5-7 夢界の兇手
壁がある。見上げるほど高く大きな壁が、左右にどこまでも広がっている。
クナータを救出するためにユディーアが最初に目指す場所。そこにたどり着くために、まずはこの壁の中に入らなくてはならない。だが各所に存在する巨大な門は堅く閉ざされ、死の呪いをかけられた檻が内と外を神秘的な魔力で隔てていた。許しがなければこの中に入ることはできない。逆に言えば、許しさえあれば入ることは簡単だ。
銀貨を指先で弄び、弾く。夜の闇を裂く銀の軌跡。その先にいる腰の曲がった老婆が、外見からは想像もつかないほど俊敏に硬貨を掴み取った。
老婆は即座に小さな木片を投げ返した。ユディーアは手の中に収まった木片を確認する。力ある呪文が刻まれた通行証。これさえあれば壁の中に入れる。それだけではない、『協定』によって四大ギャングが支配する地域ならばこの木片が身分証として機能するのだという。
「せいぜい辺境区の顔役どもと面倒を起こさないようにするんだね」
忠告が気になって、ユディーアは囁くように呪文を唱える。老婆は『情報料』として渡された『妖精のことば』を復唱すると満足げに話し始めた。
「辺境区を支配する新興勢力のボス猿ども。『にっこりゴーリー』、『豚好きハデス』、『拳骨アサブ』、『緑天主ロードデンドロン』。この名前が出たら関わらない方がいい」
ユディーアは驚いた。緑の天主とは自称にしても凄まじい大言壮語だ。『下』で最も尊敬を集める大呪術師にして彩域の支配者が『天主』だ。生半可な覚悟で口にすれば称号の呪力に潰される重みのある異称である。
もしかすると辺境区を支配するギャングの脅威度は予想以上かもしれない。ユディーアは続きを促した。老婆は四つの勢力について順番に説明していく。
「『にっこりゴーリー』あるいは『キス魔のゴーリー』は迷宮刑罰者で構成されたギャング『ゴーリーズ』の頭目だ。第四階層を根城にしてたが、流行りの『サイバーカラテ道場』で戦力が底上げされて第五階層まで降りてきた。恐喝に詐欺、クズがやることはなんでもやるっていう典型的な社会のゴミだ。まあだから迷宮刑なんて受けてるんだろうけどさ」
「『豚好きハデス』の食卓に招かれたなら注意しな。たいていでかい豚料理が並んでいるが、あいつの気分によっては獣姦屍姦の乱交パーティが始まっちまうからね。アヴロノはここらにも沢山いるが、黒肌のネビロン氏族や生気の薄いカマソッソ氏族は基本的にハデスの手下さ。対立してた海の民のギャングどもがしばらく前にほとんどいなくなって、入れ替わりでやってきた世界的な犯罪組織『十戒』の幹部がハデスだ。アダルトスナッフフィルムの俳優兼監督で『女王の祭司』を自称してる。あんた可愛いから見つかったら捕まって売り飛ばされる前に逃げな。連中は金貸し、妖精博打、違法霊薬、娼婦やポルノ業関係を牛耳ってる」
「『ハルムシオンの風』は亜大陸から渡ってきた探索者集団だが、こっちで言うところのギルドや兄弟団みたいな集団って聞いたよ。一家の父か長男で構成されていて、黒檀の民のあぶれ者を片っ端から吸収してでかくなった組織さ。宗教と職業と民族が奴らを団結させている。頭目のアサブは拳闘士。路上の賭け試合はだいたいアイツの仕切りだ。探索の他には用心棒や運び屋、荒事全般で生計を立てているみたいだね。黒檀の民を助けるためなら泥を被ることも厭わないが、『ティリビナ同胞団』をはじめとするティリビナ系住民との関係性は最悪。『枯れ木』を貶めるためなら嬉々として泥を被せようとする、そういう奴らだ」
「『ティリビナ同胞団』の『自称緑天主』は放浪者気質の多いティリビナ難民たちを纏め上げた『原住民』の若き指導者だ。『三報会』ってギャングを潰したり『樵』って殺人鬼の公開処刑で名を上げた。あいつらの拠点の正面にぶら下げてある大量の生首は立木トラストを妨害しようとした地上げ屋の成れの果てで、『公社』すら手出しできないって話。『芽吹き運動』ってのを推進したり、中央の義体者たちを反自然的と非難したりと何かとトピックを提供してくれる人材で、近頃は竜神信教の信者を取り込んだり第八階層からやって来た商会の支援を受けたりして勢力を増している。店の軒先に立派な観葉植物が飾ってあったら奴らの縄張りだ。表向きは『リース専門の花屋』だからね。ロードデンドロンは堅気を気取った優男なのさ」
