祝祭前夜2『今、ここにある断絶』
「こちらは金鎖機関統御用仮想使い魔、フラベウファです。第四階層で活動中の全修道騎士に通達します。第四階層掌握者ヴィティス特任司教の生命反応が停止、魂魄の制御を奪われました。以降、第四階層は不明な敵性勢力の掌握下に置かれたものと見なし、大神院によって戦闘区域に指定されます。当該区域で活動中の修道騎士は速やかに『猫のゲーム』に備えて下さい」
少女の声が無機質に響く。
修道騎士たちの兜や端末を介して伝達された凶報は耳を疑う内容だったが、延々と繰り返される音声にはささやかな疑念を吹き飛ばすのに十分な重みが備わっていた。
「つまり何か? 第七位のアホが死にやがった上に死霊術師に操られたせいでこの階層が丸ごと敵のもんになっちまったと? 間抜けかよクソったれ!」
キノコに寄生された巨大害虫を拳で粉砕しながら大柄な修道騎士が叫んだ。聞くに堪えない罵声を吐き出しながら動く死体を踏みつける。素手で怪物を殴り殺す巨漢の背後で、呪力噴射で飛行する神働装甲が低空の脅威を迎撃していた。両腕が分離、飛翔して羽根キノコを貫通していく。本来なら自由自在に飛びまわるはずの攻撃端末の動きに翳り。地面から次々と生えてくる不気味な樹木が障害物となっているのだ。
「この空間侵食は死体が使ってる浄界か。嫌な感じだ」
神働装甲は全身をくまなく覆っており、兜の内側は窺い知れない。
とはいえ感情を知るには声だけで十分。ハルベルトはフードの内側で兎の片耳をぴくりと動かした。物理的な大気の震えに留まらず、アストラル界における魂の振動も彼女には聞こえてしまう。ひどく『障る』。苛立ちを鎮めながら言った。
「落ち着いて。浄界は個我の発露。当人以外に強制されても大した脅威にはならない」
精神支配された術者の浄界は弱体化していることが多い。死霊術師の技量にもよるが、かのガルズ・マウザ・クロウサーでも死者の浄界を発動させた際には生前の半分の強度でしか維持できなかったと言われている。
「開けた地形が森に変化したのは面倒だけど、過度に恐れなくてもいい」
「付け加えれば、私たちには『言理の妖精』がついてるわ。胸に共存共栄の理念がある限り、『分断の呪い』が及ぶことは無い」
頼もしい声はプリエステラのものだ。ハルベルトは仲間たちの魂の音が安定していくのをはっきりと感じた。アズーリア不在のいま、部隊を率いているのはティリビナの巫女だ。ティリビナ人を複数抱えているこの部隊にとって、彼女の存在はアズーリア以上に不可欠と言える。
だがハルベルトの苛立つ理由は一つではない。幼児のように足を踏み鳴らしたい衝動を抑えつつ静かに深呼吸する。
森の出現により、一行は徒歩での移動を強いられていた。
せっかく作ったのに、と中をくり抜いた巨大カボチャを未練がましく振り返る。
思ったより可愛く仕上がったので自慢したかったのだ。
とはいえ鬱蒼とした森を巨大な花獣と十数人を積載した戦車が進む事は難しい。
ずんぐりとした獣は悄然として地面の下へと帰っていった。
「力を貸してくれてありがとう。またね」
プリエステラがにこやかに手を振って見送る。その後、ハルベルトたちは気を取り直してキノコ人グループの追跡を続けた。急がねばならない。第五階層に『卵』が運び込まれれば、第四階層で起きた災厄が再現されてしまうのだ。
「暗き森の古老よ、千年の眠りから目覚め、問いかけに答えよ」
ハルベルトは仮想使い魔を構築、擬人化した大樹に意識を発生させる。
悪意の森は立ち所に絵本の挿絵を彷彿とさせる光景に早変わり。木の幹に眠たげな老人の顔が浮かび上がり、小柄な魔女に語りかける。
「おやおや、どうしたのかねお嬢さん。道にでも迷ったのかな?」
「卵を担いだキノコたちを見なかった? ハルたちに道を教えて欲しいの」
「そんなことかい。お安い御用さ」
木々はどれも階層の天蓋に届くほど大きい。
まっすぐに歩ける道は無く、方位磁針を取り出せばぐるぐると回り出す。
そこでハルベルトは無生物に生物としての振る舞いを与え、導き手に変えた。
虚構の生命ではあったが、幻想は彼女にとって真実の力である。にこにこ顔の木々は枝や根を伸ばしてハルベルトを順繰りに手渡ししながら運び、歩くのが苦手な魔女の移動を助けていた。それを見てプリエステラが訊ねる。
「ハル、みんなも運んであげられない?」
「そうすると今度はハルが疲れる。森の解釈が違いすぎる個々人に『お話』を翻訳するのは手間だし、少し危うい」
部隊のティリビナ人はみなプリエステラの知己であり、彼女を介した信頼で繋がった仲間だ。事前に『神聖な森への冒涜だ』と激怒するほどの過激派がいないことを確認した上で呪文を使用しているが、それでも己の解釈をティリビナ人たちにまで適用するのは危険だった。呪文とはある種の傲慢であり暴力にもなり得る。
ただでさえ彼らには『ティリビナの街路樹の民』という呪いを強いているのだ。
それを許せないと去っていった者。
我らの巫女が選ぶのならばと拳を握って耐えていた者。
あの光景をハルベルトは忘れることができない。
ここにいるティリビナ人は『智神の盾』に所属することを良しとした者たち、プリエステラと生死を共にする覚悟を決めた勇士たちだが、彼らが同族にどのように見られているかを思えばあまり遠慮の無い扱いもできなかった。
「しゃあねえな。お姫さんにまたバテられても困るし、こっちは足使うだけだ。疲れたんなら俺が担いでやってもいいぜ」
巨漢の修道騎士が言うと、張り合うように大柄なティリビナ人が前に出る。
ハルベルトが見上げるような修道騎士よりも更に大柄だ。聳え立つ巨木のような威容はいつか見た樹木巨人を彷彿とさせた。確かその中核を担っていたはず。
「そういうのは僕の仕事だ、引っ込んでなよペイル。まじない師を守る誉れは昔っから村一番の力自慢に与えられるものだったんだから」
「ああ? てめえんとこの田舎ルールなんざ知るかよ。だいたい一番の力自慢なんて称号、俺がいる時点で返上だろうが。頭に樹液でも詰まってんのか」
「は?」
「ああ?」
巨漢同士が顔を寄せて睨み合うが、背後から蔦と分離式の腕が伸びて引き離した。
「はいはい喧嘩しないの」
「ごめんねー、こいつ頭に筋肉詰まってるからさー」
近くで一部始終を見ていたティリビナ人がくすくすと笑い、黒檀の民が嘆息する。
いつもの光景だった。小さな諍いには尾を引くような険悪さは無い。
プリエステラの幼馴染みだという青年は己の強さを誇りとしており、ことあるごとに力自慢の修道騎士ペイルと張り合っていた。どうせまた腕相撲あたりでけりがつくだろう。
ハルベルトは周囲に潜んでいた害虫を仮想使い魔で駆除しながらそんなやりとりに耳を傾けていた。警戒は全方位に向けて。それは内側に対してもだ。
大丈夫。これは平穏な一幕だ。けっして差別や分断に繋がる光景ではない。
言理の妖精が部隊を守護している限り、呪いはこちらに影響しない。
それでも不安は消えない。
これが厳しい戦いになるという予感がハルベルトにはあった。
「偵察に送った使い魔がキノコ人グループを補足した。まだ間に合う。彼らが目指しているのは六番ゲートだ」
影から上半身のみを出して報告したのはドラトリア系の夜の民。
マントの下に無数のコウモリを飼い慣らすアズーリア斑の斥候である。
「わかった。夜の民二人はスキリシア経由で回り込んで。積極的な交戦はしなくていいから、遠くから妨害呪術で足止めをしてほしい」
「了解。ようやく姫さん直伝の『きらきら蝙蝠』が試せる。こいつは楽しみだ」
夜の民はそう言ってずぶずぶと影の中に沈んでいった。
あとはどれだけ距離を縮められるかが勝負の分かれ目となる。
『上』に通じる『門』ならば階層中央の要塞に複数存在しているが、『下』に通じる『門』は階層の周辺部にしか存在しない。ハルベルトたちが目指す『門』は異界障壁の外側にあった。
離れた二点間を結ぶ空間転移呪術を『扉』と総称するが、その種類は多種多様だ。
通常は小規模な転移設備を『扉』、大規模なものを『門』と呼び分ける。
隣接異界への転移や世界槍の階層移動を可能とするのは『門』のみ。
重要な設備だけあって、『門』は相応の兵力で守られているはずだが、これだけの事件を引き起こした武装勢力相手に持ちこたえられるとは限らない。
「急がないと」
だが焦りは禁物だ。冷静になれと自分に言い聞かせながらハルベルトはキャンディを取り出して口に含んだ。糖分補給は呪力補給に等しい。これは必要なおやつである。
包み紙をしまいつつ思考を纏める。時間は切迫しているが、実のところ防衛側である修道騎士には大きな利点がある。
階層内に限り、任意の『扉』や『門』を自在に行き来できるのだ。
通称『架け橋』機能。
最寄りの『門』は『ントゥガの断崖』に繋がっている六番ゲートだ。
