祝祭前夜1『死者への慰め』
赤色が世界を引き裂いていく。大空洞の天蓋に映し出される夕日、市街に燃え広がっていく猛火、砕けた家屋に飛び散った鮮血。
第四階層は要塞を中心とした階層だ。
掌握者を守るための堅牢な防衛拠点と、それを取り囲む複数の大壁。
遠くからだと壁は厚みの無いスクリーンにも見える。
しかしその実態は異界へと繋がる『窓』であり『扉』だ。
階層と隣接する異次元空間を経由しなければ要塞には辿り着けないようになっており、この天然の障壁を突破できる者など存在しないとすら言われていた。
『松明』の宣伝は誇大であったのか?
必ずしもそうではない。様々な外部要因に助けられていたとはいえ、これまで第四階層は長きに渡って平穏を維持し続けてきた。階層掌握合戦を定期的に行い、第六階層に対する侵攻と反撃を交互に繰り返しながら互いの体面を保ってきたのだ。
ガロアンディアンという第三勢力の出現、『死人の森』という世界を揺るがしかねない力の存在はにらみ合う二大勢力に様子見の一手を強要した。不安定な第五階層の存在を前提とした、いずれ破られることが確実な平穏。
まだ本格的に動くべき時ではない、という暗黙の了解が上下の勢力に存在していた。
それでも物事に絶対はない。
均衡は破られ、かりそめの平穏は脆くも崩れ去った。
要塞を守っていた障壁、異界を映し出すスクリーンの一つに生じた異変によって。
異界そのものを守りに転用するという発想は、その異界を武器に転用するという発想によって打ち破られたのだ。
世界槍内部に広がる無数の異界、再現された古代の風景、記録された旧世界の遺跡。それらの調査目的で滞在していた各大学の研究者と、彼らを護衛するために雇われた探索者たち。第四階層の第三期調査団はその大半が壊滅し、今や逃げまどうだけの無力な餌となり果てていた。
おびただしい数の脅威は上空から舞い降りてくる。
高い天蓋、幻影呪術によって偽られた仮初めの空から羽音が響く。
悲鳴、絶叫、断末魔。やかましい羽音と飛散する鮮血が全てを死の色に塗りつぶす。
あらゆる生命を物言わぬ肉塊に変えていくその脅威は、巨大な虫の姿をしていた。
人体にのし掛かり、押しつぶし、凶暴な口吻で首を引き裂く。応戦しようと呪符や杖を掲げた探索者たちはその圧倒的な質量に圧倒され、不気味な複眼から放射される魔力に屈していった。戦士たちが振う槍が高速で飛翔する巨体を捉えることはなく、ひとり、またひとりと屍が積み重なっていく。
絶望的な状況。朝の平穏が昼には破られ、夕暮れのいまは地獄そのものの光景が第四階層で繰り広げられている。
この破局は必然だ。それでも兵士たちは平穏が破られるのがこの瞬間だと考えていなかった。きっと祝祭が終わるまでは大丈夫。根拠のない楽観が大量死を招いた。
「まさか、こんなことが」
滅び行く調査拠点から必死に遠ざかりながら、初老の男が小さく呟いた。この第四階層と連結した異界、『ントゥガの断崖』から帰還したばかりの学者だった。調査団は彼を除いて全滅。護衛の探索者たちは抵抗むなしく全て虫の餌食となった。彼だけがどうにかここまで逃げてくることができたのだ。
だがここまでの必死の逃走はどうやら無意味に終わりそうだ。ようやく帰還した調査拠点は既に廃墟と化している。数日前に目にしたばかりの活気ある光景は永遠に失われてしまったのだ。濃密な死の臭いが男の気力を奪っていく。
その時だった。
「おい、生き残りだ!」
学者の心が絶望に染まりきる直前、野太い男の声が羽音を押しのけて響いた。天から飛来した数匹の怪虫が不可視の衝撃によって撃墜されたのはその直後のことだ。複数の足音が近付き、学者の周囲を取り囲んだ。
「無事だな? 急いで脱出するぞ! 無事な『門』から地上に行ける。ほら走れ走れ!」
探索者とおぼしき数人の男たちが学者の命を救っていた。有無を言わさずに手を引かれる。困惑しながらも状況を理解し、走りながら男たちに礼を述べる。
「すまない、助かった。このお礼は必ず」
「そんなもん、お互いに生き残ってからだ! こいつはマジでやべえ、この虫どもはントゥガ族の仕業か? クソ異獣もどきが、とうとうやりやがったのかよ」
「いや、違う。そうではない。私は見た。事実を伝えなければと、一刻も早く地上にっ」
まとまらない言葉を整理しながら、階層の裏面から逃げてきた学者は言った。全ての発端を目撃した彼は、この地を襲う巨大な虫の大群が前触れに過ぎないと知っている。
「これは予兆に過ぎない! 来訪者が、虫の王が復活する! ントゥガ族が守ってきた邪神ダレッキノの卵がキノコ人たちに奪われ、孵化したんだ!」
直後、雷鳴のような轟音と共に世界が裂けた。
遠くに見える『門』が軋む。石造りの円環が、失われた旧世界の遺物がみしみしと揺れながら小さな亀裂を広げていく。限界はすぐに来た。
世界と世界を繋ぐ次元の扉が砕け、その背後から土石流のように異界が殺到する。
遠景が割れる。空間が拉げ、向こう側に存在していた『ントゥガの断崖』が第四階層の表側を蝕み、侵し、塗りつぶしていく。
否、それは既にントゥガ族の聖地とは呼べぬものだった。
「あ、ああ。来る、虫、虫どもが!」
それは世界槍文明圏に良く見られる円形の都だった。
山のように巨大な槍が一面に広がる山岳を抉り砕いている。
その世界槍を取り囲む断崖には幾つもの穴が開いており、そこから伸びた縄を伝っていくのは猿人たち。ントゥガ族が切り立った崖を移動していた。
必死に長い手を動かす彼らの背に、飛来した巨大昆虫がその牙を剥く。
鮮やかな翠玉色の染料で染め上げられた集落が赤く上塗りされて、甲高い絶叫と共に猿人たちは真っ逆さまに崖を転がり落ちていった。
溢れんばかりの虫が猿人たちの世界を蹂躙している。
硬質の外骨格を打ち鳴らし、長くのたうちながら毒液を撒き散らし、獰猛な大顎で岩を破砕する。様々な虫の集合体が波濤となって山を浸食し、世界を削り取っていく。
大地も生命も彼らの前には斉しく無価値だ。
ントゥガ族という餌を食い尽くした虫どもは貪欲に獲物を求めて異界への侵攻を開始した。世界を割り、隣り合う世界槍の表側へと。
夥しい数の巨大昆虫たちの姿を見て屈強な探索者たちすら呻き声を上げる。
だが、真の脅威はその後に現れた。
「おい。なんだあれ」
弓を背負った半妖精が震える指で示した先には世界槍がある。
世界槍内部に再現された異界にはこのような来歴不明の世界槍が存在していることがままある。ントゥガ族の文明を維持しているとおぼしき世界槍はせいぜい小高い山ほどの高さで、いずれの主要文明圏にも及ばない。それでも天に向かって屹立する厳粛な佇まいには槍神教徒ならば畏敬の念を抱かずにはいられない神秘性があった。
その背後に、何かがいる。
軋む音を立てながら大樹のような柄がへし折れようとしていた。
のそり、と巨大な槍の影から何かが顔を覗かせた。
人を上回る大きさの昆虫の軍勢は確かに脅威だった。
だがそれもこの虫を見た後ではちっぽけな害虫も同然だ。
楕円を描く漆黒の甲殻、三つに分かれた体節と六本の脚、長く伸びた触角。
そして不吉に響く何かを打ち付けるような規則正しい音。
世界槍に取り憑いた甲虫は、その腹に木製の時計を埋め込まれていた。
秒針が動くたび、甲虫の周囲に存在するあらゆる生命が色褪せていく。
鳥は衰弱して墜ち、植物は枯れて死に、猿人は老いて天命が尽きた。
寿命を司る死神は時計を持つという。
老いと枯死をもたらす死の時計。
それを神から与えられた虫の名を、死番虫という。
「来訪者の仔が復活してしまった。何てことだ」
「おい、誰か戦ってるぞ。修道騎士だ」
ひとりの探索者が水晶玉を両手で掲げ持ちながら言った。
遠くの光景を水晶玉に映し出される。巨大死番虫から少し離れた断崖の上、死闘を繰り広げるものたちの姿があった。
戦っているのは神働装甲を身に纏った修道騎士と大柄なントゥガ族、そして無数の虫を使役する巨大なキノコ人だ。
修道騎士は浮遊する無数の魔導書を空中に広げながら呪文を多重詠唱。前衛を務めるントゥガ族を支援しつつ虫を排除していく。
対するはキノコ人。紫色の胞子を撒き散らしながら周囲の風景を歪ませている。
ントゥガ族が長い腕による打撃を繰り出す。すかさず呪文の帯がキノコ人を束縛するが、二人の攻撃はあえなく空を切った。
巨大なキノコの姿は幻影だ。
周囲には無数のキノコ人が現れ、同時に空間を蝕む呪力がキノコだらけの密林へと世界を塗り替えていく。幻は現実となり、上下は反転し、縮尺は歪んでいく。極限まで縮んだ猿人は山より大きなキノコ人に踏み潰され、虚空から湧き出た名状しがたい姿の異獣が修道騎士に襲いかかる。
魔導書の一冊を犠牲にして浄界から脱出した修道騎士を長大な節足が無造作に捕獲した。不器用なはずの昆虫の足先は死神の鎌のように歪曲し、その命を残酷に刈り取ろうとしている。
