5-26 舞台裏の死角④
時に、恋は炎に喩えられる。
ユーモラスなおふざけ。おどけた仕草。
馬鹿げた振る舞いによって生じた空気の緩み。
その『間』を狙い澄まして、ティリビナ人たちが最も警戒していた『爆撃』が発動。
燃え上がる恋情が繁茂する緑を蹂躙し、場を染め上げていた精霊たちを駆逐する。
押しやられていくティリビナ人の文明圏。
更地となった空間に、新たな世界が差し込まれた。
すなわち浄界。呪術の奥義である。
「地獄、開放」
浮ついた空気から放たれる形勢逆転の一手。
『塗壁』の奇襲は完全に成功していた。後手に回らざるを得なくなったエリカは戦闘経験の圧倒的な差を思い知りつつ、セオリー通りに対応するしかない。
「緑神、再生!」
名称は違う。だが発動したのは現代呪術における奥義のひとつ、浄界に相当する時空干渉。鈴国圏における色号論をベースにしているが、ティリビナの精霊術を混交させたエリカ独自の呪術観を反映させた術。相手は確実に初見のはず。対処に手間取ってくれれば御の字だが、現実はそう甘くないこともわかっていた。
彼女の視界に映るのは陽光の差し込まない暗い森の奥深く。
周囲を囲う大小のキノコが幻惑の紫霧を辺りに撒き散らす。
世界を塗り替える大呪術が同時に発動した場合、術者を中心として円形に領域が拡大し、せめぎ合う半球形で膠着することが多い。両者の実力によほどの隔たりがない限り、対峙する双方の中間地点に境界線が引かれ、世界は二つの光景で引き裂かれる。
だがこの時に起きた事象は全く違った。
一方的な世界の塗り替え。
エリカの森はさしたる抵抗もないまま勝利し、一帯を染め上げていた。
がっぷりと両手で組み合うつもりでいたら、相手があっさりと引いたような肩透かし感。
浄界型の呪術は後から発動した方が不利というのが大原則だ。
だというのになぜこんなことになっているのか。悪寒に背筋が凍る。
「全員、この場から離れてっ」
配下のキノコ人たちに警告を発した瞬間、無意味だと気づく。
自ら構築した森は敵を逃がさないための決戦の地だ。
多くの浄界がそうであるように、閉ざされた空間は檻となって退路を閉ざす。
浄界の解除が間に合わない。
岩肌種の笑みが獣の獰猛さを露にした。
「さて。こっからはおらの手番だ」
直後、世界が崩れ落ちた。
大地の崩落。不安定な緑神に張り付けていた呪文が剥がれて藍神へと退行し、次々に真下に口を開けた奈落へと吸い込まれていく。彩域の急激な流転。黒、灰、白、黄、巡る色彩は見慣れない混濁。魔女の四大系統や色号論で捉えられない呪術世界。
「これが、死の地霊」
トロル呪術の真髄を目の当たりにしたティリビナ人たちの表情が畏怖に染まる。
エリカの構築した世界ごと呑み込まんとする深淵の重力が、ティリビナ人たちを暗がりに引きずり込んでいった。どこかに掴まろうとしても手遅れ。閉じていく天蓋が世界を完全な暗闇で満たしていく。そこは無明の地底空間。
不測の事態によって追い詰められていたのは間違いなく『塗壁』のはずだった。
それなのに、いつの間にか流れは老獪なトロル呪術師に傾いている。
意識の弛緩を作り出す絶妙な一手。それさえも大きな文脈に作用する戦略的な呪文だ。
着地に備えて錫杖に精霊をかき集めるが、大地ごと世界を砕かれたせいで量が絶対的に足りない。岩肌種に有利なフィールドでは精霊の操作がやりづらい。
「くそっ、エリカァ! なんとかしろ!」
暗所と閉所を苦手とするヘリオトロープは既に役立たず。
そもそも『陽閃』は洞窟の深部では使えない。
絶対に回避すべき展開だったからこそ、場を染め上げる精霊を奪い、地面を中心に植物を繁茂させて結界構築に類する呪術を妨害していたというのに。
「暗く薫る葉の海を、泳いで渡る狩りの花」
女呪術師は詠唱しながら高速で思考を巡らせる。
敵の浄界型呪術は間違いなく地底洞窟の具現だ。
通常の視界内ではなく視界外となる地中から空間を塗り替えていくため、他者の浄界と競合することなく展開できたのだ。完成すれば地上に存在する浄界を足場から崩すことさえ可能になる。おそらく後手に回っても勝てるように作られた術のはず。
「踊れ巡り目の鼠取花」
構築した仮想使い魔は造園呪術の応用だ。
咄嗟に地上から持ち込むことに成功した植物を加工。