そこに辿り着きさえすれば、キノコ人たちが異界の迂回路をゆっくり踏破しているうちに反対側のゲートに直接転移して先回り、ということができる。
いかに第七位の浄界が世界を塗り替えようとも、大神院が独占管理する空間操作呪術、『扉職人』の秘儀を無効化することはできない。この技術こそが大神院を唯一絶対の覇権宗教として君臨させている礎のひとつである。
「キノコ人グループは『架け橋』の使用権限を持たない。この前提は本当に正しい? あっさりと異界障壁を利用されたことから、修道騎士側に内通者がいる可能性は?」
「敵に高位の『扉職人』がいるということも有り得ます」
護衛である月の民が可能性を指摘した。ハルベルトの傍には三人の兎人が控えており、常に周囲を警戒している。顔の横から垂れている長耳は象牙色、淡褐色、薄紫色の三種。
「それならこんな迂遠な手を使ってこない。下方勢力最強の『扉職人』であるセレクティフィレクティですら大神院が管理する『扉』は解錠できないんだから、それは空が墜ちてくるのを心配するようなもの」
口調は平坦だが呪文を操る手は忙しない。
いずれにせよ敵の戦力は未知数で、内通者の可能性も残っている。
慢心は危険だ。ハルベルトは行軍速度を早めるため、ティリビナ人たちに隊列の先導を依頼した。樹肌の種族にとって森とは親しき友人だ。たとえそこが悪意を内包した異界であったとしても、自然の脅威を宥めてやり過ごす術を彼らは心得ていた。
「第七位の対処は第四位が行っているようです。こちらへの増援は期待できませんな。キノコ人たちを捕らえられるかどうかは我々の働きにかかっていると言えましょう」
兎の分析官が石板端末を操作しながら言った。
続けて斥候からの報告。ハルベルトは指先で大気をなぞり、記録を刻んでいった。
「そしてアズが敵集団と遭遇、交戦中と。思ったより敵の足が遅い? これなら『架け橋』で先回りするまでもなく追いつきそう」
「というよりこの動き、逃げるように見せて我々に追いつかせようとしているのでは。罠と考えた方がよろしいかと」
石板を抱えた白耳兎の分析官が眼鏡の位置を直しながらもっともらしく言った。
斥候からの情報によると、確かにキノコ人たちは『ントゥガの断崖』に繋がる『門』を使用することなくその前で立ち止まっている。急いでいるのならさっさと異界に移動するはずだし、内通者がいるならひとっ飛びに『第五階層』行きの『門』に移動しているはずだ。あえて待ち構えているからには何かがある。
ハルベルトは少し考えて、よしと頷いた。
「罠があるなら見ておきたい。部隊を丸ごと突っ込ませる」
「『あれ』ですか。素材は?」
「そこらじゅうにある」
ハルベルトが古ぼけた木を一撫ですると周囲の木々に顔が浮かび上がり、満面の笑みを浮かべた。
夥しい数の虹が上空を埋め尽くす。
天まで届く異形の森を風景ごと抉り取られている。色鮮やかな光の帯が木々の障壁を貫いて幾つもの通路を作り出していた。
不自然な暗い森を更なる強引さで上書きする虹の天空。カラフルな橋の向こうから疾走してくる敵意を感じ取って、私は身構えた。
咆哮が響く。犬の遠吠えだ。
神働装甲ごしに強い呪力を感じる。ただの犬なんかじゃない。
翼で呪力の流れを叩き、すれ違いざまに斧を叩き込んだ。
両断。背後で爆散していく犬の使い魔。やはり呪術で構築された仮初めの命だ。
私は詠唱した呪文を待機させつつ、新たに現れた犬の使い魔を迎え撃つ。
第八位アレッシオの魔手から逃れた私は奇襲を受けていた。毒の胞子、緑色の光、そして虹の浄界。魔将を自称していた雷撃使いだけではない。キノコ人グループには他にも強力な虹犬の呪術師が味方しているのだ。
ねじくれた枝が迷路となって私の前に立ち塞がる。
枝と枝の間、狭い空間を縫うように飛ぶ。
感覚を研ぎ澄ませる。この厄介な虹と空は破壊しなくてはならない。慣れない曲芸飛行を強いられながら先を急ぐ私を執拗に追いかけてくる犬、犬、犬の群れ。
追撃を退けた私が辿り着いたのは、森の中でありながら開けた空間だった。
一目見て、息を呑んだ。
キノコ人の武装集団がずらりと戦列を組んで待ち構えていたのだ。
浄界の世界改変を寄せ付けていないのは、おそらく神秘的な遺物が存在しているためだろう。広場の中央に見える巨大な石造りの柱こそが『門』だ。
『ントゥガの断崖』に繋がる異界の入り口、あそこを通らないと異界を越えて第五階層に通じる『門』には辿り着けない。
どうして彼らはあんな場所で立ち止まっているのだろう?
決まっている。
私を迎え撃つため。そして見せつけるためだ。
ントゥガ族の苦悶の声が響く。悲しみの歌が聞こえる。
毛深い猿人たちが長い両腕を杭で貫かれ、磔にされている。その足を喰らい、少しずつ毟っているのは金属のような光沢を持った甲殻の昆虫たち。鎧虫と呼ばれるこの昆虫は本来は温厚な益虫のはずだが、今はキノコに寄生されて複眼を赤く染めている。ントゥガ族の生活に欠かせないはずの鎧虫たちが、凶悪な怪物と化して主たちを喰らっていた。
少し前までは戦場だったのだろう。周辺には大猿と鎧虫の死骸が横たわっている。
「愚かな猿人たち! これは槍神に媚びへつらい、本来の信仰を忘れたントゥガ族への正当なる罰です! 神の被造物たるもの、父への崇敬を絶やすべからず。虫神ダレッキノへの祈りを失った愚かな猿どもに秘宝を守る資格などありません!」
身勝手な主張を叫んでいるのは傘を差した虹犬の貴婦人だ。異界が映し出された空間の穴を背に、こちらを挑発的に見据えている。
許せなかった。邪悪な略奪者が口にする正しさなんていますぐに否定してやりたい。
冷静になれ、と自分に言い聞かせる。挑発としては粗雑な部類だ。きっと相手はこちらを油断させようとしている。
私はつい先頃、槍神教への抵抗を訴えるントゥガ族との対話を呼びかけた。
そもそもントゥガ族を教化したのは『智神の盾』だ。これは私たちが招いた結果でもある。受け止めなければならない罪だ。私には彼らを救い出す責任がある。
つまりこれはそういう誘いで、そういう感情を喚起する罠だ。
広場には虹犬の貴婦人の他に見覚えのある緑色の燐光が浮遊しており、杖や斧で武装したキノコ人たちが集まって戦意を剥き出しにしていた。
操られた死体や鎧虫が涎を垂らして血を求め、囚われのントゥガ族たちが悲痛な叫び声を上げている。目を覆うような光景の中、要救助者を発見する。
修道騎士の集団が、呪符が作り出す半球状の呪術障壁に守られている。
そのうち数人は遠目でもわかるほどの重傷。治療術の使い手らしき女性が必死で手当てして回っているが、キノコ人たちの攻撃が障壁を揺らすたびに身を竦ませている。
このままでは遠からず障壁は打ち砕かれ、あの人たちは殺されてしまうだろう。
「すぐ助けに行きます!」
降下しようとした私は急制動をかけた。
眼前に極めて細い『線』がある。
突っ込んでいたら両断されていた。咄嗟に翼をはためかせて後退すると、眼前を走っていく線、線、線。空間を引き裂くこの呪術には覚えがある。
「残念、ここで行き止まりです」
傘を差した虹犬女性がこちらを嘲笑う。
薄茶色とも黄色ともつかない亜麻色の毛並みをした虹犬の貴婦人は、パピヨン氏族らしき特徴的な耳を揺らしながら凄まじい呪力を放出している。
間違い無くあの女性が虹や犬を操っている元凶だ。
女性が手袋に包まれた指先を手繰ると、周囲に存在していた虹が移動して重なり合い、私の進行方向を妨げる障壁となる。
「マリー、お願い!」
閃光が走る。荒ぶる稲妻の圧倒的呪力を前にしてキノコ人たちが逃げ惑うが、虹犬の貴婦人だけは虹の障壁を過信しているのか不動のままだ。
轟音に先駆けて走った雷撃が虹の障壁をあっさりと貫通する。
勝利を確信した次の瞬間、私は我が目を疑った。
向こう側の虹犬女性は無傷だ。
前に突き出しているのは傘だ。あれを盾にして防いだのか。
信じられない。ズタークスタークの稲妻を逸らしたり回避したりするのではなく、正面から受け止めて耐えるなんて。
虹犬は不敵に笑い、背後に無数の虹を出現させた。それらは極限まで細く研ぎ澄まされていき、空間を隔てる線となって次々と私に襲いかかる。
魔将サイザクタートが得意としていた必殺の呪術、通称『線の嵐』だ。
空間操作呪術の一種では無いかと推測されていたけれど、正体は『虹』だったのか。
線が間断なく襲いかかってくる。斬撃、切断、分断、遮断。その勢いはまさしく嵐だ。
この虹犬、間違い無く私が戦ってきた魔将サイザクタートと同等かあるいは。
そこまで考えた私は真横から襲いかかってきた衝撃に思考を揺さぶられた。
大きく広い打撃。面で叩くような圧力。
線での攻撃に慣らされていた私は、限界まで拡大された極太の虹による『面の嵐』によって四方八方から打ちのめされてしまう。
