台の上で沈み込んでいた女の表情がぱっと華やいだ。どこか暗く陰気な雰囲気を漂わせた女性は、ゆっくりと身を起こした。
波打つ豊かな黒髪を左右に流した女の額が、照明に照らされて黒肌を輝かせる。
「プリエステラ様。来てくれてありがとう」
「もう、マリナったら。エストでいいってば。それより体調はどう?」
「お陰様で。すっかり良くなったよ?」
第五階層に隣接する裏面異界のひとつ、『虫王の庭』。
選定レースの中継整備所内にある医務室は部屋数が多い。
過酷なレースゆえに、大事故を想定して充実した医療設備が整っているのだ。
第四階層におけるキノコ人たちの反乱、その渦中で重傷を負った黒檀の民修道騎士、アイシャとマリナ。二人はアズーリア隊によって保護された後、この施設で保護され同じ医務室で療養していた。エストが見たところ、アイシャは不在のようだ。
「あいつなら談話室でイルスと話してくるって。久しぶりに会った家族だし、話したいことが、あるんじゃないかな」
「そっか、兄妹だもんね」
寝台の隣で椅子に腰かけ、見舞い品の林檎を剥きながらエストが微笑む。
予定外のトラブルによってアズーリア隊は第五階層で足止めされていた。
隊長であるアズーリアからは『歌姫のライブを槍神教のプロパガンダに利用しようとする槍神教及び第八槍アレッシオの影響を排除するための対策を講じるため』と説明を受けたが、エストはそんな彼女に違和感を抱いていた。
アズーリアはこう言っていた。
「『辺境の松明』だけじゃなくて、『中央の槍』への対処も必要だってわかったの。地上では大神院とクロウサー家、松明の騎士団が世界槍での戦いの主導権を巡って暗闘を繰り広げている。ハルやエストが大神院や松明の騎士団に利用されないためには、私はこのレースでクロウサー家とアレッシオの動きを見定めようと思う」
だから、第五階層に赴くのはその後になるということらしい。
おそらく嘘は言っていない。だが正確に全てを話してくれているわけでもない。
きっと事情があるのだろうとは分かっているが、少し寂しい気持ちもあった。
行き場のない寂しさが向かう先は、何故か幼馴染たちや同胞ではなく知り合ったばかりの黒檀の民のいるこの場所だった。エストは奇妙な親しみをこの相手に感じていたのだ。
マリナが浮かべる気弱な微笑みは、弱者が強者にへつらうためのもの。
彼女はエストをティリビナの巫女として特別視している。
「家族は大事。エストのご家族は?」
「肉親はみんないなくなっちゃった。けど、大事な仲間がいるから平気」
「じゃあ、私と一緒。あ、けど血のつながった弟がいるよ。けど、私ってほら、『こう』だから。大事な家族だけど、近くにいたら迷惑かけちゃう」
マリナの出自は大きな困難を抱えている。
黒檀の民とティリビナ人の間に生まれ、黒檀の民として生きてきた女性。
レルプレアへの信仰心を隠し、民族的なアイデンティティの狭間で苦しみながら槍神教徒として振る舞い、修道騎士として地上のために戦ってきた、矛盾の中にある苦しみの生。
「みんなが仲良くなれる世界になればいいよね。そしたら弟を紹介するね。こっそり会うことしかできないけど、とってもいい子なの」
マリナが抱えた気弱さと卑屈さ、その裏に秘めた怯えと緊張。
それらは彼女が歩んできた人生の難しさを思わせる。
目を背けたくなるような痛々しさ。だがエストはマリナを直視する必要があった。
彼女は『みんな』を救いたかった。その言葉の意味を、マリナは体現しているように思えてならない。エストにとってマリナは『ちょうど良い困難を抱えた弱者』だったのだ。
マリナに優しくすることで、彼女は己の善を再確認できる。
アズーリアやハルベルトに糾弾された怒りと憎しみを、忘れられるのだ。
彼女を殺さずに済んでよかった。心からそう思う。
「楽しみ。マリナの弟とならきっと仲良くなれると思う」
