5-8 トリシューラ暗殺計画
目の前で長い銀髪を二つに括った少女が微笑んでいる。
ライラとの戦闘が終わったあと、応接用の別室に通されたユディーアはテーブルを挟んでレナリアと名乗る紀人と向かい合っていた。踊り子に扮していたレナリアの配下(というより本人が宿るための『乗り物』だ)が朱色の茶をカップに注ぐ。合流したちびニアは大皿のクッキーを頬張るのに夢中だ。その間もユディーアはじっと目の前の少女を観察していた。
レナリア・V・オルガナ。
第七世界槍の文明圏ではよく知られた名である。それもとびきりの悪名だ。
『黒斑病公司』という闇組織の頭目であり、あまりの邪悪さから朱の色号の師である睡天主マーブシュズールに破門されたという『夢界の殺し屋』。『虹犬五傑』の筆頭『犬騎士』の首の一つを落としたとか、先代盲天主の死に関わっていたとか、物騒な噂には事欠かない。
「わたし、前に極天主の高弟を仕事で転がしちゃったのね。それで優秀な過去視能力者である灰の色号使いはだいたい私のことを目の敵にしてるから、こういう依頼ができなくて困っていたの。そこで在野の凄腕が必要になったわけ」
つまりあなたね、とユディーアの方を示しながら言うレナリア。
自分よりもやや小柄な少女、無徴の霊長類系に見えるが、どこか種族が判然としない。
というかこの女性、本当にここにいるのだろうか?
レナリアにはどこか現実感が乏しいところがあった。まるで夢の登場人物のようだ。
「ここにある実体は影みたいなもの。私の核は集合無意識の底、夢界にある。眷族種は必要に応じて変えてるわ。うちの器たちはだいたいアヴロノと天眼の民、たまに鉄願の民ね。この子はあなたと同じ天眼の民。ザイ・ジャエトの遠き裔、名前はレナ」
ユディーアの心理の深い部分を読み取ったのか、レナリアは自分の身体について説明した。
寄り代の名前がレナリアと似ているのは偶然では無いだろう。恐らく生まれた時からこの紀人の巫女として育てられてきたのだ。上位存在の端末、定められた運命。ユディーアの沈黙の裏にある感情を知ってか知らずか、レナリアは好意的な態度で取引を持ちかけてくる。
「同郷のよしみってことで、あなたにはそれなりの便宜を図ってあげる。この辺境区で四大組織の後ろ盾があると何かと動きやすいわよ」
「そのかわりにあたしに協力しろってことですね。けどそれ、死霊術師に頼んだ方が良くないですか。過去の遡行距離がわからないし、失敗の可能性が高い。霊魂を尋問するか支配するかして秘密を吐かせた方が」
「残念ながら、ティリビナ人の信仰では遺体は大地に、魂は大いなる生命の流れに還元されることになっている。新しく芽吹いた苗木に訊ねても養分となった前世の情報は忘却の彼方。強引にこっちの死生観に引き摺り込めばどうにかなるかもだけど、魂が歪んで欠損するからやっぱり無し。過去視が最も確実なのよ」
依頼内容は『ティリビナ同胞団』の幹部だったティリビナ人の過去を探ること。
正確には、死亡したその男が立てたトリシューラ暗殺計画の詳細を知ることだ。
レナリアは独自の情報源からそのことを知り、はるばるこのガロアンディアンまでやってきたらしい。ティリビナ人が依頼したのは『王殺し』と呼ばれる当代一の人気暗殺者。動画配信者にして革命請負人。『祭祀国家と専制国家を終わらせる男』とまで呼ばれた理想家で、伝説的暗殺者シェロンの弟子を自称しているという。
「私の目的は暗殺阻止と『王殺し』の身柄確保。私、彼のファンなのね。ずっと追いかけてて、ひとつになって融け合いたいって夜ごとに夢を作るほど大好き。死んでてもいいけど魂は確保したい」
蕩けるような口調、恍惚とした表情。レナリアは夢見る少女や恋する乙女さながらの熱情を口にした。
それから端末を取り出すと、立体幻像を立ち上げて三次元動画を再生する。現れたのは若い男。上がり眉につり目、鼻筋の皺に大きな口とぎらりとのぞく大きな犬歯。トップ部分をラフに立たせて耳元と襟足を長くした、力強い狼を思わせるアッシュカラーの髪は丁寧にセットされている。動画映えする薄いメイクも忘れていない。
男は怒りを露わにしながら権力者の専横や旧弊的な体制の腐敗、悪辣な大企業などを名指しで批判している。
確かに美形だし、激昂してる顔つきが様になっているのもわかるけど、お近づきにはなりたくないな~、とユディーアは思った。
どうやら怒りによって共感を集めて支持を得てきた動画配信者のようだ。彼は己に賛同する者たちの代表者として名指しした人物や国家、企業などを襲撃し、次々と暗殺していく。『軍事政権相手に無双してみた』『民間警備会社の本社に潜入、ノーデスでターゲットのみステルスキル(ウサギの呪殺返し有り)』『カルト教団編:現人神最速撃破(解説付き)』『素手縛りで人食い王攻略』などなど、一見しただけで異常な手練れだとわかるような動画ばかりが表示されていく。
「かっこいい。顔が好き。声も最高」
レナリアは食い入るように動画を見つめている。ほぼ外見にしか興味が無さそうなコメントだったが、心からの感情だとユディーアは判断した。七情を操る彼女にとって、情動の真贋を見極めることは必須の技能。これは演技ではなくレナリアの本心だろう。
だが全てを話しているわけでもない。ユディーアは警戒したまま観察を続けると決めた。しばらくして冷静さを取り戻したレナリアは神妙な顔つきになって続ける。
「けど今回は相手が悪い。いくら『王殺し』でもトリシューラの暗殺はリスキーすぎる。最悪の結末は彼が『マレブランケ』入りしてシナモリアキラにされてしまうこと。彼くらいの『格』があれば機械女王が目をつける可能性は十分にあるし、先を越されて零落なんて最低、あれは絶対に私が先に手に入れる」
ユディーアは空組からの報告を思い出す。グレンデルヒ、六王、アマランサス。確かにシナモリアキラは敵対した相手を次々と零落させて紀人の枠組に取り込んできた。『王殺し』ほどの大物が敵として機械女王を狙えば、その毒牙にかかる危険性はある。
「目的は暗殺自体を止めることじゃないと?」
「もちろん、女王に恩を売れるならベスト。でも本命は『王殺し』よ。トリシューラとシナモリアキラの魔の手から彼を救い出し、あわよくば習合、というか合体、というかえっとそのう、平たく言うとレイプして血肉を喰らいたいなって。きゃっ、言っちゃた!」
頬を染めて恥じらうレナリア。
狙っている生贄を他の紀人に取られる前に奪いたい。
ユディーアは新しき神の欲望をこのように解釈した。
おぞましいが、要するにこれも神々の盤上遊戯というわけだ。巻き込まれる方はたまったものではないが、一方でライラたちを相手にする上でレナリアの協力が心強い事もまた事実。『メイファーラ』としてはトリシューラ暗殺を看過するわけにもいかない。
