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幻想再帰のアリュージョニスト  作者: 最近
第5章 そして夜が明けたあと、百億の怒り

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5-27 舞台裏の死角⑤




 憎悪には慣れている。軽蔑にも、隔意にも、差別にも。

 いっこうに慣れないのは、己の内側で燃え盛る灼熱だけ。


「『葬儀屋』の妹」「あの活動家のせいで何人が死んだと思っている」「なにが活動家だ。家畜に入れ込んで同胞を裏切った屑ではないか」「格式ある葬礼祭司の家などと持て囃されて勘違いしたのだろう。身の程を知れというのだ、忌み仕事しか能の無い隠花もどきが」


 隠花を庇い、キノコ人たちの解放を掲げて反抗勢力に組した顕花族。

 それがエリカ・モノトロープの兄だった。

 優しく、聡明で、誇り高く、虐げられる従僕たちの扱いに疑問を覚え、旧態依然としたティリビナ人の在り方を変えようとした理想主義者。 


 ある時からエリカの兄は顕花族としての名を捨て、キノコ人のように『葬儀屋』などと名乗るようになった。その『活動』は次第に過激さを増していき、周囲の不理解と反発に疲れ始めた彼が短絡的な暴挙に辿り着くまでにそう時間はかからなかった。

 テロリスト。革命家。キノコ人の解放者。隠花族の独立運動家。

 全ての理想は流血を前提としており、それは同族殺しに等しい。


 身内からそのような者を出してしまったという事実。

 その家族に向けられる非難のまなざし。

 村八分という言葉すら生温い私刑。家族からの知らせを受けて駆け付けたエリカがあと一歩遅かったら、きっと一族は無事では済まなかっただろう。


 兄を止めることはできなかった。外の世界で多くを学び、ティリビナ人の現状を変えていこうと兄妹で誓い合った幼い日から彼女は前進することだけに専念してきた。どこかの時点で振り返り、兄の状況に気付けていたらこんなことにはならなかったのだろうか。


「かわいそうなエリカ。君も、君の兄も被害者だ。我々の敵は共通している」


 救いの手を差し伸べてくれた恩人《スーリウム》は兄の背後に存在する怪物たちの名を教えてくれた。各地で隠花族を始めとした少数民族の独立を煽り、無数の内戦を裏で操っている方言術師、ノゴルオゴルオ。顕花族であるエリカの兄を篭絡し、キノコ人たちの組織を強引に乗っ取った傘の魔女、ライラ・ラプス。


「同胞を裏切った兄を、妹である私が罰します。そして、黒幕であるノゴルオゴルオとライラ・ラプスには必ず報いを受けさせる」


 それが、エリカ・モノトロープというティリビナ人の『物語』だ。

 スーリウムはそれを望み、添木を用意し、不要な枝を剪定した。

 エリカもそれを受け入れ、その運命を歩むことを了承している。

 今のところ、彼女はスーリウムの忠実なしもべだった。


「スーリウム様。ユディーアが時間樹の枝から逃れました」


 だから、その時が来ても心が動くことはなかった。

 平静に。ごく自然に。当たり前のように報告を行うだけ。


「気付かれたか。ノゴルオゴルオの入れ知恵だろう。もはや休戦協定など無効だ。奴への本格的な対処が必要だな」


 通信窓の向こうにいるスーリウムはいつも通り、超越者の視野で拾い時空を俯瞰しているようだ。数多の可能性を検討しては選り分けていく神の如き者。その掌から逃れる術はない。常人はただ彼が与える運命に従うのみだ。


「『メイファーラ』の銀貨は確保済みです。計画は続行可能ですが、妨害を試みてくる可能性は高いと思われます」


「死体にはまだ利用価値がある。ディスケイムの駒は確保したい。操れるかな?」


「キノコ人たちの得意分野です。すぐに寄生させましょう」


 現場にあった遺書には友人を裏切った自責の念が綴られていた。

 それが本心であるかどうかに関係なく、人の心などは信じるに値しない。エリカは知っている。それが心からの決意であったとしても、人は自らを偽ることができるのだと。


「死体は本物かい?」


「ダルヤルの見立てでは幻像や肉体変成などが使われた痕跡はないとのことです。こちらと同じく豹型の擬獣《モルズ》を身代わりにしている可能性は無いかと。ただ気になる点が」


 情報収集にあたっていたキノコ人隠密の報告によれば、ユディーアの死亡推定時刻の直前、主街区で戦闘が発生していたという。

 暴走した使い魔の吸血コウモリが警備用の猫科魔獣によって鎮圧、使い魔は死亡。

 その際、警備側の豹が一体だけ死亡。豹は強力な『生命吸収』によって全身の血を抜き取られていたとのことだった。


「それから、自殺現場には大量の血痕や銀貨に混じって、毛髪や鱗が落ちていたそうです。室内が荒らされていたことから、頭を掻きむしったり亜竜人態で暴れたりした可能性がある、とダルヤルは推測していました」

 

「『塔』で学んだ君の見解が知りたいな」


「毛髪はもとより、鱗、角、爪、そして尾は全て呪物になり得ます。彼女は顕在化させていないアストラルテールを自在に操る亜竜人です。更に『塔』で学んだ魔女であれば『蜥蜴の尻尾切り』を応用して自らの死体を作り出すことが可能だと思われます」


 伝承では、ユディーアは紀神シャルマキヒュを裏切り聖妃レストロオセに組すると決めた際に二つの髪房のうち片方を切り落としたという。

 戦乙女たちの髪は尻尾に喩えられ、強い呪力を宿すと信じられた。

 この毛髪信仰は彼女たちが征服し『墓の下の夫』や『首輪付きの伴侶』とした亜竜人たちとその子供たちにも受け継がれた。時代と共に亜竜人にとっての呪力の源として信じられた角や尻尾は戦乙女の髪房と霊的に符合する相同部位として解釈されるようになり、ユディーアのサイドテールは『角であり尻尾』という奇妙な性質の呪物となったのである。


「尾は自切してからしばらくは自律的に動く身代わりになる。そこに魔女術や価値操作の銀貨が加われば、我々には真贋の区別がつけられない死体の出来上がり、と。これによって彼女は『死』という状態を獲得した。本体がどうなろうと、尾は死亡状態なのだからね」


 スーリウムは当然のように真相を看破していた。エリカに意見を求めたのはあくまでも推測を確信にするため。本来、彼は単独で完結している存在だった。


「ハデスを使って集めさせた占い師たちだけでは限界がある。地下や冥府への対策を急がなければならない。エリカ、キノコ人を束ねる君が頼りだ。ノゴルオゴルオへの対処を頼めるかな? 第五階層に根付かせた私の教え子たちは好きに使ってくれていい」