「うん。優しくて、かっこよくて、かわいいの。目に入れても痛くない。人生全てを賭けてもいい魂の推し。世界のアイドル。デンちゃんは、私のかわいい宝物だから」
マリナの頬が緩み、緊張が解けていくのをエストは優しい目で見つめた。
この新たな知己と良い関係が築ければいいと思った。
マリナと、恐らくはティリビナ人として生きているであろう弟が一緒に笑い合える世界。
エストが作りたい世界。チョコレートリリーが目指す未来はきっとそこにある。
「ね、エストにだけ、もう一つの秘密を教えるね。私の、ティリビナ人としての名前」
不意に、マリナが囁くように言った。
秘密を共有して仲の良さを確かめ合う子供っぽさを、エストは微笑ましく思った。
顔を寄せて耳を近づけると、耳朶に生暖かい吐息がかかった。
「ヘレネ。『アルラウネ断章』が教えてくれた、私の本当の在り方」
名前を複数持つことは珍しいことではない。
それでも、二つ流れる血の片方を隠したマリナにとって、ヘレネという隠し名は特別なものであったはずだ。ヘレネとは、彼女の最も大切な秘密そのものだ。
信頼の重みを噛みしめて、エストは記憶にその名を刻み込んだ。
「じゃあ、二人の時はヘレネって呼ぶね。そう言えば、団子菊ってお花があったっけ。丸くてかわいいコ」
「そうそう。球神花って呼び方もあるけど、私はヘレネの方が好き。あのね、猫の国の神話だと、これってある王女様の名前なんだって。ヘレニウムは彼女の流した涙なの」
「どうして、その王女様は泣いてしまったの?」
「その美貌のため。世界一の美女であるヘレネを巡って男たちが争ったの。ヘレネは神に選ばれた英雄に誘拐されて強引に結婚させられた。妻ヘレネを奪われた夫とその兄である大王は英雄たちを引き連れて大戦争を引き起こす。運命に翻弄されたヘレネはきっと、泣くことしかできなかった」
悲しい話だとエストは思った。
同時に、内心で首を傾げる。
そんな謂れがある名前の方が好きだなんて、猫の国に憧れてでもいるのだろうか?
マリナ=ヘレネはどこか歪に口の端を引き攣らせた。
「ふふっ、女としては一度でいいから言ってみたくない? 『私のために争わないで』って台詞。ぜったい楽しいよ」
「え、ええ~? そんな理由~? ちょっと趣味悪いよ~」
実際にそんな状況に追い込まれたら、そんなことを言う余裕はなくなってしまうだろう。
とはいえ、冗談として妄想するぶんには確かに愉快かもしれなかった。
「ね、もしもエストがお姫様みたいに誘拐されたら、どうする? 言っちゃう?」
「うーん、それはまあ言うしかない、というか殴って止めるよね」
「だよね~。美しさなんかに拘る英雄って、本当に間抜け」
息を吸いながら笑う『ヘレネ』は明らかに誰かを念頭に置いて嘲っていたが、不思議とそれは嫌味のない、爽快感すらある態度だった。
「英雄に誘拐されて、神様に呪われて、運命に縛られて。トロフィーが弱いって思い込んで。過去と未来を手に入れたらもう勝ちだなんて思えるなんて、みーんなお間抜け」
唐突に表出した切実な怒りと悲しみ。強い感情に戸惑い、エストは問いかける。
「えっと、ヘレネ? どうしたの?」
「ううん。無視しても、支配しても。なかったことにされたからって、なかったことにはならないって話。私は、黒檀の民だけど、ティリビナ人なんだよってこと」
マリナでありヘレネでもある女にはきっと譲れない想いがあるのだろう。
それはエストの『みんな』を守りたいという願いのように。
自己の根幹、世界に抗おうとする強い意志。
「ねえ、エスト。もしも、もしもだよ? 私があなたをさらって逃げようとしたら、どうする? 逆に、私をさらって逃げてってお願いしたら、どうする?」
とても仮定の話のようには聞こえなくて、エストは緊張で身を強張らせた。
「そんなこと、できない」
「だよね。そう言うと思った。なら安心。逃げないあなたなら、信じられる」
ヘレネに試されたのだろうか。
だとしたら、何を? どうして?
