幕間『正しい未来の選び方』
全ての光を吸い込んでしまいそうな『うろ』の瞳。
男の前に立った時の震えを今でも克明に思い出せる。
波打つ金色の髪は亜大陸の中にあっても少数人種の証だ。黒檀の民と一括りにされる黒肌の色濃さとてそれぞれに違う。
ヴィティスという男は彼女の目にはひどくエキゾチックに映った。
生まれた奇妙な感覚は魅力によるものではない。異物に対する反射的な拒絶。
心を震わせる感情はきっと恐怖だ。
男が怖いのではない、そう言い訳をした心は別の原因を探した。
この感情の正体は何か。考えて導き出された結論は、その男が抱えている虚無が自身の内側にある空虚を呼び起こしてしまうから、というものだった。
自分自身が怖くなる。忘れているべきだった不快感を想起させるからこそ、その男は忌まわしいと嫌悪されている。
それでも彼女はどうしようもなく男に惹き付けられた。
思い出すのも忌まわしい経験であったにも関わらず、それは彼女にとって運命だと信じられる出会いだった。
何故ならば、彼が抱えている『空っぽさ』が自分の中にあるそれと同じものであるから。鬱屈と恐怖、不満と苦悩を共有できるだろうと分かってしまったから。
憎むものと怒りを抱くであろう対象が、きっと一致するはずだから。
愛すべきもの、好ましいと思うもの、共に慈しみ尊いと感情を分かち合えるもの。
それらが一致しなくても、同じ敵をあの空虚な瞳で見つめられるだろうと理解した。
だからそれは愛ではなく自己憐憫。
生きることへの疲労が生んだ救いのない錯覚。
彼女にとって男は、そんなどうしようもない確信と共に現れた運命だった。
黒檀の民が二人、連れだって夜の道を歩いて行く。
先導する女の顔は右半分が治療呪符で覆い尽くされていた。痛々しい負傷が癒えるのも待たずに病室を抜けだして早足に歩く。不安そうな面持ちでそれを追いかける男は先程から何度も強く呼びかけて女を連れ戻そうとしていた。
「待て、止まれアイシャ。いったい何だと言うんだ? 怪しまれる前に戻れ、状況がわかっていないわけじゃないだろう」
「いいじゃない。後ろ暗いことなんて無いんだから、訊かれたら『兄と妹が水入らずで話して悪い?』って答えればいい」
「どこまで行く気なんだ? 山に向かっているぞ。夜の森は危険だと分からないお前じゃないだろう」
修道騎士イルスとアイシャ。偶然から再会した兄と妹の距離感はどこかぎこちない。それは言葉を交わしていなかった期間が長かったからか、それとも現在の立場に由来するものか。兄は妹にどんな言葉を掛けるべきかを迷い、妹はただ自分の意思だけを無造作に突きつける。
「この樹。うろがあるでしょ」
やがてアイシャは山道の入り口付近で立ち止まり、ある樹木を指差した。
確かにその幹にはぽっかりと空洞が口を開いているが、イルスは意図が掴めずに困惑した。そもそも、どうして自分がこんな場所に連れ出されているのかもわからないのだ。
「手伝って。ここから接続できるから」
「何を? どこに?」
「良き未来のため、世界を変える。兄さんとティリビナの巫女が目指す方向と、私たちが進む方向は同じはず。これは未来に続く入り口なの」
具体的な内容を伴わない曖昧な言い回しはどこか不穏で、女が示す未来への入り口は夜の暗さも相まって奧の見えない暗闇にしか見えなかった。
家族が暗闇の中に迷い込もうとしている。イルスにはそうとしか思えなかった。
「おまえたちは第四階層の修道騎士だ。亡きヴィティス司教の命令で動いているのだとすれば、我々とは相容れない。誉れある聖戦と殉死を望んでいるのか? ならば私はお前を止める。絶対にだ」
「聖戦? 殉死? ああ、一時期イルハムはそういう思想にはまってたね。革命とか運動とか、今もそういう半端に見逃されてるだけの反槍神教活動やってるの?」
鼻で笑うように言って、アイシャは木のうろに手を突き入れる。
指先が暗黒の中に吸い込まれていく。
喰われていくようだ。ぞっとしたイルスは咄嗟にアイシャの手首を掴んで引き戻そうとしたが、その手がアイシャのもう片方の手によって握られる。
目の前に妹の顔がある。焼け爛れた右半分を呪符で覆い隠した痛々しい顔。間近から覗き込まれ、片方だけの瞳と直面させられる。
「本当に相容れない? 我々って誰のこと?」
知らない瞳だ。吸い込まれるような、虚無の感情がそこにあった。
どこにでもある家庭で、当たり前にそこにいるはずの家族。
そう思っていた妹は、今のイルスにとって理解のできない他者になってしまっていた。
あるいは、最初からそうであったことにようやく気づけたのだ。
「ねえイルハム。私はね、父さんの実家に戻ったよ。本大陸の進んだ医療呪術を学んで、疫学を知って、父祖の土地に根付いた穢れを清めようとしたよ」
低頻度ではあったが連絡は取り合っていたから、それは知っていた。
妹はよく学び、望んでいた進路に進み、夢として思い描いていた未来のために地道に『良きこと』を行っている。それはイルスにとって救いだったが、妹の瞳に映っているのは底の見えない暗闇だけだ。不安は際限なく膨れあがっていく。
「何か、あったのか」
なぜ妹がこんな場所にいるのか。本来なら故国に帰っているはずの妹。国の役に立つ人間になりたいと夢に燃えていたはずの彼女が、なぜ松明の騎士団などに。
恐れから訊けなかった問いの答え。
アイシャはそれを自分から明かそうとしてくれている。
どうしようもなく逃げ出したくなる自分を叱咤しながら、イルスは妹の言葉を待った。
「もう帰る場所なんてない。イルハムはずっと戻ってないから知らないでしょう? 私は裏切り者。彼らにとって私たちは分断者でしかないの」
「何を言っているんだ?」
「人種が違うってこと。本大陸の思想で洗脳された『知識層』はね、もう黒檀の民じゃない。彼らを分断する悪魔の手先」
アイシャは自国を、黒檀の民を愛しているはずだった。
しかし、いま彼女は祖国を、家族を『彼ら』と呼んだ。
ひどく冷たい響き。それは他者に向ける感情だ。
「何があった。何を見たんだ、アイシャ。そうだ、お前には将来を約束した幼なじみがいたはずじゃないか。彼なら何があってもお前の味方をしてくれただろうに」
不意を突かれたような妹の表情は悪い夢。
あるいは愚かな兄の間抜けさ、それ自体がブラックジョーク。
女は失笑し、それから腹を抱えて身を震わせた。
アイシャが思わず笑いだしたのも無理はない。
手遅れなのだ。ようやくイルスは理解した。
「ああ、おっかしい。久しぶりにこういう笑い方したわ」
「アイシャ、もういい。とにかく詳しい話を聞かせてくれ、まずはそれからだ。私はお前の味方のつもりだ。お前はそう思えないかもしれないが」
「そんなことない。信頼してるからこうして声をかけたの。あのティリビナの巫女もマリナが、これはあっちで話すか」
アイシャは兄の腕を軽く引いて木のうろに導いた。
けして強い力ではなかったにも関わらず、イルスはどうしてか抗えなかった。
手指が真っ暗闇の中に誘われる。吸い込まれる。
その意識もろともに。
断絶はなく、肉体から抜け出るように意識は闇の中を飛んでいく。
アストラル体投射での移動。
樹木の中に広がっていたのは幻想的な淡い光が飛び交う非現実。
懐かしい非実体の森、緑色の光が飛び交うアストラル界。
『精霊の近道』だ。この秘密の場所を妹と共に訪れたのは子供の頃以来になる。
この中を行き来できるのはティリビナ人と一部の黒檀の民だけだ。槍神教勢力はこの世界を野蛮と忌み嫌い、同時に恐れてきた。
ここでの会話なら確かに他所に漏れる心配はないだろう。だが、それだけ危険な密談をするということでもある。イルスの不安はもはや確信に変わっていた。