修道騎士は必死になって浮遊する魔導書を引き寄せた。高速詠唱によって呪文を組み上げ、待機させていた呪文の帯を纏めて放出、束ねて巨大な形を構築する。
オルゴーの滅びの呪文。言語魔術師の奥義が炸裂、巨大な死番虫にその牙を突き立てんとするが、抵抗は無意味に終わった。
死番虫の巨大な顎が世界槍の穂先を粉々に砕き、ついでとばかりに滅びの呪文を貪り喰った。呪文竜が断末魔の声を上げると同時、浮遊する大量の魔導書に穴が穿たれていく。本喰らいである死番虫によって呪文ごと魔導書が捕食されているのだ。
圧倒的な勝利に飛び上がって喜ぶ巨大キノコ。
その傘の上に陰が差す。
一瞬だった。
死番虫の大顎がキノコ人呪術師の胴体を捕らえ、いとも容易く噛み千切る。
あとには剥き出しの暴力だけが残された。
「おい、キノコ野郎があの化け物を解き放ったんだよな」
「ああそうだ。しかし制御はできなかったようだな。そして封印を管理していたントゥガ族の族長と修道騎士はたったいま死んでしまった」
探索者と学者は顔を見合わせ、無言で走り出した。
他にできる事などない。追い縋る大量の怪虫たちを蹴散らしながら逃走する。
もはや事態の収拾など不可能だ。
このような災厄を収めることができるものがいるとすれば、それは英雄だけだろう。
そして、彼らは英雄ではない。
だというのに。
「あんたたちの中に、英雄はいるか」
それは誰の目から見ても明らかな災厄だった。
若い声、ともすれば少年のようでもある体躯。
ある種の純粋さすら感じさせる佇まいは第四階層を襲っている害虫たちとは一線を画している。
それでも、その若者は彼ら地上人類の敵でしかなかった。
「いるなら殺す。いなくても殺す。その死で英雄を呼び寄せろ」
直立二足歩行。霊長類的なすらりとした体型。長大な戦棍を操る器用な手先。
だが白、黒、黄褐色の体毛に覆われた身体は獣人に寄っていた。
垂れ耳、突きだした鼻とマズル。その首から上は獣性と愛らしさを兼ね備えたビーグル犬そのもの。
虹犬、あるいは犬精と呼ばれる下方勢力の種族。
すなわち異獣。上方勢力の敵対者である。
「我が名は魔将サイザクタート。レストロオセ四十四士と相対できる栄誉を噛みしめて死ね」
ひどく静かな宣名だった。
剣呑な殺気を放つ虹犬、その周辺に青い光が走り、大気が焼け焦げていく。
探索者たちの表情が凍る。
この場でただひとり戦いを得手としない学者が引き攣った声で叫んだ。
「気を付けろ! あの虹犬、キノコ人と組んでントゥガ族と修道騎士を襲ってた奴だ!」
瞬間、探索者たちが動いた。
矢継ぎ早に初撃を放ったのは弓使いの射手。矢筒から抜く手は霞んで見えぬ速度。牽制の一射、追い込みの二射、やや遅れて小指と薬指で保持していた矢をスライドさせながら回避地点を予測して三射。四射目は焦ったのか取りこぼして落下。
矢を追いかけるようにして短剣と丸盾を装備した軽戦士が疾走、その後ろに蛇槍を構えた呪槍士が続く。その隙に学者の腕を引いた斥候が戦士と呪術医を伴って逃走。せめて状況を理解している非戦闘員だけでも生かして帰さなければならない。
雷光が走る。それは矢であり、槍であり、鎧でもあった。
虹犬は稲妻の化身だった。
雷獣より速く動くことは誰にもできない。
最小限の動きで射撃を回避、軽戦士の斬撃を横薙ぎで妨げ、呪槍士が前衛の背中に隠れて放った曲線を描く刺突を返しの巻き取りで鮮やかに弾く。
虹犬の動きに伴って迸る稲妻は探索者たちを打ち据え、激痛と衝撃、運動機能の停止をもたらした。大気を貫く光の矢は逃走する呪術医を的確に感電させ、不可解な斬撃が斥候の体勢を崩した。ずるり、と腰から上だけが地面に滑り落ちる。学者はへたり込んだ。
「くそったれ!」
戦棍の一閃で吹き飛ばされた前衛たちが食い下がる。
軽戦士の盾が妖しく輝いて紋様に見えた目蓋が開き、呪槍士の蛇槍が棍棒に巻き付いた。邪視による呪縛が雷撃を封殺し、使い魔武装が虹犬の手に噛み付こうと牙を剥く。更には影界に潜行していた第四射が足下の影から飛び出す。
そして、空間に線が走る。
風景を分断する直線が、一本、二本、三本と増え続け、気付けば夥しい数の線が嵐となって魔将の周囲を取り巻き回転していく。
惨殺であった。
至近距離にいた探索者たちは残らず五体を引き裂かれて即死した。
あらゆる攻撃も防御も線の嵐に巻き込まれて細切れにされていく。
血肉に殺到した大型害虫たちさえ無慈悲な殺戮からは逃れられなかった。
「朱神はもう微睡んでいる。俺たちの夢が重なり合っているように」
どこか遠くを見つめながら虹犬が呟く。線の嵐は曖昧に虚空に霧散したが、空間には不可解な気配が残留したまま。
夢を見ているかのようなぼんやりとした瞳。朱色の光を湛えた景色そのままに、虹犬の見る現実が曖昧に融けていく。
挑もうと逃げようと末路は同じ。
魔将の前に立った常人は皆ひとしく死んでいく。
生き残った弓使いと戦士、学者の表情が恐怖に歪む。
絶望の一瞬、閃光が瞬いた。
遅れて轟音。
偽りの天より降り注いだのは鮮やかな黄緑の稲妻。
凄まじい衝撃が虹犬が立っていた空間を襲い、周囲に存在した虫の大群がまとめて焼き払われる。しかし虹犬は焼け焦げた大地の中心で無傷のまま。その傍らには浮遊する鈴のような呪具があった。
自然に発生した落雷ではない。何者かによる呪術攻撃だ。明確な殺意を向けられた虹犬は、しかしそれを受けて獰猛に牙を剥いて笑った。
「ライラさんを信じて正解だった。初手で引き当てるなんて、俺は運がいい」
魔将を名乗る犬の異獣は遙か上空を見据えて言った。
生き残った探索者たちもまた、それを見た。
彼方から舞い降りる救い手を。
蒼穹の如き翼を広げて飛翔する、翼ある鹿の姿を。
それは優雅に地上に降り立つと、暗い影のように輪郭を歪ませていった。次の瞬間にそこに立っていたのは優美な幻獣とは似ても似つかない重厚な甲冑。
小柄だった。まるで子供のような背丈。
それだけに、暗い色彩と鎧の質感がもたらす重みが異質さを強調していた。
一歩を踏み出すたびに軋むような駆動音が響くのは、体格の不利を補うために鎧が使用者の力を底上げしている証明だろう。
夜の漆黒で染め上げたかのような暗色の神働装甲。漂う黒い靄が鎧の細部を覆ってはいるが、その怪物じみたシルエットまでは隠しきれていない。兜から伸び上がる禍々しい鹿角に脚甲の下で蠢く影の触手。手甲に包まれた右手が握るのは影絵じみた平面の斧、黄緑色の雷光を纏った左手首から垂れ下がるのは金色の鎖。
「来たな、英雄。俺に殺されるために」
虹犬の声は喜びに満ちていた。毛先が立ち、ばちばちと小さな稲妻が無数に大気を灼いていく。
そうして、魔将と英雄は相対した。
地上と地獄。二つの勢力を象徴する武力の頂点。
激突の予感に大気がおののき、生存者たちは固唾を呑んでその場から動けずにいた。
少年のような高い声による宣名。囁きのように静謐な呪文だった。
「守護の九槍、序列第九位。アズーリア・ヘレゼクシュ」
「魔将サイザクタート。亡き友の雪辱、この俺が果たす」
再度の宣名に込められた憎悪が世界を揺るがす。決して許さぬ、仇すべてを滅殺するという揺るがぬ意志。怨念を真っ向から受け止めた黒騎士は身じろぎひとつしない。
「邪魔だ。死ね、サイザクタート」
冷酷な意思がわだかまる闇となって膨れ上がる。
殺意と殺意がぶつかり合い、二つの稲妻が絡み合って破裂した。
飛来した巨大害虫を右上の火手で焼き焦がし、左下の地手で大地の隆起を招く。周囲を土の障壁が取り囲み、配下の呪術工兵たちが四本の手を素早く操って壁面に呪文を刻み防備を固める。四腕人の修道騎士モバン・ジートは天を埋め尽くす虫の大群を見上げながら嘆息した。
「で、こりゃどういう状況だ?」
気の抜けた問いかけに、傍らの副官は直立不動で答えた。
「第四階層の自然保護区である裏面『ントゥガの断崖』にて本日未明、キノコ人グループによる襲撃事件が発生。当時、その場で作戦行動中であった『智神の盾』の宣教部隊が応戦したものの壊滅。キノコ人グループは『智神の盾』が封印していたントゥガ族の秘宝を使い邪神の復活を試みたものと思われます」
言葉の通り、第四階層の空を埋め尽くすのは大量の巨大害虫たちだ。血に飢えた怪物の群が途切れることなく遙か彼方の異界まで連なっている。
更にはこの隣接異界には負傷した修道騎士たちが取り残されているという。このまま孤立無援の状態が続けば、害虫たちの餌食となるのは時間の問題だろう。
当然、救助など不可能だ。
戦力的にも、法則的にも。
この呪われた第四階層において、手をさしのべることができるのは同じ血が流れる同族のみだからだ。
「聖典読みの精鋭連中がキノコ人ごときに? 『塔』の魔女崩れもいるんだろ確か。何かの間違いじゃないのか」
「報告によれば、封じ手ギルズナート率いる宣教部隊はキノコ人司祭率いる敵主力部隊との交戦中、背後から別働隊に奇襲されたとのことでした」