「詳しい事情は知らないけど、あなたたち『呪文の座』はライラと敵対している。私の協力があると嬉しくない? これでも虹犬との戦闘経験は豊富よ」
詳しい事情を知らないというのは嘘だろう。ユディーアがライラの命より情報を欲しがっていることを彼女は知っていた。とはいえこちらを『呪文の座』として認識している以上、それに合わせて振る舞うのが今は無難ではある。
「わかりました。成功は確約できませんが、できる限りのことはしてみます、こちらとしてもトリシューラの暗殺は放置できない。今更ですが、あたしはメイファーラ・リトです。よろしくお願いします」
「うん、よろしくね。それじゃあこれで協力関係成立ってことで。愛称は何がいい? メイちゃん? メイファちゃん? それともファラちゃん?」
「お好きにどうぞ。仲間はメイと呼びますが」
「いいわね、可愛い呼び名。メイちゃんって呼ぶわ」
レナリアは嬉しそうにメイちゃん、メイちゃんと数回繰り返すと端末で時刻を確認してから言った。
「少し待ってて、いま部下の棺男に件の遺体を運ばせてるから。ティリビナ人連中からかすめ取ったんだけど、隠れながらだから時間がかかってるの」
ユディーアは心配になってきた。ティリビナ人勢力と明確に敵対するのは問題だが、一方でラズリの占いによればクナータが彼らのもとにいる可能性もある。四大ギャングの勢力争いに首を突っ込んでいかなければ目的は達成できないのだと思うと憂鬱になる。
「レナリアさんはここのボスであるゴーリーとはどういう関係なんですか?」
遺体の到着を待つ間、ユディーアは少しでも相手の情報を探ろうと話を振ってみた。レナリアは何でもないことのように答えてみせる。
「あの子の母親と姉が私の器なの。その縁でゴーリー坊やが生まれたばかりの頃に少し世話を焼いたことがあるわけ。そのあとはずっと会ってなかったんだけど、何年か前にあいつが第四層のクエスドレムにやられてね。魂を夢界に囚われて操り人形にされてるのがあまりにも惨めで見ていられなかったから、解放してあげたのよ」
当時、第四階層を中心に活動していた『ゴーリーズ』はそれなりに有力な探索者集団であり、九英雄には及ばないがそれに次ぐ二番手グループの末席に数えられる程度には規模の大きな勢力だったという。
魔将に囚われた絶望的な状況から救い出された迷宮刑罰者たちはレナリアに多大な恩がある。この牢獄街で最も恐れられているのはゴーリーだが、最も敬われているのはレナリアなのだ。
「この世界槍で自由に使える手足があると便利でしょ? 『ゴーリーズ』は四大勢力では最も弱小だけど、頭数だけならそれなりのものよ。数は大事、どんな時でも」
「『黒斑病公司』を第五階層に進出させるためですか」
「それもあるけど。女王に恩を押し売りするついでに、あわよくばシナモリアキラの議席を確保できないかなって」
あっさりと野心を認めつつ、不可解な目的も明らかにするレナリア。ユディーアは耳を疑った。彼女はいま、シナモリアキラの何と言ったのだ?
「近頃、第五階層ではある噂が流れているの。それは『祝祭の中でシナモリアキラ選が行われる』という噂」
「シナモリアキラの、選挙?」
珍妙な響きのようだが、これまで目にしてきた『シナモリアキラ』たちの多さを思うと納得できるような言葉でもあった。レナリアは端末でネット上の他愛ない憶測や噂話を検索しつつ説明を続けていく。
「機械女王が公式に発表したわけじゃ無いけれど、一部の住民はかなり本気にしてる。有力とされるマレブランケ志望者たちが次々と出馬表明をしているわけ」
レナリアの説明によれば『マレブランケ』とは紀人都市における議会に相当する、専制君主トリシューラが選んだ紀人の意思決定機関なのだという。だからこそ第五階層の各勢力は自分の息がかかった人材を『シナモリアキラ議員』にしたがっているのだ。
「英雄グレンデルヒを筆頭に古の六王、キュトスの姉妹などで構成された紀人の器。その空席を巡る争いを、祝祭の中に取り込んでしまおうということですか?」
「そういうこと。『マレブランケ』の空席は現在『カニャッツォ』『リビコッコ』『ドラギニャッツォ』『ルビカンテ』の四つ。紀人シナモリアキラの格とガロアンディアンの勢力規模を左右する重要な決定だから機械女王は慎重になっているけど、ここに大人しく指名を待てるようなお行儀のいい連中はいない。本気で紀人の力を欲している者は既に動き出している」
ゴーリー、ハデス、アサブ、ロードデンドロンの四巨頭、それに『次期英雄』と目される有力な探索者たち。
手っ取り早く『力』を欲する者たちは続々とこの第五階層に集まり、その機会を狙っている。
ユディーアはふとある考えに思い至った。
そんなことがあるだろうか?
クナータを誘拐した敵の一味。あの四人が、シナモリアキラの四つの空席をそれぞれ狙っている、などということが。
「あの、『傘の魔女』がシナモリアキラの座を狙っているということは考えられると思いますか?」
「あり得るわね。彼女のカビ臭い思想は現在のガロアンディアンと相容れないけど、王国と権力を欲しているのなら内側に入り込んで汚染すればいいんだもの」
同じ事は他の有力者にも言える、とレナリアは端的な例を示した。
「『ティリビナ同胞団』の緑天主ロードデンドロンは反ガロアンディアン、反シナモリアキラを明確に掲げている。けれど、同時に『マレブランケ』の席を求めていることでも知られているわ」
「彼の中では矛盾していない?」
「その通り。『間違ったガロアンディアンを作り替える』『穢れたシナモリアキラを自分が浄化する』というのが彼の掲げる公約だから」
確かにそれならトリシューラ暗殺と『マレブランケ』への立候補は一貫性のある行動だ。『死人の森』に連なる王権の継承と新しき神の力が手に入れば、ティリビナ人は自分たちだけの国家と守護者を得たも同然となる。それは駄目だ、とユディーアは『使い魔の座』として判断した。ティリビナ人のみが第五階層の覇権を握ることがあってはならない。それはトライデントにとって望ましい未来ではない。
もはや『ティリビナ同胞団』との相対はユディーアにとって喫緊の課題となっていた。敵の一味である薔薇の麗人スーリウムが身を潜めるとすればこの勢力の圏内であろうという確信に近い推測もある。一度目は偶然に巻き込まれ、衝動的に行った遺体の過去視。二度目となる今回は明確な目的を持って行うことになるだろう。ユディーアの中で嫌な予感が膨れ上がっていく。思い起こすのは友人の樹妖精のことだ。プリエステラ、彼女は今頃どうしているだろう?
