5-29 余白と名前
人形の新たな名はラプンシエル。古い名はTSX-07、あるいはトリシル七号。
誰も使わないが、食用竜花のダエモデク・イヴニルという名もある。
姉であるアルト・イヴニルの予備。『紅紫の瞳』の右玉。
アルトとダエモデク、対の亜竜王神話の鏡像存在。それが自分。
もちろんそんなもの、適当でいいのだけれど。
「レッテが動くみたい。計画は前倒し」
この病院の中庭に設えられた白いベンチはラプンシエルのお気に入りだ。
何がいいって、鮮やかなドレスがよく映える。無地や白地は人形にとって理想に近い環境だ。どんな構図にしてもいいから、一瞬だけでも糸を忘れて自由を満喫した気分になれる。
そういう気晴らしを横に腰かけたメイド忍者が理解してくれたことはないのだが、今のガロアンディアンでこういう話をできるのは姉妹であるミヒトネッセだけだった。
トリシル八号、すなわち一つ下の妹は緑茶を飲みながら小首を傾げる。
「つまり、ガロアンディアンとの休戦協定は破棄?」
「形式的にはね。ただトリシューラたちの思惑は違う。あの妄想姉妹、徹底的に遊びで世界で塗り替えるつもりだ。次元をまたいだ階層攻略戦は興行になるみたい」
「祝祭中盤は『猫のゲーム』?」
「『猫と竜のゲーム』じゃない? どっちかっていうと」
言葉遊びでしかないが、それこそが呪術の本質だ。
同型の七号機と八号機だから姉妹なんて、同じ陣営に属しているからそういうことにしているだけ。そもそも『塔』にいたころ、二人はそこまで親密な関係ではなかった。
仲間というより仲間の仲間。友人というより友人の友人。
間接的な距離感。それでも、同じものを見ているという意識が二人を繋いでいる。
アレッテ・イヴニル。トリシル六号。彼女がどこに辿り着くのか、何を選ぶのか。
二人の世界はずっと彼女と共にあった。
少なくとも、これまでは。
「今後の身の振り方を考えないとね、お互い」
「レッテのために動く。それだけでしょ」
ラクルラールの操り人形として始まったトリシルシリーズの運命は、複雑に絡まって本人たちにさえどこへ向かっているのか分からなくなりつつあった。
頼りになるのは、己の内にある感情だけ。
ミヒトネッセの指針はシンプルなようで複雑骨折しかけている。
「それだけ? コルセスカとの契約は? 夜中に飛び込んできたあなたの相方は?」
ミヒトネッセは軽く眉をひそめたが、感情を動かすことすら嫌だったのか表情を平坦なものに戻して平然を装った。
「ちょっと、あれと私をセットで扱うの止めてよ。本気で嫌。ていうかこの状況でめんどくさそうなトロルとマイコニド拾ってくるとか頭どうかしてるでしょアイツ」
「生きてれば色んなモノとぶつからざるを得ないんでしょ。私はもう、たったひとりがこの世の全てだって思い込むのは難しいってわかってきたところ」
再生者の王子クレイとミヒトネッセの関係に言及するのは地雷源に足を踏み入れるようなものだが、当人が向き合わなければならない問題でもある。
それは自分にとっても同じことだ。
ラプンシエル。新しい名はまだ馴染まない。
中庭に微妙な沈黙が漂い、植えられた緑を止まり木にしていた小鳥たちのさえずりが静寂を際立たせる。自然の歌がしばしの間、背景音楽のように響いた。
この場所の性質を考えれば当たり前だが、施設に人の気配は無い。
逃げ場がないからこそ、思索に沈むには適しているとも言えるだろう。
第五階層の隠し病棟。
噂でのみその存在が囁かれる都市伝説は、隣接異界に実在していた。
その正体は無人機や人形によって運営される、ほぼ自動化された隔離病棟だ。
あるいは表に出せない特殊監獄と言うべきだろうか。
ここは、かつて六王と呼ばれていた名無しの亜竜が入院中の封印施設なのだ。
「あれをシナモリアキラに取り込もうとする計画があるって話、聞いた?」
「嘘でしょ。正気?」
今度こそ、ミヒトネッセは思い切り顔をしかめた。
ラプンシエルも同じ気持ちだったが、噂を聞いてしまったものは仕方ない。
「基幹参照世界において、亜竜王の名は徳に通じる。古代における徳とは、男らしさや原始的名誉という側面を強く表象していた。『道徳』という権力は時の流れに耐えられない腐敗した価値。亜竜王なんて、眠らせておけばよかったのにね」
男の中の男、雄々しき勇士、徳高き名君。なんて白々しい美辞麗句。
現代と古代における『理想的な人の在り方』などが一致するはずもない。
そのことを二人は身に染みて理解していた。
それはそれとしてミヒトネッセが不思議そうな表情で尋ねる。
「前から思ってたけど、その基幹参照世界って言い回し、何? 『猫の国』とは違うの? ニンジャの国のことで合ってるよね? トリシューラが参照してる外世界の」
「あー、うんそうそう。そんな感じ。ブシドーとスモーレスラーとサイバーカラテとスシマイスターがフジヤマゲイシャみたいな」
「適当過ぎない?」
「いいのよ、現代日本の設定なんて適当で」
気の抜けた雑談で気を紛らわさないとやっていられない。
この話題はラプンシエルにとって忌避すべきものだった。
「『名無し』をドラギニャッツォという型に嵌めればリスクを低く抑えることができる。トリシューラの慎重さは正しい」