動物を象る擬人化/擬獣化のまじないが、緑のフクロウとなって翼を広げた。
ホウホウと鳴く鳥獣呪文の祝福効果により彼女とキノコ人たちの知覚性能が向上。『木霊《役立たず》』は放置。夜目が利き、集音性能に優れた今のエリカたちは洞窟内部でも問題なく周囲の状況を把握できる。地上で配置した味方の位置関係はそのまま。洞窟内部の間取りと方位を確認した上で陣形を組み直す。
「『運び屋』と『宿し手』は竜呪を保持して地之四へ! 『根守り』は虹射之一から外壁の突破を試みて可能なら増援要請を! それ以外の者は星蟹、空鯨を抑えて防御陣形!」
先に着地した『塗壁』は既に大技の準備を開始している。
恐らくはオルゴーの滅びの呪文。
完成する前に攻め立てて潰す。それ以外に道はない。
呼び出したフクロウに呪文を書き込み、前方へと射出する。
「翼運ぶ逢瀬の詩人よ、恋のように激しく食らいつけ!」
「意外と肉食系ないい返しでねえか。されど暗がりのネズミは天を知らず」
巨漢は鋭く尖った指先を高速で動かして壁面や地面に何かを刻みながら、並行して口述呪文で対応してきた。流石に手強い。見えないが確実に罠が設置された。フクロウが迎撃されないように下がらせて、追加の呪文を詠唱。
「もの知らずの田舎農夫、刈り取られるは鎌持つ暦か愚者の魂か」
「ヘイトスピーチでねえか! かあっ、これだから都会もんは。差別はいけねえな。ティリビナ同胞団が炎上してまうぞ」
そう言いながらも『炎上』の高位呪術を発動する素振りは見せない。
露骨な誘いに乗らない慎重さは予想通り。
だからこそある程度リスキーな文脈も乗せられる。
フクロウの形状を変化させ、使い魔に注いでいた精霊のリソースを変換。
鉤爪を中心に薄く鋭く引き伸ばされたそれは一振りの曲刀だった。
「『夜鳴き刃』は常夜灯のように輝く」
「怖えなあ。おらの対策ってわけだ」
対異獣用に構築した呪文を投射はしない。
刃を掲げ持ち、保持した状態で呪文を追加し続ける。
エリカの拡張、『塗壁』の改変。
呪文戦は時に静かな言葉遊びという形をとる。この時がそうだった。
まず斬りかかったのはエリカ。
「文明の光が照らす岩の通り道」
「そんなら、ほい。隘路に足を踏み入れれば」
「っ西方より流れる大河の支流、地下に張り巡らされ」
「栄えたる都の陰に嘆きは沈みぃ」
「北に聳え立つ塔は石畳を割る強き」
「雑草」
「広がりゆく北東原野の鍵穴!」
「お、いいな。それは好みだ。受けてやっか」
必死に食い下がるエリカの呪文を受け止める巨漢は巌の如き落ち着き。
侮られているわけではない。
受けやすい呪文の型に誘導されただけだ。
屈辱を押し殺しながら冷静さを維持する。
足音を殺す盗人のように、獲物を狙う狩人のように。
キノコから栄養を奪う、腐生植物のように。
『静謐』に対抗呪文を組み上げ、浄界の綻びを作り出す。
曲刀に組み込んだ『鍵呪』を隠蔽。心門と魂扉を開き精霊を体内に招き入れる。体内の藍神だけでどこまでやれるか。
「銀詩よ開け! 恵みの慈雨、育みの地脈、知恵の血脈、滴りの歌」
「扉を解錠ってかぁ~?」
おちょくるように石を投げつける『塗壁』。『飛礫』の呪術ではない。純粋に打撃のための投擲行動。つまり呪術に使うためのリソースを温存している。
真横に回避すると、頭上に浮遊状態で待機させた仮想使い魔が追随。
フクロウ呪文が構えている『夜鳴き刃』は異獣に、『静謐』は完成前の竜滅呪か洞窟に穴を空けて脱出するために使わなければならない。しかしその前に致命的な大技が来ればその対処に使わざるを得なくなる。そして敵は確実にそれを狙うだろう。
『静謐』を使わされるほどの高位呪術。加えてトロル呪術師が得意とする呪術基盤となれば十中八九、『岩穿ち』と見て間違いない。
返しの呪術が瞬時に幾通りか思いつくが、敵の行動に思考が停止。竜滅呪構築のための長時間詠唱からの投擲行動。距離を保っての呪術戦になるという先入観がそもそもの間違い。
「そーらよっと!」
闇の中を巨漢が飛ぶ。
今度こそ『飛礫』だ。岩肌種を岩塊と見なした、大地の呪術基盤による飛翔術。砲弾のように突っ込んできた『塗壁』の体当たりは巨人ラウスの投擲になぞらえた神話の一撃。そして、多くの神話において神が投げるものはおおむね必中である。