階段を下りると朱色が薄まり、かわってぼやけた灰色の空気が立ちこめる。邸宅の地下は死体置き場だった。保存状態の良い素体を死霊術師に売り払うための倉庫であり、重要な情報を抱えたまま死んだ者を専門家に尋問させるための取調室でもある。
「ちゃんと骨董品や古い石像なんかも置いてある。さすがにこれだけ整えれば地上より灰色になってくるね」
「あれでもゴーリーは多少だけど色号論が分かるの。ま、すこし黒っぽいけどそこは許して」
共に地下室に降りたユディーアとレナリアは蝋燭の明かりを頼りに奥へ向かった。ところ狭しと並んだ寝台と安置された亡骸の傍を通り、とりわけ大きな儀式用の寝台の前に立つ。脇には到着したばかりの手足付きの棺桶が待機状態で座り込んでいた。ユディーアは寝台に横たえられている遺体の状態を確認していく。
「背後から火蜂で殺された男性はこのティリビナ人で間違い無いですね。情報凍結が早かったから劣化もほぼ無いし、問題なく行けます」
「じゃ、お願い。戻れなくなりそうになったら私が引き戻すから、全力で遡っていいわよ」
レナリアを全面的に信用したわけではないが、互いの利益となりうるこの調査で頼りにしてもいいだろう。これから行う過去視はユディーアにとっても稀な『長旅』になる。無防備な身体をレナリアに委ねる気持ちで意識を遺体に集中させていった。
彩域の窓を開き、死者の体内に残留していた灰神たちに語りかけると、世界はモノクロームに変わっていく。眠っていた精霊たちを揺さぶって順番に目覚めさせる。壊れないようにそっと、忘れないように慎重に。
遠い過去へ遡る技術は高度で危険なものだ。フィリスはそれを軽々と成し遂げるが、あれは揺らぎと編纂による語り直し。本来は別種の技能だ。事実のみを調べるのには向いていない。
だからユディーアは細心の注意を払って小さな精霊たちを再配置していった。形も個も明瞭ではなく、流れとも広がりともつかない神のごとき実在にそっと爪を立てる。
そして、少しだけ『ずる』をした。
『竜覚』を呼び起こす。血の中に眠る古い意思が呼応し、爪と共振した竜の輪郭が目の前に収束。世界に偏在する『理』を確固たる力として具象化させていった。
これこそは血統の力。竜神信教、第三の巫女としての力だ。
紀竜クルエクローキは様々な摂理を司っているが、そのうちのひとつが『運命』である。ユディーアは運命竜の巫女としての感覚を応用して遠くへの過去視を可能にしていた。灰の天主テララの高弟たちが百年かけて到達する領域。それをユディーアは弱冠十歳の時点で既に自由に見ることができた。
「これかな」
些細な日常は視界に入らず、最短最速の手順で目的地に到達。これも『運命』を司る巫女の特権だ。『大きな流れ』だけが必要なものとして彼女の前に並べられていく。
場面は夜、それも満月の浮かぶ暗黒の世界。
第五階層であって第五階層ではない。
ここは隣り合う異界、影の中に存在するスキリシアだ。
朧な月明かりが草原を照らし、淀んだ風のそよぎが掠れた合奏を形作る。遠い山々の稜線に手をかけた巨人の輪郭が瞬きの間に消え失せると、彼方に広がるのは暗い夜を映した大海原に変幻する。荒れ狂う波は不気味に命を誘い、渦巻く潮が奈落へと手を招く。
星々の幽玄なる呪力が渦巻くアストラル界。その影響をより直接的に受ける影の世界では、人の心が映し出す不安や恐怖から生じた想像力が具象化し、現実を変容させる。
刻一刻とそのありようを変え続けるスキリシアの地形や座標をはっきりと『どこ』と示すのは夜の民でなければ困難だが、とにかくそこは『第五階層の影』らしかった。
人気のない場所だ。コウモリの羽ばたきもネズミたちの鳴き声も聞こえない。『影走り』たちが忙しなく荷物を運ぶルートからも外れた空白の土地を、樹木がよたよたと歩いていた。がっしりと太い足が草を踏む音はたどたどしく、眠たげな瞳は茫洋としてどこを見ているのかはっきりとしない。ティリビナ人の異様な状態の原因は、樹皮に覆われた身体に巻き付いた蔓と、その発生源である片手に握られた一輪の黒薔薇だった。
夜に浸したような小さな花が、甘い香りと共に瘴気を垂れ流す。重く淀んだ空気はスキリシアの大地へと降りていき、ゆっくりと特定の方向に這っていく。ティリビナ人の足は黒薔薇によって導かれるがままだ。
薔薇。この花に対して、今のユディーアは不吉な予感を抱かざるを得ない。
灰色の石柱が立ち並ぶ不可思議なサークルの前で男の足が止まる。
古代の神殿か祭壇、舞台のようにも見えるその場所で、ティリビナ人は身体に巻き付いた黒薔薇を掲げて天を仰いだ。ティリビナ人が口を開き、だが大気は震えることが無いままに薔薇の花が鎌首をもたげるようにしてぬっと伸び上がった。
「スキリシアの夜はいつ見ても美しく儚いな。闇と死に対する畏怖と崇敬は生命の賛美者たる私とは相容れないが、これもまた美のかたち。私はこの美しさを愛する。もちろん、この夜のように美しい君のかたちもだ」
朗々たる声が夜の大気を震わせる。男とも女ともつかない不可思議な美声に聞き覚えがあった。四人の襲撃者のひとり。カーインを圧倒した花のアヴロノ。
薔薇の麗人スーリウムは己の意思を託した黒薔薇によってティリビナ人を操っているのだ。
虚空へと投げかけられた言葉に呼応するように、大気が揺れた。石のサークルの中央で空間が歪む。景色を引き裂くように球形の窓が開き、その向こうから遠い声が聞こえてくる。
「回りくどいんだよ。いまさら呼び出して何がしたい、スーリウム。お前とは馴れ合わないとジャホラットの件が片付いた後にはっきり言ったはずだ」
「まるで孤高の獣だ。どれだけ傷つこうとも美しい在り方を貫こうとするその意思を私は賞賛するよ、心からね。愛おしいとすら感じる」
舌打ちの音。距離を隔てたスキリシアのどこかと繋がっているらしき空間の穴。どうやら向こう側にいる人物はスーリウムとは旧知の仲であるらしい。
「その名も誉れ高き『王殺し』、理想を追いかける孤独な狼よ。君にうってつけの夢を持ってきたんだ。きっと興味を持って貰えると思うよ」