「大いなるガリヨンテの名において」
実体のない木々の間を抜けて精神が飛翔していくその途中、アイシャは小さく呪文のようなものを唱えた。イルスの知らない名だ。レルプレアを筆頭としたティリビナ神群やその子供たちである精霊の名前ではない。『ガリヨンテ』とは何のことか、問おうとしてあることに気付く。
アイシャの顔の右半分に異変が起きている。
実体を反映して顔を覆っていた治療呪符が全て剥がれて火傷痕が剥き出しになっていた。問題は、痛々しいケロイドが蠢き、一部分を避けて治癒していることだ。
あまりにも急速な、それでいて劇的な回復。
並大抵の呪術医ではこうはいかない。それを可能としているのはもしかしなくても当の負傷者であるアイシャ自身である。
「アイシャ。そんなものを、現実で持っていたか?」
妹が纏っている赤と黒の僧服、その腰に提げられた物を見て呟く。
恐らくは何かの祭具。穀物や果実を詰め込んだ角。豊穣、豊作、そんなイメージを喚起させられるような象徴的な道具のようだ。
放たれる呪力はアストラル界だからこそ濃密に感じられた。
途方もない神話的熱量がアイシャのアストラル体を駆け巡り、呪術医療としては破格の規模の現象がアイシャという存在を書き換えていく。
おそらく修復や治癒を目的とした呪術ではない。
何らかの神話を再現した儀式。その副産物として治癒が付随しているだけだ。
ところが。
それだけの大掛かりな治療であったにもかかわらず、アイシャの顔には火傷痕がわずかに残っていた。というよりも、意図的に残しているのだ。顔の右半分、額から目の縁、頬にかけて、火傷が治癒しなかった部分が装飾的な紋様を描いている。
瘢痕文身と呼ばれる黒檀の民に伝わる慣習だ。
本来は木の燃えさしで焼灼して刻印するもので、ケロイド・ボディアートなどとも呼ばれたりする身体呪術の一種である。
本来は戦士の階級、武功、魔除けを意味しているが、アイシャがそれを身体に刻むのはイルスのような男性とは意味合いが異なる。
黒檀の民社会において、それを女性が顔に刻むことはある種の誓いを意味していた。
戦士である夫が果てたのち、その弔いのために戦場に赴くという誓願。寡婦は魂を大地に捧げることで女戦士に生まれ変わる。
「私はね、イルハム。彼らを、黒檀の民を憎んでいる」
ケロイドに彩られた表情は静かだった。感情を燃やし尽くした名残が、わずかな熱を宿してその顔に張り付いている。それは怒りの残滓だった。
「けれどそれ以上に、この世界を変えなければならないと憤っている。これは一時の激情ではなく、私の意思」
婚約者のことを口に出すべきではなかった。
イルスの後悔は既に遅い。家族ぐるみの付き合いがあった。ほとんど弟のようなものだった。言葉もなく、ただ妹に手を引かれるしかない自分が歯痒くてならない。
やがて二人は開けた空間に辿り着く。
そこにあったのは目を疑うような光景。
おぞましい刑場、あるいは拷問室、そうでなければ悪夢の芸術。
それらの要素を内包した、それは『巣』だった。
かつて亜大陸を満たしていたという美しい自然はそこにはない。
茂るのはレルプレアを象徴する緑の葉ではなく黒ずんだ葉。
伸びるのは健やかで真っ直ぐな木々ではなく節くれ立ってねじれた木々。
果実のかわりに毒花が咲き乱れ、空を飛び交う女面の怪鳥どもが葉を啄むたびに幹に人面が浮かび上がって苦痛の声を漏らす。
半人半鳥のけたたましい鳴き声と人面樹たちが奏でる不快な合奏。
悪夢の出迎えを受けながら、枝と木が重なり合ってできた巨大な巣の中にイルスは足を踏み入れていく。
「この先に仲間がいるのか」
「そう。私たちと同じように、未来のために行動しようとしている」
闇の中に入り込むと、そこはまた別世界。
透き通るような水晶の柱と壁面にびっしりと並んだ書架、その中に隙間なく押し込められた魔導書の群れはまるで図書館だ。まるで太陰の兎人、月の民が好む空間に思えるが、アイシャはそんな相手と繋がりがあるのか?
イルスは続けて目の前に飛び込んできた光景に抱え込んだ疑問を全て忘れた。
濃密な死の気配。誰かが戦っている。
たったひとりの黒檀の民を、複数人が取り囲んで襲撃しているのだ。
驚愕すべきは、そのたったひとりの圧倒的な力だった。
「レイシズム変数。『光り物を追い回すしか能がないカラス』『馬鹿な鍛冶屋』『獲物も狩れない草食』『のっぽの観光客』『魚臭い田舎者』」
あまりにも露骨な差別意識の発露が襲撃者たちを侮辱し、貶めていく。
水晶型アイバイザーで顔の上半分を覆い隠した黒檀の民女性。
その指先が浮遊する魔導書の文字をなぞると呪文が浮き上がり、螺旋を描いて飛んでいく。飛び散ったセンテンスが襲撃者たちに投射され、呪いが発現する。
典型的な呪詛は対象を苦しめ、弱らせていく。
女が使っている術はまさしくその典型的な呪詛に他ならなかった。
襲撃者たちの眷族種はばらばらで、共通点と言えば魔導書や水晶玉、石板といった太陰系の呪文使いがよく用いる呪具を持っていることぐらい。
発動した呪詛の効果もまたそれぞれだったが、方向性は同じだった。
種族的な特徴を恣意的に切り取って負の側面を誇張、『典型的なイメージ』を上からラベリングして貶める。『ステレオタイプ』という名の拘束具で全身を覆い尽くされた襲撃者たちは大幅にその力を減じて身動きを封じられてしまう。
そこから始まったのは一方的な蹂躙だった。
アイバイザーの呪術師は数で勝る襲撃者たちを一人、また一人と始末していく。
淡々と作業のようにアストラル体を呪い殺していく黒檀の民女性の姿を見て、イルスは思わずアイシャの表情を窺った。浮かんでいるのは完全な無表情。
「彼女がウネム。今の私たちにとっての指揮官」
予想よりも感情が乏しい。言葉から相手に対する想いが感じ取れない。
あの物騒な女性が集団の統率者なら、『仲間』『同志』といった意識がありそうなものだが、どうもそういった性質の集団でもないようだ。
水晶と書物に満たされた広間の空気はどこか冷えている。
淡々と侵入者を始末していくウネムなる女性は最後の一人の前に立ち、手を相手の頭上に置いた。呪いに苦しみながらもどうにか言葉を絞り出した男が絶叫した。
「我々を、統合体を裏切るつもりかっ、センチネル!」
「これは粛清だよ、ゲートキーパー。不要な司書は一掃する。私たちこそが狂王子の理想を継承し、時代の要請に応えて正しくアップデートする存在だ」
「異端者め、貴様などがヴァージル様に触れ、ぐあっ」
無機質な最後通牒。呪殺の瞬間、イルスは奇妙なものを目撃した。
ウネムという女の頭上、直前まで何もなかった空間に方形の水晶ケースが出現し、淡く発光してから消えたのだ。
ただそれだけなら何らかの呪具だろうと納得するところだが、薄気味が悪いのは水晶の中身だ。そこに収められていたのは小さな頭部。月人の子供の生首だった。
言葉を失うほど美しい少年の顔が、眠るように瞳を閉じて安置されている。
種族は太陰人であるということしかわからない。
兎の耳であるようにも妖精の耳であるようにも思えたし、その両方であったような気もするが、印象と記憶は曖昧に混濁してはっきりとは定まらなかった。
「ウネム、派手にやりすぎ。アイシャと、その、お兄さんが引いてるよ?」
戦闘が終わったタイミングでやってきた人物はイルスも知る顔だった。
予想していたが、はっきりと突きつけられると言葉が浮かばない。
アイシャと共に生き残っていた重傷者は傷一つ無いアストラル体でこの場に降り立ち、気弱そうな表情で発言していた。
確か名前はマリナ。そのアストラル体はキノコ人の呪いによって苦しめられているという話だが、イルスにはそのような呪縛は見つけられなかった。