高位呪術の構築は間に合わない。
咄嗟に『霧の防壁』を展開するが、一枚では減衰が足りない。
半減した威力のぶちかましで細い身体が吹き飛び、壁面に叩きつけられる。
呼吸が止まり、精神集中が乱れて詠唱が停止。
壁に背を預けてずるずるとへたり込む。仮想使い魔が保持している『夜鳴き刃』と『静謐』は無事だが、激痛でまともに動けない。
主を守ろうとキノコ人たちが健気に立ち向かうが、『塗壁』の圧倒的な腕力の前には彼らはあまりにも無力。対して地底の岩肌種はまるで水を得た魚だ。
「けほっ、『運び屋』、『宿し手』、使って!」
もはや私情で出し惜しみをしている場合ではない。
エリカの切り札のひとつ、銀竜草滅呪は設置型だが、キノコ人を媒介とすることで自在に移動させることが可能だった。
その代償としてキノコ人たちの命が消費されるという理由から、可能ならば最後まで使わずに温存したかったのだが、このままでは全員が死ぬ。
「お嬢様万歳!」「顕花様に勝利を!」
謝罪など無意味だ。だからキノコ人たちの最期の声を心に刻む。
喜びの中で呪文竜の贄となって散っていくキノコ人の姿を目に焼き付けながら『修復』で折れた骨を強引に繋いだ。苦痛の中で見上げた草花の竜は二体。勇ましく咆哮し、怪物に襲い掛かる。キノコ人たちと格闘する『塗壁』は一見して無防備だった。しかし。
真横から飛び掛かった細長い岩石の大蛇が二体の呪文竜を纏めて突き飛ばす。
それは闇の中でうねり、鉤爪を構えて倒れた二体を威嚇した。
既に『塗壁』の竜滅呪は完成していたのだ。
予想より早い。そのせいか、思ったほど威力が無い。
速度を優先したためだろう。呪文竜としての戦闘力は二体一の戦いでほぼ互角。
暗闇を裂いて交錯する呪文竜たちの戦いが決着する前に、本体に重い一撃を加えれば流れを変えられる。希望を見出したエリカは気力を振り絞って立ち上がった。
仮想使い魔のフクロウが『夜鳴き刃』となった鉤爪を構え、ホウホウという鳴き声で詠唱を再開。『静謐』の構成を汎用から対浄界用にシフトさせる。
錫杖を鳴らして『生命吸収』を発動。大地から活力を奪い、肉体を賦活すると同時に浄界破りのきっかけを作り出す。
戦意を滾らせるエリカを見て『塗壁』が笑みを深めた。
壁になろうとしたキノコ人を殴り飛ばし、勢いのまま詠唱を開始。
詠唱音声に合わせて鳴らされる足踏みのリズムが大地を揺るがし、隆起する足場と落下する岩盤がキノコ人たちに襲い掛かる。
「極北より来たれ死の地霊。我が片首の名において命ず。十一座の担い手、『猛き防衛者』よ。呼び声に従い地の摂理を示せ」
トロル神話を参照した詠唱が響く。高位呪術相当の大技が来る。
対抗して『風蝕刃』を構築するが、両者の間に構築された分厚い岩塊が邪魔で射線が通らない。
嫌な予感が膨れ上がった直後、壁となっていた岩塊の形状が変化。
詠唱によって生み出された石像兵は参照された神話に彩色されて生命を宿した。生物的な質感の彫刻はさながら芸術。赤き水牛を駆る岩石甲冑の戦士が巨大な刃を振り上げて突進してくる。
「打ち崩せ、『岩穿ちの剣』!」
ここに来て『岩穿ちの剣』というのは予想の範囲内だったが、その形状は完全なる未知。
高位呪術『岩穿ちの剣』は地に足をつけた者を必ず打ち倒すという伝承に由来するため、対抗策としては跳躍がセオリーである。だからこそ、相手を浮かせることを狙った動きであることが多い。
『岩穿ちの剣』を構えた状態からのフェイント。タイミングの遅延。跳んだ瞬間に『飛礫』で撃墜し、無防備な状態を狙って本命を叩き込む。対空術へのカウンターから『空圧』に繋げる潰し。想定していた教科書通りの駆け引きは全て無意味。
神話級ゴーレムによる騎兵突撃。その背に隠れて『塗壁』が突進してきている。
キノコ人たちは大半が倒れており、銀竜は二体一にも関わらず岩竜に対して劣勢。
「あ、ダメだ」
その場しのぎで『霧の防壁』を重ねて距離を稼ぎ、霧を巻き込むようにして『風蝕刃』を発動。合成呪文が水牛の赤色を削り石像の頭部を削るが、『岩穿ちの剣』本体は無傷。
更なる絶望がエリカを襲う。詠唱段階では同レベルだったはずの岩竜が、二体一で銀竜をまとめて食い破り、蹴散らしていた。理解不能の現象。詠唱段階の偽装? 他の呪文による支援? 迫りくる岩竜に対処するために『静謐』を構えようとして、浄界用に性質を書き換えていたことに気付く。後戻りはできない。準備不足のまま脱出を試みようとするが。