激痛と衝撃で意識を失いかけたとき、嗜虐的な声が耳に届いた。
「私、我慢強い子は好きですよ。苦しみにあえぎ歪む顔、痛みに耐える無様な姿、そして心が折れて陥落していく姿。たまらない、屈伏させる甲斐がある」
虹犬の瞳が愉快そうに潤む。
不快感が込み上げた。反発する心が闘争に猛り、身体の奥底から湧き上がってくる熱が左手に集まっていくようだ。激怒のままに力を解放する。
「お前なんかに屈するかっ! 射影即興喜劇・深林雲母!」
仲間の力を参照し、金鎖を砕く。呼び起こすは堅牢なる深緑の守り。
襲い来る虹を無数の枝と暗色の葉が押し留め、作り出された森の影が私に力を与えてくれる。呪わしい第七位の浄界とティリビナ人の呪力は不思議と相性がいい。周囲の環境を利用しながら防御に転用して窮地をどうにか凌いでいく。
物理的な攻撃が効かないと見るや、虹犬は攻め手を切り替えた。
無数の虹が曖昧に虚空に消えていく。マテリアル界からアストラル界へ遷移したのだ。
非物質的な境界線が虹犬の周囲で渦を巻いていく。
「どれだけ強い心を持とうとも、価値観や倫理観の境界線を書き換えてしまえばお終いでしょう? 生も死も、善も悪も、全ての境界線はわたくしが定める」
その言葉を証明するかのように、こちらの稲妻を前にして逃げ惑うばかりだったキノコ人たちが態勢を立て直していく。恐怖心を忘れたかのような闘志に溢れる雄叫び。心の在り方を変える術なら私も使えるが、あれは『鼓舞』なんて次元のものじゃない。
貴婦人の術は虹犬種族の象徴である『虹』の操作というシンプルなものだ。だが恐らくこの女性は基本技能である虹の操作を極めている。『虹という概念』が内包するあらゆる可能性を用いて標的を追い詰める、それがこの術者の戦い方なのだろう。
呪文使いとして、この強敵とどこまで渡り合えるのか。
お師様との修行の日々を思い出しながら呪文を紡ぎ、迫り来る精神干渉術を迎撃しようとした。だが激突の直前、割り込んだ呪文が線の嵐を消滅させてしまう。
「お師様?!」
当人のことを考えていたからというわけではないだろうが、私は思わぬ援軍に声を弾ませてしまった。
戦場に姿を現したのは私の主にして師、呪文の魔女ハルベルト。
そして彼女を守るように広がった修道騎士たちだった。
『智神の盾』によって新設され、『松明の騎士団』に協力する『私の部隊』だ。
別の任務で先に第五階層に向かったメイファーラを除く総勢十七人の修道騎士がいれば、もう恐れるものなど何も無いと言っていい。
合流して敵を制圧しようと私が羽ばたこうとした瞬間。
踏み出したハルベルトたちの真下で設置型の呪詛が炸裂した。
轟音、衝撃、巻き上げられる粉塵。
恐らくキノコ人たちがあらかじめ地中に埋めていたのだろう。
圧力を感知して爆発する地雷呪術が破壊と呪毒を撒き散らし、ハルベルトたちを飲み込んでいく。だが傷つきながらも一行は止まらない。防御呪術で身を守りつつ、苦痛に顔を歪めながら襲いかかってくる犬の使い魔を迎え撃つ。
「さようなら」
貴婦人が傘を突き出すと、その先端に光が集まっていく。
危険を察知して私は左手に意識を集中。周囲の樹木を操作してハルベルトたちの前に壁を作り出す。ティリビナ人が得意とする樹木障壁は、しかしあっさりと破られた。
虹の橋が空間を穿孔し、邪魔な木々に穴を空けたのだ。どのような環境にいようと強引に射線を通すことができるのだとすれば、あの貴婦人は最悪の射手と言えるだろう。
傘に見えたその武器は盾付きの弩弓だった。
引き金に指が触れ、莫大な呪力が解放される。
鮮やかな黄緑の色彩。あの呪力を私は知っている。
私が放ち、防がれてしまったズタークスタークの稲妻だ。
雨霰と降り注ぐ光の矢が修道騎士たちに降り注いだ。
ハルベルトを中心とした十七人の部隊が壊乱していく。
一人、また一人と撃ち抜かれて倒れ伏す。
抗いようのない死。
自壊しながら敵集団に突撃し、呪文を詠唱しながら壮絶に命を散らしていく仲間たち。ハルベルトがその魂を振り絞って自爆呪文を唱える瞬間を、私は確かに目撃した。
「他愛ないこと」
無傷で笑う貴婦人。
虹犬は蹂躙された木製の人形を前に勝利を確信している様子だった。無理もない、知っているはずの私だって一瞬間違えた。あれはただ枝葉を寄せ集めただけの張りぼて。それでも確かな魂を宿しているかのような迫真性があった。
私とプリエステラはタイミングを合わせ、左右から樹木の破城鎚を放つ。骨と肉が潰れる鈍い音。残った頭部を鋭利な攻撃端末が貫通、再生不可能なほどの手傷を与える。
しかし敵の生命力は予想を遙かに上回っていた。
無数の虹が折り重なって繭を構成。瞬時に全身を再構築して虹の中から再び姿を現す虹犬の貴婦人。その表情は先程までとは打って変わって怒りに染まっている。
獰猛に牙を剥き、猛獣さながらに敵意を噴出させていた。
「謀りましたね、小癪な兎が!」
「油断するから。傲慢な犬」
虹犬が振り返った時、ハルベルトたちはすでに総攻撃の準備を整えていた。
魔導書の項が自動的に捲られていく。拡散するのは静かな呪文。
伏兵としてあちこちに隠されていた犬たちが現れ、次々とハルベルトに手なずけられていく。更にはそこら中に設置された虹の斬線を無害なサイズまで拡大、指先で触れるだけで擬人化、可愛らしくコミカルな線で描かれた蛇の使い魔に変換してしまう。
そこからは一方的な展開となった。
ハルベルトの指揮下で一つの生き物のように動く修道騎士たち。
部隊は士気、練度、装備すべてにおいてキノコ人武装勢力を上回っていた。
そこに私が加われば敵勢力に抗う術は無い。
ただ一人頭抜けた力を持っていた虹犬の貴婦人だが、虹や使い魔を作り出す端からハルベルトに奪われてしまう。私の交戦記録は共有済み。『相手の傘に強い力をぶつけない』という点にさえ注意すれば、今の私たちなら十分に押し切れる相手だ。
「実験部隊ごときにここまでの力があるとは」
想定外だったのか、虹犬が歯ぎしりをして悔しがる。
キノコ人たちの総数はこちらの倍以上。更にはこちらのティリビナ人たちを見てキノコ人たちは怒りと憎しみを燃やして戦意を漲らせている。
にもかかわらず、キノコ人武装勢力は完全に力負けしていた。
完全に集団としての質の差だ。
私たちの部隊が強い絆で結ばれているから、というわけではない。
苛酷な訓練を続けてきたからでもない。部隊の創設はつい最近である。
では何が違うのか。それはハルベルトの有無だ。
地上有数の言語魔術師が鋭く指先を振る。
その姿はさながら楽団の指揮者。
黒玉の瞳に映るのは仮想の使い魔。あるはずのない幻獣の形。
幻獣がアストラル界を走るのと連動して私たちは戦場を駆け抜ける。
ハルベルトが行っているのは『集団の抽象化』だ。
部隊という『個』の集合を『群』という記号に変換する呪文。部隊に所属する個々人をリソースと捉え、その観念的な上部構造に仮想使い魔を構築する。
意識統一の象徴としてわかりやすくするため、部隊の頭上には幻影が浮かんでいた。アズーリア隊の部隊が掲げる紋章、『枝角有翼の青鹿』のヴィジョンが揺らめく。木の枝を頭から生やしたペリュトンという図像はプリエステラが考案したものだ。
「さあみんな、このまま押し切るよ!」
ティリビナの巫女が得意とする『使い魔』系統の術が集団の結束を深め、私たちの結びつきをより深めていく。
十数人からなるアストラル体を抽象化できるとなれば、そこから構築された仮想使い魔は相応の性能と高い柔軟性を有したものとなる。修道騎士たちの中にはアストラル体の操作、すなわち効率的な呪術行使を不得手としている者もいるから、そこをハルベルトが効率化してやれば大きな戦力の底上げが可能になる。
部隊全体の呪力最適化、呪的侵入に対するセキュリティ強化、意識統合による強化詠唱といった即効性のあるメリットを数えるまでもなく、ハルベルトが呪文的に管理する部隊というのはそれだけで強靱である。
「『汚物屋』! このままではまずい、撤退せんか! 儂らまで死んでしまう!」
「責任を取れ、貴様が犬っころなんぞを信じたのが悪い! 言うほど頼りにならんではないか、この役立たずどもが!」
敗色濃厚なキノコ人たちの後方では、あろうことか醜い罵声が飛び交っていた。
大柄なキノコ人たちが中心にいる人物に詰め寄って責任を追及しているのだ。
白っぽい身体をしたどこかふわふわとしたキノコ人だった。
大きな傘を被ったひょろ長い柄、くびれていく胴体から生えたひょろ長い両腕と対照的に短い両足。傘に近い部位に穿たれた三つの穴が顔をイメージさせるが、その内側は真っ暗でどこか恐ろしげだった。
その何も無い眼窩の奧に、仄かな光が浮かび上がる。
見覚えがあった。先ほども目にした緑色の光だ。
「かしこまりました。虫筒を持って先に移動して下さい。僕はここに残り、ライラ殿と共に敵を食い止めます」