「でも気に入らない。そうでしょ?」
答えは溜息。面倒事は往々にして次善以下の策で対処されてしまうものだ。
名無しに名を与えると言えばそれらしく聞こえるが、それがいい結果を生むとはとても思えなかった。現在は牙猪人のチリアットによる献身的な介護でどうにか落ち着いているようだが、またいつ暴れ出すやらわかったものではない。
二人がここに配置されたのも、護衛というより監視のためだ。
「これまでトリシューラは難敵を封印するための首輪としてマレブランケを使ってきた。グレンデルヒ、ルバーブ、オルヴァ、そして私。恐らくは他の六王に対しても『枠』を用意していたはず」
現在、マレブランケの空席はカニャッツォ、リビコッコ、ドラギニャッツォ、ルビカンテの四つ。ここしばらく新メンバーが追加されたという話は聞かない。
「残り四枠は封印儀式の残弾か。カニャッツォやグラッフィアカーネみたいな入れ替わりを前提にすれば、初期メンバーはとりあえずの穴埋め要員かダミーだったりするのかもね」
ミヒトネッセの言葉にはあからさまな棘が混じっていた。
洗脳されたあげく敗北して運び込まれてきたファルファレロとカルカブリーナが入院しているのもこの場所だ。妖精王の末裔であるマラコーダはともかく、他の初期メンバーは六王に比べるとかなり格が落ちる。魔将ダエモデクの副官だったというチリアットは微妙なところだが、本人を見る限り準英雄止まりだろう。
「『シナモリアキラ選挙』の噂を流している人物、あるいは勢力はトリシューラ最大の封印儀式を逆に利用してシナモリアキラを乗っ取る自信があるのか、あるいは無駄撃ちさせようとしているのかもしれない。たとえば、ほどほどに対処しづらい強敵を『マレブランケ』で封印させた後に本命である自分が動き出す、というような」
「席が埋まるのを待って紀人級の敵が動き出す可能性があるってこと?」
「トリシューラがそれを警戒して空席を維持する可能性もある。もしかすると『あれ』をドラギニャッツォにするっていう話は、私たちに対するメッセージかも」
ラプンシエルの言わんとするところが分からず、ミヒトネッセは怪訝そうな顔をした。
人形姫はぼんやりとしたまなざしのまま中庭の空を見上げた。
緑の隙間から降り注ぐ太陽の眩しさに目を細める。
これは多分、あまり直視したくないことなのだろう。
ラプンシエルは気怠さを振り払って右手を掲げた。
図像として象られた封印の呪い。
人形の手の甲に浮かび上がったそれは引っ掻き傷のような紋様だ。
「これがマレブランケのシンボル。全部ちゃんとデザインしてあるの、グッズ展開でも考えてるのかもね。マラコーダとグレンデルヒはそこそこファンがいるみたいだし」
取り出した端末を操作して、カニャッツォ、リビコッコ、ドラギニャッツォ、ルビカンテに対応する図像を妹に見せた。
それぞれ、しわくちゃの犬、黄色い三本のライン、牙を剥く亜竜、五本の指が分離した赤い手を表現する簡素なシンボルだ。『斜めに走った三本の曲線』というのは古くから『風』のシンボルとされていた。天気占いなどでもおなじみの記号であり、黄色の場合は砂嵐だ。
「素直に解釈すれば虹犬、亜大陸人、亜竜人って感じだけど。最後のは、ええと何? ラープ人? それとも火精使いの格闘家あたり?」
「ちょっと捻った太陽にも見えるかな。それこそ叡智の民とか、『朱』の色号使いみたいな下方勢力にも当てはめられそう。トリシューラは『ルビカンテ』という名に『狂気』とか『怒り』といった意味合いを与えていたみたいだけど、特に決まってないのかもね。状況に応じてそれらしいこじつけができるようにあえて曖昧にしてるとか」
『赤という攻撃性の象徴』『暖色ゆえの優しさを表現するシンボル』という解釈にすればどんな人物を突っ込んでもそれらしくはなるだろう。
それこそ、紅紫にも寄せることができる。
使い方には幅がある。それこそが重要な事実だ。
「アルト・イヴニルは私たちのレッテでは無くなってしまった。マラードと融け合い、亜竜王を超えた存在に至ろうとしているあのコはもう止まらない」
ラプンシエルは掌で空を隠した。
光を遮ろうとしても、降り注ぐ陽光は流れ落ちる水のように目を焼こうと迫る。
そして、人形姫の邪眼は目を逸らすことには向いていなかった。
迂遠な前置きを重ねても、結局は本題に辿り着かなければならない。
「ねえ。これは例えばの話なんだけど」
「不吉な予想で腹を立てるほど心が狭くないから率直に言って」
「アルト・イヴニルが負けて存在の危機に立たされた時。私たちは」
「縁起でもないこと言わないでくれる?!」
怒りを露わにするミヒトネッセにたじろぎ、話が違うと内心でちょっとだけむくれるラプンシエル。だがこれはどうしても必要な確認だった。
惰性のままに流されていては、肝心な時に動けなくなってしまう。
「レッテを信じてないの?」
「信じてる。誰より完璧な人形姫のことも。ラクルラールお姉さまが至高の人形師だってことも。私たちを含めた魔女人形が、どうせろくな運命を背負わされていないってことも」
言ってしまえば、ただそれだけのことだ。
彼女たちの運命を支配する魔女は心優しい聖母などではない。