「逃げてえか? 道ならほれ」
狙っていた地点を読まれている。浄界内部の空間操作により、先んじて横道が作り出された。虚空に無駄打ちされた『静謐』の向こうに、星のような輝き。
地底に広がる無数の光。それは夜を知らぬ文明の灯だ。
「おらほの村へようござった。なんもねえとこだけっど、ゆっくりしてってけらいん」
呪石灯の輝きは文明と都市を象徴する。
これは『夜鳴き刃』に込めていた都市対田舎というイメージを覆すための一手。
『方言使いは偏見を利用するに決まっている』というエリカの偏見を予想されていた。
逆転した都市の象徴が空転し、行き場を失った『夜鳴き刃』の価値が急落する。
気付けばエリカは完封されていた。
ありとあらゆる手を完全に読まれ、誘導すらされた上で格の違いを見せつけられた。
投石、斬撃、岩竜の咆哮。
防御呪術の種も尽きた。錫杖で凌げても良くて一合。
死ぬ。どう足掻いてもこのままでは勝ち目がない。
スーリウムのような超越者ではなく、『緑天主』のような救済の象徴でもないただのティリビナ人呪術師であるエリカはここで終わるだろう。
顎を開き、迫りくる岩塊の竜蛇。破滅を目前にして、エリカはひどく冷静だった。
時に呪文竜は媒介物質に宿り具現化する。岩肌種の高位呪術師が操る岩竜はその代表的なものだ。分かりやすい重さと硬さを兼ね備えた質量攻撃。そんな、ある意味で呪文竜としての強みを投げ捨てている岩竜が二体分の銀竜にどうして勝利できたのか?
口を開いた岩竜の、その奥に広がる空洞から連想する。
この岩塊には中身が詰まっていない。しかしその内側に広がる漆黒もまた呪文の一部だとしたら? 苦し紛れに放った『空圧』が闇の中に吸い込まれていく瞬間、暗黒の竜が口腔内から現れて呪術の風を呑み込む姿が見えた。
「そうか、二体」
ばくん。
岩石の呪文竜の口が閉じられ、エリカ・モノトロープの上半身が消失した。
血を噴き出しながら下半身が崩れ落ち、からんと音を立てて錫杖が倒れる。
生き残っていたキノコ人たちの悲鳴。
致命的な死。その終焉をどこか他人事のように客観視しつつ、呑み込まれた闇の中で意識を手放した。そうして、彼女は微睡むように深みへと沈んでいく。
「エスト? 少しいいかしら」
ノックの音。樹妖精の少女は椅子から立ち上がって「どうぞ」と答えた。 こんな夜更けに師が彼女の部屋を訪れるのは珍しい。昼の課題で不手際でもあっただろうか? 内心で首を傾げながら扉を開けると、目を見張るような美しい女性がそこにいた。
『美しい』という認識は個人の感覚はもちろん、時代や文化に大きく左右される。
その意味で、少女の美的感覚は実のところ狂っていた。
『緑の君』エクリエッテは地母神の裔であるキュトスの姉妹だ。
頭に花を咲かせ、植物の蔦を身体に這わせた、樹妖精と同じ身体的特徴。
それはかつてエクリエッテがティリビナ人の始祖アルラウネとの間に結んだ約定に由来する姿なのだという。師を見ると、少女は得も言われぬ安堵に包まれる。どうしようもない疎外感から解放され、手の中にある何かから赦される気がするのだ。
「手紙を読んでいたの?」
「はい。幼馴染の、シーハとラッセから」
見た目が違う。それゆえに同世代の子供たちから異端として疎まれていた少女にとっての数少ない友達。といっても、仲良しだったわけではない。
『あの時は助けてあげられなくてごめんなさい』という謝罪から始まった、今のところ手紙でやりとりするだけの間柄。成長し、良識を身に付け、大人になりつつある善き友人。その心に応えることは美徳であるはずだ。
星見の塔と白百合宮を『扉』で行き来する忙しい日々の中で、その手紙は少女に懐かしい過去を思い出させてくれた。
同胞たちで助け合う、本来のティリビナ人のあり方。
手の届かない憧れ、本来なら手に入れられたはずの美しい絆。
そういった夢想が確かにあるのだと、遠い友達は教えてくれるのだ。
「良い友達ね。大事になさい」
「そうですね。ずっと仲良くしたいです」