あらゆる種類の人間が第五階層に集まっているという前提は、あらゆる悪党や危険人物も集まってくるという真理を導き出す。明確な敵である『神の子供』だけでなく、くせ者だらけの第五階層という迷宮を乗り越えなければ目的は達成できないだろう。
上等だった。自分の思考が荒っぽくなっている自覚はある。それでもいい、今はただクナータのことを考える。自省も後悔も彼女を取り戻してからすればいい。
用件は済んだとばかりに箒に乗って夜の街へ去っていく老婆に礼を述べ、ユディーアはまっすぐに門へと向かう。最初に目指すのは壁に包囲された罪人の棲家。
名を、牢獄街という。
檻の向こうには奇想天外な世界が広がっていた。
夜半を過ぎれば幻惑的な色彩は一層強まる。
中空をシャボン玉が舞い、四足歩行の魚たちが地面を這い回る。紙飛行機の翼を広げて滑空するペリカン頭の犬や、にこにこ笑って挨拶してくる顔面扉。不条理の度合いが強まるごとに世界の現実感はゆっくりと失われていく。
むせかえるような『朱』の色彩。ユディーアは灰神の痕跡を精査することを諦めた。この一帯は朱の彩域が強い。ずんぐりとした冷凍睡眠者の代行人格『眠り棺』が闊歩し、夢薬中毒者がそこら中に溢れている。
灰の色号を全く扱えないほどではないが、この土地で朱の色号使いと真っ向から戦うのは無謀だ。同時に虹犬が第五階層に拠点を構えるとすればここだろうという確信があった。
辺境区の北へ進むと巨大な壁に四方を囲まれた閉鎖的な区画に行き着く。中央のガロアンディアン都心部と辺境区を隔てるかのような横長の区画は巨大な牢だ。
ここは罪人たちが集う牢獄街。ガロアンディアンの法ではなく『上』と『下』の法で裁かれた追放者たちが作り上げた巨大な要塞は、都市部周辺の大森林に置かれた探索拠点を原型としている。人口増大と共に街が膨張したことにより、牢獄街は辺境区と中央区の境界そのものになったのである。
迷宮刑というのは要するに地上の犯罪者を探索者に仕立て上げる仕組みのことだ。罪人たちは一定数の異獣を討伐するまで帰還を許されない。死と隣り合わせの苦役を完遂するまで呪いによって迷宮に居続けることを強制されるのだ。
そんな迷宮刑罰者たちを絶大な求心力と圧倒的腕力で纏め上げた男がダヴン・ゴーリーだ。探索者集団『ゴーリーズ』の頭目であり、辺境区を統べる四大ギャングの一角でもある。セリアック=ニアからの連絡、そしてラズリの占いによれば、敵の一人である虹犬の貴婦人はこのゴーリーの邸宅にいる可能性が高い。
まずセリアック=ニアと合流しなければならない。
密かにライラを追跡したちびニアはゴーリーの邸宅に辿り着いた。牢獄街の中心で存在感を示している広大な敷地の場所はすぐにわかったが、問題はどうやって潜入するかだ。警備は厳重で、たかが犯罪者崩れと侮るには第五階層で生き残っている探索者の層は厚すぎる。おまけに灰の色号使いとしての実力を万全に発揮できる土地でもない。
荷物に紛れる、変装して堂々と入る、脅迫や買収という手段も選択肢に入る。
迷うまでも無いとユディーアは即決した。指の間で銀貨を転がす。難題は自分の得意な手段で解決するのが一番手っ取り早い。
「へえ、確かに私ですよ、ゴーリーの旦那に刺青を彫ったのは。旦那だけじゃねえ、この辺の連中が見せびらかしてるやつはだいたい私の仕事でさあ。まず味気ねえ烙印を飾り立てるとこから始めるのが定番ってわけです」
ユディーアがしたことは簡単だ。その辺の軽食屋台で逞しい腕やつるりとした頭部に派手な刺青を入れている商売人に「それってすごくいい刺青だね、実はあたしも腕利きの『刺青彫り』を探してるんだけど」と買い物ついでに質問しただけ。迷宮刑罰者にして名のある探索者でもある『刺青彫り』のウルムゾリム。その名前と居場所はあっさり判明した。