「末妹選定なんてままごと遊び、適当でいいとは思うけど。それはそれとして、ラクルラールお姉さまのやり方には違和感があるの。レッテはガロアンディアンとラフディの王権の継承者として作られたお人形。でもそれって結局、既知の神話でしょう? 未知なる末妹に到達するためのアプローチというより、その前提に見えない?」
「レッテがトリシューラの踏み台だって言いたいの?」
「というより、私たちトリシルシリーズ全てが。死人の森を巡る騒動で、結果的に私たちはガロアンディアンに取り込まれてしまった。妄想姉妹とその使い魔は順調に前進を続けている。まるで私たちが必要な試練であったかのように」
「私たちは、コントロール可能な『杖』に過ぎないって?」
「トリシューラはそういうつもりでマレブランケの封印を手元に残してるし、それがあるからこそ私たちみたいな不安定な要素を身の内に抱え込んでいる。そうは思わない?」
超越者の掌の上であるという前提ならとっくに共有済みだ。
ラプンシエルはミヒトネッセとまっすぐに向かい合って問いかける。
諦めはただの前提でしかない。
魔女にとってより深刻な問題は、不可避の破滅の先にあった。
「私たち、あの子と一緒に死ぬべき? 傷だらけでも生きるべき?」
ミヒトネッセはじっとラプンシエルを睨み返し、皮肉げにこう言った。
「少なくとも。『キュトスの姉妹』って上がりに到達したあなたに選択肢はないでしょう。ねえ、ラプンシエルお姉さま?」
「それ、やめてくれる?」
「いや」
子供のようにそっぽを向いて不機嫌さを隠さないミヒトネッセ。
幼い妹を説き伏せるように、ラプンシエルは口調を和らげながら続けた。
「トリシューラからの言外のメッセージは、脅迫とも交渉材料とも取れるよね。いざって時に力を合わせるために、私たちは方針を決めておくべきだと思う」
「だから、そんなもの最初から考えるまでもない!」
怒ったように言うミヒトネッセの意思は揺るがない。
それならそれで良かった。ラプンシエルが迷う必要もなくなる。
予定調和の大戦力、ガロアンディアンを栄光に導く古き王の権威はトリシューラを大いに助けることだろう。だがそんなものは二人にとっては砂粒ほどの価値もない。
『ドラギニャッツォ』はもしもの時の命綱だ。
救われる当人は望まないかもしれないけれど。
目の前に迫る大きなうねりはどんな未来も保証してくれない。
わずかな希望であっても、二人にはそれが必要だった。
大切な人が嵐の日々を生き延びてくれるという、都合のいい未来が。
「ドラギニャッツォが亜竜王のために温存されている封印なら」
ラプンシエルが口にした一つの推測を受けて、ミヒトネッセが答えを出した。
「それは『アレッテ』にだって使えるはず」
もしも大切な人が最悪の結末を迎えた時。
この第五階層には、転生という保険が用意されている。
たとえ異なる存在になってしまっても、生まれ変わってそこにいてくれるなら。
それはきっと、希望になる。
錫杖は既に折れていた。
セレスティアルゲイズ製の星占円盤は半ばから溶解し、足元の血だまりに沈んでいる。
ヴェールの奥で斜め十字の星がまたたく。星夜光は使えてあと一回。
ここで勝負を決めなければならない。
いったい何があればこうなるのか、奈落の底は半壊している。
過剰な緑で埋め尽くされた浄界は中心から捻じれて破綻し、地下の白骨迷宮との境界を露わにしていた。何かとてつもなく巨大な質量が暴れまわったかのような、凄惨な暴虐の痕跡。呪術師の修練の結実である奥義は、単純な暴力によってたやすく無価値ながらくたに成り果てる。どんな性質の切り札であろうと、ここまで徹底的に破壊されればバリケードの代用品くらいにしかならない。
そして、敵にとってはバリケードさえあれば十分だったのだ。
崩れ落ちそうな身体を影からの干渉で強引に固定し、荒く息を吐きながら召喚を実行。
闇から浮上した病影の群れが黒塗りの牙を剥き、狼、鳥、鹿などの獣に姿を変えて疾走。踏み出した足で後ろの足を隠しながら地面を二度踏み、地脈に影を浸透させる。
呪具の損壊状況が致命的。邪魔な棒切れを投げ捨て、ハウス分割の誤差修正は最初から諦める。影から生成した矮小自己の生年月日を基点に命占ベースで四象陣に意識圏を拡大。
この状態で天測学的な呪術行使は無謀。仕方なく座相の観測は簡易式で済ませて吉に誘導、地占術的な照応を乱数ではなく歩法で歪曲。潤星の解釈を強引に読み換え、渇星の引力を竜の指になぞらえて大地に爪を立てた。使い魔の物量で意識を散らして本命をぶつける。
「灼け、ブーラースの指先!」
囮にした使い魔ごと『心に秘めた情熱的な恋情』の炎が『運命を切り開く力』となって大気を焦がした。
閃光と熱波、迸る恋愛の運気がラッキーカラーをこれ以上ないほど明瞭に告げる。
理由はわからないが、この相手には炎熱が有効だという確信があった。
勝てる。追撃用に構えた切り札を使うべくまなざしに力を込め、内心で首を傾げる。
目を凝らしたから何だと言うのだろう。
まさか、目からビームが出るわけでもないだろうに。
吹きあがる爆炎を眺めつつ、もうひとつの事実に気づいた。
そもそも、自分は誰と戦っている?