「かしこまりました。それこそが私の望みです」


 日の当たらない場所に生きる隠花族たちの支配者。

 それがエリカの一族に与えられた役目であり、責務だ。

 彼女はティリビナ人としての責任を果たし、運命を全うする。

 スーリウムの下で戦うのはその心を同胞たちに証明するためだ。

 それが彼女の物語。エリカ・モノトロープの運命。ティリビナ人としての人生。

 薄っぺらな復讐譚。分かりやすくてちょうどいい。




 瞬きの間に想起した過去が目蓋の裏に消えていく。

 ここは洞窟浄界、宿敵である方言使いとの死闘の舞台だ。

 憎悪はない。怒りもない。仇であるという実感にも乏しい。

 ただ恐怖がある。対峙する怪物に向けられたものではない。

 今は彼女を見ていないはずの超越者。スーリウムへの拭い難い不安だ。


 プレアの花。ティリビナの巫女。アルラウネ断章第七枝。

 本当に恐ろしいのは、大きすぎるそれらの運命に押しつぶされてしまうこと。

 『植物想《フローラ》』という名を手に入れた今でも、エリカは自分がティリビナ同胞団にとって必要な存在だという確信が持てない。


「私は、ロードデンドロン様のために全てを捧げる」


 それは暗がりだからこそ口にできる、心からの誓いだった。

 本当に忠誠を捧げるべき相手をフローラ=エリカは間違えない。

 いつか見た夢は、たったひとりのために。

 王の神官《ビショップ》として、彼を緑天主にする。そのためならなんだってやってみせる。


 女王《ヘレネ》には泣かれるかもしれない。塔《ネペンテス》には皮肉を言われるだろう。騎士《ダルヤル》は何も言わずに己の役目をこなしてくれるはずだ。

 そして、王《ロディ》はきっと、いつものように。

 胸が締め付けられる。苦しさとは裏腹に舌は滑らかに呪文を紡いでくれた。


 フードを後ろに倒したエリカの容姿は完全な別人のそれに変貌している。

 濃い緑色をした長い髪、アヴロノの如き白樺の肌、整った鼻梁。

 普段は細く、下を剥きがちな陰気な瞳はその輪郭を大きく際立たせ、輝くような視線でまっすぐに世界を捉えていた。

 強烈な存在感と意思の強さ。ティリビナの巫女プリエステラと瓜二つの姿。

 傍らに浮かぶボーカルフェアリー・ハチェットが『歌姫』の声で歌い出す。


 エリカの詠唱と並行して、全く違う歌が響いた。

 太陰《イルディアンサ》の『神々の図書館』は森羅万象を言語秩序の法則で呪縛しているが、何事にも例外は存在する。

 それがあえて翻訳しない、させないという表現を選択する場合だ。

 エキゾチックエフェクト。響きを聴かせるための呪文効果。

 耳慣れない響きへの戸惑い。意味が分からないからこその異国情緒。

 理解できない言葉は未知の異文化が持つ神秘性を高めることができる。


「『歌姫』と『ティリビナの巫女』の代替可能性《オルタナティヴ》。こりゃびっくりだ」


 対峙する怪物はそう言いつつも既に平静を取り戻している。

 探るような嘲笑と挑発が闇の中で反響した。


「けども、ちっと悠長過ぎねえか?」


 斬撃と投擲が左右から迫る。

 威圧的な暴力に対して、ほっそりとしたシルエットはあまりにも弱々しい。

 触れただけで吹き飛んでしまいそうな破壊の力は、しかし空振りに終わった。


 岩肌種《トロル》の猛攻を、エリカは新調された花弁のスカートを翻しながら優雅に躱していく。舞うように、あるいは飛び跳ねてはしゃぐ妖精のように。踊るように回避しているというよりも、踊るからこそ回避が成立している。それは舞踏という形式の呪術儀式だ。


 巨漢と石像兵、岩竜による三方向からの攻撃を軽々と凌ぐエリカの動きは先ほどまでとは余りにも違っていた。身体能力の劇的な向上。『踊る』という作法がもたらす魔術的な軽やかさ。超越的な『流れ』による補正。そして、決定的な質的変化。

 記憶と技能の蓄積。過去の修練の後付けである。

 彼女の中に蘇った過去は、エリカ・モノトロープとは別の人生だった。


「その動き、肉体言語魔術。いや、武術か?」


 訝しむ『塗壁』の言葉に答えるように、エリカは鋭い反撃を浴びせた。

 指先が霞んで見えるほどの神速。

 槍でさえ届かぬであろう間合いであるにも関わらず、衝撃が石像兵を襲う。

 音を置き去りにして叩きつけられたのは、しなやかに伸びた鞭の先端だった。


 左手に錫杖。右手に鞭。

 手品のようにどこかから取り出した武器を両手に構え、エリカは息をゆっくりと吐いた。

 スーリウムを想起させる流麗にして苛烈な鞭の連撃。

 最強最古のティリビナ人が操る鞭は速度、威力、精密性の全てが最高峰であり、それを知る『塗壁』はだからこそ対応を誤った。

 『報復』を軸にした冷静な防御行動を、しなる鞭が迂回して宙を舞う。


「こいつは」


 衝撃が岩肌人の頭上で炸裂した直後、大気を薙ぎ払いながら音が鳴る。

 洞窟内部だからこそ、音は良く響いた。

 打撃、拘束、調教、刑罰。

 鞭が持つ価値は今や旧来の四つだけではない。芸術あるいは競技としての鞭術はダンスであり、音響呪文を操る総合的なエンターテインメントである。


 神話の時代から頂点に立っていた花のアヴロノ(スーリウム)には技術がない。

 ただ命中する未来を選択し、その恵まれた肉体に備わった全力を叩き込むだけで事足りた。ゆえにスーリウムは、鞭という武器の真価を発揮することなく勝利し続けてきた。彼にとって蔦の鞭はあくまでも四肢の延長でしかないのだ。

 だからこそ、エリカはスーリウムが持たない技術を磨き上げてきた。


「は! キノコ人どもを調教するための技ってか?」


 揶揄するような『塗壁』の言葉は歴史的な事実を踏まえているが、正確な真実とは言えない。これは隷属を押し付けるための暴力であり、自由を求めて反乱を起こした戦士たちと対峙するための武力である。殺す技術ではなく、殺し合いの技術なのだ。


 隠花族との戦いの中で磨き上げられてきたティリビナ武術の三大門派。

 すなわち茎針《ソーン》、葉針《スパイン》、樹皮針《プリックル》の三幹。

 葉刃や陽閃による戦いを重んじる葉針派《スパイン》、肉体による打、極、投、刺を追求する樹皮針派《プリックル》とは違い、エリカが修めた茎針派《ソーン》は徒手格闘に加えて多様な武器術の運用を重視する。それだけなら亜大陸外の武術と差はないが、他に類を見ない点がひとつだけ存在する。


 刺鞭術。棒状の硬鞭ではなく、長くしなる柔らかい鞭での戦いを重んじる点だ。

 連接武器の延長線上にある杖鞭《ストックウィップ》やグリップハンドルや先端部分の重しなど細かく部位が分かれている革編鞭《ブルウィップ》とは異なり、単一素材で生成されるティリビナ人の茨鞭はとりわけ扱いが難しい。


 だが、柔軟性と変幻自在さは他の追随を許さない。動きが複雑になればなるほど、ティリビナの鞭は強く華麗に咲き誇るのだ。

 その伝統的な技法は、新しい世代に広まっている芸術的・趣味的なリズムスポーツとしての鞭術とよく噛み合っていた。

 厳密には、その仲立ちとなるものが『噛み合わせた』と言うべきか。

 陰惨な血の歴史をエンターテインメント化するのはこの第五階層が得意とするところであり、その悪質さの真骨頂と言える。


 エリカの視界に拡張された現実と立体幻像が表示される。

 デフォルメされた自分自身の人体モデル。図像の手足や肩が翻る鞭と連動し、運動の軌跡や最適な向き、力加減などを提示しながら表現としての意図、技術点の高くなる組み合わせなどを即座に計算、理想的な未来を予測していく。


「随分と、けったいな動きをするでねえか」


「優美って言うのよ、こういうのはね!」


 ハチェットが長いリボンをくるくると回しながら無知な岩肌人を笑う。

 主人の動きと連動するように宙を舞い、同時に鞭を振るって岩石の使い魔を牽制する。

 契約によって結ばれた仮想使い魔と主人は、それが初陣であるとは信じられないほどの親和性を見せた。完全に同期した鞭が石像兵を物質的にも呪術的にも穿ち、呪術としての構造を破綻させた。砕けた岩塊を巻き取った鞭が、岩竜の頭上からの強襲を妨害する。

 使い魔との最適な連携をアシストするガイドカーソルが瞳の中の拡張現実に表示されていた。ハチェットは情報的な仮想使い魔だから、『道場』による同期に遅延がほぼ無い。

 

 気息を導引し、四肢の隅々まで意識を行き渡らせる。

 藍色の精霊が血の中を巡り、遠い記憶が蘇る。

 鋭敏になっていく感覚の中で、身体に刻み込んだ修行《レッスン》の日々が細くしなやかな身体に爆発的な速度を与えた。そして、エリカはその呪文を口にする。


「発勁用意」


 基本は脱力と旋回。肘と肩が鞭の重さに引かれ、遠心力と連動して二重環の軌跡を描く。

 目標とするのは『8』のラインと『good』のポイント。リズミカルな発光と曲線が重なる。

 初動は側面打ち(サイドフリック)。右旋からの戻し、頭上を通してからの追撃、回る腕はダンスの振り付け、小気味よく連鎖した破裂音が民族音楽の打楽器を代替する。


「NO-NO-NO-KO-KOTTA!」


 寸断された電子音が言葉を解体し、意味を音素にまで分散させた。

 エリカ自身も意味を知らない異界の呪。

 音が紡ぐ異質な力と躍動が、ティリビナ文化と重なって更なる呪力を奏でる。

 発勁用意。それは第五階層で最も良く知られたエキゾチックエフェクトである。


「異国情緒の相乗効果。そのための鞭、そのためのサイバーカラテか!」


 仕掛けに気付いた『塗壁』は即座に対抗呪文を組んでいくが、有効打には繋がらない。何故ならエキゾチックさとは不可解さでもあるからだ。

 岩肌人は樹木人を知らない。その文化的な背景や文脈を共有していない。

 それが閉ざされた文明圏ゆえの優位性。

 前提となる知識が無いからこそ、『おそらく通じるであろう』という程度の遠慮がちな対策を想定し、試行錯誤するしかないのだ。


 そしてその試みが奏功するより速く、エリカの芸術は完成する。

 岩竜の猛攻を軽やかに回避するハチェットを背景に、『塗壁』の突進を真正面から受け止めるエリカ。先ほどまでとは決定的に肉体の質が変わってしまっていた。

 鞭によって衝撃を受け流し、手を回す動きを重ねる。

 至近距離での腕取り。どこにでもあるロープ逮捕術と共通する理合ゆえに『塗壁』にも読まれていたが、それこそが先入観による思考の『縛り』だ。捕縛の円運動と重ねて、浮遊するハチェットがリボンを回す。