「そういや一部始終を見てた奴がいたんだった。生き残りからそれ以上の話は聞けたか?」
修道騎士モバンは副官の報告に顔をしかめながら右上の手で目の上に庇を作った。遠くに見える巨大な死番虫はまだ世界槍の残骸から動いていないが、このまま次元の境界が崩壊し続ければこちら側に侵攻してくるのも時間の問題だろう。早急な対処が必要だ。障壁の構築と並行して槍檀の香を焚かせ、祈祷によって兵員の精神を鼓舞するように命じる。気休めだが、虫除けと士気高揚を同時に行えるのはこの香だけだ。槍神に祈らねばならない屈辱だけは何度繰り返しても慣れることは出来なかったが。
「情報提供者は第三期調査団の調査員で、来訪者関連の遺跡についての専門家でした。彼によると、ントゥガ族の至宝である『虫王の卵』は単独では破壊衝動を発散するだけの自律型使い魔でしかなく、時間経過で呪力が枯渇すれば自壊するとのことです」
「『単独では』というのはどういう意味だ?」
「資格のある者が『虫王の卵』を用いれば、理性を有した邪神が復活するとのことです。何でも、ントゥガ族に伝わる歌を解釈するとそうとしか考えられないとか」
「うーん、あのでかい虫を見るに資格のある者とやらはいなかったみたいだな。あの怪物に知性があったらと考えるとぞっとする」
「邪神ダレッキノの卵は全部で五つ。うち二つはその場で孵化し、残り三つを持ってキノコ人グループと虹犬の一人が逃走中。第五階層に繋がる『門』を目指して移動中とのことです」
「おいおいおい勘弁してくれ」
モバンは四手の全てで頭を抱え、天を仰いだ。
この事態は完全に彼の手に余る。手が多いからといって状況への対応力が双手種族より優れているわけではないのだ。
「追跡は?」
「最も近くにいたトルウート隊とワイヤ隊が連携して足止めを。ですが、その」
「殺し合ったんだな? お互いに」
「はい。第四階層の禁忌です。最も近い『門』を封鎖することには成功したのですが、両隊ともに互いを異獣認定し、全修道騎士が死亡しました」
異様な前提を元に状況を推察する二人。
だがそれは第四階層における常識でしかない。
この危急存亡のときにあって、各所に配置された部隊同士が緊密に連携できず孤立してしまっている原因でもあった。修道騎士たちは烏合の衆さながらに個別に撃破されてしまっている。そしてそれは必然の帰結なのだ。
「同士討ちで死んだなら樹人化したはずだ。トルウートの奴、足止めが狙いか。自殺者の森を局地展開できればキノコ人たちを強制隔離できる」
「じきに突破されるでしょう。キノコ人グループの協力者はいずれも魔将クラスの実力です。いかに第七位の浄界が悪辣でも長くはもちません」
「どうしたもんかねえ、これは」
モバン率いる修道騎士部隊は第四階層辺境部の防衛を任されている小隊のひとつだった。『松明の騎士団』の小隊は六人からなる分隊が九つで編成されている。五十人規模の戦力では焼け石に水とすら言えない。
「指揮官殿は真っ先に殉死されましたし、他の防衛部隊からの連絡も次々に途絶しております。このままでは我々も全滅かと。撤退か、遺書の準備を進言致します」
「無茶を言うな。この場から撤退したらヴィティスの呪いで異獣認定されるだろうが。同じことをやった連中をさんざん殺してきたのを忘れたわけじゃないだろう」
記録されている限り、第四階層を支配する掌握者ヴィティスの呪いを打ち破った者はたった一人だけだ。
敵前逃亡は死あるのみ。しかしヴィティスの呪いにはそれ以上の意味がある。
彼らの部隊は第四階層教管区の管理と防衛を一手に担う司教の采配で階層裏面との境界で孤立させられている。
少数種族である四腕種、メナル人にとって救援とはある意味で災厄を知らせる凶報だ。
それでも救援がなければ彼らはここで死ぬ。偶然にも九槍アズーリアがこの場所に駆けつけてくれたのは唯一と言っていい福音であった。
「応援の要請は? 水晶は全部ダメそうか? 九位が魔将にかかりきりなんだ、あのでかい虫を押さえられる奴がいる。そもそも我らが七位どのは何をやってる?」
「たったいま、使い魔による手紙が届きました。第四位が率いる次元騎兵部隊がこちらに急行しているとのこと。また第七位は本部を直接襲撃してきた『虻』に応戦、撃退に成功したものの、現在は生死不明との報告が入っております」
「はあ? 肝心な時にクソの役にも、いや邪神と相打ちなら役には立っているのか、だがどうせならもう一匹をどうにかしてから死んでくれ!」
既に第四階層の修道騎士たちは統制が取れていない。判断を下すべき頂点が機能しなくなった上、非常時の代役すら全滅している。モバンの上官たちは真っ先に死んだ。それも同士討ちによって。キノコの胞子によって敵に支配された指揮官たちを放置していれば更に被害は拡大していただろう。あれはやむを得ない措置だった。
現状のモバンたちにできることはこうして悲鳴と文句を叫びながら目の前の虫を撃退することだけだ。絶望的な状況でも諦めることができない。生きてあがくという苦しみに歯噛みしながら、四腕を振るって呪術を行使するメナル人たち。
第四位が来るまで持ちこたえさえすれば。たったひとつの希望を頼りに奮戦する修道騎士たちだったが、それも長くは続かなかった。
絶え間なく迫り来る害虫たちによって積層障壁が一つ、また一つと破壊されていく。呪力が尽きて昏倒する呪術師、巨大な虻ともみ合って倒れる戦士、無数の長虫に殺到されて絶叫する修道士。
もはやこれまで、とモバン小隊長は覚悟を決めた。
その時だった。
緑、緑、緑、そして茶色。
優しくそして鮮やかな色彩が世界を埋め尽くす。
大地が割れる。
天より降り注ぐ偽りの陽光は暖かな木漏れ日に変わる。
そして響く苛烈な開戦の合図。
「応えよ深緑の兵たち、芽吹きの春に枝矛を並べ、今こそレルプレアの威を示せ!」
呪文に呼応して、突如として青青とした草木が生い茂り、伸び上がった大樹が障壁となって押し寄せる虫の侵攻を押しとどめた。風景が浄界で塗りつぶされた世界さながらに変貌していく。荒れ地を埋め尽くしていく緑、時計の針を早回しするかのように急速に成長していく色鮮やかな花々。壷のようなフォルムの食虫植物たちが次々とその大顎を開き、甘い香りで虫たちをその溶解液の中へと誘っていく。
「対虫障壁の構築、急いで! 各班は散開しつつ害虫を分断、目標の巨大害虫の前から少しでも障害物を削ること! イルス、負傷者の救護をお願い」
モバンは傷だらけの四本腕を脱力させて息を吐く。駆けつけた黒檀の民の呪術医に治療を受ける。そして、現れた修道騎士たちの活躍を目の当たりにした。
第四位の部隊ではない。かの勇猛なる騎兵隊はここには間に合わなかった。
その部隊を率いているのは一人の女だった。
濃緑の長い髪の頂点にはヘッドピースのような大輪の花。両肩から腕先にかけて絡みつく蔦の鞭は勇ましく、丸みを帯びたスカートは下向きの萼と花弁をイメージさせる。強気そうな眉尻にすみれ色の瞳が印象的なその女の名を、モバンは知っていた。
蔦の鞭と木の杖で害虫を打ち据え、呪術によって死の罠に満ちた食虫植物の密林を創造する緑彩の魔女。
今の地上世界はこの女性を中心とした新たな眷属種の話題で持ちきりだ。
暫定的な異獣認定の解除。免罪された異教の徒。
新たな眷属種の名を、ティリビナの街路樹の民という。
その少数種族を率いる若き巫女は、自ら先陣を切ってティリビナ人から義勇兵を募り、地上種族のために戦うことで自分たちの存在を勝ち取ろうとしているらしい。
確か名前は。
「アズーリア隊所属、特任司祭プリエステラです。私たちはこれより『ントゥガの断崖』に赴き、取り残された修道騎士とントゥガ族の救援に向かいます」
「ティリビナ人の合同試験分隊。噂は本当だったのか」
現れた部隊の人種構成に目を疑う。
顔の横にウサギの垂れ耳がある月の民、フードで小柄な体躯を隠した夜の民、そして樹皮に覆われたティリビナ人。数は少ないが鉄願の民や黒檀の民なども混ざっている。第四階層ではあり得ない光景だ。
「多種族編成なんて信じられない。どうやって憎み合わずに、殺し合わずにここまで来れたって言うんだ?」
叫んでから思い出す。
第四階層における常識、忌まわしき呪い。
それを打ち破った者が、過去にたった一人だけ存在する。
「言理の妖精は私たちの味方よ。安心して、あなたたちはもう仲間同士で殺し合わなくていい。残存戦力を集めて、皆で困難に立ち向かいましょう!」
歌が聞こえる。
どこからともなく、風に乗って言葉が伝わってくる。
意味が伝わってきたのは少し遅れてから。ありきたりなメッセージ性に耳慣れない旋律が戸惑いを呼ぶ。他愛の無い、拡声呪術でよく響くだけの言葉の羅列。そのはずが。
「違う。何だ、この歌」
そうではない。
言葉の意味が遅れて伝わってきた?