目の前に命の気配はない。
用意された案山子に誘導され、まんまと囮に食いついた影の使い魔たちが炎であぶられているだけ。簡素な即席囮は蔦と枝を組み合わせた張りぼてだ。こんな低レベルの誘導に引っかかることなど、普通なら考えられない。
つまり、今の自分は普通ではない状態に置かれているということではないのか。
ぐらりと視界が揺れる。激痛が走る。痛い、痛い、模造した人体が軋む、骨が折れ肉が裂け臓器が歪む。肉体の違和感から攻撃を受けているという事実を認識する。理由はわからないが、何故か全身に力が入らない。痛みもないのになぜだろう。
理解不能の現象が続く。
何者かによって放火された案山子から奇妙な芳香。
漂う甘い匂いに危険を感じて後退するが、足元に放置された杖のような残骸のせいで転びかける。誰だ、こんなところにゴミを捨てたのは。
何もかもがおかしかった。
危険が迫っているという確信だけが反射的に体を突き動かす。
こうなれば、持てる力の全てを振り絞って全方位に攻撃を行うまで。
必殺の呪術を放とうとして、あることに気付く。
占星術の奥義たる重力呪術をどうやって実行するのか、まるでわからない。
それだけではなかった。
布石として仕掛けたはずの磁性付与の位置はどこだったか。愛の引力によって組み上げた『生体文具』はどうやって制御していたっけ。世界槍迷宮における『店員特権』のうち、遍在権と天罰権の行使に際しての申請手順とは。
知っているはずのことが、どうしても思い出せない。
全てがわからない。なぜ自分はここにいるのか。誰と戦っているのか。
「忘れてしまいました」
そもそも、ここで必死になって戦っているこの自分。
どうやら女の模倣体で活動している夜の民、ペリュトン系の淫魔らしき呪術師は、いったいどういう素性の人物なのか。ヴェールで覆い隠した己自身のように、まったくもって正体不明。時折、口をついて出てくる「カプゥ」という鳴き声は口癖だろうか。
斜め十字に輝く瞳が困惑に染まり、ふらつきがちな身体が大きく傾く。
否、足指が溶け崩れているのだ。
既に原形を留めていない片足は致命の罠に呑み込まれている。
落とし穴のように地面に埋め込まれた、釣り鐘型の食虫植物が大口を開いていた。
『またしても』新たな気付き。
「なるほど。戦闘中で、どうやら劣勢。ところで、どちら様でしょう?」
問いに答えたのは知らない響き。
初めて耳にする男の声だった。
本当に初めてかどうか、まるで自信は持てないが。
「七回目の宣名チャーンス」
目前に拳、激痛、原因不明の唐突な衝撃で後退、痛みもないのに鼻血、もはや原形を留めていない顔面を修復しようとして以前の容貌を思い出せないことに気付く、打撃、打撃、打撃、猛烈な勢いで殴られ続けているという事実を認識する前に忘却が連鎖する。
誰かがいる。男だ。顔つきと体格を認める。打ち込まれる拳。誰かがいる。どうやら戦闘中のようだ。痛み。視界が揺れ、痛みもないのに模造体が崩壊していく。男の口が動く。
「『空穂蔓』」
簡素な名乗りが風を震わせた瞬間、記憶からその響きが消えていく。
生の苦痛に絡みつく甘やかな芳香。
喪失の空虚さを埋める優しい感触。
空ろな在り方。空しい生き方。
どこにもいない者を、誰も記憶することはない。
忘却を伴う宣名圧。あまりにも虚ろな存在の質感に顔をしかめた。
否。しかめようとして、どろどろになった夜の塊を歪ませた。
こぽりと泡が弾け、牡鹿の頭部が顔を出す。即座に潰れた。理由は不明。
『『同胞団』に関しては私に任せてください。竜神信教はティリビナ人コミュニティへの布教も行っていますので、こっそり内情を探るくらいのお手伝いはできそうです』
不意に記憶の断片が脳裏を過ぎった。それさえ跡形も残らない。
わからない、わからない、このままではいけないという霊感だけで動き続ける。
半ば無意識に溶けた個我が精神の奥底から呪詛を引き出す。
溺れる者が水面に手を伸ばすように、影の底へと触手を捧げる。
「いと高き夜光天の支配者、樹殻貪るサラーワイブに願い奉る」
喚起するのは最も古き悪霊。
夜の始祖たる四匹の牡鹿、その神としての相。
最大級の呪いが闇から現実へと浮上しようとしたその時。
「一手遅い。悪いが終わりだ」
何かが破綻して、巨大な気配が霧散していく。
影の心身が崩壊していく忘我の夢心地、敵の姿をようやく捉える。
忘却するまでもなく、その記憶は死と共に失われる。
それは、まるで妖精のような姿をしたティリビナ人だった。
女神の如く麗しい、整然と並ぶ捕虫の睫毛。
邪視の発動は瞬く間。目蓋が閉じれば、捕虫葉が押し潰す。