「死ね。お前の独善に付き合ってられるか。どうせ燐血の民か槍神教徒でも殺させたいんだろうが、俺は自分の獲物は自分で決める。養分が欲しいなら下水が通ってない地域で便所の汲み取りでもやってろ」
聞こえてくる『王殺し』の雰囲気はひどく険悪だ。スーリウムを微塵も信用していないと思われる態度だが、しかしそれならどうして彼はこうして呼びかけに応じているのだろうか。
黒薔薇は涼しげにこう続けた。
「胸を打つような虚勢だ。強がろうとする意思は素晴らしいが、時には友人に助けを求めることも必要なこともある。君はいま、助けを必要としているはずだ」
返事は無かった。沈黙を確かめるように頷く黒薔薇と連動するティリビナ人の頭部。
ユディーアは思い出した。レナリアが『王殺し』の魅力について語り続けるなかでふと零していた心配事。ここしばらく新しい動画の配信が無い、何かあったのだろうか、と。
果たしてファンが抱いていた嫌な予感は的中していた。
スーリウムは優しく手を差し伸べるように蔓を伸ばしながら言った。
「『満月機関』の解体と『狂戦士の王』の暗殺は見事な手際だったね。家畜として屈従を強いられてきた変異人狼たちに自由を与えた君の功績は英雄と讃えるに相応しいものだ」
「黙れ」
「だが君は失敗した。解放奴隷たちを保護するはずだった君の支援者たちは実際には商品を欲していただけの大企業の走狗。偽善に塗れた慈善家たちでしかなかったのだからね。君は裏切られ、罠にかかって槍神教の天使部隊の襲撃を受けた」
「黙れと言っている」
語調を強めた『王殺し』が、途中で咳き込んだ。
喉の奥から水音が混じったような、違和感のある咳。
注意深く耳を澄ませば呼吸音も乱れている。
ほぼ間違い無く彼は瀕死の重傷を負いながら逃亡を続けているのだ。
槍神教の最大戦力である天使部隊に追われているというのなら、彼の運命は風前の灯火だ。このままではレナリアをはじめとした多くのファンが暇つぶしの手段をひとつ失い、追悼イベントで悲しみを消費したあと別の動画でも視聴するだろう。
動画配信者の支援者とは基本的にそういうものだ。
『王殺し』は孤立無援だった。
「こっそりと教えるが、既に手遅れだった分岐を五つ踏んでしまった。君の時間樹は枯れかかっている。いま決断しなければかなり危ういよ?」
「俺に、何をさせたい」
「君が望むことを。その命が燃え尽きる前に、『王殺し』が果たすべき使命を与えてあげようというだけさ。標的はガロアンディアンの機械女王トリシューラ」
予想通り。ユディーアはレナリアの情報が正しかったことを確信したが、直後に付け加えられた名前に激しく驚愕してしまった。
「そしてシナモリアキラとアズーリアだ。知っているだろう? 魔将エスフェイル、本来ならば栄えある四十四士の名を継ぐべきであった人狼種族の英雄を、あの二人は殺した」
「当然知っている。だがそれは戦場でのこと、奴らが倒すべき邪悪であったことは無い」
「暴力と偏見を拡大させ、邪悪なまじないをばらまく。武器商人よりも質の悪い連中だよ。可哀相なティリビナ人たちに戦う手段を与えて希望をちらつかせ、一方的な秩序と支配で弾圧する。傲慢で独善的な救いを押し付けて黙らせる。私の『アルラウネ断章』が彼らこそ次の言震を引き起こす災厄の種子だと教えてくれているのさ」
スーリウムは恐らくティリビナ人の、より正確には『ティリビナ同胞団』の利益を最大化するために動いている。サイバーカラテと言理の妖精に対する危惧、ガロアンディアンにおけるティリビナ人独立の動きなどを考えるとこの暗殺計画はそうあるべくして立案されたもの。しかし、決定はあまりにも予防的だ。
予言、未来予知、占術、運命知覚。呪術によって得た知識をもとに予防的行動を行うことの是非は思考実験と倫理学における重要なテーマである。どうやらスーリウムは保守的な予防措置をためらわないタイプのようだった。
それに、とスーリウムはさらに続けていった。
救いを与え、大義をちらつかせ、最後に手を伸ばしたのは相手の心。
「君には彼らを殺す理由がある。そうだろう、『狼の皮を被る者』。いいや、君はもう望んでいた栄光の名を受け継ぐべきだ。最後に残された人狼の血を、歪められた家畜の生として終わらせるつもりか? 君は英雄にならなければいけない。なら宣名すべき名はひとつのみ」
覗き見しているだけのユディーアにはその言葉の詳細はわからない。
だが、それがひどく個人的な動機に訴えかける言葉なのだということはわかった。
唸り声が聞こえる。傷ついた獣が敵を前に絞り出す闘争心が熱となって漏れ出している。
やがて強烈な意思はひとつの決意として結実した。
「暴虐を働く圧制者、非道を行う邪悪な権力。俺はそれらを憎む。仮にガロアンディアンがお前の言うとおりの悪であるならば」
全てはスーリウムの望んだ通りに。黒薔薇がかすかに笑ったように感じられた。
「俺は『シェボリズ』を名乗り、トリシューラとシナモリアキラ、そしてアズーリアを殺す」
レストロオセ四十四士がひとり、シェボリズ。
魔将エスフェイルの父にして祖、人狼種族の英雄。
どのような経緯か詳細は不明だが、地上世界において迫害と弾圧、奴隷化を強いられてきた人狼たちの末裔がこの『王殺し』であるのなら、彼がシェボリズを名乗りガロアンディアンに牙を剥く理由は十分にある。
答えを聞いたスーリウムは喜びも露わに両手を広げた。
「私の使いがいまから君を助けに行く。必要なものは全て用意させよう」
「俺の流儀でやらせてもらう。お前の指図は受けないし、俺はティリビナ人だけの味方になるつもりもない。それを忘れるなよ、スーリウム」
「すばらしい。それが美しい生き様というものさ、愛すべき新たなシェボリズ」
双方が合意し、事態が動き出そうとしたその時だった。
閉じかけた空間の窓に彼方から光が飛来する。
鋭い棒状の飛翔体。月光を反射する透明な氷。
ユディーアが遡っているよりずっと未来の彼方から飛んできた氷の矢が、暗殺者である『王殺し』シェボリズを亡き者にせんと襲いかかる。時空を歪曲させながら光より速く飛翔する矢と共に、ひとりの女が逆手に握った双剣で黒薔薇に斬りかかる。
栗色の髪、編み込んだ一房が顔の横で棚引いて殺意に満ちた顔を露わにしていた。