それこそ錯覚だ。だってこの歌を聞いていると、どうしてか体が震える。心臓の鼓動が大きくなる。
詞は最初からそこにあった。
意味よりも先に届く何かが、確かにそこに。
いつしか周囲には多様な種族たちが溢れていた。孤立した四腕人を救うために生き残った部隊が集結しつつあるのだ。赤肌人、黄肌人、妖紫族、獣牙種、長尾人、無毛族、巨腕種、独角人、まだまだ増える。上位九序列に入れない少数眷属種。しかし確かに存在する『勢力』であった。
だからこそヴィティスは結束を許さない。
大神院は隷属させた少数種族が力を合わせることを病的に恐れている。地上の秩序を守るための忌まわしき序列化の呪いはモバンたちをずっと孤立させ続けてきた。
独りじゃない、と歌声が響く。
繋がっている、と絵空事を語る。
甘ったるい夢想は、けれどこの窮地にあってひどく魅力的に感じられた。
誰も彼もが希望に飢えていた。わかりやすい理想は極上の菓子そのものだ。
みな、歌に聞きほれているのがわかった。
ティリビナの巫女プリエステラ。その背後から現れた小柄な少女が響かせる呪文の旋律に、飛び交う虫たちすら魅了されていくようだった。
「本物の歌姫。こんなところにまで来てくれたのか」
攻撃的なシルエットの鋲付きコートは夜の漆黒、少女的なミニスカートから伸びた細い脚は病的な純白。腰に吊り下げられた魔導書が重すぎないかと心配になるほどに儚げな立ち姿。黒いフードに隠されてその容貌は判然としないが、透き通る歌声を聞いてその正体を疑うものなどこの文明圏内にはもはや一人たりとも存在しない。
「来てくれた。英雄アズーリアが俺たちの歌姫を連れてきてくれたんだ!」
絶望の時間はここに終わりを告げた。
これから始まるのは華々しい神話の戦い、そして栄光ある勝利なのだという確信が満ちていく。
モバンたちが体勢を立て直す一方で、プリエステラが杖を掲げて次の手を打っていく。
「花の獣、黒肌のビテロよ、どうか私に力を貸してちょうだい!」
巫女の呼び声に応え、大地を割って現れたのはこんもりと丸い大輪の花。高さは少女の背丈の倍近く、横幅も彼女が両手を広げて届かないほどだ。
ぐるる、と低い唸り。
花が開き、その下にあった根のように見えた黒い塊が身じろぎする。違う、これは花などではない。
植物のように見えるが、これは動物だ。
花を背負った熊と犬の中間じみた黒い獣。産毛に覆われた幼げな顔立ちと尖った鼻先をプリエステラの頬に寄せ、においを嗅ぐようにくんくんと鳴いた。
「よしよし。早速だけど、ちょっとあのおっきい虫までの道を開いてくれる? 兵隊たちが邪魔なの」
少女の願いを聞き届け、花獣ビテロは一声鳴いた。
跳ぶ。それはほとんど飛翔に近かった。
背の花弁が翼のようにはためき巨体を浮かせる。
大きな獲物を見つけた害虫たちがビテロに殺到していくが、圧倒的有利のはずの狩りは真の捕食者が誰かを知らしめるためのデモンストレーションへと変貌した。
ビテロの前足、鋭い爪が勢いよく撃ち出される。射出された爪は害虫の甲殻をたやすく貫通した。花獣は爪と繋がった蔦のようなワイヤーを一瞬にして巻き取ることで害虫に急速接近、死骸を足場にすることで次の獲物への狙いを定める。
果たしてこの獣は尋常な生態系において適応進化してきた生物なのか。植物的な蔦と動物的な爪が組み合わさったワイヤー付きアンカー射出機構。巨体の移動を可能とする強靱さと勢いを兼ね備えた武装だった。
超自然の兵器が装備されているのは左右の前足だけではない。腰や後ろ足、花の下にも前後左右に射出する孔が存在している。
ゆえに四方八方から襲い来る害虫たちはことごとくがその命を散らし、一瞬の足場となって地上に落下していく。
「今よビテロ、ぶちかましてやりなさい!」
少女の声を合図に、黒き獣がその身を小刻みに振動させた。直後、背の花が大きく開いたかと思うと、その中心からまばゆい光が放たれる。発光するエネルギー塊は空中に静止すると、回転しながら小さな光の玉を次々に全方位に撃ち出していった。
空を埋め尽くしていた虫の大群が目に見えて減っていく。花獣ビテロが大暴れした空間が開けて遠くにいる巨大な死番虫がはっきりと目視できるようになっていた。
その時を待っていたのだろう。
黒フードの少女が一歩前に出て、いつの間にか長大な呪文詠唱に変じていた歌を天へと上昇させていく。
空へと舞い上がる呪文はさながら竜蛇。
神話の紀竜を再現することばの奔流が虫の王に狙いを定めた。
「おいよせ! 報告ではあの巨大害虫にオルガンローデは通用しなかったと」
思わず声を張り上げるモバン。しかし歌姫は呪文を止めず、隣の巫女は自信ありげに笑って見せる。
「大丈夫。格が違うわ。うちのお姫様はね」
そして、滅びの竜が産声を上げた。
花獣ビテロが開いた道を透き通る体の幻獣が駆けていく。音のうねり、風に乗って響くことば、破壊の物語が牙を剥く。呪文竜の大顎が開かれ、世界槍すら破壊する虫の王に襲いかかった。
一撃。それで終わり。
本を喰らう死番虫は呪文竜を腕の一振りで引き裂き、内包する言葉の全てを貪らんと口吻を蠢かせる。腹の時計が物語を古びさせ、呪文の意味を劣化させていく。
老いを司る邪神、その圧倒的な力には歌姫の呪文竜さえ無力なのか。希望が打ち砕かれる光景にモバンたちは悲痛な声を上げた。しかし。
呪文の奔流が食い荒らされた直後。
魔導書に記述された呪力、膨大な項が記録した意味の全てが忘却の彼方へと消え去った、そのあとに。
形無き紀竜が、その真の力を発揮する。
時計を抱えた害虫の動きがぴたりと止まった。
腹の時計、その針の動きもまた消えている。
もはや呪文の形は無く、その呪力は届かないはずなのに、目には見えない何かが虫の王の動きに干渉している。
時を支配する老いの呪力、万物が朽ち果てるはずの絶対の権能はもはや無力だった。停止した時計がひび割れるのと同時に虫の王が甲高い鳴き声を上げる。
時すら超越して、その歌は響きわたる。
言葉が朽ち、意味が砕かれ、文脈が霧散しても。
ずれも遅れもない歌が世界には確かに存在した。
あらかじめ配列されていた共鳴が死番虫を打ち砕く。
「これこそは『滅びの呪文』。滅亡の後も響き続ける永劫の歌」
漆黒の魔女が囁くように告げたのを合図に、世界槍の残骸にしがみついていた巨体がゆっくりと崩れ落ちた。
神秘的な響きは絶えることがない。それは永劫に続くかに思われた。
拡大しつつあった遠い空間の亀裂が徐々に小さくなっていく。双方の世界を同時に崩壊させつつあった次元の歪みが徐々に修復されつつあった。響く歌が世界に調和をもたらしているのだ。
荒れ狂っていた巨大害虫たちの動きが鈍り、血に飢えた獰猛さがなりを潜めていく。
『使い魔』のわざに秀でた操虫師のまじないが邪神の眷属に通じるようになり、一部で理性を失っていた虫翅を持つアヴロノたちも理性を取り戻した。
「これがオルガンローデの力なのか」
「そう。第九紀竜の本質は参照された威力竜の姿じゃない。ただ絶大な破壊力の遠隔追尾弾として使うのは高機能な携帯端末を通話だけに使ってるようなもの」
端末をほぼブラウジング専用機にしているモバンとしては耳が痛い言葉だった。
「エスト。先に『門』に向かって。裏面で救助活動を」
「アズーリアの方が決着したら合流ね。それまではここの人たちをお願いできる?」
「同士討ちが心配だから、汎人類型の対抗呪文を構築しておく。どうやらこの階層の真の敵は害虫じゃなくて他にいるみたいだから」
二人の会話を聞いていたモバンは目を見開く。
『智神の盾』はントゥガ族を地上秩序に組み込んだ張本人だ。この宣教部隊が猿人たちの救助に向かうのは筋が通っているようにも思えるが、多分そういうことではない。
『歌姫』と『チョコレートリリー』が掲げる理想は死霊使いガルズの事件からこの文明圏で広く知られるようになった。
愚かしい、とまでは言うまい。
だが軽薄な若さを感じていたのも事実だった。