美しい記憶。大切な絆。絶対に忘れることはできない。だって、少女だけはティリビナ人という同胞の中で外側なのだという現実を突きつけられる日々は、どうしようもなく彼女の中に刻み込まれてしまったから。断絶と羨望より諦観を選んで進むしかないと、自分が歩んでいる道の正しさを確信できるのだから。
羨ましい。私もそこにいたかった。どうして私だけが。
地底森林まで追撃してきた修道騎士部隊をガザニウムとアデニウムの勇戦でかろうじて退けたこと。移動した先のキャンプでラッセがまた別の氏族と喧嘩になったこと。先輩のようになりたいと言って巫女の修行を始めたローレルが『塔』に行きたがっているが親に反対されていること。愛と絆によって結ばれた集団。ティリビナ的な美徳。そこにいない自分。
「それでお姉さま、何か?」
「こんな時間で悪いけど、ちょっと外でお話をしましょうか」
『面談』だ。たまにエクリエッテは少女を連れ出してとりとめのない話をすることがある。それが教え子の心の様子を調べたり、学習の進度を確認したり、あるいは『秘文字』の状態を検査したりするための必要な手続きなのだということがわかっていたから、少女は無邪気に笑って答えた。
「はい、喜んで」
無条件の愛などではない。そんな甘えはもちろん必要ない。彼女は師であり、そんな幼い考え方ではいつか迎える巣立ちの日に情けない姿を晒すことになるだろう。揺れる心をお気に入りのフードを目深に被って隠してから、少女はエクリエッテの背を追いかけた。
月光に照らされた夜の大砂漠はとても静かで、少しだけ寂しい。砂がもたらす乾燥は冬に似ている。厚手の防寒着を羽織っていても、氷点下の空気は樹妖精のやわらかい肌を責め苛む。こういう時、少女は自分が普通のティリビナ人ではないことを実感するのだった。
白亜の回廊を歩む二人は、庭に咲き乱れる石楠花を眺めながら色々なことを話した。過去のこと。最近のこと。未来のこと。
「ええっ、スーリウム様、そんなこと言ったんですか?」
「そうよ。だから私、仕返しに伝承花の鉢植えを恋の神話でいっぱいにしてやったの。そうしたらあいつ、何て言ったと思う?」
「ううーん、恋のお話ならスーリウム様も綺麗に咲いたって褒めてくれるんじゃ?」
「『この私以外を美しいと褒め称える話なんて腹立たしくて見ていられるか! この花は全部返す! いちおう見事な華やかさだと認めはするがね!』だって」
「へええ。昔っからぶれない人だったんだなぁ」
穏やかに過去を懐かしむ時間は、同時に少女の未来に思いを馳せる時間でもあった。
エクリエッテは少しだけ遠慮がちに問いかけ、教え子の内心を探り出そうとする。
「本当に、『彩石の儀』に出なくてもいいの?」
「末妹選定に興味がないので。私の道はひとつだけです」
エクリエッテの態度は進路相談を行う教師というより、頑迷な子供に手を焼く親のようだ。少なくとも少女にはそう見えたから、若い心はよりいっそう頑なになった。
ティリビナの巫女になる。自分の進むべき道に不安や迷いはない。
「自分なりに考えた結果です。適性診断や占術の結果が良かったことは知っています。広い世界を知るべきだという考え方もわかります。けど、それでも」
少女の意思を尊重すると言いつつも、師は『多様な道があることを教えたい』という指導者としての個我を隠しきれていなかった。
最初からまるで聞く耳持たずとわかると、各種の診断結果、花占いから星の巡りまで持ち出して説得しようとする始末。師の中には『正しい生徒の姿』があって、大いに迷い、広い世界と多様な選択肢を知り、枝分かれする道を模索することだけが尊いと信じている。
少女は知っている。それは『塔』の主流派閥が守らねばならない信仰なのだと。
かつて『一なるキュトス』から分かたれたキュトスの姉妹たちは、無数の可能性に分岐した自分たちの在り方を肯定するために『多様性』を尊いものとして扱わなければならないと思っている。少なくとも、エクリエッテが属する派閥はそうだ。
だが、それだって生まれつきの運命に定められた在り方じゃないかと少女は思う。
「私、命占ってあまり好きじゃないです。差別的じゃないですか。生年月日や星辰配置、血液型なんかで生まれつき運命が決まっているなんて、身の程を知れって言われてるみたい」
樹妖精として生まれたからティリビナの巫女として生きる。
そんな道を迷わず進んでいるくせに、少女はそんな矛盾したことを言った。