ありふれた箱型住居の暖簾をくぐると、出迎えたのは初老の店主。むき出しの二の腕と顔面をびっしりと古代文字が埋め尽くしており、さながら生ける魔導書といった風情の人物だ。
「今時の若い人はペイントやシールで事足りるとか、種類の入れ替えが手軽にできないから不便だなんて言いますがね、『辺境の戦士』や『凶悪な罪人』ってハッタリ効かせるならこれですわ。ま、お嬢さんは烙印周りをいじって欲しいってわけじゃなさそうですが」
高めの声はややしゃがれ始めていたが、荒くれ相手に長年商売を続けてきた男の喋りは流暢だった。こちらを見定めようとする目は柔和そうでいて鋭い光を湛えているし、力みのない立ち姿にも隙が無い。
「部族戦士でもシャーマンでも、世界各国の刺青に対応しておりますぜ。なんといってもおすすめは南東海はリク族由来の『矢避け』ですが、戦う女性にはドラトリアの『芳香』なんてのも人気でね。これさえあれば戦闘後に気になる汗が清潔感あふれる香水に早変わり、穢れと病毒まで寄せ付けないっていうから驚きだ、ちっとばかり大掛かりになっちまうが」
「それはちょっと気になるけど、今回は刺青を頼みに来たんじゃないんだよね」
銀貨を手の中で弄びながらユディーアは言った。男は片方の眉を持ち上げる。
「するってえと、お目当てはゴーリーの旦那かい。あの人と組んで四層荒らしてた私に顔を繋いで欲しいってとこだ。違いますか?」
「合ってるよ。こういうの、あたしが初めてじゃないみたいだね」
「新入りの半分は私らに挨拶に来るんですよ。わかってねえ残りの半分も最後には顔腫らした簀巻きになって旦那の前に転がるんですがね。お嬢さんは毛色がすこーし違うようですが」
ユディーアは少し迷った。これは銀貨を使うまでもないかも知れない。『買収』ではなく正当な情報料や心付けで済むのならそれに越したことは無い。
正直に言えば、ユディーアは銀貨を手放すのが怖かった。
想像以上に第五階層は危険だ。第一階層ですら『メイファーラ』では死にかけたことが何度もあった。代替魔将であるピッチャールーとの戦闘では誰にも見られていない状況だったために『ユディーアの銀貨』を使って勝利できたが、果たしてこの死と混沌の渦巻く第五階層では何枚必要になるだろう?
「あたしはゴーリーさんと話がしたいんだ。仕事の話がね」
「ならお嬢さん、今は時期が悪いよ。この街が『公社』から勝ち取った自治はガタガタさ。旦那は思うように動ける状態じゃない」
「このへんの夢みたいな雰囲気はそのせい? もしかしたら傘を差した虹犬の貴婦人が関係しているんじゃない?」
入れ墨彫りは人の良さそうな笑顔を警戒で染め直した。
探るような視線を受け止めつつ、ユディーアは続ける。
「あたしたち、協力できそうな気がするんだよね。どう、話だけでも聞いてくれない?」
「お嬢さん、先に素性を教えちゃくれねえか」
当然の要求だ。少し考えてから、ユディーアはニアホンを取り出して見せる。
二頭身の猫姫が「にあ」と鳴く。男は引き攣った表情になった。
「なるほど『公社』かい。虹犬め、無謀な真似を」
「この街のやり方に口を出すつもりはない。『公社』は今まで通りのやり方なら黙認してた、そうでしょ? でもこの街はもう今まで通りじゃなくなりつつある」
牢獄街の支配者は『上』の罪人だ。それなのに今のこの地は『朱』に満ちた夢の世界、まるで『下』の、それも『朱の天主』が支配する土地のような有様になっている。
ユディーアでなくとも何らかの異常が起こっていることは予想がつく。
「ま、この状況だ。猫の手を借りるのも悪くはねえか」
「話が早くて助かるよ」
利害が一致した両者は頷き合い、しばしの話し合いを経てその場を後にした。
目的地はゴーリーの邸宅。
今やライラ・ラプスが牛耳る夢の魔窟である。
犬が多い、というのがゴーリー邸への第一印象だった。
庭を巡回する大型犬は紛れもなくライラ・ラプスが襲撃時に引き連れていた使い魔で、警備にあたっている私兵たちは『下』の種族である虹犬だ。刺青彫りウルムゾリムがユディーアにした説明によれば、この邸宅は既にライラの掌握下にある。
