5-11 空使いは知らんぷり
空を見上げる。
そこには綺麗な青空が広がっていて、どこまでも透き通るような単純さが心地良い。
この気持ちよさだけを感じていられたらどんなにいいだろう。
リーナ・ゾラ・クロウサーにとって、それは嘘でしかない。
本当はそんなこと思ってないくせに。
全て空虚な言葉でしかない。
明るく脳天気なムードメーカー、そんな顔だって仮面に過ぎない。自分にとっても他人にとっても都合が良くて、なんとなく惰性で続けてしまっているだけ。
『本当の自分』がどこにいるのか、リーナにはわからない。
『ほんとうのこと』はどこにあるんだろう。
『頭空っぽ』なんてよく言われるけれど、実際には頭どころか心まで空っぽなのではないだろうかと時々思う。
子どもじみた自分探しなんて、とっくの昔に済ませたはずだ。
似たような空虚さを誰もが抱えながら生きている。少女時代に罹患しておくべき病が未だに完治していないのだと自分に言い聞かせても、息苦しさが消えるわけではない。
『未知なる末妹』の予備候補。クロウサー家当主。ちゃらんぽらんな大学生。
そんなあれこれがどうでもよくなるくらいに大切な約束。
大罪人ガルズが呪ったクロウサー。
その力を御してもっとマシな世界にするのだと、あの時はそう誓った。
自分に疑念を抱いている時間なんてないはずだ。
本当に? それでいいのだろうか。
リーナはゼオーティア文明圏の支配者、クロウサー家の当主である。
霊性複合体を統べる強大な権力、その全てを掌握する呪術の王。
今更になって思う。
リーナは、自分という存在がひどく恐い。
最近になってよく感じる。ちっぽけなリーナには大きすぎる服を与えられてしまって、ぶかぶかで前が見えないまま背中を押され続けているような不安。
服と自分との空隙が遠すぎて、ずっとこの距離は埋まらないのではと思ってしまう。
『君は将来、きっと大物になるね。大人になったら、いつかモデルをお願いしようかな』
空虚の描き手、ガルズ・マウザ・クロウサーは期待と願いを込めてそんなことを言っていた。それが本当になればいいのにとずっと思っていた。
違う。今だって思ってる。会いに行けばいつだって彼は微笑みを返してくれるし、同じような期待を囁いてくれる。同じ未来を共に見てくれる。
『高みに立つ者は、常に己が邪悪さについて考えておくべきなのですわ。決して地を踏まぬ私たちの足は、けれど必ず無辜の民を踏み潰す。断罪と破滅の因果を呑み込む覚悟すらないあなたに、私と競う資格があるとでも?』
空白定義の君臨者、オリヴィア・エジーメ・クロウサーはいつだって女王様で、きっとリーナが嫌いだったけれど、そんな若き英雄をリーナは密かに尊敬していた。文句のつけようのない『空使い』の卵は、けれどあっけなく塀から落っこちて割れてしまった。王様の馬と家来の全部がかかっても元には戻らなくて、だからリーナは永遠に彼女に勝てずじまいだ。
『ガレニスの命脈は絶えた。この箒に触れる資格を持つ者はもはやどこにもいないだろう。だが、もし仮に。ありえないことだとは思うが。クロウサーに生まれながら、空を呪ったことがある者がこの文章を読んでいるのなら』
そして空前絶後の叛逆者、パーン・ガレニス・クロウサーは。
彼が遺した箒は不適合者に苛烈な死をもたらす曰く付きの呪物で、そんなものに挑むのは度を超した愚か者だけだというのがクロウサー家の常識だった。
霊薬漬けの頭と独力で飛べないのろまとしての不全感に心を病んでいたその時期に試練に挑んだのはある意味で必然だったけれど、結果として選ばれてしまったのは偶然でしかないのだと今でも信じている。
そのはずだ。何故って、遺されていたメッセージはこう続いていたから。
『お前の中にあるクロウサーを憎む心が、お前に速度を与えるだろう。飛ぶのならば怒り狂え。不遇を呪え、生まれを嫌悪しろ。穢れた風を切って飛べ。その先に、お前に相応しい空があるはずだ。目を背けたくなるような汚濁の空が』
リーナは元気で脳天気。暗い言葉は似合わない。
ガルズは彼女の未来に期待をしている。
オリヴィアとはいつか仲良くなりたかった。
パーンの言葉は的外れで彼の箒に選ばれたのも偶然だ。
空を見上げれば、そこにはいつだって美しい色彩が広がっている。
リーナ・ゾラ・クロウサーは、必ず素晴らしい『空使い』になる。
きっとそうなる。
ねえ、ガルズも、そう思うよね?