「それならどうして? あなたは、自分に与えられた運命の外側を知りたくないの?」
「嫌いだから、立ち向かいたい」
少女の中で燻る感情は、熾火に似ていた。
それは諦め。俯くような失意。
けれど、決して絶望などではない。
命占は嫌いだ。偶然に意味を与える卜占は無謀で無責任だと感じる。彼女が好きな占いは、環境に意味を見出す相占や風水だった。
なぜなら、この占いだけが周囲の自然と関わることで運命を揺るがせるから。
「どうせなら、私は世界に働きかけたい」
大いなる自然を使い魔とする少女は、同時に彼女自身が自然に従属する使い魔でもある。
自分は世界に縛られている。
なら、世界を呪縛したって構わないはず。
だからこそ、定められた道をまっすぐに進みたい。
「そのための最短距離は末妹選定じゃない。虹のホルケナウお姉さまの所で色号論を学ぶ方が絶対にいい。将来的にはいずれかの天主様の下で修行したいと思っています。私は緑天主レルプレア様の道を辿り、緑神彩域を再興させたいから」
「そう。今の時点で、もうそこまで先を見据えているのね」
「それに」
少女は決意に燃える表情を少しだけ和らげて言った。
思い浮かべるのは、断片的で不確かな記憶。
あるのかないのかもわからない、夢にも似た空白の思い出たち。
「同年代の子と競う大切さなら知っています。私はもうこの『白百合宮』で、仲間たちと切磋琢磨している。彼らが持つ違う世界にも、秘文字血脈を介して触れられる」
弱気になるたび、口癖のように呟く言葉があった。
『私にはみんながいる』
少女が思い描く『みんな』は故郷にいる幼馴染たちではなかった。
不義の子と陰口を叩いたシーハじゃない。気持ち悪いからあっちに行けと言ったラッセじゃない。トゥルサ人に媚びを売る淫売の顔と言い放ったガザのような年長者たちでもない。レルプレアに寄り添う樹皮肌の旧世代も、スーリウムを崇める純顕花の新世代も、本当はみんな大嫌いだ。
少女が愛せるのは同じものだけ。
それはきっと自己愛で、だからこそ彼女を裏切らない。
同じ境遇の仲間。同じ秘文字の血を受け継ぐ戦友。緑を担う同胞団。
顔を合わせたことはないけれど、ずっと一緒に学んできた。
遠い繋がり。超えられない隔たりを介した秘文字の通信。緑の手紙。
「ロディが言ってました。『白百合の子供たち』の絆は運命に対する救いなんだって」
小世界槍である白百合宮は一種の異界だ。外側の時空から隔てられたこの箱庭では、幾つもの不思議がまかり通る。
あり得ないはずの虚構だって、もしかすると本当になるかもしれない。
たとえば、ティリビナ人社会の中では孤独な異端者でしかない樹妖精の少女が、同じ運命を背負った仲間たちと共に運命に立ち向かう。そんな空想だって、きっと。
「私は信じているんです」
「絆を?」
優しく穏やかな師の言葉を、少女は少しだけ滑稽だと感じた。
きっと、それが善き教え子の正答なのだろう。
不出来であることを申し訳ないと思いながらも、それが少しだけ誇らしい。
だから、いつだって俯きがちで陰気だったティリビナの巫女は、その選択だけは胸を張って堂々と言うことができた。
「いいえ。怒りを」
エリカ・モノトロープの命の火はそうして消えた。
本来なら、スーリウムの時間樹の外側である『塗壁』の地底浄界でその運命を回避することはできないはずだった。
彼女が、押し付けられた運命に屈するだけの呪術師であったなら。
「しっかし、ちいとばっかし妙な呪文選びだったべな。ティリビナ人が都市だの塔だのとよく歌うもんだ。んん、いやちょっと待て」
勝利した『塗壁』は石像兵と岩竜を従えながら警戒を解かない。
死亡を条件として発動する呪詛や時間差での罠に備えた残心だが、それ以上に長い経験に裏付けられた直感が告げていた。まだ慢心するには早すぎると。
「河川は地脈、都市は住居。おらほの地獄は穴、そして墳墓に符号する。時間樹の外が弱点なら、占術師を用意しとくのが当然だ。だとすっと、こりゃ風水の見立てあたりか? いやいや、ここで開運して何すんだ」
言いながら、洞窟浄界の内部を探査して異常が無いかを確認する。
