5-13 テキストベース・サーキット
『空使い』選定レースなどという壮大な茶番を始めたのは誰か? そんな大馬鹿者はひとりしかいない。『無目的』のミブリナ・ゾラ・クロウサーだ。
存在の否定と我の確信という矛盾した前提から導き出される『無への飛翔』を目指した大魔女は、生まれついての傲慢さからこう言い放った。
「クロウサーが最速なのは当然。しかし血統に慢心するようでは『空使い』の名は早晩腐る。ゆえに私に挑むがいい、空に焦がれる地虫どもよ。私は枷と重しをつけ有象無象どもと同等の速度域に降りてやる。この条件下でもなおクロウサーこそが最速の技巧を誇るのだと証明してみせようではないか」
英雄譚の中で飛翔せよ。これこそが『歌速』のレギュレーションである。
無駄かつ趣味的な才気に溢れていたミブリナが確立したその呪術基盤の数々は、極めて限定的な状況下でのみ成立する『レースのためだけの大儀式呪術』だった。
神話速度。伝承の風。響きの門。叙述回路。
そのレースでは音速を突破してはならない。『音が取れていない』場合は『門』のワープスピードに乗れないからだ。
そのレースでは物語に記されなくてはならない。『筆が乗っていない』のであれば吹き荒れる作風を受けて飛ぶことができないからだ。
そこは詩歌と物語の文脈によって加速し、音と意味を上手く掴んだ者が最速となる空。
手の込んだルール整備は実際のところ、挑戦者たちが揃いも揃って因果を歪め、空間を渡り、速度の厳密な測定を拒み、時間さえあやふやにしようと画策したことで激怒したミブリナが練り上げた『自分に有利なルール』だったのだが、とにかく彼女はそのやり方で『空使い』の座を死守してみせた。
遠い血の記憶が甦る。
幾度も『藍域』を巡り競い合ってきた宿敵が挑んだ。
「その舐め腐った口がきけなくなるまで私のケツを見せてやるよ」
神話の世界を飛翔するキュトスの姉妹が挑んだ。
「驕れる弟子を諫めるのも師の役目。雲霞を渡り、雷光を跨ぐ真の言理飛翔をお前は知るでしょう。覚悟なさい、私の可愛いリーナ」
分かたれた大地と古き空を知る大賢者が挑んだ。
「これがあの明藍の成れの果てか。哀れなアルカェよ、引導を渡してやろう」
そのことごとくがミブリナの前に敗れ去った。
最速。無敗。彼女に並ぶ者は無く、その背に手が届いた者もついに現れなかった。
失意。落胆。ミブリナはその生を終え、長き眠りの中で血脈が繋ぐ夢を見ながらずっと待ち続けた。いつか、自分を超える者が現れるのではないかと。しかし待てど暮らせど弟子を鍛え人工生命や呪術機械を創造すれど自分以上の存在はついに現れず、悠久の時の中で彼女の意識は青い融血に呑み込まれていこうとしていた。
そんな時だ。
リーナ・ゾラ・クロウサーが現れたのは。
これだ。これこそが望まれた流れだ。
あまりにも激しいオリヴィアという運命の本流の陰に隠れていた、異端の血を取り入れた支流。本来であれば見向きもされなかったであろうみすぼらしい落ちこぼれ。
それこそが無数の分岐の中から生まれた到達点だったなどと誰が予想できただろう。
「ダウザール。血脈の主導権を渡せ」
混沌とした意識流の中で身を起こし、ミブリナという個我を覚醒させる。回答はにべもない。老人の嗄れた声が強い否定を返す。
「拒否する。叛逆者パーン・ガレニスを今度こそ粛清しなければならない。この私が直々に手を下さねば因縁は断ち切れまい」
「ならパーンを掃除した後でいい。私はリーナと飛んでみたい」
「構わぬが、寄り代である肉の器とどうやって競うつもりだ?」
思わず笑う。同じクロウサーであるというのに、驚くべき察しの悪さだ。
魔王などと恐れられていても所詮は戦場しか知らぬ掃除屋だ。『空使い』という称号が本来であれば何を意味していたのかさえ理解できていないのだ。
当然だろう。文字通りの意味で次元が違う。
『あの位置』に辿り着いた『空使い』は、長いクロウサーの歴史の中でもたった二人。
「無論、向こう側で。遙かなる彼方、有限なる自己を超越したその先でだ」
そうだ。『私』は、『私たち』はお前が現れるのをずっと待っていた。
『空』に至った真のクロウサー。血脈の特異点。
有象無象どもの巡らす下らぬ策謀や陰謀、純度の低い試行錯誤はもう終わりだ。
純粋なレース。最速を目指す澄み切った空のような心。必要なのはただそれだけ。