もう同じ感情を抱くことはできないだろう。
少女たちの瞳にあるのは、呪わしいまでの覚悟だけだ。
思わず口を挟む。
「待ってくれ。金鎖経由で本隊に報告が行ってないのか? あの害虫の親玉を生む卵がまだ三つある。キノコ人の武装集団が第五階層に持ち込もうとしているんだ。現在はヴィティス司教の浄界に隔離されているが、出てくるのは時間の問題だ」
少女立ちの表情がはっきりと強ばった。九槍のヴィティスが倒れたいま、アズーリア隊はこの階層における最大戦力だ。更なる災厄をもたらしかねない武装集団の対処を任せるのが適当であるはずだった。
「デカいのはあんたらがやってくれたし、害虫どもは積極的に攻めてこなくなった。今なら裏面に取り残された修道騎士やントゥガ族の救助くらい俺たちにもできる」
「でも、あなたたちには呪いが」
心配には及ばない、とモバンは右の火手と水手で二つの力こぶを作って見せた。それから小さく囁く。
「言理の妖精語りて曰くってな。今なら俺たちにも信じられそうな気がするよ。誰であろうと助け合える、そんな理想が」
集まった多様な種族からなる修道騎士たちの心はひとつだった。負傷の程度が軽い者が率先して名乗りを上げる。再編成された部隊は、本来であれば第四階層では不可能な『同胞以外を救助する』という理想の下に団結していた。
「第七位の命令なんぞクソ食らえだ。全員で団結して俺たちの地上を守る。それがあるべき修道騎士の姿だろうが。やってやるぜ、俺たちで」
高揚した気分のまま宣言するモバン。ティリビナの巫女は感激した様子で賞賛と感謝の言葉を浴びせてきたが、黒フードの歌姫はうつむいて沈黙してしまった。
どこか不穏な静寂。深く息を吐いて間を置くと、覚悟を決めたように顔を上げて言った。
「わかった。ここはあなたたちに任せる。エスト、ビテロに戦車を牽かせて」
「いいけど、あのコまだ戦ってるわよ? 救援に行くべきじゃない?」
「必要ない。ハルの弟子は、もうそんなに弱くない」
二人が見上げたその先、遙か上空ではもう一つの戦いが決着を迎えようとしていた。
閃光と雷鳴が空を走り抜け、目にも留まらぬ速度域で二つの影が交錯する。
英雄と魔将。地上と地獄を象徴する力の頂点が、空の一点で幾度と無く激突を繰り返していた。
調和の歌が響く世界の中で、それでも止めることができない戦いを終わらせるために。
まだ届かない。また届かない。
戦いが終わらないのは、私の力が足りないからだと思い知らされる。
物質界での戦いはいつもこうだ。
体の重さ、まとわりつく風、制御を振り切ろうとする荒々しい慣性。
私に支配されまいとする物理法則の枷はいつだってこの影の体を呪縛する。
アズーリア・ヘレゼクシュにとって、空中戦とはもっと自由なものであったはず。マリー・スーにとって呪文構築とは呼吸の如き自然体で行えるものであったはず。
だというのに、このざまときたら。
いけない。弱気になっている。
甘え、油断、驕り、もう戻れない日々への郷愁。
過去に縋りたくなる幼さは、強敵と相対した時にとりわけ強く発揮されるように思う。
あの全能感をもう一度、なんて気持ちは不要だ。
大切なのは、いまこの瞬間だけ。
目の前の強敵を倒す。
現在の私が、積み上げてきた実力で打倒する。
平面の斧を振るう。棍棒に弾かれる。こちらの動きをからめ取るような繊細な打突をかわしきれない。衝撃が装甲を打ち据え、伝播した雷撃が軽微な損傷をもたらした。身代わりにした呪符を投棄しながら緊急離脱。
こちらの動きが鈍重過ぎる。それとも相手の読みが鋭すぎるのか。私の重ねてきた修練はままごとだったのか。いいように手玉に取られて一挙一動の全てが筒抜けだ。
虹犬の周囲を衛星のように周回する鈴のような呪具が稲光を放つ。こちらも纏った稲妻で応戦し、空中で幾つもの光が交錯していく。こちらの装甲が軋み、あちらの境界線が風景を歪ませる。
呪力の質、装備の性能、呪術の破壊力。
全てにおいてこちらが上のはず。それでも攻めきれないのは単純にあちらの戦闘技術が上だから。
兜の内側で各種機器が敵魔将の分析結果を計測している。ピュクシス製の分析機器によれば、予測される魔将の能力特性は雷撃操作を軸とした邪視特化型。
神経支配による反射速度の向上、打撃の電磁加速、生体磁気の感知、虹弓からの『黄矢』、幻視の掌握と誘導。とりわけ私にとって厄介なのが最後の能力だ。敵は傑出した雷撃使いゆえに、ペリドットの稲妻を受け流せる。
あらゆる邪視者に対して優位に立てるはずの『失明稲妻』は私にとって必殺の切り札だ。敵が邪視に秀でた虹犬であればこれで完封できるはず。その目論見はあっさり崩された。しかし相性が悪いとしてもこれまでの全てが無意味というわけではない。
「マリー、お願い!」
私の言葉に応えるように左手が強く発光する。
迸る黄緑の稲妻が大気を引き裂いて空中を高速飛翔する虹犬目指して突き進む。だが必殺の軌道は不自然にずれた。また通じない。敵の魔将は間違いなく雷撃使いとして私の上を行っている。
神働装甲の背から広げた翼をはためかせて上昇する。魔将は足場として虹を構築し、鋭い跳躍を繰り返してこちらを追ってきた。自身の足を矢に見立てた虹弓での射出飛翔法だ。加えて雷撃と空間断裂の呪術を織り交ぜた追撃を間断無く繰り出してくる。
強い。魔将サイザクタートを自称するだけのことはある。強い敵意からしておそらくは死亡した前任者の縁者だ。弟子、血族、あるいは友人。復活した彼をもう一度殺害した私は許し難い仇だろう。
であれば、私がするべきことはひとつ。
「受けて立つ」
無言のまま戦棍を構えて突撃してくる虹犬を、真上からの急降下で迎撃する。斧の後ろから稲妻を落とし、電撃を纏う棍棒に合わせるように振り下ろした。
閃光、遅れて雷鳴。
重なり、すれ違い、上下に抜けていく二つの影。
私は翼を広げてゆっくりと減速、地上に降り立った。
少し遅れてどさりと重い衝撃音。
墜落した虹犬が力なく大地に横たわっていた。
落下の衝撃以外の外傷は無い。魔将サイザクタートの肉体に傷は無く、しかしその足下の影が不自然に形を損なっていた。自然に出来た影ではない。呪いによって魂を損なった結果として、影が欠けてしまっているのだ。
雷撃使いとしては敵が上だった。武術においても私が彼に勝る部分は皆無だろう。
しかし、雷光使いとしてならば。
強い光は濃い影を作り出すもの。
影界に生きる夜の民にとって稲妻とは影を際だたせる強烈な光源だ。戦場において最大規模の閃光は影の位置を強引に偏らせる。
稲妻を捌きながら死角から襲い来る影の触手を同時に凌ぐのは困難を極める。私にとってあくまで本命は影の呪文。稲妻は派手さで注意を引きつけるための魅せ技に過ぎない。
今度こそ、とどめの雷撃で敵の肉体を焼き尽くす。
虹犬は必殺の呪文を受けきれず、今度こそ致命傷を負った。
勝敗は決した。仇を討つべく立ち上がった魔将は本懐を遂げることなく無惨に死ぬ。私が殺す。
復讐者の前に立つとはそういうこと。
私は彼の物語に幸福な結末を与えることはできない。
ただ敵として彼の全てを否定する。
それだけが私にできることだ。
だというのに。
「まだ、だ」
魔将が立ち上がった。明らかな死に体だというのに、焼け焦げた体を強引に動かして進もうとする。死体同然の四肢、その関節部で付近の空間が不自然に歪曲していた。
虹犬の操る虹とは彼らが死後の国に渡るための橋なのだと聞いたことがある。一種の死霊術なのか、虹は極限まで細くなった境界線となって空間を断裂させていく。
自身の生死、その境界線すら越えて戦意を駆動させ続けているのだ。
魔将サイザクタートの絶対なる境界線。
生死の彼岸、夢現の門。
空間そのものを引き裂くその攻撃は数多の修道騎士と探索者たちを葬ってきた。
魔将の周囲を金剛鈴が巡る。軌道上に迸る雷鳴が吠えるように轟いた。
「お前たち邪悪な槍神教の英雄に、せめて一矢でも報いてやる!」