 呪的発勁。

 円運動の螺旋は巻きひげのアナロジーであり、自立できない茎を支えるという表現だ。

 すなわち、中心となる架空の茎をイメージさせるための振り付け。

 構築された仮想の茎が杭打ちのように岩の腕を正面から押し出す。

 豪快に吹っ飛ばされた巨漢は膝を着き、折れた片手をだらりと垂らしながら言った。


「もう『ばとるろいやる』の影響圏からは逃れたはずだがな。厄介なもんだ、シナモリアキラっちゅうやつは」


 己自身も『塗壁』という名を使っていながら、岩の巨漢は苦々しい表情だった。

 ハチェットの猛攻によって片目を失っていた岩竜が『塗壁』の手元に戻っていく。

 呪文の構成を組み換え、その形を変えようとしていた。

 そうはさせまいと追撃するエリカとハチェットの前に、巨大な岩盤がせり上がる。


「塞げい」


 主を守護すべく次々と岩の壁が迫り出し、岩の柱がその内部空間に厳かな雰囲気を作り出していく。環境の変化は呪術的な意味合いの付与だ。エリカのアプローチが自身の肉体を使った舞踏呪術なら、これは環境を祭壇に変質させる舞台呪術。

 それは王侯のための宮殿にも、将兵のための城砦にも見えた。


 岩の守りの遥か奥。

 玉座の傍に跪く巨漢の右腕が、異様なまでに膨れ上がっている。

 姿を変えた岩竜は、今や巨漢の腕そのものになっていた。岩塊が五指を口のように広げる。独眼となった黒い宝石が手の甲で爛々と輝き、宮殿の内部を照らし出す。

 それは城を守るための武力。敵を殲滅するための暴力。

 岩肌人たちが崇める巨神ラウス、片腕だけが紀元槍に至った始祖の象徴。

 すなわち、巨大な岩の手である。


「『威力器官《オルゴーオルガノン》・爆心地《グラウンドゼロ》』」


 左右非対称のシルエット、肥大化した右腕が勢いよく振り上げられると、鉄槌のように大地に叩きつけられた。呪文を掻き消す轟音と共に、世界を揺るがす破滅的な振動と落盤が発生。逃げ惑うキノコ人たち、縮こまっているヘリオトロープの悲鳴、それらを顧みる余裕すらなくエリカは落ちてくる岩塊を必死に回避する。


 岩肌の呪術師が構築した『宮殿城砦』は呪的にも物理的にも強固な『浄界内部の浄界』とでも言うべき鉄壁の陣だ。崩壊する洞窟浄界の中で術者の周囲だけが安全地帯となっていた。逃げるなら敵に近づくしかないが、城砦の中には確実に罠が仕掛けられている。


 しかしこのまま手をこまねいていれば振動や落盤、圧倒的物量で押し切られるだろう。

 『サイバーカラテ道場』がひとつの打開策を提示。キノシューラがもたらす霊感を信じてハチェットとプランを共有、即座に実行に移した。


 肩上から手首のスナップをきかせたスイング、戻し交差で誘ってからの錫杖によるカウンターを匂わせる。巻き替えからの裏打ち狙い、複数の選択肢から最大の打撃力を持つ型を選択。もちろん、相手が誘いに乗るとは思っていない。


 鞭の利点は速度と射程、欠点は打擲の後に必然的に行わねばならない『戻し』だ。

 鞭術の修行は『戻し』に始まり『戻し』に終わる。

 致命的な隙を克服できなければ拷問や刑罰の真似事でしかないが、『戻し』を『美しい円』として魅せることができればそれは大道芸に昇華される。


 茎針派の鞭術は伝統的な武芸だが、その在り方は『サイバーカラテ道場』がアップデートされてから変化を続けている。それはロードデンドロンを中心とした新しいムーブメント、ティリビナ人の若い世代が見せた『歩み寄り』の一環でもあった。

 鞭を振り切った直後の隙、伸びきった腕が『戻し』を行おうとする半円の過程。

 その瞬間にこそ、鞭術の極意は現れる。


 巻き付け、絡め取り、奪い尽くす。

 という先入観を利用した、その全く逆。すなわち設置と付与。

 血走り、と名付けられる技がある。

 体内で合成した生物毒を血液に混ぜ、鞭に伝わせるという奥義のひとつだが、この時にエリカが鞭に這わせたのは毒を持たないただの血だった。


 そして全ての樹妖精《アルラウネ》は、その血液の中に『アルラウネ断章』という秘密を宿した魔導書を宿している。

 繊細な技巧は鞭に歌を紡がせるし、美しい円弧を描かせることもできる。

 鞭が弧を描いて戻り来る。その軌跡が刻む痕跡こそが呪術儀式を成立させていた。


 待機中に構えたカウンターの予備動作。左手の杖が行う引き寄せる動き。

 仮想の引力を形作る舞の振り付けが新たな音と拍を想起させ、幻想を具現化する。

 落下しつつある無数の岩塊。

 その全てを無数の蔦が繋ぎ合わせて天井からの落下を止めていた。


 頭上、無数に張り巡らされた光景はさながら『電線』のよう。

 おそらくその比喩を老呪術師は理解できない。

 エリカは一瞬にして周囲の岩塊に血で呪文を記した。

 己の一部である血による『感染』、そして『感応』がもたらした神秘。


 エリカの身体に眠る蔦鞭の技は血の記憶からもたらされたものだ。

 血が呼び起こすティリビナの記憶。無尽蔵にあふれる緑の繁茂。

 精妙な『這い戻し』の鞭術がジグザグの曲線を描きながら無数の打音を鳴らし、血の歌と繋ぎ結ぶ緑の天蓋が新たな幻想を呼び起こす。


 舞曲『碧き故郷(ブルーフォレスト)』。

 青々と生い茂る森の光景をモチーフにしたそれはティリビナ音楽ではない。

 ジャッフハリムの岩肌人たちが北方に想いを馳せる望郷の歌である。


「そいつは」


 寒々しい針葉樹と、宮殿に並ぶ岩の柱を重ねる。

 見立てにより『塗壁』の術そのものを森になぞらえ、破壊ではなく強化する目的で新たな文脈を追加するための呪文。エリカは目の前の敵が遥か格上であることを理解している。だからこそ、力や技で上回ろうとは考えない。

 戦うべき相手を別に設定し、異なる勝利条件を満たす。

 ルールの中で勝てないのなら、レギュレーションを変更するのが呪術師の戦いだ。

 

『ティリビナ人であること。その特異さをね、優位性として捉えるの。政治的にも、呪術的にも。よりにもよって私がこういうこと言うのもなんだけど。エリカちゃんなら、多分あたまいいから上手にできるよ。いざという時は、それでデンちゃんを助けてあげてね」


 記憶の中で響く声。大切な仲間に教わった、戦うための手段。

 それは虚構を形にするための呪文だった。

 国家を擬人化したキャラクター。

 あるいは国民性や民族性の擬人化。


『宣言し、代入し、参照する。ね、簡単でしょ? 私がやるのはおこがましいかもだけど』


 ヘレネはそんな風に言って、いつものように自虐的に笑っていた。

 醜く、忌まわしい、恐ろしい、同胞団にとっての破滅と救済。

 黒く、大きく、美しく、雄大な、漆黒の星。

 逆さ森のうろ。天蓋の暗黒。黒肌の聖母。


『エリカちゃんにだけ、教えてあげるね。すぐにできるよ。だってエリカちゃん、ぴったりなんだもの。嫌われ者の隠花飼いじゃなきゃ、私なんかと仲良くしてくれないもんね? 私たち、ふたりきりの顕花もどきだから。きっと上手に、呪えるよ』