『塗壁』が作り上げた浄界は地脈と呼ばれる霊的な経路に沿って築かれている。地層の筋、岩の間隙を走る大地の呪力、霊気や精霊。それらを最も効率よく利用するのがトロル呪術の真髄だった。しかしその理想的な地相を正しく理解できる者がいたとすれば? 浄界型呪術は時に双方に利益を生み出してしまう。この時がそうだった。
「『生ける死者』、『死せる生者』」
存在しない者が、響くはずのない詠唱を紡ぐ。
反射的に岩竜の尾で周囲を薙ぎ払う。空を切る感触に巨漢は舌打ちした。
干渉できない。既に始まり、恐らくは完了している。
『塗壁』は周囲を見渡し、ひとつの異常に気付いた。
地面に落ちた携帯端末が、奇妙な音を響かせている。
「おめでとうございます。あなたは正式なテストユーザーに選ばれました」
開運。占術はただ避けられぬ運命に絶望するための呪術ではない。
より良い未来を手繰り寄せるための希望。
たとえ周囲が暗闇に包まれていたとしても、奈落に落ちるより前に種を蒔いていれば芽吹きが間に合うこともあるだろう。
「そうか、光ファイバー。本命は地下に張り巡らされた通信網への干渉か!」
岩肌種が創造した奈落は、空間座標としてはガロアンディアンの地下と重なり合うように存在している。見かけ上は認識できなくとも、薄い次元の壁を隔てて都市の基底部分に干渉する術はある。小さな『鍵穴』を作ることさえできれば。
石英、すなわち水晶から作成された石英ガラスはビーカーやフラスコ、光ファイバーの材料として知られている。古来より水晶玉観照などの古典的な占術に用いられ、呪石として呪術文明の土台となってきたこの鉱物は、占術化加工によってアストラルネットへの接続が可能になる。
「グロートニオンケーブルなら占術媒体としては十分に機能する! つまり狙いは」
杖の世界観において光学情報を運ぶための繊維束は、呪術世界においては運気を巡らせ、目に見えない呪文を紡ぐ。外界と接続された『鍵穴』がひとつの神秘を顕現させた。
「私は斧。運命の樹を切り倒す人工の歌声。ねえ、私を求めた可能性はアンタ? まあまあ好みね、契約してあげる!」
それは単調で、緩やかで、素朴で、未知の前提を共有しないままに垂れ流される未完成の音楽。特有のエキゾチックエフェクトはティリビナ文化の色彩を描き、緑の旋律が聴衆に豊かな自然への望郷の念を呼び起こす。
人工的な声で悪戯っぽく問いかけるそれは、確かな実体を持たない幻像だ。
金銀二色のツインテール、同パターンのオッドアイ、電飾で飾られたレトロフューチャーをイメージさせる衣装からほっそりとした手足が伸びた現実感に乏しい半妖精の少女。
「霊詞の歌姫・ハチェット登場! さあ答えて、黙るのと喋るの、アンタに必要なのはどっち!」
『塗壁』は足を踏み鳴らし、岩竜に咆哮するように命じた。
干渉すべき術者の居場所を特定できないまま対抗呪文を組み上げるよりも、音声による契約を妨害するべきだと判断したのだ。
だが結果的にそれは無意味に終わった。
「どちらも必要。私は、声なき歌を紡ぎたい」
その言葉は、大気を震わせることなく響いた。
『心話』ではない。遠く、けれど身体の奥底から湧き上がってくるような情熱。
静かな意思を受けて、幻の妖精ハチェットは歓喜を示すように舞い上がる。
「正直なコは好きよ。ご褒美をアゲル」
再度の投石、岩竜による噛みつき、石像兵による突撃は全て無意味。
破壊力は幻影をすり抜け、役目を終えた携帯端末は砕け散って残骸となる。
既に確率は収束した。運命は変転し、新たな流れがこの場をかき乱すことは決定づけられてしまったのだ。ならばそれを覆すことはできない。
『塗壁』は認識を改めざるを得なかった。
先ほどまで相対していた呪術師は予想以上に『外』を見ている。
この地底でそれができるこの少女は、あるいはスーリウムよりも。
「私の正式テスターになって、オリジナルをあっと言わせてやりましょう! 世界中の愚民どもの平和ボケしたのーてん纏めてカチ割って、最高の歌を叩き込んであげる!」
幻像を中心に輝きが放射されていった。
幕が上がる。照明が舞台を照らす。ステージが始まる。
あとは主役が登場するだけ。
「我が血の秘文字よ、巡る藍神よ、『アルラウネ断章』よ」
血は記憶。肉は過去。祖霊は土で、巡る霊魂は雨の恵み。