「マリナにアイシャ、ようやく来たか。首尾はどうだ。報告しろ」
「見ての通り、連れてきたわ。これでいいんでしょ?」
アイシャは自分の兄を示して投げやりに報告した。それに対する反応は二種類。
ウネムは無言で頷き、マリナはおずおずと、だがはっきりと否定的感情を示した。
「自分の、わがままなのに。偉そう。もうちょっと、何かあるんじゃないの」
「なにが言いたいのかなマリナちゃーん? 寝っ転がって三文芝居してただけの奴が何か文句でもあるわけー?」
挑発的な言葉と全く笑っているように見えない笑顔を向けられてマリナは身を竦ませる。気弱そうな態度、張り詰めながら常に怯えている様子、卑屈な表情と口調。気の強いアイシャとはいかにも反りが合わなそうだとイルスは思ったが、第一印象を裏切るように気弱な声が続く。
「えっと、カビ臭いガリヨンテのおめかしで気を張ってるだけの人に強がられても、そのう、滑稽なだけだから、やめたほうがいいんじゃない?」
「うるさいよ根暗。バカ。もっと早く喋れ。レルプレアとかしょーもない負け犬に頭下げんな情けない」
「ババア女神の信者とか死ねばいいのに」
険悪一歩手前の気安さ、あるいは距離の近い仲の悪さ。
だが予想していたより一方的な関係ではない。マリナという一見して気弱そうな女はこのアストラルの世界で確かな存在感を有しており、長い黒髪を飾る花のヘッドピースからはイルスにとっても馴染み深い性質の呪力が感じられた。
ティリビナ人、とりわけプリエステラから感じられるレルプレアの呪力。
このマリナという女からはどこか樹木の匂いがする。
「えと、態度だけおっきい人は置いといて報告ね。プリエステラは心を開いてくれそう。『器』に向いてるよ。本当の意味でアルラウネ断章に愛された巫女だね。明らかに私よりも重要な記述を宿してるみたいだった」
「とすると最大の障害は『花のアヴロノ』か。タマル、どうだ」
ウネムが問いかけたのはまた別の人物だった。
この場には最初からウネム以外にも人が居たことにイルスはそこで気付いた。
部屋の隅、書架のすぐそばに置かれた椅子に座って黙々と読書をしていた黒檀の民女性が静かに本を閉じてこちらを見た。
ハーフリムの眼鏡の奧には理知的な黒い瞳。縮れた頭髪を編み込んで幾つもの房にした髪型と、黄色い天然ガラスの首飾りが目を引く。身に纏う祭服は赤黒でなく暗い茶色。戦場で戦う僧兵ではなく日常で説教や布教、告解を執り行う式職者の証だった。
低めだがよく通る声でタマルと呼ばれた女が言った。
「スーリウムはライラに始末してもらう。そのために奴を計画に引き入れたんだから」
「あいつ、ガチで殺されたの? タマルのイリスがいくら高性能でアズーリアのフィリスがどんだけインチキでも、あの犬のお化けを殺せる気が全くしないんだけど」
アイシャが純粋に疑問といった口調で問いかける。その口調はマリナに対するものに比べると幾分か柔らかく気安い。それを受けたタマルも幾分か砕けた態度で答えた。
「死んだよ、間違いなく。あの場にはデルヒもいたから誤魔化しなんて通用しない。殺害や解体、存在否定や抹消くらいだとライラは『忘却の向こう』から帰ってくるってだけ」
イルスはぞっとしながらタマルの言葉を聞いていた。
この集団が話しているのは勝利を持ち帰って帰還したアズーリアたちの報告を嘲笑うような真実だった。それを自分が聞かされているという状況。それが指し示している絶望的な現実。イルスは遠巻きに見ていただけだがライラという虹犬呪術師の実力は常軌を逸していた。その強さの質は彼の予測を更に上回っている。
曰く、ライラ・ラプスの不死者としての格は大したものではない。
膨大な命数がありながら守りはおざなり、再生速度も頭抜けているとは言えず、不死の背景に『キュトスの姉妹』のような権威や固有性があるわけでもなし。
だがそれは定命か不死かに拘る必要がないからだという。
「ライラは死ぬと時の流れが異なるあの世で修行を繰り返し、命数限界を引き上げてから現世に帰還する。その間も朱の色号で夢の世界には干渉できるとか」
「こわ。もう神か何か?」
「実際、あれは虹犬の神話体系では立派な神格の一柱。不死ではないけど、黄泉がえりの伝承を持つから殺しても時間稼ぎか嫌がらせにしかならない」
タマルとアイシャのやりとりは恐るべき事実を明らかにしてくれたが、ウネムはそれを取るに足らないことだとして切って捨てた。
彼女たちにとって、ライラは敵として認識されていない。
明らかにアズーリアが見た光景と矛盾している。それが意味しているのは、つまり。
すぐそばでアイシャが笑った。「もうわかったでしょ?」と意地悪そうに囁く。出来の悪い兄が失敗したときに浮かべる笑み、イルスが嫌いな表情だった。
「ライラとキノコ人が『悪玉』として虫態アヴロノたちを脅かしたところに『善玉』の『黒蟲騎士団』が駆けつけて守る。そこに『地上の修道騎士』も加勢して一件落着って筋書きなわけ。敵がいっぱいいると、そのうちのいずれかとは利害が一致して協力できそうな気がしない? 気のせいだけど」
「お前たち、キノコ人武装勢力と最初から繋がって、いやそれ以前に『黒蟲騎士団』や第六階層とも結託していたというのか」
「ライラたちは姿を隠し、本物の『虫王の卵』を運び込んでその時を待つ。古典的だけど効果的だった。強引ではあったけど、話に一区切りついた感じには持って行けた」
「ではヴィティス司教の死は偽装か!」
「いや、ちゃんと死んだよ。あの人は戦闘が得意ってわけじゃないし、ライラ・ラプスに敵うわけないじゃん。キノコ人や虫王の仔までいたんだし、普通に勝てないって」
あっけらかんと言ってのける妹に、イルスは何も言えなかった。
地獄の勢力と手を組み、自分の上司や仲間を犠牲にしてまで彼女たちは何をしようとしているのか。その方向性が全く見えない。得体の知れない恐怖に身を震わせるイルスの前で、女たちは着々と計画を進めていく。
「いいか。傘の魔女をあまり信用するな。奴は簡単に御しきれるような存在ではない。その力の強大さもそうだが、腹の底に何を抱えているかがまだ読めない。私たちと通じる一方でガロアンディアンや呪文の座どもに擦り寄っていてもおかしくはない」
ウネムの言葉は険しい。同意するように三者が頷いた。
統率は取れている、と思ったのも束の間だった。頭上から荒々しい声が乱入し、リーダーの示した警戒心に真っ向から反するような意思を示した。
「いいじゃんかよ、裏切り上等じゃん。集団なんざ最後にはばらけて殺し合い潰し合いってな。むしろ楽しいくらいだね。そうなったらライラとやるのはオレだ。譲らねえぞ? もうこっちはバトルする気満々だからよ」
背の高い書架の上に行儀悪く胡座をかいているのは、またしても黒檀の民。木と砂の呪動義肢、修道騎士の胸当てを押し上げる筋肉質で大柄な体躯、形の良い頭部を露わにした禿頭。ふてぶてしい笑みを浮かべた女は猛禽の瞳でイルスたちを見下ろしていた。
「アクィラ。第五階層での活動は進んでいるのか。お前には公共施設や宿泊施設、飲食店などに対する配慮強要と権利要求を軸とした売名行為を命じていたはずだが」
「おう、ばっちりだ。衝突は黒檀の民にとって『権利』ってな。多数派に媚びて生きろ? 郷に入っては郷に従え? でかい声、でかい面、鼻つまみ者で上等じゃねえかよ、自由で対等ってんなら殴り合うべきだろ、お互いに満足するまでよお!」
粗野で横柄な振る舞いは集団の性質が穏当ではないという予想を十分に裏付けるものに思えた。アクィラと呼ばれた女は両の拳を打ち合わせて獰猛に口の端を吊り上げる。