 なんてひどい言い方だろうと思った。外道の自分に相応しい、最低の親友。華やかさの下に陰険さを隠したティリビナ人らしさ。黒檀の民が言うところの、土を貪る汚い性根のティリビナ女というやつだ。誇張した種族イメージ。それは呪いだ。


 エリカは歌に込めた空想を呪文に変えて、巨大な竜を作り出そうとしていた。

 彼女なら、きっとこう戦うはずだ。

 最も重要な責務を担う仲間のことを思いながら呪文を紡ぐ。

 虚空に刻まれた即席の血の軌跡が召喚用の円陣を形成し、イメージを具現化する。

 エリカの背後に草花の女神、そして『塗壁』の背後に巨岩に覆われた大男の幻像が現れる。実体ではない。呪文によって構成された仮想使い魔だ。


 共に種族的なイメージや神の典型的な想像図を基にした映像だった。

 ティリビナとトロル。その言葉が持つ典型的な像の擬人化である。

 国家や地域、種族は時に神と結び付けられる。

 それを対置し、比較することはある種の神話の再現、舞台上の表現にも繋がる。


「『優しき花の女神レルプレア』『大いなる岩の巨神ラウス』」


 ステレオタイプを利用するのは呪術師にとっての定石のひとつ。

 偏見や差別は方言使いだけの専売特許ではない。

 むしろ、『塗壁』が典型的なトロルのイメージを誇張して利用するからこそ型に嵌めやすくなっていると言えた。


 抽象化された双方のキャラクターが術者たちと併置され、相対する。

 構図はそのままに、状況は極度に単純化されていた。

 これはキャラクターとキャラクターが対峙する架空の闘争。

 エリカは戦いのスケールを変質させることで、別種の決着に持ち込もうとしていた。


「『暗がりに蠢く古き』」


 激震と崩落、隆起する岩塊に守られた岩肌人が紡ごうとした強固な呪文。

 そこにするりと置かれた対抗呪文は、ひどく簡潔。


「『丸い三角』」


 不可解な組み合わせの呟きだった。

 反意味の呪文。あるいは不合理な和として具現化したそれが呪文としてそこにあることは確かに把握できる。言葉としては形になるからだ。

 しかし具体的個別的な事象としてそれを認識しようとすると理性が理解を拒む。

 よって、『塗壁は』呪術師としての知識から極めて常識的な象徴を読み取った。


「錐神《ペレケテンヌル》と球神《ドルネスタンルフ》の複合呪術か!」


 神同士の相性が悪すぎて普通なら成立しないはずの加護の重ね合わせ。危うすぎるバランスの上で成立させることは、上級言語魔術師級の使い手なら不可能とまでは言えない。

 その域の言語魔術師だったのかという警戒の視線を感じながら、エリカはその勘違いをそのまま利用する。続けて並べた言葉の羅列は、ハチェットの歌に紛れるように背景音楽として無造作に投げつけられていく。


「『凪荒れの水面』『満ちる虚空』『繋がれぬ結節点』『赤い青』『熱い冷気』『凍える沸騰』『長身短躯』『不言猫の呪文竜』」


 不合理な和。あるいは反意味の呪文。

 視覚のような現象の知覚に依存する邪視ではなく、記号を操作する言語魔術であるからこそ成立可能な破綻したことば。

 エリカにとって、オルガンローデはことばに備わっている本来の機能を引き出すためのインターフェースだ。呪文竜は抽象的であればあるほど強い。


 『塗壁』はここにきて小細工を捨てた。

 右手を補う『岩竜の手』に片手を添え、手を口のように開いてこちらに向ける。

 『吐息(ブレス)』が来る。それこそがエリカの望みだった。

 真正面から迎え撃つ。構築した複数の呪文、ハチェットの歌、全てが共鳴し、ひとつの結果をもたらそうとしていた。


 色号使いとしてのエリカが呪文操作の対象とする『トロープ』は個物の個別的性質を指す。全体に従属する形体や色、すなわち『赤い』とか『丸い』とかいった性質のことだ。

 あらゆるモノは『トロープの和』として構成される。

 エリカはそれを抽出し、解体し、人為的に再接合することができた。

 その結果として何ができるのかと言えば、つまりはこういうことだ。


「『木製の鋼鉄』」


 カウンターのために構えていた左手の錫杖が瞬時に形を変える。

 湾曲したストック。突き出した撃鉄。蓮根のような回転式弾倉。半円と引き金。

 それはティリビナの銃。自然兵器が装填するのは認知不整合の矛盾魔弾。

 たとえばそれは観察者効果を与えない光。存在不能の熱量。到達しない着弾。完全な理論氷炎術。それら全ての条件を満たす必中の弾丸。


 鞭による一撃の隙を埋める、回転式拳銃による奇襲。

 激しい穏やかさで、燃えるように凍てつきながら、青く輝く赤色が銃口に闇を灯した。

 銃声が歌のように響き、術者は役者となってアクションシーンを演出する。

 それはミュージックビデオであり、呪文イメージの出力でもあった。


 宮殿が焼け落ちて、城砦が爆発する。派手な光景にも関わらず、それはどこか嘘っぽい。

 否、安っぽいと言うべきだろうか。冗談のような量の火薬と色付きの爆炎は派手さを追求しすぎていて、破壊と死の匂いから遠すぎた。


「ティリビナ人の若いもんには火薬や拳銃が流行りってかぁ?」


 『塗壁』の反応は理解可能な『周囲への影響』に言及するだけに留まっていた。

 それ以外の『何か』に対する不用意な言語的干渉が危険だと彼は理解しているのだ。

 『空虚な言葉遊びである』という対抗呪文は、一見して最も適切に思える。

 だからこそ老練な言語魔術師は警戒していた。この呪文は一筋縄ではいかないと。


 『塗壁』は咄嗟の判断で右腕から放出した『吐息』を推進力に変えて炸裂した『何か』を回避していた。爆発四散した『宮殿城砦』には拘泥せず体勢を立て直し、背後に付きまとう『ステレオタイプ・トロル』のイメージを一瞥、即座に解析を開始。

 右腕に再び充填されていく『吐息』のエネルギーを見ながら、エリカは仕上げにかかる。相手が仕掛けを看破するまでそう時間はかからない。初見で対応できない今、この瞬間にだけ勝ち筋が存在した。


 エリカの眼前で像を結んでいく幻影が、図像に意味を刻印していく。

 弾かれて宙で回転する円形のトークン。

 両面に刻まれているのは枝を思わせる楔型の文字。 

 それは木製のコイン。ティリビナ人にとっての価値の象徴だ。


「これこそはロードデンドロン様に与えられし秘文字の力」


 たった一文字。エリカに与えられたその意味は『荊棘《ソーン》』。

 銃口の前で回転するコインが秘文字を輝かせる。 

 引き金にかかった指が銃声を紡ぎ、『緑天主』の力が弾丸となって具現した。

 銃弾が、価値と言葉を貫く。


「召喚《コール》」


 イメージするのは美しき九祖、花のアヴロノ、隠花を狩る者。

 銃声と呪文の激突が火花を咲かせ、弾けた轟音は雷鳴となって呪文に先立つ稲妻《ひかり》を招く。天なる神威(ヌミノーゼ)を光すなわち色として記述するゾラの秘術。森という世界に偏在する種子《可能性》が色号と結びつき『芽吹き』を迎え『花』となる。


 雪月《せつげつ》は翳《かげ》り、風花《かざはな》が舞う。

 それは亜大陸西部にそびえ立つ氷の山、その頂に浮かぶ氷塊に封じられた伝承花《エルスール》。

 遠い昔、紀竜となって眠りについた救世主の逸話。

 それは、月が流した涙の結晶であるという。


「嘆き咲け、『涙想吟竜《コルセーク》』」


 輝くような銀色が、花のように闇を照らした。

 完成した呪文竜。銀竜滅呪としての基本形はそのままに、より生物的な質感と氷の結晶じみたディティールを付け加えた発展型のオルガンローデ。

 花が開き、輝く牙が滅びを歌う。


 神々しい美しさに見惚れていた配下のキノコ人たちが両手を頭上に掲げた姿勢のまま昏倒していく。祈りを捧げる仕草はそのまま生命力の譲渡に繋がっていた。

 美しく、厳かで、静謐な、宗教的権威に基づく一方的搾取。

 キノコ人たちは森の分解者だ。腐敗を司り、土壌を肥やし、木々に寄生し、森の恵みを循環させる大いなるサイクルの一部。その摂理は顕花族が隠花族を従属させることの正当化のために用いられたが、同時にひとつの宗教的な構造を補強していた。 