不意に目の前の相手がひどく不気味に見えて、エストは己を戒めた。
異種族を不気味と感じ、信用できないと決めつけるだなんて、内なる差別心の発露だ。
マリナとして生きてきたヘレネは、きっと不安なはずだ。
エストが信じられる相手かなんてまだわからない。
本当に己の致命的な秘密を明かし、全ての心を委ねてもいい相手なのか。
ヘレネが手探りの状態でいるのなら、エストの方から手を差し出すべきだろう。
「そう言えば、レースがもうすぐ始まるね。一緒に中継観ない? 私は仲間が出るから応援するつもり」
「あー、うん。私はちょっと複雑なんだ~。絶対に応援したい魂の推しがいるけど、立場上はあっちも応援しなきゃだし、でもエストの友達にも勝って欲しいし~」
「あっ、ごめんね! 悩ませるつもりはなかったんだけど!」
「地上のしがらみって厄介だよね~。ま、いいや。結局のところ、本質的には着順なんかよりも資格を満たしているかどうかっていう試練だもん。リーナ・ゾラ・クロウサーが明藍の彩域を掌握する分にはこっちは困らないし」
「それは、どういう意味?」
「私たちの話だよ。ゆっくりと、色々なことを教えるね、エスト」
何かがずれているような、形容しがたい違和感があった。
ヘレネの好意に嘘はない。エストが感じる友情の萌芽は本物だ。
些細な掛け違い、少しの溝、互いが持つ情報の差もすぐに埋まるだろう。
彼女はそれを惜しまない、そんな気がした。
だが問題はそこにあるわけではない。
「楽しみといえばさ、『現在』のライブだよ! ねえエスト、一緒に観に行ってくれる? 関係者だし、特等席を用意してくれたりしない?」
「うーん。多分、相談すれば、なんとか?」
「やった! 私ね、あなたのことが好きだよ、エスト。きっと私たち、親友になれる」
最も大きな問題は、二人の間にある溝そのものではなく。
その溝が埋まった後。互いを本当の意味で理解できた時、それを許容できるという確信が、エストはどうしても持てずにいるのだった。
好ましい相手を知ろうとすることが、どうしようもなく怖い。
初めての感覚に、言いようのない不安を覚える。
「安心してエスト。未来は不安に満ちているし、過去はつらいことばかりだけど、きっと何もかも大丈夫。私たちはいまここで、変わらぬ常緑を手に入れるから」
だが、もはや引き返すことはかなわない。
二人は既に出会ってしまった。
この瞬間を否定することを、他ならぬエストが望んでいない。
だから止まらない。彼女は抱えた暗い気持ちから目を逸らして微笑みを返す。
もちろん、それはなかったことにはならないのだが。
知らぬ間に運ばれ、気付かずに流される。
エストはヘレネに林檎を切り分け、穏やかな時間を過ごした。
『もしも悲劇のヒロインになったなら』なんて妄想を一笑に付して。
その現実的な可能性に、知らんぷりをし続けた。
そうして、さらわれたお姫様の物語が幕を開ける。
粗い動画がアストラルネットを席巻する。
誰もがその少年の姿を知っていた。
複数関節の『鎧の腕』。クロウサーの長い手を再現した杖の結晶。
諸事情あって幼い少年の姿に変化しているが、彼こそは現代に復活した六王のひとり。
パーン・ガレニス・クロウサー。傲岸不遜を結晶化させた最速の箒乗り。
そんな少年の言葉が、ガロアンディアンに衝撃を与えた。
地上における最大権力のひとつ、クロウサー家の次期当主を決定するという『空使い』の選定レースはまもなく開幕する。
そんな時にもたらされたニュースとして、それは最大級のインパクトを伴っていた。
他の参加者もいるとはいえ、本命はリーナ・ゾラ・クロウサーとパーン・ガレニス・クロウサーの勝負だということは周知の事実。
そのパーンが、直前になって驚くべき手段に打って出たのだ。
「ミルーニャ・アルタネイフは預かった」
『空使い』候補たるリーナのパートナーが誘拐された。
誘拐犯であるパーンはミルーニャを人質にとって堂々と動画を配信した。
誘拐、人質、身代金。伝承に語られるパーンのやり口そのままの光景にネットが盛り上がり、配信の視聴者数はたちまち膨れ上がった。
「リーナ。クロウサー家当主としてのお前に要求することはたったひとつだ」
厳かに、冷徹に。
あらゆる感情を排して、それ以外の全てを敵として斬って捨てる。
これはリーナへのメッセージであると同時に、その背後への恫喝でもある。
「小細工はいらん。俺と戦い、己の速さを見せつけるがいい。要求は以上だ」
動画を観た者たちはそれぞれ戸惑い、首をひねり、疑問を口にした。
果たして、これは何のつもりなのだろう?
やる意味があるのかどうかもわからない茶番?
何らかのパフォーマンス?
レースを盛り上げるための演出という線も捨てきれない。
「俺が勝利したらこの女を妻に貰おう」
「じゃあ私が勝ったら先輩にはお姉ちゃんになってもらう!」
対抗するように声明を発表したリーナ。
ある者はそれを見て膝を打った。
つまりこれはレースの後を見据えた根回しなのだろう。
レースの結果がどうなろうとも、ミルーニャという少女は勝者のものになる。
どちらに転んでも、ミルーニャはクロウサー家の中枢に正式に組み込まれるようになっているわけだ。トロフィーにされたミルーニャという少女はリーナに比べて表に出てくることはあまりないが、英雄アズーリアの仲間にしてリーナの異母姉妹だという情報は既に公然の秘密となっている。
人々の視線は本命であるリーナとパーンのみならず、二人にとって重要な存在と思われるミルーニャに集まった。
アストラル配信されたミルーニャは、何かコメントを求められている気配を察して口を開いた。緊張と照れが少しの間を生み、それからとびきり甘い声が飛び出した。
「ふ、ふえ~ん。わたしのために争わないで下さ~い!」
そうして、攫われたお姫様の物語が幕を開ける。