ウツボカズラと同様に、代表的な食虫植物のひとつとして知られるハエトリソウ。
ティリビナ人呪術師が操るそれらは、虫も人もまとめて喰らう。
赤と緑の斑に染まった頭髪を無造作に流す長身の男が、荒く息を吐きながら敗者を見下ろし、影の残骸を無造作に踏み潰した。
戦いはそうして幕を閉じた。
どことも知れぬ都市の死角。隠された地下空洞は静寂で満たされた。
「援護はいらなかったみたいね」
「これで証明できたろ。俺たちの力は、このレベルの相手にもちゃんと届くって」
男が振り向くと、そこには銀白のローブを身に纏う、どこか陰気な女がいた。
目深に被ったフードの中は窺い知れない。
それでも、淡々とした声からいつも通りの冷ややかなまなざしが向けられていることは察しがついた。ぞくぞくする感覚と闘争の熱によく似た興奮。占星術師の炎は直撃しなくとも確かに効いていた。恋の記憶なら、もうずっと焦げ付きっぱなしだ。
「惚れ直したろ、エリカ」
「そもそも惚れたことがない。ネペンテスには幻覚作用もあるの?」
軽口を叩きながら、ティリビナ同胞団最強の戦士であるネペンテスは息を整えて言語魔術師エリカと向き合った。『アルラウネ断章』を覚醒させた樹妖精としてのスーリウム的美貌が変容し、ありふれた樹皮の身体へと戻っていく。
「『忘却』に頼り過ぎじゃない?」
「自覚はあるけど仕方ねえ。『竜』のおかげでこの日のために用意してた『陥穽』が枯渇したんだ。落とし瓶、粘着腺毛、挟み目蓋、水袋、誘甘香、ありったけ使ってようやくこれだ。初見なら最初からワンサイドゲームにできると思ったんだけどなー」
ぼやきながら、戦いの証拠を隠滅すべく呪符を撒いていく。
戦場を半ば異界化した地下に選んだのは正解だった。
あの占星術師が左手に宿したモノを市街地で解き放てば確実に騒ぎになっていた。
現段階でそれは望ましくない。片っ端から忘却させていくのは枝が折れる。
焼却、加速、荒廃、緑化。ティリビナ同胞団の公式サイトに掲載された緑化活動の記録をこっそり書き換えてから『創造』作品として一定期間の保存を申請。
思ったより悪くない庭園が出来上がって満足。
折角だからと趣味のカメラを構えてぱしゃり。普段は第五階層に増え始めた『観光客』に偽装しているため、この呪具の操作にも慣れてきた。
「その偽装、いつまで続ける気?」
「趣味だから死ぬまでやる。写真は俺を忘れない。記念にもなるしな」
ファインダー越しの世界は変わらぬままそこにあり続ける。
撮り貯めた祝祭の光景を、後で仲間たちに見せてやろうとネペンテスは思った。
魂がどうのとか言って怖がる者もいるが、これは念写のように記憶頼りのあやふやなまじないよりもずっと頼りになる呪具だ。
「勝利の記念写真は幾らあってもいいだろ?」
「うかれてる場合? まだフィレクティの魂を殺せたわけじゃない。あいつらは相互参照して自動復元するんだから。竜神信教やジャッフハリムが本気で攻めてきたら終わりでしょ」
「ちょっとくらいいいだろ、お互い最初の難局は乗り切ったわけだし。むしろあれでいいんだよ。ちゃんと溺れさせた。当分は全部忘れて何もできねーよ。せいぜいバブバブとかはいはいとかする程度だ。最初から無力化して対応を遅らせるのが目的だったろ」
セレクティフィレクティが祝祭終盤に介入してくるのは間違いない。
だからこそ、ほんのわずかな時間稼ぎで十分だった。
あるいは、激怒した藍の天主が本格的にこちらを潰しに来るならそれはそれで良かった。全ての終わり。徹底的な破滅。望むところだ。
だがエリカは苛立ちを隠せない様子で、腕を組んで強く息を吐いた。
「私はあんたの慢心を指摘してるの。半魂だから勝負になっただけ。セレクティフィレクティにせよノゴルオゴルオにせよ、個人でどうこうできる次元の相手じゃない。お互い、スーリウム様と同じ神話の領域にはまだ届いてないでしょう」
「じきにロディが届かせてくれるさ。今日と明日で彩域の試練を乗り越えれば、いよいよ緑天主が夢物語じゃなくなるんだ。俺もお前も、巨人の階梯に挑んでもいいタイミングだ」
「わかってる。本番はここから」
挑むような口調。ひしひしと伝わってくる闘志。
ネペンテスは、エリカの苛立ちの対象が彼女自身であることに気付いた。
つまりはフィレクティ相手に快勝した(ように見える)ネペンテスと、ノゴルオゴルオ相手に辛勝あるいは引き分けたエリカ自身を比べてしまっているのだろう。
そのことに気付かないふりをしつつ、同胞が燃やす感情だけに共感を示す。
「呪術戦はお前が柱だ。言語魔術師として、血ぃ吐いてでも王を支えろ」
「殴り合いはアンタが要。戦士として、身を盾にして王を守りなさい」