「この馬鹿が、誰が儂らを守るというのだ! 貴様も来い、足止めなど地下の『怠け者』どもに任せておけばよい!」
『汚物屋』と呼ばれていたキノコ人がその言葉にどのような感情を抱いたのか、私は判断しかねた。柄に穿たれた三つの穴は空虚な表情にしか見えないからだ。
少なくとも敵指揮官の判断は素早かった。
前衛としてこちらと直接ぶつかりあっているキノコ人たちにこの場を死守せよと命じるや否や、何人かを伴って離脱していく。
最前線という危険な配置で戦っているのは操られた死体や鎧虫だけではない。おそらくキノコ人コミュニティの中にも序列や身分があり、下層民は兵隊となる定めなのだろう。
だがそれにしたって取り繕わないにも限度がある。民族の誇りや未来のためにと激励することさえせず、ただ無感情に命令を下しただけ。
切り捨てられたキノコ人たちが絶望と恨みの篭もった叫び声を上げるが、虹犬の精神操作によってすぐさま感情の無い戦士に作り替えられた。扇動など無用と言わんばかりだ。貴婦人は虹で幾重もの壁を作り、『汚物屋』たちの撤退を助けようとしている。
「君たちにも役に立ってもらう」
『汚物屋』の冷淡な声。
磔にされていたントゥガ族たちの体内にするりと入り込んでいく非実体の光。
緑色の燐光が肉体から霊体を引き剥がし、一箇所に集めていく。
傘の貴婦人が作り出していた虹の円環。次々と円の中に吸い込まれていくントゥガ族の霊魂は、内部で一塊になって肥大化していった。
「贄が少ないとこのくらいが限界ですね。戦士の彼岸より来たれ、偉大なる英霊よ」
虹犬の呼び声に従い、虹の円環が回転を始める。
激しい唸り声と共に空中の門から出現したのは巨大な猛犬だった。
ただの犬ではない。二つの頭を持ち、朱色の瞳から強力な邪視を放つ魔将級の怪物だ。
私が知る二人のサイザクタートと比較しても遜色の無い実力者。
見立ての正しさを裏付けるかのように、貴婦人はこう呼びかけた。
「さあお行きなさい。我が死せる従僕、英霊サイザクタート。生前のように死力を尽くし、誉れある戦いでレメス神への信仰を示すのです」
返答は戦意に溢れた咆哮だった。
キノコ人の決死の足止めに猛犬が加わり、追撃しようとしていた数人が防戦に加わることを余儀なくされた。この中で最も機動力に優れているのは私だ。単独でもいいから敵の指揮官たちを追いかけないと。
『虫筒』という言葉も聞こえた。恐らく敵の目的である『虫王の卵』はそれだ。
絶対に逃がさない。しかし追いかけようとした私は予期せぬ方向からの攻撃に戸惑い、機を逃してしまう。
最初に私が助けようとした、取り残されていた修道騎士の集団が呪詛を放ったのだ。
負傷者たちを守っていたはずの障壁が内側から破られている。呻き声を上げながらぎこちない動きで迫ってくる第四階層の修道騎士たち。
「いやだ、やめ、やめて」「助けて、助けて」「痛い、身体が痛い」「入ってくるな、俺の中に入ってくるなっ」「逃げてくれ、頼む」「ごめんなさいごめんなさい」
砕かれた神働装甲、引き裂かれた肌、傷口から生えているキノコの子実体。
キノコ人たちの呪術によって肉体を支配された修道騎士が側面から襲い来る。
数人が反撃しようとして、その手が止まる。
ハルベルトの迷い、プリエステラの躊躇いが全体に伝播したのだ。
対応が遅れ、枝矛を持ったティリビナ人の前衛が傷つき倒れてしまう。
直後、プリエステラの激昂が私たちを包み込んだ。
「絶対に許さない、卑怯者!」
操られた修道騎士たちの顔が粘性の傘で覆い尽くされると苦痛の声は止んでいった。
かわりにティリビナ人への殺意と憎しみがわずかに覗く口から吐き出され、迷いの無い足取りで進撃を開始する。最後まで抵抗していた修道騎士は「殺してくれ」と言い残してがくりと項垂れ、直後に雄叫びを上げて走り出した。
私はこの光景を見たことがある。
きっとこんな悲劇はありふれていて、これからも起きてしまうのだと思った。
だけどそんなこと、諦める理由にはならないはずだ。
私はハルベルトと心をひとつに呪文を紡ぐ。
「言理の妖精語りて曰く」
金鎖が砕ける。左手の輝きは『黒玉飛翔』、ハルベルトと私が作り出した解呪の願いがキノコ人たちの呪詛と修道騎士たちを切り離し、複雑に絡みあった魂と呪いとを細やかに解きほぐしていく。
直後、救出したはずの修道騎士の五体が爆散した。
血肉が弾け、断末魔を上げることすら許されずに犠牲者が骸を晒す。
遺骸の中からふわりと緑色の光が舞い上がる。解呪に反応して爆発する罠が予め体内に隠されていたのだろう。救助活動そのものを見越したこちらへのトラップだ。
悲鳴。振り返ると、よろめいたハルベルトを月の民が支えている。
精神にダメージを与える『返しの呪い』だ。
私はなんともないのに、どうして?
「平気、大したことない。すぐに立て直すから、目の前に集中して」
その言葉で気付く。お師様は私に与えられるはずだったダメージを肩代わりしてくれたのだ。不甲斐なさに自分が許せなくなる。だが自罰的思考に浸るより先に、私は即座に決断しなければならない。第五階層での記憶が甦る。キール隊のみんなに対して、私と彼がやったことを思い出す。私だけがやらなければならなかったこと。彼にも背負わせてしまった。後悔を繰り返す必要はない。
殺意を凍らせる。左手の力で同胞を皆殺しにすべく呪文を構築する。
けれど忘れていた。
私はとっくに一人ではなくて、独りにはなれないということを。
私は『チョコレートリリーのアズーリア』なのだということを。
「アズーリア。私にもね、地上側に立って戦う覚悟があるんだよ」
プリエステラはそう宣言して無造作に杖を振るった。
緑の刃が飛翔する。硬質化した巨大な葉が装甲の隙間に入り込み、寄生したキノコごと犠牲者の命を断ち切っていった。旗印たるティリビナの巫女に続いて他のティリビナ人たちも木槌や拳、杖を振るって操られた仲間を殺害していく。
上方勢力、そして『松明の騎士団』に与するという彼らの覚悟。それが本来は仲間であるはずの者を殺すことで示されるという光景に、私は言葉を失った。
一方、凄惨な同士討ちの横で怪物との戦闘が決着を迎えようとしていた。
残ったキノコ人たちの大半を蹴散らした前衛部隊の中心は最新鋭の神働装甲を身に纏った分離式攻撃端末使いと異獣憑きの巨漢の二人だ。
イルスという黒檀の民と共に『智神の盾』に引き抜かれた修道騎士たち。私たちチョコレートリリーとは何だかんだで縁があるペイルとナトだった。
ナトが機敏に飛び回って手足を自由自在に操作していく。射出、分離、多方向からの時間差呪術攻撃。二頭犬を撹乱しつつペイルが本命の一撃を放つべく力を溜める。
神働装甲の右腕部が展開し、生身が露わとなった。
金鎖に包まれた裸の右拳。その色は岩のような灰色で、至る所に小さな呪宝石が埋め込まれている。金鎖によって侵食は手首までに抑えられているが、不気味に蠢く岩肌の拳は生きているかのように震え、今にも暴れ出しそうだった。
粗暴な巨漢というイメージに反し、厳かな祈祷が響く。
神働術の祈祷とは呪術の詠唱を言い換えただけのものだが、そこには立場や役割を示す明確な意味がある。彼はいま、新しく手に入れた力を修道騎士として振るうのだ。
「ペイルガンドの名においてここに誓う。我、三百の父をそれぞれに打ちのめし、三百の牛をことごとく奪い、三百の畑を手中に収めん。槍神の息吹よ、この身に聖者の怪力を与えたまえ」
金鎖が砕ける。右腕から呪力が溢れ、ペイルでは制御しきれない獰猛な意思が彼の霊体を侵食していった。不完全な適合。本人の器を上回る強大な力。
だがそれを補う要素があった。
ハルベルトによって効率化された総体の力だ。
私たちはひとつの仮想使い魔。その総力をもってすれば、不安定で実戦投入に向かない異獣であろうとも問題無く制御が可能となる。
「ぶちかませ、『ラウセス』!」
ペイルが右拳を振るう。
届くはずの無い一撃。いかにペイルが巨漢とはいえ、見上げるような怪物である二頭犬には拳での殴打などささやかな衝撃しかもたらさないはずだった。
しかし、拳が打ったのは虚空ではない。
アストラル界という名の呪力で満たされた大海である。
大きなうねりとなって押し寄せる非実体の波動。
『巨大化した半透明の拳』という形でわかりやすい幻影で視覚化することでその力は更なる質感を獲得し、わずかな遅延のあとで現実にも影響を及ぼした。
魔将と同格に思われた二頭犬は片方の顔面を押し潰されて吹き飛んだ。
すかさず叩き込まれたナトの攻撃端末がもう片方の頭部を貫通。
二人の活躍により強敵は倒された。巨大な猛犬の肉体は細かい光の粒子となって消えていく。
彼岸から呼び出されたらしい英霊サイザクタート。
言葉通りに捉えるなら、あの貴婦人は死者を甦らせることができるのだろうか?