「第五階層に新しいムーブメントを作っていこうぜ。亜大陸の信仰を取り戻せってな。槍神教に立ち向かう同志を募るんだ」
「予想通り『リビコッコ』というマレブランケの席が『黒檀の民枠』だとすれば有力な候補は絞られるだろう。私は引き続き『ハルムシオンの風』への工作と並行して分断呪詛の伝播を行う。お前はシナモリアキラ選の準備だ」
対照的にウネムはどこまでも冷静だ。
そしてこの呪術師は冷静なまま多数の敵を排除できる。
どちらにしても結論はひとつ。この集団は殺し合いを目的達成の手段に選ぶことをためらわない。それはアイシャも同じだろう。
ウネムのアイバイザーに隠されてその表情は分かりづらい。その口調には感情は乗っておらず、内心を推し量ることも難しい。
それでも確かなことがひとつある。
「私もこれまで以上に動く。イアテムの反動から生まれた『男根狩り』運動。被害女性救済のための加害男性排除キャンペーンの促進だ。弱者男性から狙って叩き、男の中からも分断を促していく」
ウネムという女は悪意を機能的に運用している。
それが結果としてどのような悪意を連鎖させるのかという影響も含め、狙った通りの憎しみが育つように画策しているのだ。
「男性嫌悪と一体化した予防的自衛の呼びかけ。蛮族と文明人との切断処理。大半の種族に共通する性差から分断する。ああ、まずは実験だ。ここから始めていこう。感謝するよ、アイシャ」
「うん。どういたしまして」
そして、そのような思考をするのが集団全体の傾向であるとするならば。
かつて『我々』という身内の一部であった妹もまた、今や『彼ら』という他者であるという現実にも直面せざるを得なくなってしまう。
イルスは対話や説得、懐柔工作といった展開を予想していた。
家族が自分を裏切ることはない。その前提が自明のものとして存在していたからだ。
結論から言えば、それは間違いである。
「ごめんねイルハム。はっきり言ってしまうと、あなたがどんな決断をするかは問題じゃなかったの」
「アイシャ?」
「これは私たちの意思。だから、何があっても兄さんのせいじゃない」
五人分の視線に全身を貫かれたイルスは身体が竦むのを感じた。
金縛りにあったかのように停止したアストラル体は意思の発露すら許されない。
目を伏せる妹、手のひらを向けるアイバイザーの呪術師。
ウネムの頭上に再び美しい少年の首が出現する。
閉じられた目蓋がわずかに持ち上げられ、水晶の中に閉じ込められた少年が微睡みの中からイルスを見据えた。血のように赤い眼光が明滅し、瞬きの直後に全てが幻と消えた。
「逃げ」
言い終わらぬうちにイルスは崩れ落ちた。意識を失った男の精神体をアイシャが抱き留める。最後の言葉が誰に向かって語りかけたものであるのか、もはや失われた答えが明らかになることはない。床に横たえた兄の頭部に手を添えたアイシャは小さく呪文を唱え始めた。その儀式を眺めながら、ウネムは冷ややかに言った。
「速やかに調整しろ。認識と記憶の齟齬が無いようにな。しくじるなよアイシャ」
「わかってる。自分の兄だもの。自分で守るよ。そういう温情でしょ、これ」
「そういうことだ。せいぜい感謝することだ」
他人事のように言ったウネムはそれきり関心をなくしたように二人から視線を外した。
もの言いたげに一部始終を見ていたタマルが眼鏡の縁をつまみながら問いかける。
「で? べらべら喋ってた計画はちゃんと使うつもり? それともまた誰かに聞かせるために用意したブラフ?」
「さて、どうだろうな。虹犬やキノコ人どもがどの程度までこちらを警戒しているかにもよるが、見せるための張りぼてだろうとそれらしくは仕立てるさ。ほら、こうしていると私もそれなりの格好に見えるだろう?」
ウネムは微笑を浮かべ、片手の魔導書を開いて持ち上げてみせた。
アクィラが鼻で嗤い、マリナが苦笑し、タマルが目を閉じた。
黙々と自らの役割に専念するアイシャはウネムを見てすらいない。
それを知りつつも女は大仰な身振りをしてみせる。
どこかの誰かに見せつけるように、緞帳が上がるのを意識して声を張り上げた。
「さて、これにて舞台は整った。星々の如き役者は勢揃い、主役は恐るべき自殺者の森に足を踏み入れた。英雄好漢たちが直面するは地獄の苦難、そして暗闇に潜む醜い怪物が与える試練。主人公たちの華々しき王道を盛り上げるべく、これより我らリビュエー隊が演じますは不和歌う怪鳥ハルピュイアイ!」
怪鳥が飛び交う森の奥深く、暗がりに潜んだ五人の女たちが立ち上がる。
ウネム、マリナ、アクィラ、アイシャ、タマル。
血の繋がらない、それでも同じ意思で結びついた五人姉妹。
一番から五番までの数字が刻まれている、鳥の翼を象った認識票をそれぞれが手に持ち、所属を確かめるように視線を交わし合った。
そして、不揃いな声が異郷の歌を響かせる。舞台を彩る音楽は亜大陸に伝わる古いものだ。神と精霊を讃え、実りを祈る素朴な叫び。
それは嘆声でもあった。焼かれて死に逝く亜大陸人が絶望の中で響かせた歌。
祝祭前夜。醜い怪鳥たちが喉から絶望の歌を絞り出す。
暗く澱んだ未来を呪うように。
誰にも届かない歌を、虚ろに響かせた。
第四階層での戦闘は終わりを迎えつつあった。
純白の神働装甲を纏った部隊が挙げた戦果が流れを決定付け、守護の九槍第四位カーズガンが屍と化したヴィティスを制圧したことで全ては決着した。
キノコ人たちは『下』から送りこまれた虹犬の高位呪術師が従属させていた使い魔に過ぎず、地上の眷族種として認められている彼らを『異獣』として扱うことは不当である。
第四階層の掌握者を暫定的に引き継いだカーズガンはヴィティスの配下であった修道騎士たちの進言を聞き入れ、戦闘の停止を宣言した。
首謀者である『汚物屋』は捕縛され、残るキノコ人解放戦線の幹部『葬儀屋』『虫飼い』は逃走したものの共に重傷を負い管理権限もカーズガンの配下である呪術師たちによって剥奪されていた。既にキノコ人たちは第四階層の脅威ではなくなっていたのだ。
だが、敵対理由がなくなったからと言って敵意が消えるわけではない。
散り散りになって階層のあちこちを逃げ惑う敗残兵たち。
今度はこちらの番とばかりに攻撃性を露わにして復讐を行う第四階層の修道騎士たちの顔は憎しみと怒りに染まっている。殺し合いを止めろと言われて止める者がいれば、止められない者もいる。それは必然の殺戮だった。
「どこに行きやがったあいつら! 探せ、草の根分けてでも見つけて殺せ!」
必死に逃げ隠れするキノコ人たちを追いかける凶相の兵士たち。
それだけの人間が殺されている。
この復讐心を育てたのは他ならぬキノコ人たちだ。
理解できていても、迫り来る死は恐ろしい。
既に敗北した戦いに希望はない。ただ殺されるだけという絶望が心を苛む。
そんな時、どこかから音楽が響いてきた。
勇壮でいながら異国風、聞き慣れないようで馴染み深く、民族調の打楽器と電子音が入り交じる軽快な行進曲。
「いいですな。この戦場の空気。敵を駆逐するという感情の発露、その無意味な勢い! 空虚な衝動が激突するこの躍動感こそが戦場の醍醐味というもの。このアレッシオ、久々に安酒に酔いしれることができて非常に満足です」
守護の九槍が第八位。戦いの混乱の中で果てたかに思われた男がそこにいた。
無傷である。服には返り血ひとつ付いていない。
驚くほど無防備に悠々と森の中を歩いて行くその姿を見たキノコ人たちは、『もしかしたら』という希望を抱いた。
服装から高位の聖職者であると判断できる。
人質にすれば生き残りの道が開けるかもしれない。
見るからに直接戦闘が得意なタイプではない。
服に汚れひとつないのも、後方で高みの見物を決め込んでいた男が今になって脳天気にやってきたから、ということも考えられた。