地に足をつけている者などその場には存在しない。
誰もが雲の上から誰かを見下ろしている。
そこに集った全ての者にとって、権力とは手足と同じように振るうものであり、権威とは生まれつき備わっているものであった。
「流石にファラゾーラ以外は集まっているようだな」
薄暗い会議室に通されたオトルベイト家当主・『天嵐の主』オグリーズは退屈そうに鼻を鳴らした。あぐらをかいたまま浮遊して移動する長い白髭の老呪術師。齢数百にもなろうかというこの老人こそ、ゾラ従系十八家随一と謳われた言語魔術師である。
「あの汚点の話はやめろ。虫酸が走る。それよりガレニスの公開処刑とやらはまだ始まらんのか? 私はそれだけを楽しみにこんな辺境まで雲を伸ばしたのだぞ」
言葉通り、雲状の足で宙に軌跡を残して移動するのは『黒雲翁』セイグリン。クロウサー家が保有するグループ企業のひとつを前当主サイリウスに任され『軍用箒』の分野を急成長させた辣腕の持ち主だ。
「今回の『空使い』選定レースにはそれなりのコストを投入しているのでね。それなりの成果を若き後継者どのには期待している。当然、期待の『空使い』殿には化石同然の古代人など一蹴してもらわねば」
「おいおい、意地の悪い物言いはやめてさしあげろ。女子供には優しくだ」
荒々しい口調で口を挟んだのは集まったゾラ・クロウサー分家筋の代表者たちのなかでも比較的若い中年の男だった。稲光を纏った頭髪と空獣の革を使ったスーツが目立ちすぎるほどに目立っている。不敵に笑う男は煙草を咥えながら言った。
「この『神鳴』のクァヒート家の他にクロウサーを立て直すにふさわしい血統などあるものか。お飾りの小娘など嫁にして鳥籠に閉じ込めてしまえ」
その男の息子が東方では名の知られた英傑であることは周知の事実だった。
グレンデルヒと並び立つ叡智、オリヴィアに比肩しうる呪術ともてはやされる天空の支配者。傲慢ですらある自信はそれゆえだろう。
次期当主の座は息子のものだ、と言わんばかり。
だが似たようなことは十数ある分家それぞれが考えている。
リーナ・ゾラ・クロウサーは『空使い』としては不適格である。
英雄オリヴィアという誰もが認める後継者の死がなければあのような小娘なぞ。
この現状はサイリウス亡き混乱期に起きてしまった事故のようなもの。
問題は次の『空使い』が誰になるかだ。
そのための戦い、前哨戦は既に始まっている。
愚かな小娘をいかにして傀儡に仕立て上げるか。
強引に婚姻を結び家に入れてしまえば話は早いが、あの小娘は賢明なことに自分からその資格を投げだそうとしている。
今回の選定レース参加者にはクロウサー分家の息がかかった有力選手が名を連ねており、結果如何では今後の『空使い』、そして当主を巡る権力闘争で優位に立つことができる。派閥内での暗闘。共闘と内通、裏切りと日和見、無数の思惑が入り乱れる。
その中心で、『お飾り』として軽んじられている一人の娘。
子供から大人になろうとする年頃の娘は静かに俯いて周囲の蔑視と嘲弄を無言でやり過ごそうとしている。少なくとも、傍目からはそう見えた。
間もなく始まる『空使い』の選定レースを前にして緊張しているのもあるだろうが、威厳と貫禄の不足は如何ともしがたい。常日頃から秘書官のようにくっついて世話を焼いている『塔』の魔女どもは今は不在だ。