思わぬ足止めのせいで時間をとられてしまった。
『汚物屋』も虹犬の貴婦人も既に『門』を抜けてしまっている。
おそらく『ントゥガの断崖』に逃げ込んだのだろう。第五階層に『虫王の卵』を持ち込まれる前に阻止しなければならない。
「追いかけないと、すぐに『架け橋』で先回りしよう」
ハルベルトに呼びかけようとした私は、その場で二つの問題が発生していることに気付いた。一つ目は生き残り。運良く操られなかった二人の修道騎士が無事だったのだが、負傷しておりこのまま放置できない状態であること。
二つ目はキノコ人の投降者。敗残兵が頭を垂れて赦しを乞うている。
揉めているのはその対処だ。
負傷者をここに放置すべきか、それとも安全な場所まで送り届けるか、時間が惜しいからと連れて行くか。
降伏しているキノコ人を捕虜にすべきか、それとも殺すべきか。
決まっている。敵は殺す。けど降伏した敵は敵ではない。捕虜にすべきだ。
交渉の余地がある敵、和解の可能性がある敵も同じ。
殺すのはあくまでも最終手段。それが私たち『呪文の座』の基本姿勢のはず。
「捕虜にして連れて行く。情報も欲しい」
「殺すべきよ」
もっともとしか思えないハルベルトの主張と真っ向からぶつかっているのは信じられないことにプリエステラだった。それだけではない。ティリビナ人はみな彼女に賛同している。キノコ人に向けられる視線はひどく冷え冷えとしていた。
「こいつらのやり方を見たよね? 絶対に裏切って寝首を掻いてくる。みんなを危険に晒すわけにはいかない」
「最初から決めつけるのはやめて。厳重に拘束しておけば問題ないはず。そもそも降伏した相手の殺害はイストリンお姉様が定めた戦時国際法で禁止されている。先人が苦労して作り上げた規範を、よりにもよって『塔』の魔女が破るわけにはいかない」
「けど異獣には適用されないんでしょ?」
ハルベルトが口にしているのは言葉の上だけにしか存在しない建前で、少なくとも大断絶以降には対異獣に対して用いられたことが無いルールだった。
槍神教は残酷に敵を殺して奪ってきた。異獣扱いされていたティリビナ人はそれを知っている。
だからこそプリエステラの口調は冷ややかだった。その冷たさが同じ『ティリビナ人』として括られているはずのキノコ人に向けられている。
プリエステラにとってキノコ人は異獣でしかない。
そうとしか解釈できない言葉にハルベルトが怒気を露わにする。
「プリエステラ。それはティリビナの巫女としての見解?」
「そうだよ。あのね、これまでにだって大勢の仲間がキノコ人に殺されているの。私の祖父はキノコ人邪教徒に片目と片腕を奪われた。私に巫女としての在り方を教えてくれた先生が卑劣な邪教の祭司を倒さなければ祖父は殺されて私は生まれることすら無かった」
想像以上に根深い因縁が存在している。プリエステラたちティリビナ人にとって、キノコ人たちは同じ森の仲間ではないのだろうか。いや、同じティリビナ人として括られているからこその憎しみなのかもしれない。
私はいま、見たくないものを見せられている。
『そういう感情』を仲間想いで優しいプリエステラが持っているなんてこと、想像したことすら無かったのだ。
怒りと憎しみだけならまだ良かった。
けどそれだけじゃない。
私は友人のすみれ色の瞳が怖い。そこに浮かんでいるのは穢らわしい存在を厭わしく感じる心情。劣った生き物として見下す視線。
プリエステラはキノコ人を心底から蔑んでいる。
ハルベルトも私と同じことを感じ取ったのだろう。戸惑いと衝撃を受けながらも説得方法を切り替えた。理想ではなく実利面を強調する。
「これまでキノコ人たちには強力な指導者が不在で、組織だった行動を支援する後ろ盾も無かった。それが祝祭を目前にして活発に動き始めた。何らかの組織の働きかけがあると想定すべき。情報源は必要」
「それ、ジャッフハリムが背後にいるってことだよね? 私もその意見に賛成。あの傘を使う虹犬もだけど、私が遭遇した電撃使いの虹犬は魔将サイザクタートを名乗ってた」
険悪な雰囲気を払拭しようとわたわたしながら二人の間でコメントを試みる私。
混沌とした第五階層はスパイも拠点にしやすいのだろう。ジャッフハリムの工作員はキノコ人たちを操って祝祭にでテロを起こすつもりなのかもしれなかった。
「憎悪と分断を招こうとする者がいる。ハルたちの敵は背後で暗躍する呪術師。間違えないで、『呪文の座』はキノコ人たちを諫めたり制圧したりすることはあっても弾圧や虐殺をしてはならない。あくまでも調停を目的として行動するの」
それはハルベルトが掲げ続けなければならない『きれいごと』だった。
『呪文の座』はこれから多種族が共存する国で平和をもたらすためのライブを行う。その私たちが理想を信じなくてどうするというのだ。
私はどうにかプリエステラを宥めようとトコトコ近付き、その間にハルベルトが負傷したままキノコ人に向かって治療と誓約の呪文を唱えようとする。
目の前でプリエステラの目が大きく見開かれた。私は思わず振り返る。
飛び跳ねるように身を起こしたキノコ人が隠し持っていた短剣を取り出していた。刃は真っ直ぐにハルベルトに襲いかかり、寸前で停止。
キノコ人は滅多刺しにされて絶命していた。
一斉に枝矛を、杖を、葉刃を突き入れたのはティリビナ人たち。彼らは一瞬たりとも油断せずに『敵』を監視していた。ハルベルトが救われたのは彼らのお陰だ。
震えるハルベルトの手をプリエステラが優しく握る。
もう片方の手でそっと頭を撫でた。慈しむような触れ方は間違いなく私たちが知るプリエステラのものだ。
「ハルベルトは悪くないよ。悪いのは、ハルの優しさにつけ込んだ卑怯者たちのほう」
優しく、そして正しい言葉だった。
ハルベルトと私は判断を間違えた。
掲げた理想を貫いたことに後悔は無いけれど、それでもそれは失敗だった。
だからこそ、今はプリエステラの優しさがひどく痛い。
多分、私よりハルベルトのほうがずっと苦しいはずだ。
傷ついた最年少の少女を慰めようとティリビナ人たちが語りかける。
「あいつらはいつもこういうやり方をするんだよ。そりゃ僕たちの中にだって対話しようって穏健派はいたんだ。みんなハルちゃんみたいに優しかった。そのせいで死んだ仲間が沢山いたんだ」
「あいつらが酷いのは仲間を仲間と思ってない所だよ。さっきの見たろ? ジジイが若い奴らを切り捨てるんだ。腐った性根の奴が仕切ってるからコミュニティも自然と腐っていくのさ」
「隠花族はずっと卑劣な破壊と殺戮を繰り返してきた。私たちの歩み寄りも無視して。顕花至上主義というわけじゃないけど、キノコ人の過激派はそういう原理主義ばっかり」
「あいつらの文化は殺すことばかりだ。暴力以外を知らない、そういう育ちなんだよ。要するに環境のせいだが、すぐにどうにかなる問題じゃないからな」
私たちはキノコ人を知らない。
より深くその内実に触れてきたティリビナ人たちの言葉はきっと正しいのだと思う。
けれど、積み重なっていく言葉はハルベルトにとっては重く、つらすぎた。
「そうやって」
ハルベルトは震える声を絞り出す。
俯き、何かを恐れながら、それでも言わずにはいられなかった。
致命的な言葉が紡がれて、空気が凍り付く。
「そうやって、あなたたちはキノコ人を迫害してきたの? 仲間同士で連帯して、あなたたちの正しさで黙らせて、よってたかって彼らをいじめて」
私が止めようとする間も無かった。
既にプリエステラは手を振り抜いている。
ハルベルトは赤くなった頬を押さえたままショックのあまり何も言えないようだった。
その瞳にじわりと涙が滲む。
言ってはいけない言葉だった。
けれど、言わなくてはならない言葉だった。
だって彼女はハルベルトだから。
私が代わりになれば良かった? 私がハルベルトを代弁して助けてくれたティリビナ人たちに酷いことを言っていたなら。少なくとも私のお師様はあんなふうに傷つかなかったはずなのに。それでも、あの言葉は『呪文の座』に必要だったように思う。ハルベルトは末妹候補ゆえにそれを口にしなければならなかったのだ。
「ごめん、なさい。それと、助けてくれてありがとう」
プリエステラと目を合わせないまま、ハルベルトは仲間たちに礼を言った。
私たちは仲間。少なくとも、それだけは確かだった。
「えーと、悪いんだけどちょっといいかな」
重く沈み込んだ空気に気まずそうに割り込んだのは、離れた場所で負傷者の様子を見ていたナトだった。医術に秀でたイルスが生き残った二人の応急処置をしている様子だが、どうにも様子がおかしかった。どうやら珍しいことに、普段は物静かに治療行為に専念するばかりのイルスが口論しているようだ。
「応急処置をして救助を呼ぼうかって話になったんだけどさ、そしたら物凄い拒否されちゃって。そんなことをしたら殺されるってさ」
「殺される? どういうこと?」
ハルベルトとプリエステラのことも気になるが、生存者の話も問題だ。
そもそも敵集団の追撃を急ぐ必要がある。いちおう私の斑に所属する夜の民二人とアヴロノひとりを先行させているのだが、何故か『門』をくぐった瞬間から連絡が途絶えている。嫌な予感しかしないが、不用意に私だけで追いかけるのもまずい。
まずひとつひとつ片付けていこう。イルスたちの所に駆け寄っていく。
「いいから言うことを聞くんだ、アイシャ。言理の妖精を正しく機能させれば殺されることはない」
「わかってないのはイルハムの方! ヴィティス様の呪詛を甘く見過ぎ。あの方が死んでしまった以上、私たちを守ってくれるものは何も無い。黒檀の民が第四階層でどれだけ恨まれていると思う? この状況で見つかったら嬲り殺しに決まってるでしょ!」
赤と黒の祭服を着た黒檀の民イルスと、同じようなデザインの服を身に着けた黒檀の民女性が激しく唾を飛ばし合っていた。女性に庇われているもう一人も黒檀の民女性のようだが、こちらは全身が血塗れだ。怪我の痛みもあるようだが、それ以上に何かに怯えきっているように見える。
「あの、一体なにがあったの? 殺されるっていうのは?」