試練が血を純化させるだろう。速度がリーナを彼方へと誘うだろう。
その果てにこそ、『空使い』は真の完成を見る。
リーナが私たちを超えた瞬間、その先の未来を待ち焦がれる。
ミブリナでもなく、ダウザールでもなく、名前さえ忘却された始まりですらなく。
真のクロウサーがこの現象世界に降臨する。その時は近い。
期待に胸を躍らせながら、最速のクロウサーは血の微睡みへと沈んでいく。
目覚めは近い。その時、きっとリーナは。
レース開始直前の熱気に包まれて、予選コースのスタート地点は濃密な呪力が渦巻く火薬庫のような有様だった。巨大なリングが一定間隔で配置された箒レース特有の空中コース。
血気盛んな第五階層の住人たちがフォーメーションラップもまだだというのに盛大にフライングを決めて失格になっている。やっぱりこの階層の人ちょっとおかしいよ、と内心でユディーアが引いていると、頭上から耳障りなハウリングが聞こえてきた。
「さあ、というわけで開会式でちょっとしたトラブルがありながらもいよいよ始まる『空使い』選定レース! 実況は皆さんご存じガロアンディアンの何でもできちゃう『機械女王』トリシューラ! そして解説は『冬の魔女』ことコルセスカでお送りするよ!」
「皆さん、よろしくお願いします」
会場に響くのは二人ぶんの声。ユディーアは目を細めてその姿を見上げた。
資料にあった写実絵画と同じ顔だ。
上空に表示された立体幻像の窓には二人の魔女。仲良く並んで実況と解説を行うトリシューラとコルセスカはパフォーマンス用の笑顔で小さく手を振っている。
「さて解説のコルセスカさん。今日は予選ということで一般参加者の皆さんが入り乱れる大混戦になると予想されているけど、注目ポイントはどのあたりになるかな?」
「そうですね。先ほどルールのざっくりとした説明があったように、この箒レースの重要な点は『テキストベース・サーキット』で競い合うということです。その点を意識できているかどうかがポイントになるでしょう」
「ふむふむ。要するに呪文でレースするわけだね? ゾラの得意分野だ」
「その通り。細かい理屈を省いて要約すると、このルールでは『文章媒体で表現されるレース』を行うことが強制されます。地の文と台詞に支配された『語られたもの』がレース展開を左右する究極の呪文的レース。それが『テキストベース・サーキット』です」
「仮にこの世界を書物に記された文字情報で認識している人がいるとして、このテキストベースのレースはそうやって記述された『文字情報を基準としたレース』のように展開していくわけだね。ていうかこれ第三世界槍の書架世界じゃん!」
「第三の賢天主アリス・ファラゾーラ・クロウサーはゾラの分家ですからね。発想の基礎は同じものなんでしょう」
二人の会話を背景音楽にしながら参加選手たちはパドックで機体の最終確認を済ませ、スターティンググリッドの立体幻像枠に静止していく。
参加選手としてその中に混ざったユディーアは耳に付けたインカムの調子を確認し、聞こえてくるブルドッグ男の心配そうな声にくすりと小さな笑いを漏らす。長丁場となる本選では最低一回のピットインが義務づけられているが、予選ではそれがない。
直前の最終調整が十分だったかどうか不安なのだろうか。巨漢らしからぬ小心さが少しおかしくて、素朴な気遣いは素直にありがたいと感じた。可能であれば、その期待に応えてあげたいと思う。もちろん、これが単純なレースで終わるわけはないのだが。
係員たちの誘導に従って大量の箒が一斉に浮遊、呪動機の強烈な騒音が大気を揺るがしていく。何故かユディーアの前後は揃ってサイクロン方式らしく音がとりわけ凄まじい。
「よう、お嬢ちゃん。ここは可愛い女の子が遊ぶにはちょっとばかしハードな場所だぜ?」
「心配無用です。自分の身くらい自分で守れます」
セーフティーブルームが先頭を突き進んでいくと、後に続くように次々と箒が空を駆けていく。もちろん、ユディーアもそのようにした。
「随分キュートな箒だ、シアンクリーニング製かい? 悪くないが激突上等のこのレースじゃあへし折れないか心配だぜ。俺のカレルヘインのケツに乗っけてやろうか?」
「追加装甲が見えませんか? それより自分の身を心配した方がいいですよ」
先導するセーフティブルームの後を追ってコースを飛行するフォーメーションラップの間は追い越し禁止だ。第五階層の上空を巡りつつコース確認と慣らし運転に集中するべきだが、柄の悪い荒くれ者たちにとっては手近な女をからかう方が優先度が高いのだろう。