「やれやれ。言い返す気概も無いとは。これでは生まれてくる子供にもあまり期待が持てんな。種が良くても胎がこれでは。なあランカーシュ。ランカーシュ? どうした?」
男は後ろに控えているはずの息子、『英雄』と呼ばれる若き呪術師から返事が無い事を訝しんで振り返り、そこで目を疑うようなものを見た。
稲妻を宿す肉体と虹を映す瞳。父親譲りの優れた邪視者としての美貌が、見るも無惨に朽ち果てている。一瞬で大半が抜け落ち、老人のような白に染まった頭髪。口から垂れ流される涎。皺の寄った顔は父親のそれよりも遙かに老け込み、浮遊する足を伝って床に滴り落ちているのは小便か。ぶつぶつと呟いているのは意味のわからぬ妄言だ。
「宇宙、紙片に描かれた信号機の緑色と橙色が螺旋を描く時計の距離を交互に往復して光が広がって粘膜の繋がった金色に目が目が目が死んでるはずなのにどうして生きて動けない潰してるんだもう目は潰した何度も壊したけどまだ見えて見えて見えて」
「お、おいどうした? 一体何があった?!」
慌てふためく父と廃人同然の息子、狂態を演じる二人を周囲はあたたかな視線で見守っていた。失笑と歓喜。毒か呪いかは知らないが、誰かが上手くやったのだろう。これで有力な競争相手が脱落した。老いた言語魔術師ほど若き新鋭の破滅に内心で快哉を叫んでいた。そんな醜悪な光景を、空虚な視線が一巡りする。
「嘆かわしい」
静かに、誰にも聞こえないほど小さく娘の声が沈んでいく。
英雄だった残骸がびくりと身を震わせ、声に鳴らない呻きを漏らしながら後退る。
いつの間にか、彼女は彼にゆっくりと近付いていた。
リーナは。
リーナ・ゾラ・クロウサーは、金色に輝く瞳で英雄をまなざした。
「巨人か。よくそこまで己を磨いた」
その場にいたほぼ全員が、その発言の主を特定できずに首を傾げた。
厳かに響いた声。
空間を縛り付けるかのような強烈な存在感は、これまでそこになかったはずのもの。
誰だ? 誰が今の言葉を発した?
疑問はすぐに氷解し、同時に混乱が場に満ちる。
「優れた邪視も困りものだな。遙かなソラに、我が玉体を垣間見てしまったか」
「暗い白が、首のない関節の二番目三番目四番目の次に鐘が鳴ったから教室はいつだって誰もいなくてみんな死んでいくのにどうして俺だけが破滅の運命が白昼夢に映し出された鏡の向こうクラス全員で元の世界に戻らないといけないのに俺はその空白に召喚されたことよりずっと最後の枝にっ」
意味の通らない言葉を並べ立て続ける男の瞳がふつふつと泡立つ。
内部で虹が捩れ、肥大化し、内と外の境界面を突き破って破裂、引き摺り出された出鱈目な走馬燈がぼろぼろと溢れながら全身を縛り、砕き、強引にその肉体を圧縮していった。小さく、小さく、矮小に、誰にも見えなくなるように。
英雄と呼ばれていたはずの男だった。
大いなる期待を背負う、巨人の位階に達した邪視者だった。
だから、その力は狂い果ててなお強大だった。
その背筋は老人のようにねじ曲がり、歪な骨格と皺だらけの皮膚、変色した虚ろな眼球をぐりぐりと動かすちっぽけな異形となった邪視者は、相変わらずわけのわからない言葉を吐き出しながらびくびくと目の前の存在に恐怖し続けている。
そう、彼はずっと恐れていた。
何に?