問いかけに答えたのはイルスと口論していた祭服の女性。アイシャと呼ばれていたようだが、もしかしてイルスの知り合いなのだろうか。
ふっくらとした頬は柔らかな印象ながら、明瞭な言葉を吐き出す口やまっすぐな視線は力強い。ショートにした黒髪を全て後ろに流して耳を見せているのもそうした印象を強めている。しかし無惨なことに顔の右半分がひどく焼け爛れ、おまけに片目が潰されていた。応急処置と沈痛呪術のお陰でかろうじて意識は保てているようだが、消耗しているのか息が荒い。気力だけで喋り続けているといった様子だ。
「アズーリア・ヘレゼクシュ。あなたが新しい九槍になったのね」
「はい。そういうあなたは七槍の」
「そう。ヴィティス様の下で治療師やってたアイシャよ。覚えてるかな、第五階層帰りのあなたが尋問されてる時、ぎりぎり生かすくらいの応急処置をしたのが私。殴られるくらいは覚悟してるけど、どうする? 命乞いするべき?」
「ああ、やっぱり。声でそんな気はしてた。前九槍に助けてもらったし、気にしなくていいですよ。恨んでもいません、むしろ死なずに済んで助かったくらいで」
痛かったけど、というのは言わずにおく。周囲の緊張した空気も気になるし。アイシャという黒檀の民もあんまり罪悪感みたいなものは感じていないというか、形式的に言及しただけに見える。思うところはもちろんあるが、彼女が私を治療したのも事実だ。それが申し訳程度のものであっても恩は恩。ヴィティス当人ほど憎いわけじゃない。
「話が早くて助かるわ。それより問題はボスが死んじゃって私たち黒檀の民に与えられてきた特権が失われたことなわけ。これがどれだけやばいか、あなたわかる?」
「え、あ、はい」
勢いに呑まれて頷いてしまう。
特権と言われればなるほどそうなのだろう。
全員がそうというわけではないが、黒檀の民は七位の配下になればその庇護を受けることができる。それは第四階層のルールが生んだ必然の状況だった。
しかし、今はそれが仇となっている。
「これまで私たちって好き勝手やってきたわけじゃない? 分断のルールで団結と反乱を予防しつつ殺し合わせたりさ。まあ大神院命令なんだけど実行は私ら。そんな第四階層でもボスと同じ黒檀の民だけは絶対安全です、ってのはやっぱ恨まれるでしょ」
「ああ、ええと。つまり死体となった七位の呪いが今も機能しているせいで、あなたたちに分断を強いられてきた少数種族たちが報復するかもしれないと」
「かもじゃなくて確実に殺される。私はともかくこの子、マリナはよりにもよってキノコの呪い植え付けられてるんだから。異獣認定して殺すにはちょうどいいって話」
空気が凍り付いた。
ティリビナ人たちが殺気立って得物を構え、ハルベルトが解呪を試みようとして月の民たちに抑え込まれている。
「これ以上は危険です!」
「今度は失敗しない、確実に救ってみせる!」
言い争う兎人たちの横を静かに通り抜けたプリエステラは無造作に杖を持ち上げた。
私はその前に立ちはだかる。
「待って、呪われてるだけなら解呪できる。今のエストは乱暴すぎるよ」
「小さなキノコ人が死体を操っているだけかもしれない」
「アストラル体をよく調べればわかることでしょう? この人には理性がある」
「そもそもここで生き残っている修道騎士というのが既に怪しい。どうしてさっき操られていなかったの?」
言葉に詰まる。それは確かにそうだ。
どうして二人だけが生き残っていたのか?
振り返ると、挑むような視線がこちらを見据えていた。
「私は治療師でたまたま体内を守る術を知ってたの。マリナは特異体質でこういう呪いに抵抗があるって話よ。普通によくある話。あんたたちほど特殊なわけじゃない。全員が仲良く死ぬのが当然だっての? それこそ不自然でしょ」
「ヴィティス様、とあなたは呼んだ。七位の死なんて本当に信用できる? 私は黒檀の民を信用していない。敵を手引きした内通者である可能性が残ってる。こうしている間にも敵は距離を稼いでいるんだから」
「エスト、待って!」
「ちょっとアンタ、言わせておけば」
私とアイシャよりもプリエステラの方が機敏だった。負傷したマリナという女性に駆け寄り、一瞬にして地面から無数の樹木を生やす。漆黒の幹が密集して隙間のない檻となった。まるで即席の牢獄だ。プリエステラの守りの力はチョコレートリリーでも随一。簡単には突破できない。
ティリビナ人たちが私を抑え付け、アイシャにも枝矛が突きつけられる。反抗的に噛みつこうとするアイシャだったが、その前にイルスが立ちはだかった。
「アイシャ、お前は下がっていろ。私が説得する!! 頼むプリエステラ、冷静になってくれ! どうしてしまったんだ!」
「黙っててイルス。問題が無いかどうか、私が直接調べる。問題が無ければアズーリアに任せるけど、もし敵だとしたら容赦はしないよ」
張りつめた空気。迂闊に動けば血が流れるかもしれない。どうする、強引にティリビナ人たちを振り切ってプリエステラを突き飛ばすか?
(アズ。チョコレートリリーのネットワーク経由でプリエステラのアストラル体に干渉してもいい。足下の影なら掌握できるはず。いざとなったら止めて)
ハルベルトから『心話』で伝えられたのは普段なら絶対にやってはならないと厳命されている禁忌だ。プライバシーとか個人の尊厳とかいう問題ですらない。私がチョコレートリリーによって生かされているからこそ、みんなに対して一方的な影響力を及ぼすなんて許されない。
それでも今は四の五の言っていられなかった。プリエステラは正しいのかもしれないけど、『呪文の座』としては明らかに暴走している。
チョコレートリリー総体の中に意識を上昇させていく。
遠くて近い感覚。確かな繋がりを伝って濃緑の色彩に触れる。フィリスを使って引喩呪術を使うときの要領で、同調を更に深めていく。
視界を共有した。プリエステラは杖を構え、地面に力なく横たわっているマリナという黒檀の民を睨みつけている。強い隔意と敵意。不信と義務感が激しく燃え上がっているのを感じた。
「悪く思わないで。私たちは『ティリビナの街路樹の民』なんだ。地上の秩序に組み入れられた以上、こっち側のやり方に合わせていけるって証明しなきゃ生き残れない」
私たちのあり方は甘い。それでもプリエステラはその理想に賛同してくれていると思っていた。けれど、彼女を取り巻く環境がそれを許してくれるとは限らない。
プリエステラはティリビナの巫女だ。
同胞たちを眷属種として地上側に引き込んだ責任がある。みんなを守るという責任がある。地上のやり方に合わせた生存戦略を選んでしまった責任がある。
私は理想のこと、『呪文の座』のことばかり考えていた。プリエステラは仲間だけど、同時にティリビナ人を導かなければならない難しい立場だ。そのことを本当の意味で理解できていなかった。
ちゃんと注意していれば、プリエステラの手が小刻みに震えていることくらい気づけていたはずなのに。
攻撃的なプリエステラを前にして、マリナという女性はひどく怯えてしまっていた。応急処置のおかげで出血は止まっているが、全身の打撲や裂傷が痛むのか小さく身じろぎするたびに呻いて、そのたびに怯えるように自分をかき抱く仕草をしていた。
もしかすると、体内にあるというキノコの呪いを押さえつけていたからなのか。内側から自分を操ったり爆発させたりする呪いがあると知って平然としていられるはずもない。負傷も本物だし、どう考えても内通者には見えない。私はどうにかして呪いから解放してあげたかった。
「なんてこと。こんな状況でティリビナの巫女にお会いできるなんて。これもレルプレアのお導きなのかしら」
そのとき怯えるばかりだったマリナが妙なことを口にした。プリエステラは訝しげに問い返す。
「どういう意味?」
「二人きりになれて良かった。あなたになら打ち明けられる」
そう言って、マリナは震える手で顔に触れ、首や腕など肌を露出した部分になにやらまじないを行っていく。
変化は曖昧で緩慢だったから、私はすぐにその事実を理解することができなかった。
マリナは波打つ豊かな黒髪を左右に流して額を広く見せているが、その黒い肌が少し硬そうな質感に変わっているような気がした。
きっと遠目に見てもわからない。よく目を凝らせば確かにと納得できるけど、印象がひどく中途半端で判断が難しいのだ。黒檀の民にも肌色の濃さ、目や髪の色など様々な違いがあることを思い出す。夜の民が複数の氏族に分かれているように、彼らもまた均一な種族などではあり得ない。
偽装呪術が完全に剥がれ、真実が露わになる。
マリナは比喩では無い黒檀の肌を持っていた。
滑らかな樹肌と美しい黒。硬く重い肉体は紛れもなく森の種族としての証。
アヴロノ的な容姿のプリエステラほどではないにせよ、この場にいる樹木の肌をしたティリビナ人ほど植物的ではない。コルク層や鱗片状、棘や斑など樹肌には様々なタイプがあり、つるつるとしたタイプも珍しくない。どうやら彼女はそのタイプであることに加えて植物的形質が薄いようだった。どちらかといえば黒檀の民に近い印象がある。
そのとき何かが私の中で引っかかった。
変装が剥がれたマリナの素顔に、奇妙な既視感があるのだ。
こんな目立つ特徴の女性、明らかに初めて目にするのだが、何が引っかかっているのだろうか。この顔に何か足し引きすれば思い出せるような、そうじゃないような。
元から人の顔を覚えるのは大の苦手だ。最近になってチョコレートリリー全体の機能をフル活用してようやく他者がわかるようになってきた私に細かい判別は難しい。
私の疑念を他所に会話は進んでいく。
「私は黒檀の民とティリビナ人との間に生まれたの。ずっと黒檀の民として生きてきたけど、レルプレアへの信仰心を隠して槍に祈るのはとてもつらかった」
プリエステラは言葉を失っていた。
感情が凍り付き、思考がぐちゃぐちゃに絡まってしまっている。
二つの血を受け継ぐ女性は力なく微笑んだ。