 それこそがエリカが生まれながらに与えられた祭司の役割。

 寄生者に対する寄生。彼女はキノコ人たちが集めた呪力を徴収する権利を持つ。

 呪術基盤『生命吸収』に対して行われる高次の『生命吸収』は、『隠花族を支配するのは顕花族である』という政治的神話に紐づけされた特権である。


 隠花族の反乱分子を力によって導き、キノコ人の軍勢を従える力。

 隠花族を精強なる勇者として称え、その独立の芽を摘む善意と悪意の混交呪文。

 名を朱雪華《しゅせっか》の魔女。藻/隠花の救世主信仰を上書きする顕花竜。


「『威力器官《オルゴーオルガノン》・爆《グラ》」


「『爆心地《グラウンドゼロ》』」 


 『塗壁』の言葉を上書きして、冷え冷えとした詠唱が響き渡る。

 ティリビナの呪文竜が轟かせた歌がトロルの手から放たれようとしていたエネルギーに干渉し、共鳴し、増幅し、制御を奪った。

 敵の『吐息』はエリカのものになったのである。


「それはもう、『覚えた』」


 それがエリカという呪術師の特質。ティリビナ同胞団における役割。

 銃も。鞭も。稲妻も。色号も。全てが後付け。継ぎはぎの付け焼刃。

 劣化したコピー。無数の選択肢。他者依存の力と空虚な自己。

 寄生と搾取。模倣と複写。


 だからこそ、格上と知りつつも一度ここで強敵とぶつかっておきたかった。

 方言使いノゴルオゴルオ。半魂状態での転生という不完全な状態であるからこそ、このタイミングでしか奪えない価値と力がある。


「グハハハハ! 何じゃこりゃあ! はっぱ意味わかんねえだよ! 星天主《デルゴ》か賢天主《アリス》か知んねえが、えらいまじないこさえたもんだ!」


 切り札を無力化された『塗壁』は窮地に陥ったとは思えないほど愉快そうに笑う。

 観念したというよりも、予想以上の状況を心から楽しんでいるといった様子だった。


「おーおー、おっかねえなあ。これが『断章持ち』か。資格者ってだけで相当だが、おめえさんはモノが違うな」


 呪術師としてエリカが優れているのは当然だ。なにしろ強大な魔導書を内蔵した存在が『民族の歴史』という文脈を背負って動いているのだから。

 依然として実力差は明白だが、二人の呪術師の傍らに存在する種族的なイメージと呪文竜が勝敗の流れをエリカの方に傾けていた。

 これは呪術的な闘争というよりも、情報のほのめかしによる交渉に近い。


 岩肌種たちは隠花族を糾合して顕花族への叛意を煽ろうとしていた。

 反乱と内紛による競争相手への妨害工作。しかしその手はスーリウムも予想済み。

 エリカが見せた呪文竜は『対策をしているぞ』という牽制の一撃だ。


 朱雪華《しゅせっか》の魔女、『涙想吟竜《コルセーク》』はスーリウムが準備していた切り札、その予備のひとつ。本命は何者かによって潰されたが、超越者は幾つもの運命を俯瞰して無数の分岐に備えを設定している。競争相手であるライラ・ラプスとノゴルオゴルオが揃って狙いを定めている隠花族という弱点を、スーリウムは徹底的に守るつもりだ。


 つまり、運命は覆らない。

 隠花族はあらゆる未来で顕花族から虐げられ、搾取され、支配され続ける。

 どんな道筋を辿ってもそうなる、というイメージの提示。それがこの戦いの意味だ。

 エリカは駒に過ぎない。状況はスーリウムとノゴルオゴルオの対峙に等しい。あるいは、トロル人とティリビナ人の交渉とでも言うべきだろうか。しかし『塗壁』はにいっと口の端を吊り上げてエリカを見た。


「なるほどなあ。おめえ、さてはあの細っこい優男のロードデンドロンより強いべ?」


「ロードデンドロン様への侮辱は許しません。あの方こそまことの緑天主。我らティリビナ人の統率者が私に劣るはずもない」


「いやいや。おらは別に緑天主が弱いなんて言ったつもりはねえ」


 反射的に強く否定してしまったことをエリカはすぐに後悔した。

 今のは引き出された言葉だ。

 岩肌の男はどこか下品さをひけらかすように含み笑いをする。


「グフフフ。使い魔の達人なんてのは下のもんが支えてこそ、だべ? 賞賛は素直に受け取っとけ。つまるとこ、おめえさんほどの使い手を従えてる緑天主への賛辞でもあるわけだからなあ。ん? そういうことでいいべ?」


「あなた、は」


 確かに呪文戦で優勢に立ったはずだ。切り札まで見せた。だというのに一瞬でこれだ。

 流れを断ち切る必要がある。

 ハチェットが喉を震わせ、呪文竜が低く唸った。

 『お前の右腕はもうこちらが支配している』と強調するように、内部に食い込ませた支配の呪文をより深く寄生させていく。


 エリカが模倣した力は劣化コピーに過ぎないが、同調する形で相手の呪文を乗っ取れば相手の行動を制限できる。構造を解体し、制御可能だと示す方法は言理の妖精という新しい力によって更に精錬されつつあった。

 言理の妖精語りて曰く。解体の言葉が神秘を解き明かし、呪文を掌握していく。


「それは岩竜じゃない。岩と闇の二体で構成された洞窟竜」


「目ざといこと。こりゃスーリウムの奴も形無しだなあ」


 大技の正体を看破された老呪術師は感心した様子で全く動じていない。構わずに解析と解説によって神秘を貶める。『塗壁』が使っているのは一般的に『双竜呪』と呼ばれている高等技法で、性質の異なる呪文竜を別々に構築、並行して運用するという離れ業だ。

 物理《マテリアル》と星幽《アストラル》のバランスが良く、相互に補い合う構成。力押しだけでも多くの状況に対応できるし、単純に完成度が高い。


 この術者の場合、ただ二体を同時に操作するだけではなく、岩竜と闇竜という一対の組み合わせが『洞窟』というイメージを形成している。岩肌人という種族を象徴するシンボルは国家や民族の文化的背景を参照し、神話から無数のイメージを引き出す。まさにトロル人呪術師が用いる呪文竜の最適解と呼べるだろう。

 正攻法だけでも並の呪術師なら圧し潰せる。だがそれで終わりではない。


「洞窟の中に、何か隠れ潜んでいる?」


 洞窟竜でさえ切り札を神秘のヴェールに包むための手段でしかないとしたら。

 呪術基盤や杖の呪術というのはその性質上、陳腐化していくことが避けられない。

 ありふれていくことを前提にしたオープンソースの呪術を神秘化のために使うというのは現代呪術師にはあまりない発想だ。洞窟竜の根底には、ノゴルオゴルオの古い言語魔術師としての矜持と信念がある。