背中の煙突から煤煙を、脚部から汚水を垂れ流す公害を鎧の形に押し込めたような穢らわしい呪動装甲で首から下を覆った女戦士が矢と共に時間を遡って襲撃。
スーリウムは黒薔薇から伸ばした蔦で矢を絡め取って大地に叩きつけると、緩慢に思える動きで斬撃を回避。女の影から伸びた瘴気の槍を素手で弾いてみせる。
「無駄だ。矢のように単線的な視座では、私の時間樹を折ることはできない」
思考停止していたユディーアはそこで突然の闖入者が何者かを理解した。
アズーリアと親しくしていた『邪視の座』の使い魔。
確か名前はサリア。『小鬼殺し』と呼ばれる最強の探索者のひとり。
サリアは鬼気迫る表情で斬撃を繰り出し、目にも留まらぬ速度の蹴りを次々と叩き込んでいく。流れるような動きで攻防を繰り返す両者。スーリウムが操るティリビナ人の身体は耐えきれず損壊し、樹皮が割れて胴体がへし折られる。
と、その光景がぶれた。
そして別の映像が重なる。
違う現実が再生されていった。無傷のティリビナ人が青薔薇を操って蔦の鞭を振るい、頭蓋を砕かれたサリアの死が巻き戻って仕切り直し。時計を抱えたハエの幻影が背後でちらつく。
スーリウムに不都合な時空が真横にスライドして別の現実とすり替わる。
サリアに不都合な時空が真逆にターンして以前の状態に整えられる。
双剣が重なり合う複数のスーリウムを切断するたび、大気を破裂させる蹴りがぶれ続けるティリビナ人を殺すたびに異変は起こった。スーリウムが支配する薔薇と操り人形が、全く別のティリビナ人、時にはアヴロノに上書きされていくのだ。茨に引き裂かれた直後に死をやり直すサリアは最適解を探すが、スーリウムが引き起こす奇妙な現象に翻弄されるばかり。
歪みが広がり空間すらも書き換えられる。戦いの場、遡っていたはずの過去は山頂になり、海中になり、スキリシアですらない見知らぬ異界になり、ありとあらゆる可能性を巡りに巡ってついに元の場所に戻ってきた。
完全な停滞。何も起こらなかったかのようにスーリウムは無傷でそこにいた。
一方のサリアは茨の鞭で全身を引き裂かれて満身創痍となっている。呪動装甲の各部から瘴気が漏れ出して、足下の地盤が沈下して体勢が崩れていった。
「敗北の分岐がまだまだ多い。素材は悪くないが、まだ技の切れを磨けるはずだ。もっともっと強く美しくなりたまえよ、未熟な時空遡行者くん」
鞭がしなる。
極彩色の薔薇はまるで万華鏡だ。茨の鞭が幾重にも広がり、数多の可能性の渦となってあらゆる運命を波濤のように叩きつける。サリアの背後で半透明の時計に亀裂が入り、ハエの幻影が歪んでいく。ユディーアの理解を超えた死闘の果て、サリアの干渉はまるで最初から存在しなかったかのように痕跡を残さず消滅した。平然と立つスーリウムの黒薔薇が不意に虚空に向けられる。薔薇の花弁はまるで顔のように、確かに誰かを見据えている。
「そこで見ている誰かにも言っておこう」
見られている。ユディーアは総毛立つ感覚に呼吸を止めた。
スーリウムは時間遡行者による暗殺計画の妨害を阻止し、過去視による調査すら知覚して忠告をしてみせた。この人物の底が全く見えない。ライラ・ラプスと比較すると危険性の質があまりにも違いすぎる。
「これはひとつの運命の支流だ。遍く小川は大河に合流し、遙かな山脈へと還っていく。大樹の枝を手折り葉を毟ろうと、太く強靱な幹はびくともしない。時間樹は既に運命に深く根付いている。君たちの抵抗は樹皮を削る虫の足掻きよりも儚く無価値だ」
ありったけの灰神をかき集めて選別した過去を確保。全力で意識を後退させながら竜の巫女としての感覚を研ぎ澄ませて悪運の流れに注意深く目を凝らす。来る、見つけてしまった、スーリウムは既に攻撃を実行している。逃げろ、躱せ、最速で現在に戻れ。
スーリウムが操るティリビナ人が両手を広げて叫ぶのと同時、大樹の形として解釈され可視化された運命の激流がユディーアに襲いかかった。鉤爪を振るいながら咆哮する。翼の生えた黒蛇が勢い良くユディーアの背後から飛び出すと、時空間を貫くような大樹を押し留めた。
「私の血に流れる『アルラウネ断章』が呼んでいる。根源への回帰衝動を叫んでいる。ああ、実に楽しみだね。これから始まる祝祭こそ、我らのために存在している!」
遠ざかる声を背にしてユディーアは必死に逃走した。
黒蛇が大樹と拮抗している隙に浮上し、溺れた者のもがきにも似た動きで現在という水面に手を伸ばす。頭上から蝶々が舞い降りてくる。朱色の気配。引き上げられる感覚。過去視に没入していた意識が浮かび上がると、ユディーアは滝のように汗をかいている自分の肉体に気が付いた。レナリアが顔をのぞき込み、汗を拭いてくれる。
「何があったの?」
「花のアヴロノに過去視を感知されて、危うく廃人にされるところでした」
呼吸を整えたユディーアは硬く握りすぎて手のひらに食い込んだ爪をゆっくりと引き剥がしながら、目の前で開いて見せた。灰色の窓が開き、手に入れた複数の過去が再生されていく。
「それとは別に、計画に関連した情報も拾ってきました。見ます?」
「お疲れ。上に行きましょう。あなた、お茶でも飲んで一息つくべきだわ」
微笑むレナリア。手をもう一度振って窓を手の内に収めると、ユディーアは疲労感を誤魔化すように笑い返した。無理にでも笑わなければやっていられなかったのだ。スーリウムという恐るべき魔人に対抗する手段を、ユディーアは何一つとして持ち合わせていない。
恐怖は無い。そのような感情は打ち消せばいい。
しかし勝てないという圧倒的な事実を打ち消す手段だけが皆無なのだった。
「問題はどうやって彼らが『王殺し』を手引きし、いつどこで計画を実行するのかです。この過去情報を見て下さい」
ささやかな休息で人心地が付いたユディーアは先ほどの一室に戻って取得した過去の情報を目の前に広げていく。空間に固定された映像記録が詳細に拡大されていく。
「ここです。黒薔薇に支配されたティリビナ人が受け取っている物理書簡。本人はこれが何か理解できないまま黒薔薇だけに見せて即座に破棄していますけど、あたしは灰神を介してこれを辿ることが可能です」
「は? 過去視で見た記録の中で更に過去視を? 出来るの、そんなこと?」