「この街には少数ですが『下』の罪人たちも身を寄せていましてね。そいつらは身内で緩く繋がってはいましたが、勝手気ままな変人揃いで。ゴーリーの旦那の仕切りを受け入れてるんだか無視してるんだか、ふらふらしながらもこっちとは互いに不干渉でやってたんですわ」
ところが近頃になって強力なリーダーが現れ『下』の罪人たちを纏め上げたのだという。
その名は『傘の魔女』ライラ・ラプス。彼女の目的は『ゴーリーズ』勢力の掌握。怪物ライラの圧倒的な力を前にギャングは抵抗虚しく屈従を強いられた。
「誰にも媚びず、頭を下げなかった鉄の男が『下』の化け物どものご機嫌伺いでやつれていくのを見るのはもう沢山だ。元はと言えば私らが重荷になってるのがいけねえ。旦那は悪党だが『頭』として筋は通すお人よ。この牢獄街を守るため、らしくねえ真似をさせちまってるのは私ら弱い囚人さ。情けなくって涙が出らあ」
迷宮に囚われて以来の仲間であるウルムゾリムはどうにかしてゴーリーを苦境から救いたいと考えていたらしい。たとえ『公社』に膝を屈することになろうとも構わない。入れ墨彫りはその覚悟でユディーアとの共闘を受け入れたようだった。
「旦那はライラの部下どもに毎夜のように接待を続けているんですわ。酒と薬と女を集めて終わることの無い乱痴気騒ぎ。私は出入りの刺青彫りだ。『呪い換え』や『継ぎ足し』を名目に邸宅に入れます。お嬢さんは私が気を利かせて連れてきた踊り子ってことで宴の席に紛れ込んで下さい。私はその間に猫姫さんを回収して裏手に回ります」
「うん。計画通り、あとはニアちゃんと協力してこの塗料で邸宅に虹を描いてくれればいい。本職とは違うことをさせちゃって申し訳無いけど、『絵を描く人』としてのあなたにお仕事を依頼する以上、あたしはこうして対価を支払う。よろしくお願いします」
ユディーアがウルムゾリムに支払った銀貨が逆さ森の星明かりに照らされて妖しく光る。
男は受け取った硬貨を大事そうに懐にしまいつつ、不可解そうに首を傾げた。
「そりゃ構わないですが、本当に虹模様だけでいいんですかい? これくらい簡素だと大した文脈が乗せられねえですし、お嬢さんの方はシールっていくら何でもそれは」
「安っぽい方がいいんだよ。相手を馬鹿にして貶める感じ」
「ああ、そういうことでしたか。なるほど、そっちはお任せした方が良さそうだ」
策は用意した。協力者と潜入経路も確保できた。あとは覚悟を決めて戦いに臨むだけだ。
ユディーアはウルムゾリムに連れられて邸宅の門を通過、宴席に出演予定だという踊り子たちに紛れることに成功した。着替えや化粧といった身支度のため、大鏡の並ぶ控え室に通されたユディーアはあることに気付く。
「すかすかだ」
そんな馬鹿な。ユディーアは身に付けた己の胸元を凝視していた。
水着のような踊り子衣装のトップスと胸部の間に無視できない空隙が存在している。
要するにサイズが合っていないのだが、ユディーアの理性は現実をどうしても受け入れることができなかった。こんなはずではなかった。口に出したら負け惜しみと笑われそうな思考が脳内を埋め尽くす。愕然とした表情があまりにも滑稽だったためか、周囲にもその事態は即座に伝わった。くすくすと踊り子たちが口を押さえる。
恥辱のあまり頬が熱くなったが、それどころではない。今から小さなサイズの衣装が無いかどうかを訊ねに行くべきか、それともパッドかその代わりになるようなものを誰かに借りるかしなければならない。思案していると、鏡の前で笑っていたうちの一人が声をかけてきた。
「見栄を張ったのに詰め物を忘れたのね、あなた面白いわ」
「いえ、衣装を手配した人のミスです」
むっとしてユディーアは言い返す。胸のサイズを過大申告した覚えなど無い。話しかけてきた銀髪の踊り子は信じていないのか、笑いを堪えながら指先に光の粒子を集める。
「そういう時はね、小規模な『創造』で誤魔化せばいいの。簡単でしょ?」