 意を決して覗き見る。その深奥を。トロル人の最大の秘密を。

 今のエリカにはそれができる。

 踏み込むべきではない。これは罠であり、恐れを毒とする呪詛の仕掛けだ。

 にやにやと笑う『塗壁』の表情は挑発的で、憎たらしく、挑みたくなるほど魅惑的。

 だからこそ踏み込んだ。恐れと理性の判断を超えた先、直観を信じて進む。


「ほぉ、スーリウムの駒にしとくのがもったいねえな」


 全ての音が遠ざかり、あらゆる知覚が闇の中に消えていく。

 暗く、深く、奈落の底へ。誰も見えないスポットライトの外側、舞台に上がることがない裏側の更に裏側。

 誰にも顧みられない、忘れ去られた無価値の墓場。


 岩と樹と獣のサイクル。巡る根源人種《ルートレイス》。更新される世界。プレーンテクトニクス。世界一方向進行仮説。全能者のパラドックス。矛盾の石。神と大悪魔。

 西方の『賢者の岩』、東方の『石封仙』。その原形となったのは『墓標船』の伝承。

 始まりのフィリスと終わりのオー。言語支配者たちが見た夢。


「『覚えた』」


 それだけがエリカの取柄だった。

 お勉強が得意なだけの優等生。兄ひとり止められない。幼馴染ひとり救えない。

 運命ひとつ、覆せない。ありふれた超越者の駒、価値にしてせいぜい三点《ビショップ》。それが下らない命の最終的な結論だ。


 有益な情報を持ち帰る。その程度すらできないのであれば、この人生に意味などない。

 闇から浮上する。洞窟に潜む怪物のまなざしが魂を呪縛したことを理解しながら、致命的な状況から目を逸らして言い放つ。


「パノティオンの悪魔。双生児の岩の仔、ノゴル・オーとゴル・オー」


「おお、博識な上に慧眼でねえか。その呼ばれ方すんのも久しぶりだ。なら『おらたつ』がどういうもんか、わかったべ?」


 老いた怪物は楽しんでいる。幼く未熟な若芽が自らの正体に肉薄すること、その稀有な体験に心を躍らせているのだろう。この暗がりにはスーリウムのお膳立てはない。地下や冥府においてティリビナの時間樹は運命を示すことがないからだ。

 だからエリカは、絶望と諦観を知りながらも死地に足を踏み出せる。


「貴方は、藍の天主セレクティフィレクティと同じ位階の存在ですね」


「だから(んだ)。完全に同じってわけでもねえが、在り方が同じっちゅうこったな。キュトスの姉妹にもカルルアルルアって奴がいんだけどな、そいつと一緒に色々試したもんだ」


 懐かしむように神話の時代を回顧する怪物は、既に歴史の枠を超えていた。


「双子っちゅうのは人生の相似、運命の類比だ。必然的に双方が互いに呪術的影響を与え合うことになる。おらたつはな、生まれながらに接ぎ木されてるようなもんよ」


 片方でしかない『塗壁』は、そう言いながらエリカに親しみの視線を向けた。

 人のいい親類のような気安さと温かみ。そこには共感と好意がある。


「今のおめえさんも双子みてえなもん、っちゅう言い方もできらあな。天然のクローンと複製された運命。なんてこった、おらたつがここで巡り合ったのは運命かもしれね!」


 エリカは沈黙した。答えるべき言葉を持たなかったからだ。

 彼女が相手の秘密を握ったように、相手も彼女の秘密を探り当てている。

 これは戦闘であり、情報交換であり、そのための交渉と手続きでもあった。

 互いに戦意は絶やしていないが、殺意などは最初からどこにもない。

 そんなものに意味はないからだ。


「ま、旧世界の『異物』はお互い様ってこったな」


「じき、旧世界ではなくなります」


 それをエリカは知っている。もちろん、ノゴルオゴルオもだ。

 神の如き超越者たちが救世主を巡って何を為そうとしているのか。

 その目的。あり得たかもしれない可能性と訪れるかもしれない未来。

 鋼鉄と幻想が満ちる世界ヨンドヴァナラウンド。鉄願の極地ユーラメリコン。転生王の統べる約束の地アメイジア。言葉持たぬ獣どもの楽土レムリオン。あるいはパノティオン。

 そして、ロディニオ。

 

「さて。ちっとばかしお互い困った状況でねえか、これは」


 幾つもの前提を飛び越して、大柄な岩肌人が腕組みしながら唸った。

 互いがどこまで情報を共有しているのか。その確認ができた時点で、互いが置かれている状況が初めて意味を持つ。


「さっきの再生者なあ。あのダアルノートっちゅう妖精剣は斬った相手の真の願いを引き出す力があるだよ。そこに嘘はねえ。だからこそどんな強者にも通用し得るわけだ」


 心を見透かすような瞳を負けじと睨み返す。

 エリカは虚勢が無意味だとわかっていた。この怪物はスーリウムよりも得体の知れない呪術の深淵に住まう存在だ。未熟な抵抗など子供の浅知恵に等しいのだろう。それでも、彼女はそうすることを選んだ。駒でも人形でもいい。そうしたいからするだけだ。


「おめえさんの本当の願いは、さてどんなもんだったべか。いけね、あん時なにが起きたのか、すっかりど忘れしちまっただよ。いやー、真っ暗でなんも見えねえのも良くねえな。頭の中の見通しまで悪くなってしまってるでねえか」


 とぼけた言葉の意味を、エリカは噛みしめる。

 再生者の王子が斬り裂いた運命は、哀れな犠牲者を救うものだった。

 純顕花のヘリオトロープが放った小太陽は標的を忌避するように軌道を逸らした。

 キノコ人を殺すようにと命じられたエリカの雷撃はヘリオトロープに直撃した。


 真の願いを引き出す斬撃。

 それは『使命』や『運命』さえも覆す。

 『やるべきこと』よりも『やりたいこと』を形にすることわりの呪い。

 見ることさえ忌まわしい標的を殺すことはできないし、殺したくない相手は殺せない。

 優しく、同時に残酷な祈り。

 本当の怒り、本当の憎悪であれば、剣はそれを肯定してしまう。


「いいこと教えてやる。スーリウムが探してる『死人の森』の神具、在処を把握してんのはここにいるおらたつだけだ」


 囁くように潜められた声。

 エリカは表情を変えずに耳を傾けた。

 スーリウムの忠実なしもべであるヘリオトロープは闇を恐れ、激しい戦闘に巻き込まれないように遠巻きにこちらを窺っている。声が届いているかどうかは微妙な所だ。


「偶然の流れだが、まさしく天の配剤よ。おらにとっちゃあ『ついで』で手を伸ばしとく程度の代物だが、おめたつにとっては違う。どうだ? ひとつ手を組んでみねえか?」


 ここで手を打っておけ、という休戦の申し出。

 格上の老呪術師からこれを持ち出してくる状況はエリカにとってこの上ない成果であり、狙っていたとおりの流れでもある。それを理解した上で相手はこの裏切りを持ちかけたのだ。それがこの情報交換の本当の狙い。茶番じみた戦闘に込められた『真の願い』だ。


「『動物想《ファウナ》』の黄金を継承した再生者の宝剣。手に入れるのを手伝ってやってもいい。スーリウムにでねえ。おめえさん個人との協力関係ってわけだな」


 沈黙。エリカは呪文竜をわずかに前進させながら、一対の種族イメージの幻像を強化した。直後、『塗壁』の解析が完了。典型的なトロル人とティリビナ人のイメージが崩壊して均衡が傾いた。岩の手が銀貨を指先で弾き、翻る鞭の先から木貨が飛んでいく。

 同時に解放された呪文竜が両者の中間地点で激突。閃光を迸らせながら爆散した。


 音と光が収まった後、そこには既に『塗壁』の姿は無かった。

 洞窟浄界は維持されたままだ。スーリウムの目から逃れたまま離脱する以上、しばらくはこの洞窟を消すわけにもいかないのだろう。

 つまり、しばらくエリカたちも外側に弾かれることなく暗がりに留まることができる。


 手の中でコインの感触を確かめながら、エリカは深く息を吸った。

 覚悟を決める。無事なキノコ人たちの数を確かめ、呼び集めて点呼をとる。

 闇の中ではその力を発揮できない純顕花のヘリオトロープは離れた所でうずくまっていた。エリカはキノコ人たちを引き連れて弱者を見下ろした。


「そう、スーリウムにとって重要な手駒は私たち同胞団だけではない。それが問題だった。古参の幹部がいると、少し動きづらいから」


 無造作に鞭で打撃し、二回、三回と苦痛を累積させていく。

 痛みと格付け。現状を理解させると共に、動作と音によって周囲に知らしめる。

 これは鞭の痛みを良く知っているキノコ人たちへのパフォーマンスだ。

 彼らは痛みに怯える純顕花に同情を示すだろうか?