緑天主ロードデンドロンは周囲との関係性の中でこそ最大の力を発揮する。
弱点は明白。『使い魔』に特化した者ほど、本体は脆くなりがちだ。
優れた臣下による守りがあってこそ、最強の召喚士は十全にその威光を振りかざせる。
だからネペンテスとエリカは天主の双璧として並び立つ。
親愛なる目の前の同胞が望むのは、王の戦士としての自分だ。
誇りと痛みを胸に、共に戦える今を噛みしめる。
二人は地下迷宮を後にして、第五階層に幾つもある『冥道階段』から地上へと移動。
光に照らされたネペンテスの姿はいつの間にか完全な樹木態への移行を済ませていた。
頭部からは葉と花が髪のように広がり、葉の先から伸びたひょうたん型の捕虫袋が幾つも釣り下がっている。厳密に言えば葉に見える部分は偽葉で捕虫袋こそが葉なのだが、同胞たちからも『それのどこが葉なの?』といまいち理解してもらえないのが彼の悩みだ。
見事に咲いた花はこぢんまりとした黄色い四弁花が軸から放射状に咲いて房になっている。いわゆる総状花序と呼ばれる花の付き方は男らしさや力強さの象徴と言われるが、現代的なティリビナ人の感覚だと若干野暮ったい。祖父に言わせれば美男子らしいが、今の時代だとモテるのはロードデンドロンのようなタイプだ。
「はあ。折角の勝利だし、しんどい身体を癒す黄色い歓声とかご褒美とか欲しいよなあ」
「知らない。疲れたなら呪符で補給してから仮眠すれば」
「寝る気分でもねえし、炸撃符もいらねえ。虫で腹満たしとかねえと腕が鈍るんだよな。フクロ枯れたらお前を守るどころじゃねえし。それよか酒がいい酒が」
「呑みたいだけでしょ」
「いいだろ。忘却には酒が一番だ」
いつもと変わらない強めの拒絶は冷ややかで、痛いからこそ安心する。
じきに撃鉄鳥が鳴く時間になる。
街が目覚め、祝祭は更なる盛り上がりを見せるだろう。
あと何度こうして言葉を交わせるのか。
迫る刻限を予感しながら、明るい声で軽口を叩く。
「しっかしよー、レースが終わったら終わったで大変だよなあ。マジでどうすんの? リハより気合入ってなかったか? お姫様へのプロポーズ。傑作過ぎて笑った笑った」
どんなにヘレネが巧みにフォローしてもあれでは相手にされないだろう。ネペンテスにはロードデンドロンからの求婚がエストに拒絶されるという確信があった。彼はそういう空気に敏感なのだ。慣れ親しんだ憂いの気配を感じて、エリカの様子を横目で窺う。
陰鬱な沈黙。心は既にここになく、痛みを堪えるように時間をやり過ごそうとしている。
意を決して踏み込む。レゴンの海に飛び込むより勇気が必要だった。
「忘れさせてやろうか」
答えは聞くまでもなくわかっている。
予想通り、笑えるくらい傑作過ぎた。
「できないって知ってるでしょう」
ネペンテスでさえ、エリカの痛みは消すことができない。
エリカは何も忘れない。全てを記憶し続けられる傑出した才覚ゆえに。
彼女はあらゆる呪いを覚えていられる。誰もが忘却する男の全てさえ。
ネペンテスは、自分の執着がどんな形をしているのかを理解していた。
それを見透かされていることも、よくわかっているつもりだ。
「どうかな。試してみたのか? 誰かを忘れる方法はひとつじゃない」
「やめて」
素っ気ない拒絶。伸ばした腕をするりとかわされる。
「あーらら。またフラれちった」
冗談めかして呟くと、呆れたような視線。
諦めの悪い軟派な軽薄男。
仲間内で本気になどならないと気楽さをアピールしながら大げさに天を仰いだ。
「残念、せっかくだし虫料理の店とか誘いたかったんだけどなー。てか凄くねえか? 俺はまず虫どもを料理するって発想が無かったわ」
「冗談でしょ。絶対に嫌だから。私、ザドーナに昆虫系半妖精の友達いるし、虫食べるのとかあり得ない」
「そういう問題かぁ?」
「虫食べる男はダメ」
「差別じゃねーか」
「遠回し過ぎた? あんたが無理」
気安さと拒絶を曖昧にしながら、二人は並行に歩んでいく。
目指す先には決戦の舞台。
夜明けは近い。
医療修道士イルスにとって、その時間は幸福であったはずだ。
不可解な違和感が付きまとうものの、妹であるアイシャと久しぶりに言葉を交わせるのは素直に喜ぶべきだろう。彼女の新しい同僚たちも好ましく、理由はわからないが無条件で信頼できた。兄としては最大限、力になってやりたいと感じている。
「素晴らしい反応だ。あなたほどの精霊医がいれば心強い」
立体幻像の向こうで水晶のアイバイザーが特徴的な妙齢の女性が微笑んだ。
アイシャの直接の上司であるウネムという女性のことは噂で聞いたことがある。
黒檀の民女性として史上初めて『神々の図書館』の司書資格に手が届いた才媛。