決死の覚悟で振り絞った言葉。
私はそれを、ただ一言で否定した。
「遡って、フィリス」
左手首から垂れ下がった金鎖がひとりでに砕ける。
それで終わり。準備は既に済ませていた。
魔将の極めて高精度な呪術、『線の嵐』をアストラル界から制御していた不可視の仮想使い魔。三頭犬型の情報体を照準した解体呪文が使い魔の構造を解き明かし、疑似人格もろとも崩壊させていく。
虹犬が悲鳴を上げた。致命傷を負った時以上の苦痛がその顔を歪ませている。影の傷が広がり、四肢を強引に動かしていた呪力が霧散して体が地面に投げ出される。
涙がこぼれた。
無念さ、悔しさ、憤り、あらゆる感情が虹犬の瞳から溢れていく。命をかけた復讐は失敗に終わり、彼の人生はここで幕を閉じる。私はまっすぐに歩みを進めた。
漆黒の斧を振り上げる。
そして、私は物質界での動作と影を切り離して足下から虹犬の影に干渉した。
アストラル体からアストラル体へ。
影から滴るのは、漆黒の油だ。
スキリシアに咲き誇る月輪草から精製された植物油は、平面の大地を滑るようにして死に行く魔将に垂らされた。
そうして、祈りと共に刃を振り下ろす。
斬首の斧が虹犬の命を断ち、その魂を粉々に打ち砕いた。
戦場を静寂が満たす。
どこからか手を打ち鳴らす音が響いてくることに気づいた。振り返る。
「お見事。わたくし感動いたしました。ただ強いだけでなく、敵にも憐れみの心を忘れぬ気高いあり方。アズーリア殿こそ英雄と呼ぶに相応しい」
小気味よく両手を打ち鳴らす長身痩躯の男がいつの間にか背後に立っていた。顎髭の司祭は好意的な視線を私に向ける。観察するように私の感情を推し量っている。
守護の九槍、その第八位。
中央から遣わされた大神院の式職者。
名をアレッシオ。私たちのライブを監督するために第五階層に同行する、もっとも油断ならない『味方』だ。
憐れみの心。彼が拍手で賞賛した私の行為。
その言葉の響きに、私はなにも感じていないふりを続けた。
守護槍の第九位が司る秘蹟の名は『病者の塗油』。
前任者であるキロンが行うそれは穢れや悪霊を払う聖なる癒しとなって現れていたが、私が行うものは違う。
終油の秘蹟。臨終にある者に対して行われる死への慰め。
つまり欺瞞だ。
殺した相手を憐れみ、その罪が赦されることを祈る。
異教の作法による臨終の儀式。それは死に行く者への最大の冒涜だ。
相手の尊厳を踏みにじる傲慢を、私はためらわない。
それが修道騎士として、守護の九槍として戦うアズーリア・ヘレゼクシュが引き受けるべき罪であるからだ。
私は地上の人類として、槍神教側の戦士として地獄の異獣を殺し続ける。
それを誤魔化すことだけはできない。
空虚な拍手はいつまでも響き続ける。
「再生魔将を含めればあなたが討伐した魔将は地上最多だ。いかがでしょう、今後は『魔将殺し』という二つ名で売り出していくのは。わたくしから広報部に話を通して」
「今までどこに?」
妄言に取り合わず端的に質問した。この男は直前まで行動を共にしておきながら、第四階層からの救援要請に応じると決めた私たちの前からいつの間にか姿を消していた。
アレッシオは身の潔白を示すように両手を広げた。
「これでもちゃんと仕事はこなしていたのですよ。別行動については申し訳無い。万が一を想定して少々下準備を。なにしろここは第四階層で我らは異なる眷族種。あなたは特別と聞いておりますが、念のための備えは必要でしょう」
そう言われれば反論することも難しい。確かに私の呪文はこの階層のルールを無効化できる。薄く広く浸透した第七位の悪意。私の左手はあれを否定するためにこそ力を発揮するが、その効果は万能にはほど遠い。完全に無力化するにはまだ力が足りないのだ。
「どうやら、余計な心配だったようですな。さすがはアズーリア殿だ」
特任司教の言動はつかみ所が無い。声の輪郭から感情を探ろうにも軽薄すぎてどうにも読みにくかった。
左手を握りしめる。大丈夫。私はあの時よりも強くなった。
私が扇動し、同じ旗の下に集結させ、立て直したつもりだった分隊は壊滅した。結果的に味方同士で殺し合わずに第五階層まで辿り着けたのは私を含むキール斑だけ。
今ならわかる。『智神の盾』は第七位と私をぶつけてフィリスの性能を測っていた。
いや、探っていたのは第七位の力の大きさもか。
私が戦うべき相手は、前だけにいるわけじゃない。
「そこの虹犬、過去にシナモリアキラだったようです。紀人の威を借る輩というのはどこにでもおりますが、とうとう魔将にまで現れましたか」
予想外の名前に動揺しなかったと言えば嘘になる。
兜で表情は隠れていたはずだが、影の揺らぎまでは隠せなかった。
「おっと、あなたの戦友を侮辱する意図はありませんよ?」
「構いません。彼を自称するならず者が無数に存在していることは理解しています」
そう、第五階層に関する報告書は穴があくほどに眼を通した。それくらいはわかっている。彼と彼を取り巻く環境がどれほど激変したのかも。
だから、そういうこともあると覚悟はできている。
私はきっとシナモリアキラの名を持つ者と戦うことになるだろう。それも幾度と無く。
私の感情を推し量るようなアレッシオの言葉は続く。
「しかし非常事態とはいえ、寄り道をしている場合ですかな。第五階層での予定にずれが生じるのはよろしくない」
「第四階層でこれほど大規模な破壊活動が行われた以上、影響は隣接階層にも及ぶと考えるべきです。未来回想の遵守を優先するなら、予定外の危険因子は早期に潰しておくべきでしょう」
当然、この事態を収拾したら即座に第五階層に向かうつもりだ。既にハルベルトたちが巨大な虫の王を撃破したのは確認している。魔将を倒したいま、私たちを阻むものは何もない。
「第五階層との交渉は私が成功させます。我々『智神の盾』はそのために存在する」
アレッシオは満足そうに頷くと満面の笑みを見せた。
友好、親愛、そうした意図を滲ませた歩み寄り。
「その通りですとも。そのための我ら歌姫親衛隊! そのための新曲! 同志アズーリアよ、力を合わせて歌姫をお守りし、ライブを成功させましょう!」
「歌姫はセルフプロデュースのみで完成された存在です。他者の助力など必要としません。我々が力を合わせるには及ばないでしょう」
私は相手の好意を無視し、相手もまたこちらの拒絶を無視した。私が意図的に破壊した空気を無いものとして扱いつつ、アレッシオは明朗にまくしたてていく。
「目に浮かぶようですなあ。偉大なる槍神を称える歌姫の美声に無知な異獣たちが感涙し、さながらピュクティエトに知恵の松明を分け与えられた炎天使たちのように敬虔なる神の戦士へと生まれ変わっていく美しい光景が」
ソルダの言葉を思い出す。
穏健派の松明の騎士とは異なり、中央の大神院は苛烈な支配者の論理で第五階層を制圧しようとしている。
私とハルベルトにとって、これから始まるライブは厳しい試練となるだろう。何せ敵は前ではなく、後ろにいるのだ。私は鋭く反論した。アレッシオは笑顔で迎え撃つ。もう何度目になるかもわからない舌戦。アレッシオの横槍に対する抵抗は既に私の日常だ。
「聖歌は第五位の率いる聖歌隊が。軍歌は各騎士団の専従楽隊が。それぞれの領分を侵犯する行為を、『智神の盾』は望みません」
「新しい世界に踏み出す歌姫をファンは望んでいる。多くの槍神教徒たちは歌姫が正道を歩むことを歓迎するでしょう。新たなファンも増えるでしょうね」
「失望し、離れるファンも。ハルベルトには歌姫としての譲れない矜持があります。名声、ブランド、積み重ねた信頼はたやすく壊れてしまうもの」
「大人におなりなさい。それは前進を恐れる子供のわがままです」
「ハルベルトは誰かのお人形じゃない」
「いいえ彼女は誰かのお人形ですよ。平和の奴隷、相互理解の従属物。自分の歌など歌っていない」
舌が止まる。アレッシオの言葉などいくらでも否定できる。できるはずなのに、私はいま『痛い』と感じたのか?