唖然とするレナリア。色号使いとしては得意分野の系統が違うとはいえ、彼女の常識では普通の灰色術師にそのようなことはできないことになっている。
「普通は無理です。あたしはちょっと小技を使えるので、その応用で」
詳しく説明しないまま、ユディーアは手の中で弄んでいた銀貨を強く握りしめた。
情報漏洩を恐れての物理的な手紙での連絡は、過去視による盗み見を防げないという脆弱性を有する。果たしてユディーアが明らかにしたスーリウムの連絡先は驚くべきものだった。
とある呪術セキュリティ会社に勤める言語魔術師、それが敵の協力者だ。
クロウサー家の当主が最高経営責任者を務める『シアンクリーニング』の系列会社で、祝祭で行われる箒レースの大会運営にも関わっている。
箒レース大会の呪術防衛に関する秘密が暗殺計画を企てる反体制側の組織に漏洩している。
この事実が意味することはひとつ。
暗殺者は祝祭の日、レース会場で計画を実行に移すつもりだ。
予定では機械女王は特等席でレースを見物することになっているらしい。
最も危険なのはトロフィーを直接授与する瞬間だ。厳重な呪術障壁で守られた観客席や貴賓席を襲撃するのは凄腕の暗殺者と言えど至難の業。だが、表彰式の際に女王は大会参加者たちの前に無防備な姿を晒してしまう。
「関係者、いや出場者に紛れている可能性が?」
ユディーアの問いにレナリアは頷きを返した。
「予選には飛び入り参加もあるし、外国からの参戦者も多数と聞いてるわ。なにより、『王殺し』は変装と潜入の達人なの。もっとも、あなたの聞いた人狼関係の話が事実なら本当に呪術的な変身者ということになるけど」
一般的に、変身者と言えば特定の形態に姿を変えることができる者を指す。
『塔』の基準で言えば内的邪視による自己認識の変容。
亜竜人であるユディーアも変身者だが、変身呪術は濫用すれば『自分を見失う』という危険性があった。青い鳥であるアズーリアはチョコレートリリーの視座によって自己の形を定めることができたが、不安定な変身を繰り返して自我を崩壊させてしまった『異獣』は古くから存在していた。『亜竜堕ち』『小鬼化』といった言葉が常に忌避されているように、『これこそが正しい自分だ』と確信できない変身は極めて危険な行為なのである。
ゆえに姿が自由自在な変身者というのは危険を顧みない狂人か内世界創造の技法を極めた邪視者、さもなくば変身者に偽装した幻影術や変装術の達人のいずれかである。そして『王殺し』は邪視と変装、双方の技術を複合させた珍しいタイプだとレナリアは語った。
「詳細は明かされていないけど、特殊な血統と『狼皮の衣』という呪具を活用した『姿変わり』の術を良く使ってるわ。戦闘用の狂戦士形態から高速移動用の獣形態、任意の対象そっくりに化ける欺瞞形態。暗殺対象になりすますことだって平然とやってのける」
ユディーアは首を傾げた。
「『狼皮の衣』って、人狼から剥ぎ取った迷宮由来の呪具だっていう、あの?」
「『満月機関』が虚偽広告を出してるんじゃなきゃそうね。それから機械女王の『きぐるみ妖精』も狼皮の製品を扱ってる。んー、やばい感じ。思ってたよりこれ、『王殺し』と因縁が深いのかな? 私の方でも因果を結ばないと」
ぶつぶつ呟きながら深刻そうに思い悩むレナリアは完全に自分の世界に没入してしまった。
ユディーアは眉をひそめて思案する。観覧席を警戒するのは当然として、出場して選手たちを探り、可能なら表彰式で決行される暗殺を阻止する必要がある。こうなってくると自分たちだけで動くより、クロウサー家やガロアンディアンと協力した方が良さそうだが、ここでレナリアが問題になってくる。
レナリアの目的は『王殺し』シェボリズを手に入れることだ。
ゆえに彼女はあくまで秘密裏に動くことを望んでいた。この計画がガロアンディアン側に露見すれば確実にレナリアの目的は達成できない。特にシナモリアキラは彼女の存在と目的を察知した時点で排除しに来るに違いないという話だ。
いったい何をしたらそこまで恨まれるのか、とにかくレナリアはガロアンディアンに見つかることを避けたがっている。
そしてクロウサー家もまたユディーアにとっては油断ならない相手だ。
トライデントの『血脈』が支配する一族。リーナは信じられる善良な友人だが、その背後に存在する巨大な家という権力を信用することはできない。
仮に敵の一味を操る黒幕がクロウサー家であったとしても全く意外ではない。レースそのものがガロアンディアンを乗っ取るための壮大な罠という可能性すらあるのだ。
しかし、そうなると思考がそこで止まってしまう。
ただの個人でしかないユディーアが単独で箒レースに関わるのは難しい。飛び入りで予選に参加して本戦出場枠に潜り込もうにも競技用の高額な箒などすぐには用意できないし、その技術だってユディーアには無いのだから。
思い悩んでいると、思いもよらない声がかかった。
「にあ。ギャング、ゴーリー、予選出る! 庭の奧に箒あった!」
ちびニアが指摘すると、レナリアが思い出したように手を打ち合わせた。
「そういえば、あいつら祝祭のレースに参加するんだった。まあ本命は賭ける方なんだけど、それはそれとして予選の参加枠を獲得したとか何とか」
聞けば、辺境区の四大ギャングたちはみな祝祭のレースに関わるという。
そもそも『占い師狩り』がギャングたちによって行われていたのはレース結果を予想しつつ他勢力の占いを妨害するためだ。クナータの誘拐は流石に別口だろうが、それに紛れた他の占い師への襲撃は大規模な賭博と不正を巡る暗闘だったのである。
「レナリアさん。ゴーリーさんとお話、できないかな」
「いいわね。私も同じことを考えていた」
二人は顔を見合わせた。『ゴーリーズ』の手を借りてレースに出場、あるいは関係者として潜り込めれば、敵の動きを探ることができるかもしれない。
希望が見えてきたと感じていた矢先、レナリアに呼び出されたゴーリーは意外にも渋い顔を見せた。ばぶばぶしていた姿からは想像できない態度だ。
「予選突破にはそれなりの腕とマシンが必要だ。悪いが、マシンの方がいけねえ。クソみてえに苛酷なレースに対応したパーツが無くて改良が間に合わねえんだ」