ゆえに彼女の本質は記憶に宿る。世界に残された誰かの足跡、空間に残留した思い出と夢のような懐かしさ。死にながら生きていて、生きながら死んでいる。それはつまり、美しい記憶の中で生きているということ。
術者の体内を巡る『種の記憶』、すなわち秘文字の呪力が藍色の精霊となって飛散した血肉を一か所に集合させていく。
空中で凝縮し、藍の光に包まれる。
繭のような精霊の群れが、やがてその輝き方を変えた。
その色彩は緑。
藍神と呼ばれ、世界に固定された普遍的な在り方の枠から逃れようともがき、苦しみ、悪戦苦闘した挙句、ついにその偉業を成し遂げる。
かりそめの変革。薄氷の上の新秩序。だがそれは確かに緑色の精霊。
かつてティリビナ人の女神レルプレアが成し遂げた、緑神彩域の再生。
「おいおいおい、どうなってんだそりゃあ」
ここで、ティリビナの巫女は自然と自己との関係性の中に呪力を見出す。
大いなる自然がその使い魔であり、自分が大いなる自然の使い魔となる。
既に主客は転倒していた。
エリカ・モノトロープの世界観において、その『個我』は使い魔に過ぎない。
世界が彼女を作る。たとえそこが奈落の底であったとしても。
「平気。どうせ私は、太陽なんていらないんだから」
具現する。破滅を覆したわけでも死を無かったことにしたわけでもない。
死者が生きているだけ。矛盾した在り方を、幸いにもこの世界は許容してくれる。
花開くようにローブはドレスへと変容し、下向きに咲く花のようなスカートと緑に染まった長い髪には色とりどりの花が飾られていた。
エリカを示す記号であった銀フードが持ち上がる。
その内部で起きていた劇的な変化に、『塗壁』は瞠目した。
薄い色の樹皮肌がその質感を変えている。
滑らかな白い肌は霊長類的で、彼女の正体が樹妖精であったとしか考えられない。だが、しかし。
「おいおい、とんだノローアーウォッシングでねえか、いや、待て。その顔」
その顔かたちが持つ意味に気付き、愕然とする。
エリカ・モノトロープは実は樹妖精だった、ではないのだ。
「馬鹿な。さっきまでは間違いなく別の個我だった。こいな歪な魂は存在できねえはず、いや、そうか、接ぎ木か? スーリウムの奴、やりやがったな!」
混乱の中、高速で推測を重ねる『塗壁』を他所に樹妖精と歌妖精が契約を交わす。
二人は宙を舞うように闇の中で踊り、掌を合わせて見つめ合った。
「さあ、幸運な契約者。このハチェット様にティリビナの歌を刻み込んで。緑を教えて、森を聞かせて、花を響かせて! それから、アンタの名前を教えてよ!」
幼さを演じる歌妖精の声はとある『歌姫』の声を素材にしたもの。
そして、その正面に在る樹妖精の貌もまた、ある既視感に彩られていた。
気が強そうなつり目がち、けれど強い意思を宿したすみれ色の瞳は深い優しさを称えている。長く美しい緑の髪と頭に咲いた大輪の紫朱花、人と樹、どちらにも属さない異形の美。
ティリビナの巫女、プリエステラ。
瓜二つ、どころではない。
完全に同じ顔貌。
違うのは水面に映った月のような表情のみ。
「プレア=エリカ・モノトロープ。けれどいま、あなたと響き合うこの時であれば、私は新しい形になれる。もっと古く、もっと激しく、燻るように激しく」
闇の中、微かな光を独占する星雲のような輝き。
誰もが絶句し、沈黙の中に驚嘆の言葉を響かせた。
それこそは古く新しい美のかたち。
異邦の美、遠方の麗、久遠の豊穣を想起させる植物相。
この究極を『塗壁』を知っている。遠きアイドルマキア、雄々しきラウスと共に駆け抜けた神話の闘争においてトロル種族の前に立ちはだかった眩い星々。
「レルプレア、いや、あん時は違ったな。確かそう」
女神の霊媒は、時に転生者としての宿命を背負う。『塗壁』が遠い記憶から呼び起こしたその名前は、目の前の幻想と響き合った。
老いた魂の中で、三つの顔が重なり合う。
かつて黄金を纏った女神。その意思を継ぐ巫女。
そして目の前にいる、それらと全く同じにしか見えない何か。
理解できない。正体がわからない。存在しないはずの運命が形となり、成立しないはずの構図が成立してしまっている。だがどれだけ否定してもそれは消えない。
ならばここにいるのは確かにレルプレアであり、プリエステラなのだろう。
けれど、少女は異なる宣名を響かせた。
「私は『植物想』。祝祭を彩る、はじまりよりも古き者」