「友達に自分を偽り続けるのが窮屈だった。同僚に合わせて作り笑いをするのが苦痛だった。だからね、あなたがレルプレアを守護天使にしてくれたことには感謝してる。最初は許せない気持ちもあったけど、私は堂々とレルプレアへの崇敬を示すことができるようになったから」
マリナは黒檀の民社会で生きているが、同時にティリビナ人としての信仰とアイデンティティも有している。
プリエステラの中で『みんな』を守るという意思が揺らいでいく。
『みんな』の中に、この人は本当に含まれないのだろうか。
「ティリビナ人が眷属種として認められてからも出自を明かすことはできなかった。私が本当に怖いのはそっち。私がキノコ人の呪いに抵抗できているのは『共生』のやり方を知っていたから。仲間の所に戻って精密検査を受けたら、きっと私が嘘つきだと仲間にばれてしまう。ヴィティス様にはもう頼れない。隠しきれなくなったら医師として私を庇ってくれていたアイシャもどんな目に合うかわからない」
だから、殺すのなら自分の遺体が残らないようにしてほしいとマリナは言った。死体から事実が露見しないように、真実ごと葬ってほしいのだと。
「それから、お願い。最後にレルプレアに祈らせて。本物の巫女さまに祝福してもらえるなら、他に望むことはないから」
マリナはプリエステラと同じ神を信じている。
それが偽りのない真実だと理解できた瞬間、私たちの同調が崩れかける。心が震え、千々に乱れていくのがわかった。
自分は同胞に敵意を向けている。そのあり得ない事実を許容できない。
プリエステラの自己認識が破綻しかけている。彼女の精神性は私が想定していたよりもずっと自他の境界線上の危ういバランスで保たれていた。『使い魔』系統の術者が己の半身とも言える存在を失った時に生じる自我崩壊が起こる危険がある。
禁忌など知らない、私がプリエステラを守るんだ。
強制的に同調し、心を重ね、半ば乗っ取る形で安定させていく。それは暴力的な支配であり倫理的に許されない洗脳行為だったけど、私はもうためらわなかった。
「できない。私、やっぱり、こんなことっ」
プリエステラはマリナに向けていた杖を取り落とし、荒く息を吐きながらへたり込んでしまった。できない。もう彼女はマリナを殺せない。それは『みんな』を大切に思うティリビナの巫女としてやってはならないことだから。
彼女に重くのしかかる、優しさの呪縛だ。
だがそれは同時に、『みんな』でなければいいという論理の肯定ではなかったか。
私がプリエステラに強制した決断は、果たして正しかったのか? 違う、これでは足りない。誰にとっても十分な結論じゃない。怒りがわき上がる。自分自身の力不足が憎い。本当に必要なことを選べないことがもどかしい。
その時、外から怒声が聞こえた。
「どいてくれよイルスさん! あんたはともかく、ヴィティスの配下だった黒檀の民なんか信用できるか! どうせそいつも死体でキノコ人に操られてるんだ!」
「頼むからやめてくれ、アイシャは妹なんだ!」
イルスの悲痛な叫び。途端、ティリビナ人たちの敵意が弱まった。
長年の遺恨を乗り越え、例外的な同胞として少しずつ信頼を得てきた黒檀の民のイルス。その血縁に敵意を向けていたことを自覚したティリビナ人たちは動揺している。
好機だ。ティリビナ人たちの戦意が弱まっているこの瞬間を狙えば、フィリスの呪文で場を収めることができるかもしれない。
いや、ちょっと待って。
私はさっきから、『ティリビナ人』たちと思考していたのか。『彼ら』に向かって、『私たち呪文の座』の理想を守るために呪文を行使しようとしていた?
意識を自分自身に引き戻し、急いで警鐘を鳴らした。
「待って、おかしい、おかしいよ。みんな敵を作りすぎてる。私、いまティリビナ人を『私たちじゃない』って感じてた!」
訝しげな視線が集まる。その中でハルベルトだけが私の言わんとするところを理解して、部隊全体を統括管理する仮想使い魔に意識の焦点を合わせてくれた。
「統合が歪んでいる。見て、仮想使い魔の角が折れているでしょう」
ハルベルトは私たちの部隊を象徴する仮想使い魔の幻像を皆の前に表示した。
植物の枝角を持った有翼の青鹿。
英雄としての私を旗印にしながらもティリビナ人との共生を願うシンボルが、無惨な姿を晒していた。半ばからへし折れた枝角が意味するのは結束の崩壊に他ならない。
「分断されている。各自、もういちど言理の妖精で自分を再点検。そして思い出して。ハルたちが所属しているのは『アズーリア隊』だということを」
ティリビナ人たちははっとして自分たちの立ち位置を再認識する。
いつの間にかまとまって行動していたティリビナ人たちは、元は別々の斑に振り分けられていたはずだ。分断の呪いに対抗するための団結の阻止。ティリビナ人への分断工作。第四階層対策のひとつだったが、それが気が付けばうやむやにされていた。
「ガザとアデンはアズーリア斑、ローレルとメープルはハルベルト斑、シーハとラッセはプリエステラ斑。全員持ち場に戻って、指示があるまで待機」
毅然とした口調で命令を下す。皮肉なことだ。私は敵視していたヴィティスに立ち向かうために彼と同じようなことやっている。それでも今はそうするしかない。
『選択肢がない』というのは便利な言い訳だ。
けれど直面すると縋るしかなくなる。
もしかしたら、と想像する。
ヴィティスもまた、そうせざるを得なかったのだろうか?
確かめようのない死者の想いを想像する。
暴力と知りながら呪文を紡ぐ、それは私の悪癖だった。
私は樹木牢の中にいるプリエステラに語りかける。
「エストの思慮深さには助けられたよ、ありがとう。でも最終的な意思決定をするのは隊長である私だってことを忘れないで。あなたが自分の裁量で命令を下せるのは班員であるペイル、ナト、イルス、シーハ、ラッセだけ。手が足りない時には私やハルときちんと話し合って欲しい」
樹木の檻が静かに地中に還っていく。
皆の前に姿を現したプリエステラは悄然と項垂れたままだ。
背後のマリナは既に偽装呪術で肌を変化させている。私は決心した。
「今ので分かったと思うけど、七槍ヴィティスの呪いは私たちの想定以上に強力です。負傷者二人が危惧しているように、医療設備の整った拠点に連れ帰れば『黒檀の民だから』という理由で殺害される可能性があります」
分断の呪詛。憎み合わせるためのルール。
そのおぞましさを、私たちはいままさに体感している。
言理の妖精ならば、という安心感は砕け散った。
自分たちなら大丈夫というのは驕りでしかなかったのだ。
アイシャとマリナの主張を否定する事は私たちにはできなかった。
「二人はこのまま連れていきます。キノコ人武装勢力を捕縛すれば人体操作の呪いからマリナさんを解放することができるかもしれないし、第五階層まで行けばより確実に二人を助けることができるでしょう」
そう、いざとなれば第五階層に逃げてしまえばいい。
機械女王は超一流の呪術医だ。ガロアンディアンに存在する優れた医療技術、多種族共生のために存在する使い魔系呪術を活用すれば二人は絶対に助かるに違いない。
希望は必ず前にある。私たちはそれに向かって進めばいいのだ。
「すぐに出発します。エスト、イルス、負傷者を頼んでもいい? マリナさんを空飛ぶ担架で運んであげて」
「あの、大丈夫、肩を貸して貰えれば私はなんとか」
よろよろと立ち上がろうとするマリナにアイシャが駆け寄っていく。
アイシャはふらついたマリナの脇の下に手を伸ばしたが、その手が別の手とぶつかった。プリエステラがマリナに手を差し伸べていた。挑むように睨み付けたアイシャを宥めるようにイルスが割って入り、マリナが微笑みながらプリエステラに何かを言った。
私はその場を離れてハルベルトの下に向かった。
アズーリア隊は隊列を組み直して出発の準備を整えている。
あとは部隊の質を左右する仮想使い魔の状態次第だ。
これが機能不全を起こしているとなれば、あの傘の貴婦人に勝てるかどうか分からない。あの虹犬の呪力は常軌を逸していた。もしかするとこれまでに戦った全ての魔将よりも強いかもしれない。
「どう?」
「原因が特定できない。問題があるようには思えないのに、どうしても分断の呪いが発動してしまう。とりあえず折れた角を補修して、また折れても繋がるようにはしたけど」
つまり枝角が折れてしまうこと自体は防げていないというわけだ。
分断の呪いはまだ生きている。
ヴィティスは死亡しているというのに、その意思だけがまだ私たちを縛り続けていた。
「怪我の具合は大丈夫?」
「平気。仮想使い魔の維持に支障をきたすほどじゃない。今はハルよりも」
視線をプリエステラに向けてからすぐに逸らす。
ハルベルトも私も、さっきの一幕をどう受け止めるべきかを考えていた。
分断の呪いは確かに存在していた。
けれど、あの衝突は必然だったようにも思う。
プリエステラと、そしてティリビナ人たちとどう向き合うべきなのか。
答えが出ないまま私たちは移動を開始した。
かなり時間を費やしてしまったが、『架け橋』で『ントゥガの断崖』を飛び越えれば異界の出口で待ち伏せできる。
義国時代の遺物である巨大な石円の前でハルベルトが魔導書を開き命令を下していく。私たちが入った後、緊急時に限り可能な『門』の一時停止をするためだ。
キノコ人たちがこちらの先回りを見越しているのなら、入ったと見せかけて引き返すということもあり得る。それなら出入り口を閉ざして閉じ込めてしまえばいい。
問題は、やはり敵の動きが奇妙に感じられることだった。
この場所で敵が待ち構えていたのはただの慢心か、それとも何か考えがあったのか。
傘の貴婦人の力は尋常では無かったから、あそこで迎え撃てば厄介な追っ手を殲滅できると踏んだのかもしれないが、何かが引っかかって仕方がない。
アイシャとマリナは信じられると思いたかった。
イルスの妹にティリビナ人でもある植物神の信徒。
そんな二人を疑うのはどうにも心苦しいけれど、いちおう最悪の可能性は考慮して心の準備をしておかないと。そんなふうに考えつつ私は一歩を踏み出し、
(やっと通じた! アズ隊長、ニゲラさんとイーベルさんがピンチ! 助けてー!)