「ええっと」
「不慣れなのね。こうよ。やってあげる」
クラフトされた柔らかな質量がユディーアの胸と衣装との間に出現してぴたりと隙間を埋めていった。第五階層の作法に慣れていないユディーアは礼を言いつつ身を寄せてきた少女のつむじをぼんやりと眺めた。自分よりも身長はやや低いが年の頃は同じくらいに見える。長い銀髪を二つに括ったこの少女も、戦いに巻き込まれれば死にかねない。余計なことを考えるな。目を逸らすと少女の腰のリボンが蝶のように揺れ、淡く光る鱗粉を散らしているのが見えた。
「ウルムゾリムに感謝しなきゃ。これで勝算はだいぶ見えてきた。仕掛けるタイミングは任せるわ。合わせるから上手くやってね」
思わず相手を見返した。銀髪の少女は薄く笑い、その背後で四人の踊り子たちがそれぞれウィンクしたりターンを決めたりしてユディーアにアピールする。
なるほど、どうやらこちらの思惑とは関係無く、あの入れ墨彫りは今晩このタイミングで仕掛けるつもりだったらしい。ユディーアは胸元を確かめながら頷く。
「こちらこそよろしく」
焚かれた香とぼやけた照明が室内を朱色に染め上げている。
酔漢たちの調子外れな歌、女たちの嬌声、ダーツの的にされた囚人が絞り出す苦痛の喘ぎ。 広間の主役は横柄な態度の男たちだ。彼らは扇情的な衣装を身に纏った踊り子に下品な野次を飛ばし、安っぽいドレスの女に酌をさせて酒と麻薬の味に溺れている。
彼らが座っているのは四つん這いになった男たちだ。腕や背中の烙印は囚人の証。牢獄街における上下勢力の力関係が引き写された光景だと言えた。
好き勝手に振る舞う酔漢たちの中心に、とりわけ目立つ存在が一人。女だ。耳の広がったパピヨン虹犬は毛並みの良い血統書付きの犬を侍らせながらソファに深く背を預けている。
「聞こえなかったのですか? 軍団を編成すると言ったのです。中央との戦争に向けて」
「戦争? 冗談だろ? たかが動物愛護で俺たちに死ねってか?!」
ライラ・ラプスの無茶な要求に悲鳴のような抗議をしたのは半裸の大男だった。
上方勢力から送りこまれた迷宮刑罰者たちのリーダー、ダヴン・ゴーリーは筋骨隆々とした巨漢で、典型的な『ノロ=テリスの鉄願の民』だ。目に付くのは口から耳までを完全に覆い尽くす鉄のマスク。そして右半身の派手な刺青だった。頭髪の右側をつるりと剃り上げ、頭から肩、上腕から指先までを蜘蛛や百足、長虫や毒蛾といった刺青で覆っている。
そんな凶悪な面相の犯罪者をライラは傲然と見下ろして言い放つ。
「動物愛護? いいえ、私は犬の地位を向上させたいだけ。『ことば』を与えてね」
貴婦人は膝に乗せた胴長のチワワを撫でながら眼前の男に冷ややかな視線を送った。
「この従順さをご覧なさい。地道な試行錯誤による血統のデザインを繰り返した生命芸術。お父様はこの優れた種族を素材に私たちを虹と雲、雨上がりの泥から捏ね上げた。いわば犬とは私たちにとって大恩ある祖なのです。彼らに報いるべく叡智を与えるのは当然のこと」
ライラがその指先を手繰ると、中空に出現した穴が異音を立てて広がっていく。空間の歪みから湧き出したのは二頭の犬だ。魔女の指先がくるりくるくると踊るたび、犬が粘土のように混ぜ合わされて一つの作品へと変質していく。冒涜的な神の奇跡が再現され、捏ね上げられた異形の血肉から新たな命が発生する。
「ダーカンシェルの子、亜竜王アルト。あらゆる動物に『ことば』を与えて知恵もつヒトに変容させる彼の権能が私は欲しい。これはあなたたち罪人にも利のある戦いですよ、ゴーリー? 神のことばは救済。罰から解放され、神の平和の下で安寧が得られるのですからね」
ふむ、とライラは自ら創造した犬を見て首を傾げた。
手を握る。肉が潰れ、断末魔の鳴き声と共に鮮血が滴り落ちた。
何食わぬ顔で生まれたばかりの命を握り潰し、膝の上の犬を愛おしげに撫でる。
「失敗作でしたね。殺処分が妥当でしょう」
「お、おい」
震える声でゴーリーが命だったものを凝視する。