 そうはならない。弱く虐げられた者が、常に善良であるという信念は誤りだ。

 炎に焼かれた顕花族がそうであるように。


「黒薔薇が無ければスーリウムは影界や地底の出来事を観測できない。貴重なスキリシアの花を彼は温存している。『王殺し』と接触したミスルトーが黒薔薇ごと殺されたから、きっと警戒しているんでしょうね」


 冷酷な鞭による責め苦にわけもわからずのたうち回りながら、ヘリオトロープは良く知る名に敏感に反応した。残酷で傲慢な純顕花。スーリウムを再生産したようなクズでも、友情と絆を知っている。エリカがそうであるように。


「まさか、ミスルトーの死は貴様の仕業か!」


 怒りの火が闇への恐れを一瞬だけ払拭した。

 哀れなミスルトー。蜂に刺されて死んだ、とある流れの切っ掛けとなった駒。

 ロケットパンチ殺人事件。ゴミのような死であっても、悼む者はいる。


「いいえ? 私は何も。さて、みんな。ご褒美の時間です」


 もちろん、エリカは手を汚さない。

 彼女は常にそうだ。いつだって、誰かのせいにする特権を手放したことはない。

 喜びの歌に包まれながら、彼女は残虐な処刑を観察し続けた。


「やったー!」「顕花様万歳!」「顕花様の生命力万歳!」「顕花様の惨たらしい死に万歳!」「僕たちの怒りを認めてくれるエリカお嬢様万歳!」「殺していいの? また嬲り殺しにしていいの?」「ティリビナ同胞団、最高!」「顕花様を吸い殺していいなら、死ぬのだって怖くないや!」


 両手を振り上げた小柄なキノコ人たちは、祈るように女神を崇めた。

 群がられたヘリオトロープは振り絞った勇気を一瞬にして踏みにじられた。

 そのあとは、語る意味のない予定調和が待つばかり。


「やめろ、来るな、穢れた隠花族ごときが私に触れていいと思っているのか、よせ、おい、やめろやめろやめろっ、痛、離れ、嫌、やめてえええっ!」


 できるだけその歌が長引くように。楽しく楽しく、ゆっくりと味わいましょう。

 キノコ人たちの祝祭が盛り上がりを見せる中、エリカは少し離れた場所で燐光を放つ妖精に手を差し伸べた。ハチェットは楽しそうに笑って残酷な主の掌を撫で、新たな主の周囲を舞うように飛び回る。


 暗い地下に楽しげな声が響く。

 妖精に誘われるように、エリカはくるりとターンした。

 翻る花弁のスカート。ゆっくりと、エリカの周囲に緑が繁茂していく。

 種族の血に眠る遠い記憶に導かれ、芽吹く精霊たち。

 普遍。そして永遠への陶酔。フローラの号を得た少女は、遥か遠くを夢見ていた。


「ええ、きっとよロディ。私たちはいまここで、変わらぬ常緑《えいえん》を手に入れる」


 朱色に染まる頬、思わず漏れ出た溜息、熱を帯びたまなざし。

 命と情熱を燃え上がらせるような感情の迸り。

 誰もがその意味を知っている。そのどうしようもない価値を。

 心を焦がすは恋の呪い。

 やがて燃え尽きて死灰に至る、滅びゆく者の表情だった。





 闇を掘り進みながら果てを目指す。

 老呪術師にとってそれは逃亡ではない。

 確かな成果と満足を得ることができた、凱旋である。

 手の中でコインの感触を確かめながら、『塗壁』は呟いた。


「『アルラウネ断章』か。ちっとばかしあれは得体が知れねえだよ。ただでさえ洒落にならねえあのおなごの呪力が底なしだ。下手すっと魔将か英雄どもの域かもしんねえな」


 この老呪術師が知る限り、スーリウムの配下で最も強大な力を持っていたのがあのヘリオトロープという男だった。だからこそ第五階層への潜入やシナモリアキラ候補としての役割を与えられていたのだろう。

 しかしその見立ては甘かったと言わざるを得ない。

 予想以上にティリビナ人の新世代が育っている。


「ま、若者を育てんのが先達の務めだ。当たり前のことだが、ディスケイムのやり方で育てた呪石の子らだって負けてねえ」


 負けてはいない、とは言ったがあくまでも資質や将来性を踏まえての話だ。

 既に名の知れた高位呪術師であるエリカ・モノトロープと呪術戦を行ったからこその確信。あれに匹敵する術者は現在の彼の部下にはいないし、恐らくティリビナ人の老人たちにもいないはずだ。恐らく呪術的な知識や理論への理解度、運用の巧みさで言えばスーリウムをも凌駕しているだろう。


 ただ強者として生まれついたスーリウムとは違う。

 エリカの呪術からは天才が正しく努力を重ね、しかるべき師に導かれながら研鑽を重ねてきた努力の厚みを感じた。老呪術師も同じタイプだからこそ理解できる実感だ。

 ティリビナ人社会の外を知っているからこその強さなのだろう。

 あるいは、スーリウムやロードデンドロンよりも危険なのはあの女呪術師かもしれない。


「スーリウムが保持している『アルラウネ断章』は本当にあれっぽっちか?」


「血主様?」


 これは独り言ではない。あえて手出しを禁じ、エリカとの戦いを見せていた秘蔵の弟子たちに聞かせるための解説だ。暗中を探るように掘り進む『塗壁』はエリカに大きな価値を見出していた。厳密には、それだけの価値を生む『局面』をエリカが捉えたことを評価しているのだ。盤面の駒としての彼女は雑兵《ポーン》ではないにせよ小駒《ビショップ》でしかない。大駒《クイーン》には及ばないし、盤外で駒を動かすスーリウムやノゴルオゴルオとは次元が違う。


 それでも、局面によっては全ての駒が勝利に近づくための価値を持つ。

 たとえ犠牲になるとしても、小さな価値が盤外のプレイヤーを打ち倒すのだ。

 エリカは駒でありながら『局面』を認識できている。

 プレイヤーとしての老人は、その賢明さこそ警戒に値すると断定した。


 だからこそ、配下たちには最大級の警戒を促す。

 競争相手の陣営が、もしもこちらの想定を上回る戦力を有していた場合。

 ただノゴルオゴルオたちの陣営が敗退するだけでは済まないかもしれない。

 遠くから響く歌が、まだ耳に残っている。


 北辺都市ザドーナの作法を引き継いだ役職、天主補佐としての地位。

 たとえば、あれほどの逸材が謙遜や卑下でなく本当にビショップの位置にいるのだとすれば。ナイトやルーク、そしてクイーンがまだ存在しているのだとすれば。


「魔将や英雄どもと同等の戦力。もしそんなもんがスーリウムの下に十人以上いたら」


 単純な概算と戦力比較。子供でもわかる算数が導き出す結論はひとつ。


「第五階層は終わりだ」






 犬が土を掘っている。

 植樹、緑化、友好のための花壇。第五階層におけるティリビナ人を歓迎するシンボル。

 だが放射《ロゼット》状に広がった草を千切り、地中の根を掘り出そうとしている犬に融和を破壊する悪意は無い。使い魔は一心不乱に草を掘り返し、人型のような根を地上に放り出した。途端、耳を劈くような絶叫が周囲に放射され、犬は即座に絶命する。


 使い捨てが前提の犬たちは役割を終えた。

 アルラウネの時間樹は過去現在未来の秘密をティリビナ人に示す秘宝である。

 虹犬どもは死と引き換えにそれを探り出すことができるが、神の長女にして種族の母であるライラはその代償を踏み倒せる。無尽蔵に湧き出る犬の使い魔は既に隠されていた観測時間樹の多くを潰していた。 


「ライラめ、面倒な嫌がらせを」


 報告を聞きながら、スーリウムは溜息を吐いた。

 そこは『うろ』の中に広がる異世界だった。

 意識だけが実世界から切り離されたアストラル界。

 緑色の燐光が飛び交う幻想の森。

 『精霊の近道』と呼ばれる亜大陸の民が使う隠れ家である。


 その奥地、色とりどりの花が咲き乱れる常春の楽園で、一人の男が優雅にくつろいでいた。人間大の大きさのキノコの椅子に腰かけ、苔むしたテーブルに釣り鐘のような花のカップをねじり込むように置く。滴り落ちた液体がテーブルと椅子を溶解させ、苦痛を押し殺そうとする呻き声が響く。スーリウムは猛毒を味わいながら椅子の足を意味もなく踏みしだいた。退屈な音楽は暇つぶしにもならない。すぐに飽きて幻像窓に視線を戻す。