小鬼化という異変に周囲の老人たちが事態の深刻さをようやく認識し始めた頃、そもそもなぜこんなことになっているのか、という疑問を抱く者が現れ始めた。
巨人から小鬼に至り、狂気の世界を垣間見てなお怯え続ける存在とは一体何なのか。
そんなものが、この場にいるとでも言うのか?
真実の断片に手が届きかけた者たちは恐怖から思考を停止した。
あの英雄はその先に手を伸ばしてしまった。
なまじ優れていたからこそ、それを直視してしまったのだ。
空を駆ける者であれば、太陽を直接まなざすことはしない。
それが身を滅ぼすことなど誰でも知っている。
だからこれは、それと全く同じことなのだ。
考えてはならない。
本当の事など知らなくていい。
何も知らない愚かなふりだけしてその場をやり過ごす。それこそがもっとも賢明な態度なのだと、あの若者が身をもって示してくれた。
「耐えきれず小鬼に堕ちたか。ならば慈悲をくれてやる」
次の瞬間、小鬼が消えていた。
痕跡すら残さず、なんの予兆もなしに一個の巨大な呪術生命が消滅したのだ。
父親は愛する息子の無惨な最期に呆然としていたが、悲しみよりも先にしなければならないことを思い出し、何も考えずに実行した。
「さて。見ることすらできぬお前たち。言わねばわからんようだから言っておく」
エルネ=クローザンドの空の民は地に足のついていない種族と言われる。
呪術的想像力に長けた空想と夢想の浮遊生命。
呪術世界においては高い階級、地位にあることが多い生まれながらの貴族たち。
ゆえに雲上人。そう呼ばれる彼らは、ごく自然に誰かを見下ろす。
典型的な空の民であるゾラ分家の老人たちは今、あまりに自然に平伏し、全身で大地にへばり付かんとしていた。
「頭が高い。頭を垂れよ」
彼らはこぞって競い合った。
誰が一番上手く頭を地面に擦りつけ、恭順の意を示せるのかを。
もっとも君臨者は、とうに周囲への関心を失っていたのだが。
内紛の芽を一瞬にして潰し、その力のみで反抗の意思を全て奪い取ったクロウサー家当主は、しかし不服そうに溜息を吐いた。
「やはり今のクロウサーにこれ以上の器はない。だがリーナはまだ未熟。試練が必要だ。『空使い』を成長させる華々しい物語が」
細い指先が端末を操作すると、会議室の側面が透過していく。
そこは外の景色が一望できる位置で、ちょうどレース会場のスタート地点が真下に見えるようになっていた。
九日間の祝祭、その初日。これから行われる予選で、どのような『運命』が紛れ込むのかが決定される。未来への期待に胸を膨らませ、当主は薄く笑う。
「逆賊ガレニスの公開処刑か。リーナが全ての試練を乗り越えたならば、確かにそうなるであろうな」
失われた血統、ガレニス。その魂を手に入れたのならば、彼女は今度こそクロウサーとして完成するだろう。
瞳が金色に輝く。背後に伸びた影がいびつに歪み、広がった翼と拗くれた帽子のシルエットが壁に映し出される。
「それはそれは素晴らしい成長物語を期待しているぞ。なにしろリーナ。お前はゾラの娘。そして栄えある『呪文の座』、チョコレートリリーの一員なのだから」
虚ろな表情で吐き出される独白。
醜悪に歪む影。
誰もが怯え、現実を直視しないその空間で、その言葉をまともに聞いている者はどこにもいない。当の本人でさえも、その事態には知らんぷりを決め込んでいる。
金色の瞳が開くその裏側で、意識を閉ざしたリーナは何も知らずに眠り続けていた。
ほんとうのこと?
そんなのいらない。
だってみんな、そらごとでしょう?