ゴーリーが難色を示したのは技術的で物理的な困難が理由だった。
レース用の箒そのものは確保できているが、今回行われる競技はかなり荒っぽい。
妨害と戦闘もアリの苛酷な長距離レースを戦うには頑丈な『箒用の鎧』が必要だった。
「とりあえず、軽く強靱で神秘を宿した装甲板。そいつを鍛えた上で箒に最適化した状態で取り付けられる、俺らに顔がきく職人。一応いることはいるんだが、問題があってな」
ゴーリーは長く重そうな槍を持ってきて見せてくれた。使い込まれ、大男の手によく馴染んでいる。穂先から漏れている不気味ながらも美しい呪力の光から、それが魔槍と知れた。
「銘は『蛆湧き』。傷に蛆を湧かせる呪いの槍よ。いい魔槍だろ? こいつは俺と同じ迷宮刑罰者のセラメルって鍛冶師の作品でな。この槍の値段交渉で揉めて喧嘩別れしてから、あいつは俺のことを死ぬほど嫌っててよお。さっぱり頼みを聞いてくれなくなっちまったんだ」
『お前の所には二度と武器は売らん』という宣言のあと、セラメルの工房は『ゴーリーズ』との関係性をきっぱりと断ち切った。恫喝や嫌がらせを実力行使で止めさせるだけの実力がセラメルにあったからこそ可能な拒絶である。
ユディーアは地上でその名前を聞いた事があった。
有力探索者パーティの一角にして名うての鍛冶師セラメル。
確か燐血の民で、二つ名は『鉄亀砕き』。亜竜殺しの凄腕だ。
「ものは相談なんだが、あんたが行って説得してきてくれねえか。俺が顔出しても感情を逆撫でするだけだ。その点あんたなら同性だし気安い。『公社』の関係者なら印象も悪くない。なによりレナリアの姐さんが認めた使い手だ、セラメルの奴は凄腕ほど構いたがる。久々に魔槍を鍛える気になるかもしれねえ。そのついでに魔銀をちょいと拝借してくればいいわけだ。簡単なお使いってもんだろ?」
一方的に捲し立てられてユディーアは閉口したが、暗殺者を見つけ出すのにレース参加が必要であるならばそのための手段は選んでいられない。
了承しようとして、小さな手が袖を引っ張っているのに気付いた。
「にあー。むり! 疲れてる! もう寝る! 寝ない子は死ぬ!」
「正論。どっちにしろ武具の店とか工房とか、夜は閉まってるでしょ。時間はあまり無いけど急いでも消耗するだけよ。朝まで休みなさい」
ちびニアとレナリアの言うことは正論だ。ユディーアはその気になれば概日リズムを操作して不眠不休のまま十日は活動できるのだが、それは自身の消耗を度外視した上での話だ。万全の体調で活動し続けることはできないし、そのためには休息と睡眠が必要になる。
「わかりました。ゴーリーさん、セラメルさんの工房がどこにあるか教えて下さい。明日の朝になったら向かってみます」
「おお、助かるぜ。上手くいったらレースの出場枠を譲るってことでいいな?」
話がまとまると、レナリアが手を合わせながら前に出てきて言った。
「決まりね。それじゃ、寝室を用意してくれる? 私も一緒に寝るからベッドは二つね」
当然のように同室で眠ると言い出したレナリアにぎょっとさせられる。
固辞しようとするユディーアとにじり寄るレナリア。意図の読めない笑みに恐怖を感じながら遠慮と好意の攻防が続き、夜は騒がしく更けていった。
翌朝。窓から差し込む光を感じたユディーアはぱちりと目を見開いた。両手両足を軽く動かして、膝、肩と関節の可動域を確かめる。そのままゆっくりと息を整えながら身を起こした。
隣の寝台はもぬけの殻だ。
そのかわり、自分が寝ていた寝台の中に全裸の少女が潜り込んでいた。
更に言えば自分も全裸だった。
「嘘でしょ」
「だーいじょうぶ。優しく注ぎ込んであげたから」
「何が大丈夫なんですか!?」
寝ぼけ眼を擦るレナリアに向かって血を吐くように叫ぶ。何と言うことだろう。信じられない気持ちでいっぱいになったユディーアは自分の肉体がひどくすっきりとしていることに気付いた。驚くほど調子がいい。夜更かししたとは思えないほど爽快な気分。
「ふあーあ。一晩中ずーっと誰かの夢に潜って調律するのって久しぶり。注げる善の朱神も枯渇しちゃったし、疲れたから二度寝したーい」
気怠げにシーツに身を沈める少女は悪戯っぽく笑う。どうやらユディーアの疑念は誤解のようだ。レナリアは朱の色号使いとしてユディーアを不眠不休で癒していたらしい。
無邪気そうな瞳がどこか艶めいて感じられて、ユディーアは戸惑ってしまう。
「かわいーなあ。なんだかあなた、昨夜より小さく見えるわ。ていうかそれ、やっぱり絶壁じゃない。おっぱいが大きくなりますようにーって夢も見せてあげれば良かった?」
「はあ? 何を言って」
ユディーアは眉をひそめながら自分の身体を見下ろした。
裸の胸を見て表情が凍る。確かめるように手で触れ、起伏の無い肌の上を滑らせる。
それから無言のまま立ち上がり、全裸であることなど意にも介さず寝室の床で歩きながら足運びを確かめ、腰を低くしながら手掌を突き出したり仮想の敵を想定して防御したりと舞踏じみた套路を一通りなぞっていく。
「なあに、朝の鍛錬? 感心なこと。しっかり習慣づけているのね」
レナリアの言葉が耳に入っていないかのように集中して動作に没頭するユディーア。
その体勢が、型をなぞる過程でわずかに揺れる。
即座に立て直したものの、どこか不自然な姿勢の乱れだった。
「あなた、今のは」
「すぐに出ます」
ユディーアは硬い声で言うが早いか衣服を身に着けて身支度を整えていく。
半身を起こしたレナリアが不審そうな視線を送るが、意に介さない。
まだ目をしょぼしょぼとさせているニアホンを手に行き先を確認しつつ、携行食と水を口に入れて準備を終える。
「何かあった?」
「いえ。ただ、時間は有限なので」
心配そうな声を振り切って部屋を出る。
強張ったユディーアの表情は頑なで、少しだけ幼く見えた。
牢獄街の外れ、門に面したその区画を行き交う人々の雰囲気には覚えがある。
迷宮都市エルネトモランに集い、冒険に挑もうとする探索者たちの顔つきと同じなのだ。
辺境区に集うのは行き場を無くした者たちばかりではない。都市の周辺に広がる森林部の調査や未発見の隣接異界を求める意欲的な探索者たちも数多く存在している。