数人の敗残者は絶体絶命の窮地を打開すべく、襲撃を敢行。
あえなく失敗した。
一番槍として突出した勇敢なキノコ人の脳天に突き刺さったのは手斧だった。
それは呪文と歌に乗せて投擲された呪術の一撃。
先程から響いている軍歌、それを歌い続けている『女性の声』の持ち主による殺戮だ。
「おお、感謝します。やはり持つべきものは優秀な使い魔ですな」
「ばっかじゃないの。プロデューサーさあ、さっきもそうだけど緊張感なさ過ぎ。私がいなかったら呪殺されてたでしょ。監視対象に殺されてたら世話ないっての」
返ってくる声は歌声と同じものだが、会話の途中でも歌が止むことはなかった。
軍歌を歌うのと並行して言葉を歌っている。
奇妙な表現だが、少女の声はどの言葉も歌のように響くのだった。
「担当アイドルを信じていますので。いやそれにしても期待どおりの言動、調教通りのツンデレムーブで素晴らしい。やはりツインテールの細かい動きで本心がバレバレというチョロ感と可愛げは今の時代でも通用しますな」
「キモいんだけど?! そういうのやめろっての!」
ぷりぷりしながら頬を膨れさせる少女。右が金色、左が銀色という二色に分かれた髪と瞳を持ち、煌びやかに発光する電飾が衣装を飾る。左右で括った髪房を指先でいじりながら憤慨する仕草にもどこか計算された媚態が見え隠れしていた。
印象的なのは、ときおり声に奇妙なイントネーションの乱れが現れること。
滑らかな言語の運用に限りなく近付けているがどこかが違う。
それは自然な言葉をいちどバラバラに分解し、もういちど綺麗に再配置した結果として生じてしまった微妙な違和感だ。
アレッシオの眼球表面を高速で文字列が流れていく。彼だけに見えている画面の中で、既に存在する音の素材を配列する作業が高速で行われ続けていた。
「あとこれはツインテールじゃなくて」
歌いながら、少女が襲撃者たちに向き直る。
容易いと侮った相手からの反撃、可憐な見た目からは想像もできないような剣呑な殺意に怯えて足を竦ませているキノコ人たちは恐怖した。
これは、見た目通りの存在ではない。
「ツイントマホークだって言ってんでしょ」
金銀二色の髪房が硬化。少女がツインテールを掴むとそれは柄となり、抜き放つ仕草と同時に頭部に埋まっていた刃が露わになった。
呪文が刻まれた巨大な武装。
金の斧には『沈黙』、銀の斧には『雄弁』と刻まれている。
「黙るのと喋るの、アンタに必要なのはどっち?」
「そ、そんな物騒なもの、どっちも願い下げだ!」
「正直なコは好きよ。ご褒美をアゲル」
二振りの殺意にかわって三番目の選択肢が宙を舞った。
歌によって紡がれた呪文の帯が『ごく普通の呪文斧』を形成。
投擲、追尾、殺戮、帰還。
阿鼻叫喚の地獄絵図、その中にあって諦めずに反撃の機を窺っていた一人が胞子を撒き散らして呪文を減衰させ、放棄されていた害虫の死骸を操ってけしかける。
「望むのは『沈黙』だ! 対抗呪文を構えろ、力と力の勝負だ!」
相手の呪術傾向を推測した上での真っ向勝負。
笑顔でそれを受けた少女は金色の斧を投擲し、それを追うように走り出す。
斧が害虫を砕き、その影から飛び出したキノコ人の拳が虚空を打つ。
狙い定めたはずの一撃が空振りに終わって困惑するキノコ人。
軽やかな跳躍からの回避、その行き先は遙かな頭上だ。
くるりと華麗に一回転して急降下。傘への踏みつけは強烈だった。
「嬉しいでしょ? 私に踏まれるなんて体験、一生に一度しかできないんだから」
キノコをかち割る一撃は銀の斧によってもたらされた。
信じられないものを見るようにキノコ人が呻く。
「そんな、ちゃんと選んだのに」
「選んだ斧しか飛んでこないのは正解。選ばなかった斧は私がぶん回すけど」
既に絶命しているキノコ人に説明すると、少女は斧を自分の側頭部に振り下ろした。
続いて害虫に突き刺さっていた金の斧もひとりでに浮かび上がってくるくる回りながら少女の側頭部に激突。尋常な生物であれば致命傷ものだが、少女は平然としていた。脳髄に叩き込まれるために存在する呪文斧は、当然の理として使用者の頭蓋にも挿入することができるからだ。
いつしか戦場には人が集まり始めていた。
一部始終を見ていた修道騎士たちは『キノコ人狩り』どころではない見世物だと興奮した面持ちで言葉を交わし合う。
話題の中心は九槍アレッシオではない。
彼が従える少女、華やかな見た目の仮想使い魔である。
「あれ、新しい霊詞の歌姫じゃないのか」
「あんなボカフェ見たことないぞ。マーチPが新作ひっさげて祝祭で新しいコをお披露目するって噂は本当だったんだな」
それはボーカルフェアリーと呼ばれている。
メロディーと歌詞を入力することでサンプリングされた人の声を元にした歌声を合成するというソフトウェアであり、杖に寄った音楽系呪術師たちにとっては馴染み深いツールではあった。
このソフトを利用して仮想使い魔を『調教』するコンポーザーは慣例として『P』や『楽士』などといった敬称で呼ばれている。
目の前にいる少女は既知のボーカルフェアリーではない。
市販されていない未知のコンテンツ。これから発売されるのだろうか?
期待の視線が集まっていく。満足そうに頷きながら、アレッシオの耳は噂の内容をしっかりと確かめていた。『気付く』者がどれだけいるか。予想より少ないのであればこちらから積極的に開示していくことも必要になる。
しかしその心配は不要だった。誰かが待望の言葉を口にしたからだ。
「なんか、『Spear』の声に似てないか?」
「言われてみれば歌姫感ある」
「もしかして提供者って」
小さな噂、その萌芽が確認出来れば今はこれでいい。
アレッシオは満足して次の広報活動に赴こうとするが、どうしてか少女は機嫌を損ねてしまっている。ふんと鼻を鳴らして足を踏み鳴らす。
「なによ、結局あっちの名前ばっかり」
「彼女は言わばあなたのボーカルフェアリーとしての親です。リスペクトを大切に」
「はいはい。リスペクトしてぶっ飛ばす。それでいいでしょ?」
「計画に問題が無ければ、あなたは普通の後輩としてデビューするんですよ。もちろん、彼女の軌道修正役としてね」
宥めるアレッシオの言葉は口調ほど穏やかではない。
少女の好戦性にも似た挑むような意思がそこにはあった。
「なんだ、結局やることはいつものプロデューサーと同じじゃん」
「わたくし、マーチPですからな」
不敵に笑う主従はごく自然な噛み合いを見せていた。
少女が男を追い越し、堂々たる態度で前を歩く。
と、アレッシオが不意に持ち上げた指先に虫が止まる。
火蜂だ。松明の騎士団では戦闘、伝令、儀式で用いる蜜蝋まで幅広く利用されている使い魔である。その針が宿す小さな炎が何らかの情報をアレッシオにもたらし、そのまま灰になって消えていく。
「ほうほう。わたくしが見ていないうちに、あちらは中々面白い事になっている様子。いやあ、優秀なアイドルだけでなく、忠実な『目』にまで恵まれて幸せです」
「なに? ティリビナの巫女とケンカしてんの? ウケる。祝祭で世界平和ーとか歌っておいて身内でギスってるとかマジでオワコンじゃん」
浮き立つ心を隠そうともせず、敵意と戦意を肯定すべきものとして身の内に飼い慣らす。感情を反映して跳ねるツインテールは少女の武器、闘争心そのものだ。
「めっちゃ楽しみ。すぴあーとかいう素材女がだめだめだったら、満を持して新世代アイドルの出番ってわけ。ま、声質がいいのは認めるけど? それ以外はどうかしらね」
「まさしくその通り。試練の時は来たれり! 時代のうねり、古きは新しきに常に試され続けるのがこのアイドル戦国時代の常! 過去は今に勝てるのか? はたまた古びた殻を脱ぎ捨てて現在に適応できるのか?! 見ものですな!」