ずっと連絡が通じなかった斥候からの『心話』を受信するのと同時に愕然とする。
『門』をくぐって転移したのは別の『門』に繋がる『架け橋』の亜空間ではない。
更には『ントゥガの断崖』ですらなかった。
見たことの無い風景だ。空には大型の虫が舞い、ゆったりと流れる小川のそばには草花が生い茂っている。のどかな光景の彼方には森と山脈が広がり、反対側には人工とおぼしき施設が並ぶ集落かなにかが見えた。
「俺たちが知らない裏面だ。たぶん、第五階層で新しく見つかった隣接異界じゃないか」
探索者をやっていたナトが言うのなら本当に第四階層ではないのだろう。
第五階層の裏面、隣接異界と言えばいま話題になっている四つが思い浮かぶ。
蒼空岩石群、白翼海、獣将国、そして。
「虫王の庭、だっけ」
空を見上げる。ちょうど私たちの上空を巨大な蜻蛉が通過していくところだった。反射的に攻撃的な巨大害虫かと身構えてしまうが、違う。
遠い複眼に宿る呪力には確かな理性がある。
あれは人だ。この世界に住んでいる、恐らくは虫態アヴロノの変身者。
見知らぬ半妖精は遠くに見える山々とその裾野の森へと去って行く。
門が映し出していた向こう側の光景はダミーの幻影で、接続先は完全な別空間だったということになる。事前に設定が変更されていたとしか思えない。
そしてそれができるのは地上側だけだ。
悪い予想は当たっていた。第四階層にキノコ人を手引きした内通者がいたのだ。
「私たちは何も知らない! 防衛任務でキノコ人と交戦したってだけなんだから」
アイシャの主張は信じたいけれど、それを証明する手立てが無いことも確かだ。
だが今度はプリエステラが疑問を口にした。先程までとは打って変わって穏やかだ。
「けど、それならどうしてキノコ人たちは『架け橋』で第五階層に向かわなかったんだろう。その隣接異界をわざわざ訪れるなんて、迂遠すぎない?」
「ここは『虫王の庭』で奪われた遺物は『虫王の卵』。第五階層じゃなくてここが目的地だったってことかな」
私は想像で語りながら周囲を見渡した。
この異界についてのおおまかな知識はミルーニャからの報告書に記されていた。
要するに槍神教に迫害された虫態のアヴロノとティリビナ人が潜んでいた隠れ里だ。
二つの種族は仲が良いわけではないけれど、自分たちが生き残るための同盟を結び、これまで共生を続けてきたらしい。この世界槍が元々は世界樹であったと明かされるまでは秘匿されていたと聞いている。
加えて言えばガロアンディアンとクロウサー家が合同で開催する箒レース、そのコースとして設定されている異界のひとつでもある。こうして新しく発見された異界をレースの開催地にするのは第五階層をまとめるための工作の一環らしい。
祝祭にかこつけて『第五階層の非ガロアンディアン人』を『第五階層の一員』として取り込んでしまえということらしい。かなり乱暴で反発を招かないかと心配だった。
「どうしよう。クロウサー家の人と連絡が取れないかな」
「それもいいけど、斥候からの連絡は? キノコ人がこの場所に逃げ込んだということは、この異界の虫態アヴロノと手を組んでいる可能性が高い」
ハルベルトが指摘したその時、こちらに高速で近付いてくる気配に気付く。
蜂の翅を振動させながら飛んでくるのはひとりの少女。敵ではない、斥候だ。
私と同年齢で背丈はちょっとだけあちらが上、昆虫の触角のように跳ねた前髪と外はねの栗毛、前髪を押さえている薔薇の髪飾りが印象的。白を基調とした北辺式修道服に茨と鎖を巻き付かせ、ふわふわした膝上スカートを揺らしながら私の胸に飛び込んで来る。
「うわーんアズたいちょー! 怖かったよー! 連絡取れないし死にそうだし今度こそ終わりかと思ったー!」
「落ち着いて、ローザ。報告は簡潔に明瞭に。ニゲラとイーベルはどうしたの?」
黄色の瞳を潤ませながら縋り付いてきた少女は着地すると背中の翅を光の粒子に変えて消滅させた。このローザ・パルサという少女は熟達した変身者にして我が隊最強の邪視者である。だからこそベテラン二人と組ませて敵を追撃して貰ったのだが、その彼女がこれだけ怯えるとはただ事ではない。
「いきなり変なとこに飛ばされて帰れなくなって、それでも隠れて追いかけてたんだけど、なんかめっちゃやばそうなのがいっぱいで」
まとまりのないローザの報告を頭の中で整理してみる。
キノコ人武装勢力は『虫王の卵』を奪取してこの異界に移動、事前に話をつけていたらしいアヴロノ勢力と合流。ローザたちはその拠点を突き止めるべく追跡を続行したが、そこで敵に見つかってしまったらしい。
傘の貴婦人は最初から尾行に気付いており、ローザたちを泳がせていたのだ。
伏兵に包囲されてしまった三人は必死で逃げたが、敵に夜の民の稀少固有種である夢馬がいたのが運の尽きだった。夜の民である二人は逃げ切れずにスキリシアで囚われの身となり、ローザも危うく捕まるところだったという。
「浄界で対抗したんだけど、なんか殺しても殺しても死なないのあいつら、おかしいでしょ? めっちゃ怖かった! 特にあの傘わんこ! 他の人は『ちょっとは削れてるかな』感があるんだけど、あのわんこは首をチョキンしても空間ぐねっても水とか地面とか殴ってる感じ!」
よほど怖かったのか思い出して本気で泣き出してしまった。
普通の感覚だと浄界を使える邪視者も十分に恐ろしいのだが、そんな邪視者をも恐怖させるあの虹犬はいったい何なのだろう。
「どうやって逃げてきたの?」
「えっと、なんか都合良く変な腕が飛んできて」
「腕?」
「それから私がもうひとり出てきて囮になってくれたり。あと燃えるニワトリが放火して山火事になりかけてた! 消火活動で大変そうだった!」
「ローザ? 何言ってるの?」
「えっ、いやホントに! 噓じゃないよ、ホントにビュンビュンニワトリが飛んででっかい石像がパンチしてたの! 何故かそのお陰で助かったんだってば!」
どうやらふざけているわけではないらしい。
なにしろここは未知の世界。どんな荒唐無稽な出来事が起きても不思議ではない。
しかし、その荒唐無稽さは私の予想とは少しばかり違う方向性のようだった。
「危うい賭けでしたが、彼女を助けたのは正解だったようですね」
背後に気配。冷静でありながら大胆不敵、自信と強い意思を感じさせる言葉。
聞こえてきたのは、私が良く知る相手の声だ。
ハルベルトが少しだけ肩の力を抜き、プリエステラが走り出す。
私は振り返り、彼女の名を呼んだ。
「ミルーニャ!」
滞空状態の機甲箒から小柄な女性が降り立つ。
箒乗りらしいヘルメットとフライトジャケットという出で立ちで、ゴーグルを持ち上げるとお馴染みの茶色の巻き毛と同色の瞳が露わになる。違和感の無いカラコンとヘアカラーはご存じアルタネイフ百貨店にも並ぶ人気商品。何故人気かと言えば私とリーナが悪ノリでお揃いにするために大人買いしたからで、買い占めた後でいっぱい怒られたというオチがついている。
「はいはい、あなたのミルーニャですよ、アズーリア様。あっ、ちょっとプリエステラ、抱き上げるのはやめて下さいよ、もう!」
大人びた微笑も照れ隠しのような慌てぶりも全てが懐かしくて、私はなんだか身体が軽くなったような気がした。英雄とか、責任とか、理想とか。それ以上に私が大切にしているものがここにはある。
空を大きな虫が飛んでいく。
ここは未知の異世界で、これから先どうなるかはわからない。
けれど、少なくとも空は晴れている。
上を見上げることができる限り、私の心はまだ折れたりしない。
だから大丈夫だ。私は独りじゃ無いんだから。
何度も自分に言い聞かせる。
多分それは、祈りだった。