 日中は第五階層の隣界でチョコレートリリーの少女たちに笑顔を見せていた彼だが、夜の顔は苛立ちに染まっている。

 既にノゴルオゴルオとライラ・ラプスとの共闘関係は破綻していた。


 予定調和の対立ではあるが、少し時期が早い。本来なら空使い選定レースの後に亜竜王の後継を確定させるまでは休戦を維持するはずだったのだ。

 状況は流動的だ。全知に近いスーリウムにも死角は存在する。

 全ては織り込み済み。心を落ち着かせて部下からの報告を受け取り、予定を修正していく。運命は複雑だが、スーリウムにとってそれは望ましい複雑さであり美しさだ。


「ご苦労様、エリカ。ヘリオトロープのことは残念だった。君だけでも無事に帰ってきてくれたこと、心から嬉しく思うよ」


 手塩にかけた弟子がまた命を落としてしまった。

 長く行き過ぎたスーリウムにとってそれはいつもの欠落であり、慣れ切った傷だ。

 苦痛を受け流し、喪失を受け止めるための心の在り様を彼は知っている。

 静かに涙を流す。それがスーリウムに必要な痛みの表現だった。


 それを見た白いフードの女はいつものように俯きがちに顔を伏せ、失敗に対する謝罪を繰り返した。そんな彼女をスーリウムは優しく許し、ねぎらった。

 幻像の窓ごしに優しく語り掛けた言葉は本心からのものだ。


「何せ君は特別だ。『植物想《フローラ》』の種子をその身に秘めた君には大いなる可能性がある。君の家庭の事情に関して、厳しい目を向けている同胞がいることは確かだ。しかし、それを差し引いても私は君を高く買っているんだよ」


「ありがとうございます、スーリウム様」


 未だ覚醒には至らずとも、エリカには大いなる可能性がある。

 スーリウムにとっての新たな切り札。断章の覚醒者たち。その中でも数少ない、第二段階の覚醒に至る可能性がある『ティリビナの巫女』の予備候補。

 その時が来るまで、彼女には水を与え続けなければならない。

 悲しみに浸りながらも、スーリウムは期待と喜びに胸を震わせていた。

 彼の中ではそれらは分岐しながら並存可能なものだった。


「ハースの遺産は既に我らの手の中にある。失われた追憶精霊《ミューズ》はまもなく再誕する。そうして誰もが知るだろう。真なる歓喜を。偽りなき幸いを。輝ける恩寵を。我らの祖、あるべき世界の根幹を」


 花の麗人の涙は呪いに等しい。

 その血に流れる秘文字、アルラウネ断章と同質の呪力が彼の血潮を熱く滾らせる。

 彼の高揚は断章を宿すエリカにも伝わり、その思想と意思は自然と同調していく。

 共鳴と同期。この血の結束ゆえにティリビナ人は決して異種族に屈することはない。

 全てのティリビナ人は、最も古い断章を有するスーリウムの賛同者だ。


「いい子だ、エリカ。たとえ暗がりで汚染されていても、心配は無用だ。日の当たる場所に帰ってくれば、また私の運命で染め上げてあげるからね」


 厳密には、スーリウムは血の中に血統魔導書《だんしょう》を宿しているわけではない。

 その代わり、『神秘目録《インデックス》』と呼ばれる『アルラウネ断章』を統べる特権を有していた。彼が持つ力は、『全てのアルラウネ断章を参照可能なアルラウネ断章』と呼べるものであり、全てのティリビナ人霊媒に対する支配力と言って差し支えない。


「はい、スーリウム様。私たちの未来は、貴方と共にあります」


「それでいい。私の言うことを聞いていれば、全ては上手くいくからね」


 敵は手強いが、計画は順調だ。駒は仕上がり、盤面は勝負の時を待っている。

 スーリウムの背後で、巨大な立体作品《オブジェ》が軋むような音を立てた。

 非実体の空間に鎮座するそれは、奇妙に重々しい実在感を有している。

 一見してそれは、円環の枠に囲われた木製の彫像だった。


 巨大な円の中で、切り株の上に寝そべっている九頭の巨獣竜。

 超起源獣パンゲオンを模した、古典的な世界の想像図だ。

 しかしそれは仕掛け細工でもあった。

 スーリウムが指を鳴らすのを合図に、分離した切り株と巨獣は円形の外郭に沿って巡り、周り、その位置を入れ替える。

 切り株の根に見えていた部分は天から逆さまに生えた森となり、巨獣の腹は新たな大地となって下に置かれた。世界の構図は反転し、全ての命が裏返る。


「おお、美しい(ビューティフル)! そして麗しい(グレイスフル)!」


 両手を広げたスーリウムの周囲で、美しい花園が一瞬にして変貌した。

 無数の屍。獣が、虫が、人が血まみれで横たわる悪夢を踏み付けながら、麗人は天を仰いだ。その頭上には一面の緑。天を満たす森が碧空《あおぞら》となって世界の形を変える。

 逆さまの森。それこそがスーリウムが望んだ新世界。


「だが足りない。二界始祖の掌握は未だ不完全だ。『動物想《ファウナ》』を欠いたままでは祭壇に大いなる母を招くには不足。麗しき九祖の真価が発揮できない」


 萎んでいく高揚と共に、スーリウムは憂鬱そうにほっそりとした手で顔を覆った。

 悲しみと落胆の涙が大地を蝕み、死にながら苦痛に喘ぐ養分たちを溶かしていく。

 幻像窓の向こう側で、エリカが問いかけた。


「では、やはりパーンを捕獲しなければなりませんか」


「奴が『七つの風の大界賊』と奪い合った秘宝。兄上と共に第四《テュフォン》の嵐界で手に入れたはずの世界獣の因子が必要だ。そうでなくては九柱もの世界獣と契約した完全なる『動物想《ファウナ》』の継承者、藍天主《セレクティ》には対抗できない」

 

 『死人の森』は最低でも二つ以上の『動物想』を確保していたことがわかっている。

 ひとつは六王パーンが。もうひとつはかつてヒュールサスに存在した『隠されたはじまり以前の一族』の末裔たちが黄金の神具《グラント》と共に継承してきたとされている。現在その所在がはっきりしているのはパーンのものだけだ。


「どうか、我々にお任せ下さい。そのための緑天主《ロードデンドロン》様、そのためのティリビナ同胞団なのですから」


 エリカの言葉通り、この先の未来を決めるのはティリビナ同胞団だ。

 スーリウムはあくまでも古い老人。若者たちを導く相談役に過ぎない。

 新たな世界を作り上げるのは新しい世代の役目である。

 脈々と受け継がれる血の意思。種族の宿命。

 彼はただ、それを少しだけ手助けするだけ。


「全てはレースの結果次第。空使い、すなわち明藍の天主を定める『彩域の試し』にてパーンを確実に仕留め、その魂と記憶を奪う。更に儀式上の神人を掌握し、緑の色号を第五階層に定着させる。全て、天主の色号使いである君のはたらきにかかっている。任せたよ」


「必ずや」


 決意に満ちた声。エリカの仕上がりは完璧だ。その心も、その愛も、その叛意も、スーリウムにとっては愛すべき記憶のひとつ。

 彼にとってのあるべき世界図、反転した森と獣の彫像を撫でさすりながら呟く。


「紀樹世界《ロディニオ》と紀獣世界《パンゲオン》。二つの物語を繋ぎ、完全なる世界の更新と共に『花の人類《アヴロノ》』を歌う祝祭まで、あと八日」


 示す道はティリビナ人の繁栄。誰もが求める、輝かしい勝利。

 奪われたものを取り戻す。ティリビナ人は、ただそれだけのために戦っている。


「さあみんな、準備はいいかい? 偉大なる母、アルラウネの血脈はここに揃った。我が理想の花園、真なるティリビナ同胞団が完成したのだ」


 先導者スーリウムの声に応じるように、血染めの花園に無数の幻像窓が浮かぶ。

 ひとりひとりを識別する秘文字に飾られた枠の中、幾つもの影がエリカと同様の戦意を燃やしていた。その中央には当然、緑天主ロードデンドロンの姿もある。

 ティリビナ同胞団。それは世界を変革する新たなる力。


「始めようか。『アルラウネ断章』を継ぎし我が十八の同胞たちよ!」





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― 新着の感想 ―
[一言] 更新ありがとうございます! 今回もすごく面白かったです! 明らかにされる計画、スーリウム陣営における下と上の邪悪さ… そして何より、二人の呪術師の高度な呪術戦とかけひきが、本当に良かった…
[一言] ティリビナの人たちの計画が上手くいくか不安になってきた...
[良い点] 異質さを色々組み合わせた戦闘スタイルカッコいいなと思っていたところに、『覚えた』がやってくるのめちゃくちゃハマっててかっこいい…
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