溜息ひとつ。手の中でコインを弄ぶ。
ま、いいか。少し増やして安全策をとっておこう。
事前の周回が終わりつつある。このレースはローリングスタート、すなわちこのフォーメーションラップが終わっても静止することなくそのまま加速してスタートだ。
先導箒がピットレーンからコース外へと出て行くと、列の空気が引き締まる。
ここからレースが始まるまでのわずかな時間、先頭の箒はある程度の範囲で速度を調整できる。先頭は露骨に減速して後続に対応を迫った。
意図は明白。後ろが減速したタイミングで急加速して逃げ切るつもりだ。
浅はかな考えと言えた。
このレースは追突を許容している。フラッグが振られるまでぶつかり続けてレース開始と同時に振り払って追い越してしまえばそれで終わりだ。
案の定、血気盛んな荒くれ者のレーサーに斜め後ろから押されていく先頭箒。
だが、その装甲はぴくりとも軌道を乱さない。
重量感のある飛行だった。先頭がぐぐ、と高度を落とし漆黒の装甲を展開していく。
奇妙なフォルムだ。後方に向かって長く軸芯を伸ばしていく様子はユディーアの脳裏にある記憶を呼び起こした。確かミルーニャが試作品の試し打ちとか言ってゴーレムに撃たせていた、長い銃身の臼砲。
シアンフラッグが振られ、レースが開始される。
立体幻像のシグナル表示が赤から藍へ。
機械女王の声がレース開始を告げると同時、先頭を飛翔していた巨大な重装甲箒から後続箒に向かって凄まじい熱波と衝撃が放たれる。
それは火山の噴火だった。トリシューラの実況が楽しそうに響く。
「まず飛び出したのは『黒曜騎士団』から戦車隊のハイマン! 火山噴火を疑似的に再現した呪術でロケットスタートを決めたーっ! 噴石が雨となって参加者に降り注ぎます!」
嘘でしょ、と叫びたくなる気持ちを抑えながら殺意まみれの噴石を必死に回避する。
暴力的な加速によって後続を妨害しつつトップに躍り出る荒々しい開幕。次々と撃墜される箒を下で自動化されたセーフティブルームたちが回収していく。
辛うじて最初の洗礼を潜り抜けた選手たちを次に襲ったのは最後尾からの妨害だ。空間を歪曲させる黒々とした『色付き視線』。邪視だ。
背後をミラーで確認したユディーアは自由にしていた右手を返した。
最後尾で宙を駆けているのは箒乗りですらなかった。なんと牛に乗っている。
迫り来る噴石さえ邪視で落下させながら迫る牛。下方向への力が働いていた。
トリシューラはますます機嫌良くデタラメな開幕を言祝いでいた。それでいいのかと問いたくなるが、これが第五階層なのだろう。ユディーアは心底うんざりした。
「牽牛種の『牛飼い』オーテス選手による妨害だー! 普段は使い魔に掃除させてるからと言い張り凝視水牛に騎乗して参加したのはこれが狙いだった模様! 汚い、やり口が汚い!! そしてなにより速度が遅い! 牛歩の如き走行です! 果たして彼は真面目にレースをする気があるのでしょうかー?!」
背後から迫り来る黒い視線の波。ユディーアは悲鳴を上げる前後左右の箒を躱しながら、背後を振り向くこともせずに短く言い放った。
「邪魔」
重力邪視による加重を一睨みでレジスト。邪視は先頭まで波及したようだが、黒曜騎士もあっさりと無効化。その他の参加者たちもそれぞれ対策を用意していたようで、体勢を立て直して高度を戻してレースに復帰していた。
第五階層ではこのくらいの妨害が当たり前。
であれば、住人たちはこの程度の荒事は対処出来て当然というわけだ。
開始直後に脱落したのはおよそ三割。ほとんどが賑やかしだったが、中には根性見せて宣伝したり芸をしたりする者もいた。
露骨な妨害工作を行った牛飼いは加速していく箒について行けずに取り残される。
尋常に速度を競い合おうとする者などほとんどいない、というわけではない。
テキストベース・サーキットにおいて地の文が記述する対象は自然と『イベントを引き起こす主体』となる。結果として異常な行為を行って目立とうとする馬鹿者ばかりが描写の多くを獲得し、呪術的に優位に立つことになる。
「とはいえ、オーテス選手のように普通のレース展開について行けないようでは自然と焦点も逸れていきます。『派手』かつ『意味深』かつ『速い』のが望ましいですね」
冷静なコルセスカの解説。