特任司教アレッシオ。
呪文の座の末妹候補ハルベルトが祝祭でライブを行うにあたり、最も警戒する大神院からの刺客。だがその脅威の本質は、プロデューサーとしての干渉や宗教的政治的な思惑からの介入といったアズーリアが想定していた類のものではない。
「のーてんカチ割られるのを楽しみに待ってなさいよ、全世界の愚民ども。このボーカルフェアリー・ハチェット様の時代がすぐに来るんだから!」
新時代を待望する歌が第四階層に響き渡る。
斧の名を持つ呪文の妖精。
それは『歌姫Spear』の価値を問う、人工の歌姫である。
未来のために人は戦う。
あらゆる世界、すべての時間、他愛ない生活のふとした瞬間、身の回りで発生するささやかな選択の積み重ねに至るまで。
命とは、未来を紡ぐために繋がれていく。
「黒蟲騎士団と第六階層の未来のために!」
叫びは殺意。雨霰と降り注ぐ呪詛は希望の矢。
人は明日のために敵を殺す。今日、この瞬間のように。
夜闇を裂く白光を踊るように回避しながら一人のアヴロノが長い脚を振り上げる。
勢いのある蹴り、その影に隠れるようにして毒針が追撃。
サソリの尾。襲撃者が身に付けていた胸当てを容易く貫通した一刺しは速やかに呪毒を注ぎ込むと次の標的を探しはじめる。胴体の動きと連動せず自由自在に曲がってくねるその様は、さながら一匹の巨大な蛇のようでもあった。
無慈悲な殺戮を繰り返しながら、言い訳のように呟く。
「第五階層にだって、未来はある」
ありふれた思想こそが最も強い。
シンプルな動機、それゆえに存在を賭けるに値する目的。
忘却された偽りの世界、その片隅でひっそりと生きる平凡な民のひとりひとりが持っている『生存』という素朴で力強い物語。
ガロアンディアンの機械女王という『主役』の守護者たるマラコーダにとってそれは尊く、主と同じように守るべきものだ。名も知らぬ民草たちは主が広げていく神話の媒介者であり、担い手でもあるのだから。
だが古き妖精王の裔フィド・シュガにとっては違う。
命とは眩しく、それゆえに恐るべきものだ。
蛇蝎王ハジュラフィン。その血を受け継ぐシュガ氏族。槍神の教えを受け入れず、妖精の帝国と敵対し、地上文明圏と相容れない『異形の諸部族』。
異獣として人類の大半と敵対している蛇蝎の王国はその一方で確固たる文明圏を持たず、呪力資源の不足を補うために『星見の塔』に接近するに至った。
マラコーダが末妹選定に身を投じることになったのもその縁ゆえのことだが、トリシューラの配下となってからというもの、すっかりその事実からは遠ざかっていた。
久々に思い出した。
恐怖される感覚。
森の怪物として血に塗れる忌まわしい記憶。
同胞たちの中にあってさえ異端とされる嫌な空気。
忌み嫌われることは魔王の後継者としてはむしろ誉れである。
だがマラコーダはそれに馴染めなかった。
異物ゆえの聖性。畏怖ゆえの信仰。
そんなものより、もっと俗な好意が欲しかった。
単純な共感が最初にあった。
トリシューラを守るという使命が心地良いと思えるのはそのせいかもしれない。
種族の歴史、政治的思惑、派閥抗争に上位存在たちのせめぎ合い。
そうしたしがらみから逃れられずとも、その感情に嘘はない。
それだけに、ずっと忘れたままでいたかったのだ。
未来に向かう尊い命。
それをゴミのように摘み取っていくかつての自分に戻るのは、少し疲れる。
夜闇に紛れて襲撃を仕掛けて来たアヴロノたちを血の海に沈めながら、マラコーダはこの件の事後処理について頭を悩ませていた。疲労感など覚えている暇はない。
非戦闘員が多数宿泊する整備所は夜でも明かりが灯されたままだ。
レース本番を目前にして、関係者たちは交代で、あるいは夜を徹して準備を続けている。それを邪魔させるわけにはいかなかった。
だがよりにもよって昼間の一件があってすぐにこれだ。
あるいは、黒蟲騎士団の仕業に見せかけた別勢力の襲撃だろうか。
答えはすぐに明らかになった。
マラコーダが振り向きざまに回し蹴りを放つのと、飛来した蜂の魔弾が標的に命中するのはほぼ同時だった。
倒されたふりをして奇襲しようとしたアヴロノが呻き声を上げて倒れる。
マラコーダは長い足をゆっくりと地面に降ろすと、整備所の方からやって来た少女に微笑みかけた。警戒心と敵意に満ちた視線が返ってくる。
アズーリアの取りなしで矛を収めてはいるが、ローザ・パルサという修道騎士は北辺帝国人だ。敵国のマラコーダに簡単に気を許せるはずもない。
「それ。黒蟲騎士団さんとか、あの集落の人たちじゃないですよ。私の蜂さんたちが集めてきた記録に漏れが無ければですけど」
「やっぱり別口か。私の呪力で解呪できれば言うこと無いんだけど」
感情は別として、情報の共有は必要だった。
マラコーダが長い尾で倒れた襲撃者の頬をつつくと、呪術で作られた質感が剥がれて黒肌が露わになる。中原や北辺の半妖精には無数の氏族が存在しているが、黒い肌をしているのはたった一氏族のみだ。ある意味では、シュガ氏族よりも嫌悪されている。
偉大なる妖精皇帝エフラスの父、紀人ネビロン。
悪逆の暴君としてアヴロニアを放逐された混沌の申し子にして闇妖精の盟主。
その末裔たちは『魔王』の威光を傘に犯罪と暴力によって闇の中で命脈を繋いでいる。
「『十戒』ね。『豚好きハデス』が動き出したか」
「なんだネビロン氏族のゴミですか。シュガ氏族といい、第五階層って堕ちた妖精王の手下だらけなんですね。治安悪そう」
アヴロノ社会において、黒い肌は反社会的組織のイメージと結びついている。
それゆえか敵を見下ろすローザの目は冷ややかだ。
マラコーダは少しだけ考えてしまう。この少女の仲間には黒檀の民が含まれていた。
黒檀の民とネビロン氏族は人種どころか生命の在り方として根本的に異なる存在だが、果たしてそのような事実はどれだけ認識に影響を及ぼすだろう。
考えても詮無いことだと割り切りつつも、言葉は言い訳じみた色彩を帯びる。
「生き方を選べなかったものたちの最後の選択、行き場がなくなったものたちの吹きだまり。そういう側面があるのよ、ガロアンディアンには」
「納得。祝祭ライブはそういう可哀相な人たちを救ってあげるために必要なんですね。ちゃんと改心してまともになるならいいけど」
あまりにもあっさりとした反応だった。
毒気のない笑顔を浮かべるローザに対する視線が、知らず強くなった。
言葉は自然に口を衝いて出た。
「祝祭はあくまでも象徴。切っ掛けに過ぎない。未来をより良くするのは個々人の行動。もちろん、私たちガロアンディアン中枢の働きにもかかっている」
「ふーん?」
ローザはいまひとつぴんと来ていないようだった。
溝を埋める方法も、溝が何なのかもマラコーダにはわからない。
この断絶は、おそらく理解よりもっと根本的な位置に存在している。
「あなたにも理想はあるんでしょう? 未来のために戦おうという意思があるからこそ、この場所に立っているはず」
「先の事なんてわかんない。とりあえず今はやりたいことやって楽しく生きてればそれでいいかなって。英雄の部隊とか紛争地帯で祝祭とか、大変だけど退屈しなさそうだし」
だから、嫌な奴は視界に入らなければ許容できるし、『歌姫』のように素晴らしいものを理解できるのであれば許容の域はその分だけ広がる。
ローザの姿勢について是非を問うことはすべきではないとマラコーダは自分を戒めた。
彼女のような在り方こそ普通というものだ。
しかし、言葉通りの思想の持ち主であると安易に思い込むのも危険ではあった。