ユディーアは早足で歩きながら必要な情報を頭の中で再確認する。
セラメル率いる探索者集団は燐血の民を中心とした三十人ほどのグループだ。三本足と鉄願も少しいるが、多くは槍神教の息がかかった組織から弾き出されたアウトサイダーたち。
リーダーのセラメルはティリビナ人テロリストに武器を作った罪で迷宮送りにされた鍛冶師である。本人は知らなかったと主張したが、普段から反槍神教的な言動で知られてたために見せしめの意味で成立したばかりの迷宮刑を受けることになったようだ。
「にあにあ~」
「そうだね。ティリビナ人との繋がりがあるとすれば、不用意な接触は危険かも」
ニアホンと会話しつつ、それでもユディーアの足は止まらない。危険を顧みずに動かなければ必要な成果を得ることはできないからだ。事態が切迫している時はなおさら。
そうして辿り着いた工房は想像していたよりも遙かに大きな建造物だった。
首を左右に巡らせなければ全体を見渡せず、間近で見る高い煙突は顎を目一杯持ち上げなければ煙を立ち上らせる天辺が見えないほど。赤煉瓦風の外装はいかにもな燐血の民の好みだったが、各所に刻まれた呪紋といい周囲を浮遊して巡回する槍や斧といった知性化武器といい、警備体制はひどく物々しい。仮想使い魔が宿った動く武器たちはこちらが不審な動きを見せれば即座に襲いかかってくるだろう。優れた呪具鍛冶師の工房にはよくある景色だ。
ユディーアが感心していると、揉めているような声が聞こえてきた。
複数の男たちと、工房の入り口に立つひとりの女。
黒い肌に尖った耳はネビロン氏族のアヴロノに特有の特徴だ。
ラズリたちを襲撃していた『十戒』のギャングたちが、ここでも騒ぎを起こしていた。
荒っぽい男たちに負けじと声を張り上げるのは燐血の民の女だ。離れていてもわかるほど明瞭で苛烈な怒声。荒々しい男たちの恫喝を寄せ付けない剣幕で、つなぎの上を着崩した体格のいい女が逞しい二の腕と炎のごとき刺青を見せつけるように腕組みしながら叫んでいた。
「何度来ようが変わらないよ! あんたらみたいなゴミどもには何も作らんし何も売らん!」
「そんなことを言っていいのか? ケツ持ちのゴーリーと切れたんだろうが。俺たちと揉めてこの辺境区でやっていけると思ってるならとんだお花畑だぜ」
ナイフや鏃をちらつかせるならず者たちに対して、女はまったく動じていない。
赤茶けた短い髪とまっすぐ横に結ばれた口もと、太い眉に皺の寄った額。
恐らくユディーアよりも一回り以上年が離れているであろう女はお世辞にも美しいとは言えなかったが、見るものを惹き付ける力強さがあった。
いや、恐らく実際に強いのだ。ユディーアの予想が正しければ彼女こそが目的の人物だ。
であれば、この状況は好機。
不必要で余計なお世話を高額で押し売りしてやろう。
気分はまるであくどい商人。ユディーアは短槍を構えて怒鳴り合う両者の間に割って入った。もちろん、男たちを追い払って恩を売りつけるためだ。
「なんだぁ、てめぇ?」
「ちょっとあんた、なんだいそりゃあ!?」
男たちが喧嘩腰で恫喝してきたところまでは想定内だったが、背後から伸びた手がこちらの腕を鷲掴みにしてきたのは想定外だった。面食らったユディーアに女が凄まじい剣幕で怒鳴りつける。高熱の唾が飛んでユディーアの軽鎧がじゅっと焦げ音を立てた。
「短槍もろくなもんじゃないけど、手の方はもっと悪い。あんた、ちゃんと研いでんのかい? 折角の逸品がなまくら同然じゃないか!」
「え、ええ?」
「かーっ、近頃の亜竜人は自分で爪も研げないのか! 嘆かわしいったらありゃしない、山の向こうで紀竜の方々も呆れてるだろうよ!」
困惑するユディーアの前で嘆かわしいと天を仰いで顔を覆う女丈夫。
それから彼女は落ち着きを取り戻し、まっすぐにユディーアを見つめて言った。
「あんたちょっとこっちおいで。いいから来い! 鉤爪の面倒くらい覚えていきな」
「おいおい、どこに行こうってんだ?」
ユディーアの手を強引に引いて工房の中に連れて行こうとする女を、ならず者たちが呼び止める。振り返った女の鋭い眼光を見て、男たちが息を飲んだ。
「しつこいと言ってるだろ。いい加減にしないとこっちにだって考えがあるよ」
「ああ? どうするってんだ、ええ?」
「こうすんのさ」
言葉と同時、銀色の森が出現した。
突如として真下から生えてきた無数の刃、刃、刃。
槍、斧、槌矛、剣、その他多種多様な武器の群れ。
それらが所狭しと天へ切っ先を向けた状態で林立している。
何らかの呪術による召喚、あるいは『創造』の応用によって、この女性は夥しい数の武器を瞬時に出現させて武器の森を作り上げたのだ。
術者である女性とユディーア、そして男たちの立っている場所だけが綺麗に空白地帯となっていた。これは恫喝だ。その気になれば串刺しにすることもできたという宣告。
そして、この一帯で彼女に刃向かう愚かさへの教訓でもあった。
「帰ってハデスに伝えな。『ママのおっぱいでも吸ってろ』ってな」
武器の群れがひとりでに動き、身を竦ませている男たちの帰り道を空けた。
燃えるような瞳に睨み付けられた男たちは恐怖に駆られて我先にと逃げ出していく。
ならず者たちの姿が見えなくなると、女は銀色の武器を全て地面の下に戻していった。良く見れば周囲の地面は舗装されており、灰色の石畳のような素材で作られている。
もしかすると、この区画全体が彼女の掌握下にある『創造』の産物なのか。
燐血の民は槍神教によって『征服者』というイメージを付けられている。
天使の末裔を自任する眷族種であるためのステレオタイプだが、この種族にはもうひとつ典型的なイメージが存在した。
「さ、入りなよ。ああ、名乗ってなかったね。私はセラメル。しがない鍛冶師さ。鋳物屋のあんたとは、まあ親戚みたいなもんさね」
人類に火と文明をもたらした槍神の御使いたち、炎天使。
その末裔たる燐血の民は、鍛冶や鋳物といった炎と鉄を操る技術に優れているという。
鍛冶師セラメルの視線は強い。無徴のはずの霊長類の手と、その中に握られたものを見透かすような眼光に、ユディーアは身を固くして唾を飲み込んだ。