「目的ありきの歌、手段ありきの歌。絶対言語さえあれば世界には平和がもたらされる。『呪文の座』の目的とはそういうものでしたよね? 実際のところ、あなた方は歌の力なんて信じていないでは?」
「アレッシオ、それをどこで」
「問いましょう。あなたにとってハルベルトの歌とは?」
「心を繋ぐもの」
「嘘ですね。血塗れで戦場を歩む戦士がそんな夢物語を信じているわけがない」
「嘘じゃない。彼女の歌に救われて、彼女の歌で生かされている。それが私だ」
「それはあなただけにしか通じない道理だ。そこで横たわる屍と歌の力で和解することができるとでも? できたとして、それは悪辣な洗脳なのでは?」
嘘でもいいから反論するべきだった。
けれどアレッシオの糾弾は鋭く、そして正しすぎた。
その通りだ。歌は万能の力なんかじゃない。
未だ私たちは途上にいる。絶対言語にはまだ届かない。
「矜持を持ったアーティストだから上からの圧力にも負けず政治的宗教的に偏向したメッセージを歌に込めたりはしない? お笑いですな! あなたがたは最初から歪な思想に振り回されている、それも中途半端にね! わたくしは違う。わたくしは最初から現実を見据え、それを乗りこなそうとしておりますよ!」
男は胸に手を当てながら声を響かせた。
力強く、迷いが無く、確信に満ちている。
そう、彼には『今はまだ』なんて遅延は存在しない。完成された前進の意思がただ一つの方位へと足を進ませる。歌と力を一体化させる、彼こそは行進曲の二つ名を掲げる特任司教。
「わたくしは歌の力を信じている! 気分の高揚、一時の熱狂、霊的な歓喜と神秘体験の共有! 最も古きまじないのひとつ! どんな馬鹿にでも方向性を与えてやれる伝播と浸透に優れた人心操作の呪術! 歌とは! 大衆を支配するために存在する最適な手法なのです!」
もはや隠す気も無いのだろう。これはアレッシオからの宣戦布告だ。このような思想の人物を第五階層にのさばらせてはならない。災厄の種であるこの男をいかにして封じ込めるか。それを考えていた私は、間近に迫るまでその敵意に気づくことができなかった。
「いけない、アズーリア殿っ」
私の前に飛び出したアレッシオの手が輝く呪詛塊を受け止める。敵であるはずなのに、などと咄嗟に考えてしまったが彼は味方だ。危険はまだ去っていない。こんなところで口論している余裕は無いのだ。
「ありがとうございます」
「いえいえ。それより、ずいぶんと剣呑な気配です。くれぐれも油断召されるな。あるいはこの敵、魔将よりも厄介かもしれません」
表情を引き締めて新たな敵に向き直るアレッシオ。彼の言うとおり、敵が纏う禍々しい気配はただごとではない。
「んだよ犬っころ死んだのかよ。よっわ、シナモリアキラとかいう奴ら、ゴミじゃん」
「油断するな。レミルスはライラ殿が認めた男。新参の九槍、ただの穴埋めと侮っていい相手ではない」
異獣だ。一目見てそう思った。
私と同じ非霊長類型の異形。
その本質を隠さないということは、上方勢力に従属することを良しとしない信念の持ち主であることを意味している。和解は不可能。戦うしかない。
目の前に現れた二人の敵。
間違いなく今回の事件を引き起こしたキノコ人武装勢力の構成員。おそらくその中でも上位の幹部だ。
それはねじくれた名も知らぬ植物と、それらと渾然一体となって溶け合う様々な昆虫の集合体だった。
虫なのか、草なのか。判断を拒む非調和の姿。
虫の背から生えた草花が細く伸びて別の虫に繋がり、その虫から伸びた黒と緑の管が複雑に絡み合って大地を踏みしめる足のような束を構成している。
「アズーリアとアレッシオだっけ? じゃあ虫ちゃんたちでサクっとやっちゃう?」
「やめろ『虫飼い』。狙うのはアレッシオのみ。作戦を聞いていただろうが」
「えー殺したーい。修道騎士はみんな敵でしょ? あちし、『智神の盾』の魔女もどきとか絶対許せないんだけど」
『虫飼い』という呼び名の通り、虫と草を融合させた姿の異獣は周囲の害虫たちを完璧に手懐けていた。使い魔と化した巨大な虫が、その大顎でくわえていた修道騎士の身体をかみ砕き、鮮血をまき散らしていく。
それを見て『虫飼い』は愉快そうに笑う。
無邪気な少女の朗らかさ、しかしその裏にあるのは獰猛な怒りと憎しみだ。
「目的を見失うな。ライラ殿と『汚物屋』がことを成すまでの時間稼ぎが我らの仕事だ」
奇怪な虫草の隣で冷静に言葉を紡ぐ男性の姿は霊長類に近い直立二足歩行型だ。体色は白銀、その頭はうつむきがちな筒型の花。一見すると幻想的で美しいが、よく目を凝らすと彼の周囲には無数の『亡霊』が浮遊している。
更にその足下で探索者や修道騎士の死体がもぞもぞと動きだそうとしていた。遺骸の素肌のあちこちからキノコが生えている。
「うっせーなあ『葬儀屋』は。じゃあさっさと掌握の準備済ませろよ、あちしはさっさと戦いたいんだ」
予備動作なしでアレッシオが手を振った。
聖なる意味を付与された死霊払いの簡易儀礼。
それを白銀の男が片手で防ぎ、不意打ちで炸裂した衝撃音を亡霊たちが壁を作って受け止める。アレッシオが瞠目する。
「今のを防ぐとは」
アレッシオの奇襲は私にも正体が掴めなかった。初見で対応してみせた『葬儀屋』という男、ただ者ではない。
『葬儀屋』の前でゆっくりと立ち上がる死体たち。その体勢が不自然に崩れる。呪力や菌糸で損傷を修復しきれずに転倒したのだ。すると『葬儀屋』はキノコまみれの死者たちを助け起こそうとする。
「『葬儀屋』さま。顕花の旦那様がこんな汚れ仕事をされてはいけません」
驚くべきことに、死体が口を開いた。私が知る死霊術の類ではない。死体に寄生するタイプのキノコ人が喋っているのだ。
部下たちを気遣いながら、『葬儀屋』は言った。
「私は葬礼を取り仕切る祭司の末裔だ。そもそも死体の扱いを忌み仕事とお前たちに任せきりにしていること自体が間違いの元。この道を選んだ以上、お前たちと同じようにするのが道理というもの」
男の周囲で死体たちが感涙し、浮遊する亡霊たちが激しく踊り狂う。アレッシオの呪文による干渉がことごとく弾かれる。私は相手が見せた『人間性』をとっかかりにして呪文の準備を始めたが、あえて茶番を演じるタイプの罠という可能性も否定できない。
「変わり者だよねー。顕花のくせにあちしらの味方しちゃってさー」
『虫飼い』が身体をぐにゃりと曲げながら言った。『葬儀屋』はこともなげに返す。
「そんな奴がひとりくらいは居てもいいだろう」
呪力が爆ぜる。私の影が押し負けて、アレッシオが詠唱していた呪文が崩壊した。会話の片手間で圧倒されている。敵の呪力は魔将に匹敵するかそれ以上だ。
その上で、奇妙な既視感がある。
何故だろう。呪力の感触がエストに似ている?