パルサ灯台方伯は元は北方辺境の中央一帯を軍事力によって統括していた地方長官であり、かつては強大な軍閥として名を馳せていた。
過去形だ。パルサ家はアヴロノ社会では『当主が小鬼化して落ちぶれた名門』の典型例として語られている。
強大な妖精王であった『リグリーマ総督』は自我の崩壊と同時に『光明皇帝』を僭称してリーヴァリオン皇家に反旗を翻した。
不遜な叛逆者が帝国の剣と称されるアストレッサに討ち取られたのは数代前のことだ。
生まれてすらいなかったであろうローザには実感などあるまい。
そうであっても、『家』と『血』は思想に呪いを残す。
マラコーダはそれを経験から学んでいた。
享楽的に見えて胸の内に何を秘めているかはわからない。
探りを入れてみるか。少し考えたが危険な考えだとすぐに引っ込める。
だから、口を衝いて出た呪いは完全にマラコーダの制御下にない言葉だった。
「衰えたとはいえかつての北辺五大貴族の娘が随分と考えの足りないことね。そんな心構えでガロアンディアンや呪文の座の思想を正しく守ることができるとでも?」
「は? 喧嘩売られてます、これ? 駆除されたいってことですか」
「できるの? あなたごときに。蜂のアヴロノなら随分と殺してきた。ファラゾーラの廃棄妖精ごと酸毒の沼に沈めてやったことも一度や二度じゃない」
信じられなかった。
自分の中にこんなにも『異獣』に対する殺意が残っていたこと。
かくも容易く精神を支配されているということに。
強引に心を切開されていじり回されている感覚があった。
油断はなかった、それでも強制的に敵意を喚起されている。
己の立場を考えれば理性がこんな言動を許さないはずだ。
しかし、マラコーダではなく『フィド・シュガ』として生まれついた自分自身は目の前の小娘を強烈に嫌悪し、敵視している。
敵だからだ。同胞の未来を守るために駆逐しなくてはならない脅威だからだ。
東の文明境界から押し寄せてくる狂ったファラゾーラの失敗作ども。
叛逆者の汚名を濯ぐために必死になって武功を求めるパルサの蜂使いたち。
帝国のアヴロノは『人』ではない。忌まわしい怪物だ。
敵を殺さなければ明日はない。だから殺せ。だから戦え。
未来のために。正しい希望を掴み取るために。
双方の殺意が膨れあがる。
呪毒を宿した尾が鎌首をもたげ、蜂型魔弾を装填した巣がその姿を現す。
一触即発の空気は、しかし加熱が最高潮に達する寸前で急速に冷やされていった。
夜闇に紛れて割って入った木槌と枝矛。
裂帛の気合いと共に放たれた大地への打撃が緑色の呪術を発動させた。
急速成長する蔓状の巨大植物が敵意をぶつけ合っていた双方の間を隔て、現実を改変する寸前だった邪視を強制的に断ち切った。
それぞれに肉薄したティリビナ人がその頭部に向けて呪術を発動。
殺意どころか敵意すらない。発動したのは攻撃ではなく治療の術。
ゆえに目の前の相手だけに殺意を向けて興奮状態にあった二人はそれを回避できず、直後あっさりと我に帰った。
「あれ? 私なんでこんな。ガザさんとアデンさん?」
ローザが首を傾げて同じ部隊のティリビナ人の名を呼んだ。
マラコーダも冷静になって息を吐く。
もう少しで最悪の事態を招くところだった。
「ありがとう、助かったわ」
「いいや。俺たちはその、ローザが出て行くのを見かけたから妙に思って」
ガザとアデンという二人のティリビナ人はアズーリアの隊でローザと作戦行動を共にする仲間だ。マラコーダの目から見て、彼らの行動は自然なものに思えた。だがどうしてだろう、その口調には奇妙な後ろめたさがあるようにも思える。
呪術で一時的に成長させられた植物が急速に枯れていく。
柵が消え去り、先程まで敵意をぶつけ合っていた二人は視線を交わし合う。
お互いの出自ゆえの敵意は消えてなどいない。
だが、それを抑制する理性は取り戻している。
「どうする?」
「やめときます。私、ティリビナ人さんとは仲良くしたいから。ガザさんとアデンさんがやめろって言うならいい子にします。二人やアズ隊長が私のことを悪い奴だって疑うなら、そうじゃないってきちんと証明すればいいんだ」
いつもと変わらないトーンのようだが、やや陰があるようにも感じられる。
この寂しさは本物の感情だろうか。それとも演技?
そんなローザに対し、ガザは油断無く観察を続けながら枝矛を握りしめ、アデンは気まずそうに目を逸らしてマラコーダの頭部に念押しの解呪を行った。
『ティリビナ人と仲良くしたい』。
あまりにも単純で素朴な願いを、誰もそのまま受け止めることができない。
「マラコーダさん、だったな。こいつは恐らく『精神加工』って奴だ。似たような症例をバラニーダの戦場で見たことがある。黒アヴロノの傭兵は戦場の死体から発生する瘴気を媒介にして他人を操れる」
マラコーダは即座に香水を取り出して自分とティリビナ人、それからローザに定着させた。たちまちフレッシュなシトラスの香りが四人を瘴気から守る。
役割分担を決めていたわけでもないだろうが、ローザはそれに続くようにして赤い蜂を巣から発射してそこら中に転がっている死体を燃やしていった。
「香水か。何だか慣れないな、こういうものは」
「じきにオークモスのウッディな香りになるわ。グリーンハートはティリビナの人にもおすすめね」
「ほう。そういうものか」
感心半分、好奇心半分といった口調のアデン。
敵への警戒は解けないが、ひとまず危険は去った。
すぐにでもこの一件を各方面に報告し、警戒を呼びかけなくてはならないだろう。
『十戒』が動き出したということは、本格的に『豚好きハデス』が暗躍を始めたということだ。ネビロン氏族の『精神加工士』は達人であれば国すら傀儡にする。
かつての魔王ネビロンはそうして妖精王たちを従えていったのだ。
「敵は厄介だけど、きっと大丈夫ね。頼もしい味方がいるもの」
アデンは照れくさそうに愛想笑いしながら木槌を後ろ手に隠した。ガザはふんと鼻を鳴らしながらも少し誇らしげだ。
それを見たローザは面白くなさそうにマラコーダから顔を背けた。それから、身体から漂う香りをかき消すように自前の香水を取り出して身体に吹き付ける。
おや、とマラコーダは思った。
ローザが使っているのはセレスティアルゲイズの香水だ。セレスティアルゲイズは宝飾品や腕時計、眼鏡やカラーコンタクトレンズ、衣料品からレザーアイテムまで幅広く扱う高級邪視ブランドだが、香水でも知られている。
マラコーダの知識が正しければ、ローザは魔女が創業したセレスティアルゲイズでは珍しいユニセックスなタイプの香水を使っているようだ。もっとフローラルでガーリーなタイプを好むイメージがあったが、そうとは限らないらしい。
樫の木につく苔の一種であるオークモスは香料として知られる。落ち着いた森の香りは妖精たちが忘れて久しい故郷アヴロニアを思い出させるとも言われていた。
マラコーダはふと甘く愚かな思考に縋りそうになり、すぐさま否定した。
軽はずみな考えは危険だ。ローザという少女のことは何もわからないに等しい。
だから『案外と趣味が合うのかもしれない』とか、『彼女がティリビナ人と仲良くしたがるのは、生まれや家に対する複雑に屈折した反抗なのかもしれない』などと決めつけるべきではない。この先どう転ぶのかはわからないのだ。少なくとも、今はまだ。
苔むした臭気が辺りに充満している。
洞窟の中は暗く、陰気で、そして寒々しい。
『虫王の庭』の探索は順調だった。これまでの周回での困難が馬鹿馬鹿しくなるほどに支配的な勢力と遭遇しない。何らかの事情で動けないのか。だとすれば別の周回では違う場面で障害になるケースを考慮すべきだと長年の経験が警鐘を鳴らす。
(ギャハハ! どっちにしろ強引にしばき倒すんだろーが!)