加速する選手たちはそれぞれがテキストの描写視界に収まるために『作者の視点』を誘導しようと花火を打ち上げたりでっち上げた病気の恋人の名を叫んだりと試行錯誤を重ねるが、彼らの涙ぐましい努力を否定するように極大の悪意が膨れあがる。
先頭を飛翔する黒曜石装甲の箒が装甲をパージ。
投棄された石塊を回避しながらユディーアは違和感に眉根を寄せる。
まだレースは序盤だ。このままトップを独走すれば装甲は必要無いと判断したのだろうか。それにしたって早すぎる。嫌な予感。
予想通りだった。黒曜石を革紐で繋ぎ合わせた原始的な鎧を纏った巨漢が長大な神への怨嗟と挑発、人類賛歌を歌い上げる。屈強な肉体が簡素な鎧を押し上げ、無神論の祈りが神を信じる者たちへの侮蔑と怒りの炎を生み出していった。
「原始に帰れ、文明の猿共!」
先頭を走る黒曜騎士ハイマンによる更なる妨害。原始回帰による文明否定は鉄願の民が得意とする無効化系呪術だが、広範囲に渡るほどの大規模な術を使える者は稀だ。
高位呪術師による文明否定呪力がサーキットを襲う。飛行していた箒が次々と停止、あるいは減速していく中で、悠々と、そして静粛に飛んでいく者があった。
原始的な木の箒。呪動機も積まずに昔ながらの飛翔術で空を掃き清めて進むのはティリビナ人だった。その選手の名はロードデンドロン。やられた。ユディーアは歯噛みした。
トリシューラとコルセスカの声が停滞したコースに虚しく響いた。
「これはあからさまな結託だー! とはいえ生身系も数人いるから誰と組んでいるのかは微妙な所! ナチュラル万歳な選手勢が次々にトップ集団を抜き去っていく!」
「ユーストラム伯国と言えば黒曜石が金属を駆逐した石器文明圏。加護分類こそセルラテリスですが、『石願の民』を自称するほど強固な世界観を持っています。その文明優先度は瞬間的には闘神魔滅伝Ⅲのオメガキャンセラーに匹敵します」
「セスカ、そのたとえみんなには伝わらないからね?」
「うーん、守護の九槍だったネドラドの六割くらいですかね。かの『黒曜伯』ならあるいは互角まで行くかもしれません」
「なるほどー。私にぶつけたら結構ダメージあるやつだね。こわーい。などとやっているうちにトップ集団がどんどん変わっていく模様。ハイマン選手、ロードデンドロン選手に続いて飛び出したのは不死狩りの鳥人『啄み』クロウ選手! 鳥の羽は箒に使われるから自分こそ生きた箒と主張して本大会に出場! 霊薬ドーピングによる加速はまるで稲妻だ!」
「規定内の霊薬使用でどうレースを乗り切るかが勝負の分かれ目になるでしょうね」
幸いと言うべきか、無効化呪術の効果時間は一瞬だった。
安全対策の防護障壁に墜落する前に静止、どうにか上昇してコースに復帰したものの、ユディーアは既にトップ集団からかなり引き離されてしまっていた。
このままではまずい。右手を強く握る。スピア型のノズル近くのフットペダルを踏み込むと呪動機が唸りを上げる。
ユディーアはほとんど確信していた。まずハイマンをどうにかする必要がある。あれは完全にロードデンドロンを支援するためだけに参加している。
そのやり方に文句をつけるつもりはない。
ユディーアは手の中で銀貨を弄びながら考える。
クロウの霊薬をここで使い切らせればロードデンドロンへの妨害はどうにかなる。
ハイマンの排除にもう一手が必要だ。オーテスは思った以上に効果が無かった。二周目で使っても無意味だろう。ここで切り札を切るか。
決断し、指の間に銀貨をくぐらせる。
直後、矢のようにサーキットを駆け抜けていく一条の閃光。
「ここで『神鳥狩り』ジュティア選手と『童貞殺し』ミナ選手が搭乗する巨大マジックミサイルが加速! かつての九英雄パーティ『潤い広場』二番隊隊長と副隊長という実力派探索者ですが、レースでも熟練のコンビネーションを遺憾なく発揮! 周囲からの妨害をまるで寄せ付けません!! 妖精王の双騎士、未だ健在だー!!」
二人乗りの巨大な弾体じみた改造箒が爆発的に加速してトップ集団に追随。
団子のようにまとまった後続集団に紛れながら、ユディーアは予選に参加している買収済みの有力選手への呪力供給に集中していた。
ジュティア、ミナ、クロウ、オーテス。
既に銀貨は渡してある。あとはユディーアがどこまで展開を支配できるかが勝負所。
もちろん、レースの結果を左右するのは速度ではない。
策謀だ。