紀神ラヴァエヤナに認められた太陰の言語魔術師、その最高峰。
それほどの人材が松明の騎士団で戦っていることも、第七槍ヴィティスの副官となっていることも知られていなかったというのは中々に衝撃的だ。
現在は司書としての活動はしていないらしいが、果たして何があったのか。
詮索は無用とすぐに自らを戒め、イルスは思考を軌道修正する。
確かそう。必要な知識を共有しよう、という話だったはずだ。
「何から尋ねたものか。そもそも、なぜこのレースをそこまで重要視する? 地上における最大の血族とはいえ、クロウサー家内部の問題ではないのか?」
イルスからすればクロウサー家以外の参加者がいるのがそもそも理解しがたい。
『上』の問題のはずなのに、『下』からの参加者までいるというからますます不可解だ。
アイシャが肩をすくめて言った。
「それ、前提が抜けてるとそう思うよね。ウネム、今度こそわかりやすく説明してよ」
「ひっかかる言い方だがまあいい。イルス、認識のすり合わせをしておこう。これから行われる『空使い』選定の儀式は、元々クロウサー家当主を決定するためのものではない」
完全に虚を突かれて唖然としてしまう。
イルスは慌てて問い返す。
「いや、待ってくれ。どういうことだ? 『空使い』とはクロウサー家当主の称号では?」
クロウサー家は名実ともに『上方勢力』の帝王だ。
槍神教圏、義国文明圏を血によって支配し、政祭軍財の全てに影響力を有する血族。
為政者、枢機卿、軍閥の将、大企業の重役。この世の至る所にクロウサーの血は入り込んでいる。国際連合である『連帯』さえクロウサー家の意向を無視することはできない。
だからこそ、このレースにこれだけの注目が集まっている。
そう認識していた彼にとって、明かされた事実は予想外のものだった。
ウネムはイルスの解釈を間違ってはいないとした上で、更に補足していく。
「呪術的には『天主』を決定するための『彩域の試し』。キャカラノート王の十二賢者たちが行った奇跡の再演。これから始まるのはそういう儀式だ」
「天主というのは、確か『下』の王に相当する称号、だったろうか」
「王よりも呪術的な権威がある。クロウサー家並の影響力があると考えていい。選定レースとは、『上』で不可視化されている『藍域』の天主を決める戦いだ」
逆を言えば天主という称号はクロウサー家当主に匹敵する重みがある、という考え方もできる。イルスは『地獄』という未知の世界を想像することしかできないため、ひとまずはそう解釈することにした。
ウネムは立体幻像に文字列を表示していく。
いずれも歴史上の人物として知られる、高名な言語魔術師たちだった。
中原を支配した鈴国の継承者、黄金のキャカラノート。
そして大王に仕えた初代十二賢者たち。
『紫』のスマダルツォン、『海』のユネクティア、『黄』のアンテノル、『緑』のレルプレア、『橙』のグールイェン、『藍』のセレクティフィレクティ、『朱』のマーブシュズール、『空』のアルカェ、『土埃』のフェルノグア、『灰』のテララ、『白』のデルゴ、『黒』のザウト。
『下』で五つの彩域と呼ばれるものはこれらの偉大な言語支配者やその後継者たちが統治する所領のようなものだという。
『藍』のセレクティフィレクティはジャッフハリムを中心とした南中原。
『朱』のマーブシュズールは虹国を含めた西方夢界。
『灰』のテララが奉竜山より始まる東方連山。
『白』のデルゴは北中原の向こうに広がる北方辺境。
『黒』のプルートはザウトの眠る聖地ザカリヘッドに繋がる南方絶海。
その他の色彩を受け継ぐ賢者たちは神話と歴史の濁流の中に消えていくか、あるいは天主同士の争いの中で彩域の主導権を奪われた。
「『海色』あるいは『群青色』の色号派閥は軸足を影界に移し、幾つかの分派は世界各地に散らばって叡智を受け継ぐ賢者たちを輩出していったが、『空色』あるいは『明藍色』は違った。賢者アルカェはクロウサー家と結びついたのだ」
あるいは、最初からクロウサー家だったのかもしれないが。
ウネムの解説はひとつの可能性を示していた。
この事実が『上』であまり知られていないのは、おそらく都合が悪いからだ。
鈴国の流れをくむキャカラノート王の忠臣たち。
クロウサーがその権威を継承しているというのは、あまり喧伝したくない事実だろう。
「理解が早くて助かる。更に言えば、もっと奴らが隠しておきたい事実がある。聖妃レストロオセに組した竜神信教の巫女セレクティフィレクティ。『藍』の天主として紀竜より流れる血の記憶を掲げた『双生児の鹿の仔』たちの前に、『明藍』を支配する第零王権者ダウザール・クロウサーは敗れ去った。賢者アルカェから受け継いだ彩域を守れず、クロウサー家は敗北したのだ」