「黙ってろ」
頭の中で響くやかましい声に苛立ちながらサリアはティリビナ人の身体を蹴り飛ばした。硬質な樹皮には短剣の通りが悪い。打撃による制圧を基本としながら殺意の篭もった呪詛を発動と同時に回避していく。
蹴りと回避、制圧と移動は同時に行われる。
サリアはすっかりティリビナ人相手の戦闘になれてしまっていた。
飽き飽きしていたと言ってもいい。
「くそ、貴様など緑天主様がいれば!」
「あの前座なら前回で撃破まで5秒切れるようになったよ」
問題はその後だ。立ちはだかる『ティリビナ同胞団』の意識を刈り取りながらサリアは思考を続ける。何度時間を遡り、『あの結末』を回避しようとしても奴が立ちはだかる。
前座の緑天主とて決して弱くない。初見では脅威を感じる攻撃も幾つかあった。
それでも、『花のアヴロノ』と比較すれば可愛いものだとしか思えない。
スーリウム。時間遡行者サリアが『勝てない』と確信してしまった相手。
心はとうに折れている。
それでも身体は動く。頭の中にいるのは狂った吸血鬼の残響だけではない。
大切な相手の記憶は消えていない。
いつだってそうだ。
絶望の中でこそ、首筋の冷たさはより強く感じられる。
『いいですか、サリア。どんな理不尽に思える死にゲーでも、優れたクリエイターはきちんとした解法や習熟プロセスを用意しているものです。『できること』をひとつずつ数えて、積み上げたものを確認していきましょう。優れたレベルデザインのゲームほど過去の経験が今に活きる。その繰り返しがプレイヤーを強くしてくれるんです』
「それでもダメなら、まだ見つけてない『未知』を探せ、だったかな」
かつて、追い詰められた強敵の発狂したかのような猛攻に心が折れそうになったサリアに対してコルセスカが放った言葉だ。当のコルセスカはその強敵を使用者の血を啜る魔槍とか氷の杭打ち機とかピーキーな武器を担いで初期レベル全裸プレイでしばき倒していたので当時のサリアは『お前の言うことなんか参考になるか』と臍を曲げていたものだが、今ならわかる。あれは金言であったと。
ティリビナ人たちを倒し、洞窟の奧へと進む。
このルートで正しいはずだ。
いま、このタイミングであればスーリウムより先に辿り着ける。
他の隣接異界で起こした『遺物』と連鎖して発生する各勢力の小規模な激突がスーリウムたちの足を止めてくれる。いかなる分岐にも介入してサリアを追跡、妨害することができるスーリウムはまさしく彼女の天敵だった。時間を遡って有利な分岐を選んでやり直せるサリアのアドバンテージは失われているに等しい。
だが、それでもあの強敵と何度も戦っていれば見えてくるものはある。
生来の高慢さ、気質に由来する必然の油断、存在の起源からくる優先順位。
そして、奴が苦手とする死なない魔犬の存在。
推測でしかないが、スーリウムはライラ・ラプスを避けたがる傾向がある。
これに気付くためにライラに三度も敗北し、一度などは目標を奪取されてスーリウムごと敗北を喫して撤退する羽目になってしまった。
いずれにせよスーリウムとて絶対ではない。
サリアなど簡単に対処できると奴は高をくくっている。
ならばより優先順位の高い『アルラウネ断章の保護』という目的を与えればそちらに飛んでいくはずなのだ。そして、『レルプレアの巫女』というのは重要度の大小こそ存在するが意外と少なくない。
というより、現在の第五階層に引き寄せられるように集められているのだ。
おそらく、超越的な上位存在の思惑によって。
そんな事情はサリアにとってはどうでもいいことだった。
神だ種族だ世界だと、それが『自分の人生』にとってどれだけ重要だと言うのだ?
サリアにとって大切なものはほんの一握りだけだ。
急げ、どうか間に合ってくれ。
サリアは走った。冷えていく空気、苛酷になっていく環境を『心地良い』と誤魔化しながら、人ならざる魔女と共に在るために自分の肉体に鞭を打つ。
やがて、サリアは最深部に辿り着いた。
開けた空間は不思議な光で満たされている。
天からの光が届かない洞窟であるにもかかわらず、そこには雪が降っていた。
ぼんやりと発光する小さな粉雪。
仄かに照らされた地面にはうっすらとした雪化粧。
その色彩は冬の白に赤が混じった珍しいものだ。
「あった! 奴らの伝承通りだ。氷雪藻、彩雪の間。封印の場所がここで正しければ、スーリウムの本命はここで間違いない」
(『苔の賢人』がボケてなきゃそうだな! あのじーさん、同じこと何度も繰り返しやがるしだいぶ記憶も怪しそうだったけど!)
サリアは渋面を作りながら目を閉じて数秒だけ休息する。
それから頭上を見上げ、どうか存在していてくれと薄目を開けた。
果たして、そこに神話は現存していた。
語られた言葉そのままに、彼女は眠り続けていた。
『とある洞窟にそれは封印されておる。『異なるティリビナ』の可能性、いつか復活する偉大なる救世主の魂は赤雪の洞窟の奥深くで逆さまの木に封じられている』
サリアが出会ったのはキノコ人ともまた少し異なる隠花族だった。
古代のティリビナ人は様々な在り方を模索していた。
そのなかのひとつが『藻』と共生した地衣類。
サリアがこの洞窟種族たちと出会ったのはしばらく前。
『冬の魔女伝承の蒐集』の一環である調査活動の中でのことだ。
ガロアンディアンが拡大を続ける過程で姿を消した種族は実際には細々と生き残り救世主の伝承を守り続けていた。遠くない未来に英雄が自分たちを救ってくれる。そんなありふれた、そして切実な願いを託された『いつか復活する救世主』の信仰。
『死人の森』はガロアンディアンの死人たちを呑み込む過程で幾つかの種族に干渉したようだ。ルウテトが仕掛けた布石。『意図的な冬の魔女伝承の歪曲』がそれだ。
『死人の森の女王』や『銀の森の魔女』、『繭衣の妖精王』などがそもそもルウテトという存在の基本方針を示している。
あの古い紀神は置いたきりの布石を幾つも抱えている。『十戒』がそうだし、『ディスペータ』もそうだった。当然、他にもあるだろう。
ティリビナ人は植物の種族。
冬とは相性が悪いように思われるが、何事にも例外はある。
『氷雪藻』の種族。
現代には存在しない、伝説上の種族である。
「出ろ、『氷筍』」
サリアは目を開き、掲げた手を天井へと伸ばした。
九氷晶がひとつ『氷筍』。
氷柱のようでいてそうではない。
洞窟の天井からは幾つもの石筍が滴り落ちそうになっていたが、それにも似ていない。
『氷筍』の本質は言ってみれば棺であり、同時にその鍵でもある。
冷凍睡眠によって擬死状態に陥らせた存在を封じ込める装置。
しかしただ解凍しただけでは溶けた氷が水を垂れ流すだけ。
これは『神話の封印』を概念化したものだ。
ゆえに、然るべき『封印の物語』を対象にとって発動させなければならない。
「いいぞ、そのまま眠ってろ。こっちに来い。スーリウムがお前を起こす前に、私がお前を連れて行く」
この洞窟に眠る『英雄』は隠花族の救世主だ。
それが意味するのは、希望だけではない。
英雄とは、救世主とは、違う面から見れば虐殺者になり得る。
顕花のティリビナ人に終末の冬をもたらす破壊の英雄。
それが『テテリビナとしてのコルセスカ』だ。
悔しさに唇を噛んだ。
スーリウム。怨敵を呪い、恨み、怒りに身を焦がす。
忌まわしい自己愛。独善的な美の感性。
あらゆるものを自分の好ましい枠に押し込めようとする傲慢さ。
反吐が出そうだ。絶対に殺す。
変わり果てたコルセスカの在り方を賛美する大輪の薔薇を思い出し、戦意を燃やす。
『氷筍』がまどろみの中に封じ込めた神話。
その名前を『朱雪華の魔女』という。
洞窟の天井からゆっくりと落ちてきた氷の円錐がサリアの手に収まる。
まるで透明な容器。この中に、サリアの大切な人が眠っている。
ただし、血のような赤に染まった姿で。
赤いコルセスカ。
その目覚めは隠花族を救済し、顕花族に破滅をもたらす。
本来はライラ・ラプスが手に入れて隠花族の切り札として活用するはずだった最悪の厄災だが、スーリウムは傘の貴婦人に先んじてそれを奪取することで最強の虹犬を打倒することを画策していた。
隠花族を醜いと蔑み、顕花族を美しいと称えるティリビナの庇護者スーリウム。
あの麗人の笑い声が耳から離れない。
美しいテテリビナとして存在を上書きされたコルセスカがキノコ人たちを虐殺する光景を見ながら、奴はあろうことか楽しそうに笑っていたのだ。
救いの手を伸ばしていた相手に殺されるというあまりにも救いのない結末。
目に焼き付いたコルセスカの表情。
スーリウムとまったく同じ笑み。
それを思い出したサリアは吐き気を必死に堪えた。
コルセスカが言うところのバッドエンド。そんなものは幾らでも見てきた。
その中でもあれは最も忘れたい類の悪夢だ。
春と共に歩む今のコルセスカは変質し、血染めの冬として勝利する。
「敗北と死ばかりが回避すべき未来ってわけじゃない。今のコアはそんなことを望んでいないし、私もそうなってほしくない。ただそれだけのこと」
(ギャハハハ! あれじゃあゲームもできねえしな! キノコ人ルートもコンプです! とか言い出すのが冬の魔女ってもんだろ!)
珍しく幻聴が良いことを言った。それともこれは願望が作り出した言葉なのか?
どちらでもいい。結論は一つだ。
時間を巡る戦いでサリアが負けることなどあってはならない。
彼女はそのために森の外に旅立ったのだから。
「私が好きなのは今のコアだ。お前らの好みなんか知るかクソども」
ぶっ殺す。
決意と共にその場を立ち去る。
救済の神話が失われた洞窟の最深部。
そこに幻想的な雪が降ることはもはやない。
伝説に眠る種族、古い隠花族を救うための奇跡は、そうして失われた。