正確に言えば、プリエステラがティリビナの巫女として『アルラウネ断章』という血に眠る力を振るった時に感じる気配がこの二人からも感じられるのだ。
「行け、虫ちゃんたち」
「頼むぞ、敵兵の屍を骨までしゃぶり尽くしてやれ」
『虫飼い』と『葬儀屋』は典型的な使い魔型の呪術師だった。死者と害虫の軍勢が私たちに襲いかかる。
「足ひっぱんなっつーか邪魔すっとてめーも殺すぞ『葬儀屋』」
「お前はすぐにそうやって。いや、無理もないのか」
「んだよそれ、憐れんでんのか死ねよクソ顕花!」
戦いながら味方同士で口論を始める二人。協調性が無いのはこちらも同じだが、敵の険悪さにはどこか非対称性があるように思えた。
その時、二人の間に緑色に発光する球体が出現した。
「『虫飼い』、『葬儀屋』、やめておくれ」
不思議な響きの声。私は思わず影の触手を伸ばしたが、激しい抵抗を感じた次の瞬間には身体ごと弾かれてしまった。相対していた二人と比較しても更に凄まじい呪力。格が違う。光にはいい知れない神々しさがあった。
「『薬屋』は死番虫にその身を捧げた。僕の胸は同胞の死に張り裂けそうになっている。どうか仲間割れはやめて欲しい」
ぼんやりと浮遊する緑色の光。それは穢れを浄化する神聖な力だ。死霊や死体たちは崇めるようにひざまずいて祈りを捧げている。死者たちによる不思議な歌が響いた。
「『汚物屋』が言うなら、あちしワガママ言うのやめるよ」
「私こそ配慮が足りなかったな。『汚物屋』、お前こそ無理して光を飛ばすな。力を温存して先を急げ」
「問題は無いよ。僕にはライラ殿がついている。君たちのほうこそ気をつけて」
緊張感のない敵集団に向けてアレッシオが高らかに呪文の発動句を口にする。『オルゴーの滅びの呪文』だ。その腕から長大な呪文の帯が伸び上がるのを見たキノコ人たちに緊張が走る。
「僕の分け身で相殺する! 二人とも、無事でいてくれ!」
緑色の光が飛び出して、大きく口を開いた呪文竜に突撃、全ての力を使って対抗呪文を構築、アレッシオを弾き飛ばしながら消滅した。
アレッシオの術は呪文使いの目から見ると発展性が無く構造的に低い詠唱段階で頭打ちになる粗悪品だった。最大まで強化しても燃費が悪く時間がかかる中位呪術の『爆撃』にしかならない。
それでも『段階的に強化される』というあの術は脅威度が低いうちに対処せざるをえない。見せ札、寄せ餌として相手の攻撃を誘うためのオルガンローデ。結果的に相手の戦力との交換を強要することができた。
結果、わかったことが幾つかある。
あの緑の光を操っている『汚物屋』の本体がどこかに向かおうとしていること。この二人は足止め役であること。
更に、強大な呪力に反して現代呪術に対する理解が浅いこと。よって敵の『残虐性』や『人間性』が呪文的な『型にはめる』タイプの罠である可能性が低いこと。
左手に意識を集中させながら呪文を構築、狙いを『顕花族ながら陰花族のために立ち上がった死霊使い』に定める。死霊使い。身体の奥底が震えた。先ほどまで振るっていた黄緑の稲妻、その熱がまだ残留しているのか。
アレッシオに追撃を仕掛けようとする敵に向かって呪文を唱えようとしたその時、兜の中で圧縮音声が響く。ハルベルトからの通信だ。
(敵の狙いは第五階層に異界の邪神を持ち込むこと。魔将を倒したら転移門に急いで。ハルたちも向かってるけど、妙な光に幻惑されて進めない)
心の中で詫びつつ、アレッシオを残してこの場を去ることに決める。けしてあわよくばここで倒れてほしいと思ったわけではない。嘘、ちょっとだけ思った。
「ここは任せました! 私は敵の本隊を追います!」
「やらせるか! 起きろ、あちしの可愛い『虻』ちゃん!」
私が翼を広げて飛び立ち、『虫飼い』が叫ぶのと同時、大地を割って超巨大な害虫が出現した。ハルベルトたちが対処しに向かった巨大な『死番虫』に勝るとも劣らぬ偉容。身体のあちこちがひび割れ、どう見ても致命傷としか思えない大穴が頭部に開いているが、そこから無数のキノコが生えているのが見えた。
「殺せ、邪神の仔! 次に負けたら承知しねえぞ!」
「道往くは槍示す方位、風吹くは槍響く天意。英雄の行進、堂々たる偉業、何人たりとも妨げること能わず」
『虻』の大口に飲み込まれる寸前だった私を救ったのはアレッシオの神働術だった。『行進』という言葉が鍵であったのか、私が進もうとする意思を概念的に保護してくれているのを感じる。私は高ぶる気持ちのまま腰に左手を当て、斧を持った手をリズムよく上げ下げしながら意気揚々と空中を歩いていった。巨大な害虫は私の周囲に出現した筒のような半透明の道に阻まれてしまう。
「さあお行きなさいアズーリア殿! ここはわたくしに任せて、英雄の成すべきことを成し遂げるのです!」
「はい! ありがとうございます、アレッシオさん!」
なんて心強い激励と祝福だろう。
彼の神働術があれば怖いものなど何もない。
心が熱い。もう誰も私を邪魔することはできない。
全ては我らが槍神のお導きによるもの。
聖ナプラサフラスのごとく、果て無き道をどこまでも!
「その横槍は余分だな。今こそ蘇り、分断せよ!」
『葬儀屋』の声が耳障りな雑音となって私の頭の中で響く行進曲を妨げた。
巨大な『虻』の口の中からのそりと大柄な体躯の男が出現する。害虫に喰われた者だろうか。疑問を感じる暇もなく、『虻』が怯えたように錯乱し上体を揺らす。放り出される男。巨大な害虫は身体の至る所に空いた穴を欠けた脚で押さえながら主人の下に逃げていった。
「落ち着け、あいつも死んでるっつーの。そら修道騎士を追い立てろ!」
敵の声が遠い。私の目は空中に放り出されたその男の姿に釘付けにされていた。前進の意思に浮き立つ心が沈んでいく。代わって頭をもたげてきたのは重く暗い怒りと憎しみ。私はこの恨みの感情を知っている。理不尽への憤りと強い敵意に覚えがある。その全てが行き場を無くしてわだかまるようなこのむなしさはなんだ? 私はいま、どういう感情を抱いているのだろう?
黒い肌の男だった。
金色の長い頭髪が血に汚れ、屈強な肉体には幾つもの傷が刻まれている。胸部や腹部の深手は見ただけでわかる致命傷。見るものに強烈な印象を残す『うろ』の瞳、あらゆる光を飲み込むかのような眼球には元々希薄だった生気が失われている。
「う、ああ、おお」
潰れた喉から生えたキノコが強引に言葉を紡がせようとしている。その魂、意思、生命の全ては本来とうに終わっているはずのものだ。それが再び動いているのは、傑出した死霊使いの技量によるもの。金眼のマウザとは技術体系が違う、ティリビナ文明圏の秘術。
最も古い生命の秘儀が、ある不可能を可能とした。
金髪黒肌の大柄な男性が、死にながら息を吐く。
そう、それはもう終わっている。
私の知らない所で、私が関わらないところで、ひとつの因縁が、勝手にそう思っていたものが物語に回収されることなく放りだされて消えた。
掠れたとぎれとぎれの声はひどく耳障りで、それを補うようにして死体に寄生したキノコ人たちの囁きが重なる。重層的な死者の声が『心話』によって階層全域に広がった。
「せ、宣言、する」
誰もがその声を知っていた。
守護の九槍、その第七位。
生前はヴィティスと呼ばれていたはずの、それは死体だった。
『葬儀屋』が支配する寄生キノコの使い魔が死者を動かしている。
「第四階層掌握者として宣言する。これより管理権限を『汚物屋』『葬儀屋』『虫飼い』の三名に委譲。第四階層をキノコ人たちの聖地に認定し、特別保護区として解放。私は彼らが主張するあらゆる権利を認める」
私には、それがひどく迂遠な手段にしか思えなかった。
階層の掌握権がヴィティスから動いていない。
どうしてだろう? ヴィティスが死んでいるのなら、キノコ人たちが直接この世界を掌握してしまえばいいのに。
どのような思惑か、キノコ人たちは死者であるヴィティスを第四階層の掌握者に据えたまま間接的に階層を制圧しようとしていた。
その意図が掴めたのは直後だった。
遙か後方から遠雷のような音と雄々しい鬨の声が響いてくる。
地上からの救援がやって来てくれたのだ。
空に大穴を開けて突入してきた草の民を中心とした次元騎兵隊、その先頭で騎兵たちを率いているのは九槍が第四位、カーズガンの勇姿。
彼らが来たからにはこの階層での戦闘は終結したも同然、と安心するのと同時に、死せるヴィティスの口から呪わしい声が響いた。
「レイシズム変数」
瞬間、『われわれ』という言葉の鎖が第四階層を覆い尽くす。
『松明の騎士団』によって支配された階層全域に、祝福のために詠唱された神働術が大いなる槍神の加護をもたらしていった。
第四位という心強い味方を得た『松明の騎士団』は一枚岩の結束でキノコ人武装勢力と巨大害虫の軍勢を撃退する。そんな未来は儚くも砕け散った。
大地の風景はたちまち変貌し、鬱蒼と生い茂るのは濃い色の密林。
その森に道は無く、緑の葉は無く、黒ずんだ葉が茂る。
節くれて曲がりくねった枝、果実は実らず腐り堕ち、毒を含んだ棘が生えている。
腐臭と共に枝が折れれば割れた傷から血が流れ、くぐもった呻き声が途絶えること無く響き続ける。
荒れた大地から伸び上がる禍々しい『世界』が天かける騎兵隊の歩みを止めた。たとえ空を飛び空間の亀裂から異なる次元を踏破しようとも、それが騎兵であるならば『森』という象徴はその動きを妨げる。呪術的な法則が第四位の進撃を停止させた。
そして、この異界の真なる脅威は別にある。
第七位の浄界。
音に聞こえし忌み名は『自殺者の森』。
秘されていた第四階層の真の姿が露わになった瞬間、私は思い出す。
アレッシオの神働術によって支配されていた屈辱、煮え立つような殺意の全てを。
「死ね。私たちが望む未来に、お前はいらない」
陥穽、雷撃、影槍、静謐。キノコ人たちの攻撃に合わせるようにして叩きつけた呪術の連続攻撃がアレッシオを襲う。不意を突かれた男は転倒し、キノコ人たちからの追撃を転がるようにして逃れていく。既に神働術を用いる余裕などは無さそうだ。
危なかった。私を援護した『行進』の術、あれは祝福の形をとった洗脳の呪い。もう少し気付くのが遅かったら完全に奴の操り人形と化していただろう。やはり中央の人間は信用できない。大神院と星見の塔が手を取り合うことなど本質的には不可能だ。
憎むべきアレッシオに向けて駄目押しの呪いを叩き込む。仇敵が致命傷を負ったのを確認すると、私は翼を広げてその場を離脱した。あとはキノコ人たちが始末してくれるだろう。私は急いで第五階層に迫る脅威を排除しなければならない。
炎の試練を乗り越えた私の魂は、正しい信仰の衝動に突き動かされていた。
心が燃えている。影が揺らめき、形の無い熱が体内で膨れあがる。
我らが苛烈にして純粋なる槍、ソルダ総団長の言葉を思い出す。
解釈違いを殺せ、イメージの主流を奪え、理想の世界を勝ち取れ。
全てはチョコレートリリーの未来のために。
私たちの敵は、皆殺しだ。