イルスは思わず周囲を見回した。
誰かに聞かれていたら流石にまずい。
クロウサー家の当主候補は隊長であるアズーリアの仲間だ。
そうでなくとも、クロウサー家という権威は恐るべき脅威なのだから。
神経過敏になるイルスをアイシャが宥め、ウネムが説明を再開した。
「地上太陽の制御技術や呪石に宿る神秘として色号を普遍化させた『橙』や『黄』と違って、『彩域』として定義された色号は継承の概念がある。もちろん、簒奪と支配も。新たな色彩を創出する者や、失われた古色を蘇らせようとする者も無数に存在する」
「ああ、聞いていた話と繋がった。確か、新たに第六階層の掌握者になったアルト・イヴニルが『紫』を。ティリビナ同胞団のリーダー、ロードデンドロンが『緑』を自称しているとか。そうか、それでこのレースに」
「どちらも失われた彩域だ。つい先日、第三世界槍で和平が成立したのを知っているだろう? 賢天主はリーヴァリオンの帝国を退け、新たに『黄緑』の彩域を確立した。この事件を受けて、流れを掴もうとしているのだろうよ」
全く関係が無いと思われた遠い北西での政治情勢はいま、ここに繋がっていた。
見えない前提が至る所に存在し、世界を密かに動かしている。
ならば、黒檀の民にとってはどうか。
「『空使い』とは『空の天主』にして明藍彩域の管理者。鈴国と義国に分かたれた青い血の記憶、生命起源の色号を巡る呪術的闘争。それを目的とした『試練』であり『儀式』がこのレースの本質だ。参加者には平等に機会が与えられる。天主に手を伸ばす機会が」
「黒檀の民にも、彩域と呼ばれるものがあったのか?」
あるいは、新たに作ることはできるのか。
自然に浮かんだその疑問を、ウネムは恐らく待っていたのだろう。
幻の窓の向こうで、女は口の端を釣り上げた。
「かつて亜大陸ではティリビナ人と黒檀の民が共存していた。お前もよく知っているだろう、イルス。つまりはそういうことだ。我々はな、奴らのお情けで『緑』を恵んでもらっていたのさ。なあ、過去と現在、マシなのは果たしてどちらだろうな?」
「何が言いたい。いや、何を言うつもりだっ」
言外に含まれていた主張。
イルスにとって許しがたい、一部の黒檀の民が声高に叫んでいる『ある思想』の気配を感じ取って、彼は怒りを表明しようとした。その肩に妹の手が乗った。
接触面から、じわりと何かが侵食していく。
「はい、イルハム。落ち着いて。家族の前で怒鳴らないでよ」
「あ、ああ。そうだな、すまない」
萎んでいく感情と共に直前の思考が曖昧になっていく。
何か、頭がぼんやりとしているが、疲れているのかもしれない。
「いや、とにかく勉強になったよ。ありがとうウネム」
「どういたしまして。極めて重要な前提を共有できてなによりだ。問題意識も正しく持ってくれているようだしな。さて、我らの彩域についての話だったな」
朝の時間が過ぎていく。人々は朝食を済ませて新たな一日を始めようとしていた。
活気あふれる祝祭、本番を迎えるレース。
今はまだ『空白』の色彩を巡る競争を前に、第五階層の誰もが浮足立つ。
それは超然とした態度のウネムにとっても同じことだった。
「私たちの未来は、私たち自身の手に委ねられている。当たり前のことだが、実感させられるよ。一番槍というのはやはり緊張するな」
「頑張ってよ、ウネム。合格ラインには達してないとお話にならないんだから。最低限、血のひとつくらいは持ち帰ってくれないとね」
「わかっている。せいぜい努力するさ。マリナの奴がこちらを応援したくなるように」
二人は何の話をしているのだろう?
いや、イルスにもここまでの流れでなんとなく想像がついてはいるのだ。
参加者には資格がある。天主の試練に挑む資格が。
ならば、イルスの問いかけへの答えはこうなる。
「私の応援をしてくれるかな、イルス」
「ウネム、しかし君は参加者の一覧には」
男はレース本選の参加者一覧を再確認した。
まずはリーナ&ミルーニャ、パーン&ミシャルヒ。
更に予選を突破したマルガリータ、ロードデンドロン、ジュティア&ミナ。
それに加えてシード枠が五つ。老練な指導者ビルメーヤ、謎めいた黒衣の人物クリーナー&ダスト、有名なプロの兄弟選手エンハ&ナックス、暴空族上がりの大型新人ファーガスト、ヨグウム警備保障の試作型無人箒ジーゼロ。
ウネムの名前はどこにも記されていない。
だが、入り込む余地は確かに存在していた。
その事実を受け入れ、イルスは幻像窓を凝視する。
「黒檀の民に栄光あれ。リビュエー01、出撃する」
水晶アイバイザーの内側で、獰猛な眼光が閃いた。