凶悪な犯罪者は恐怖していた。目の前で行われた非道にではない。
平然とそれを実行できるライラの精神性を本能が忌避しているのだ。
「あんた、犬に知恵を与えて人類にするって言ってたじゃねえかよ。平然と、何を」
「動物愛護など愚か。神の奴隷種族であれば、全ての命は厳正に管理されるべき資源です。それは知性種であっても同じ。私は不出来なら虹犬であろうと殺処分しますよ。愚かなジャッフハリム人は私を罪人と呼びましたが、異教徒の法と倫理に従う理由はありません」
最古の奴隷種族としての誇りを掲げながらライラは命を弄び続ける。
牢獄内では単純な力こそが序列を決定する。ゆえにこの結果は必然だった。群の長として君臨するライラの決定にゴーリーが抗う術は無い。
無論、このまま何の邪魔も入らなければの話だが。
室内に流れる背景音楽が切り替わり、踊り子たちの舞はより情熱的に加速していく。
官能的に揺れる肢体、伸び上がる指先、拍を掴んで床を弾く爪先。
重力に逆らって地から天へ。優美な曲線を描いて天から地へ。
流れるように振り下ろされた繊手が肉体言語魔術によって付与された『斬撃』の呪文を歌い上げる。最前列で食い入るようにして踊り子の身体を眺めていた男の首を鮮やかに切断。隣の踊り子が奇術のように手の中から短剣を投げ放てば使い魔の犬が残らず絶命。銀髪の少女を気に入って侍らせていた男はいつの間にか背後に回っていた彼女に頭頂部と顎を掴まれ「はい、終わり」と勢い良く時計回りに頭を捩られる。ごきりという異音がした。
そして真っ先に動いていたユディーアは左右の爪で既に殺戮を終えていた。
ニアホンから「準備完了」の報告を受け取るや否や、踊り子たちがいた舞台からライラの座る位置まで最短距離で疾走。ライラが掌握する濃密な朱の彩域とユディーアの支配する灰の彩域が激突、止まっていた時間が動き出す。踊り子たちが行動を始めたのはこの直後である。
ユディーアの背後、進路上に立っていた四人が次々と自らの致命傷に気付いて絶叫する。
「ぎょえー!!」「速っ、目で追えなっ」「馬鹿な」「この爪はまさか、げぼぁっ」
瞬く間に全滅した下方勢力の罪人たち。残る敵はライラひとり。ユディーアの鉤爪が虹犬の鼻先に迫り滅びをもたらさんとしたその時。
「さすがは未来回想。聖女日誌の記述とお絵かきそのままの状況ね」
ライラの膝の上にいた犬の胴が突如として伸び上がり、大蛇のように鎌首をもたげたかと思うとユディーアの鉤爪と激突、同規模の呪力を撒き散らしながら弾き飛ばした。長くうねってライラを守護するチワワとダックスフントを合わせたような犬の全身にノイズが走り、表面のテクスチャが剥がれて内部の呪文が露わになる。
「オルゴーの滅びの呪文を詠唱していて良かったわ。いかな私と言えど直撃すれば無傷とはいかないもの。さて、あなたたち。いつまで死んだふりをするつもり? こんな時のために集めた手勢なのですから、少しは役に立って貰わないと困ります」
愕然とするユディーア、わけも分からず目を白黒させるゴーリー、暗殺の失敗に歯噛みする踊り子たち。その眼前で、ユディーアが殺したはずの罪人たちがゆっくりと立ち上がる。
「ぎょえええええって、いってえなおい、五十年くらい死んだぞクソっ」
「いやだわあ。あんなに素早い攻撃には対応できないわよ。何百年分か差し出すつもりで戦わないとどうしようもなさそうねえ」
「拙僧の岩盤装甲を貫くとは、あの爪に秘められた呪力は滅びの呪文級であるな」
「というよりそのままオルガンローデの爪であろう。遅延詠唱か遠隔維持か、はたまた古代の遺物か。いずれにせよ我らの命数をこれほどまでに削るとは、稀に見る強者だぞこれは」
頸動脈を切断され、首をへし折られ、心臓ごと主要な臓器を破壊された男たちが平然と言葉を交わし合う。苦痛を訴えながらも肉体を急速に再生させ、何事も無かったかのように服すら元通りに復元する驚くべき呪術の技量。ライラ率いる罪人の群は空間が悲鳴を上げるほどに高密度の呪力を立ち上らせながら戦闘態勢に移行した。
ユディーアは気付く。牢獄街を満たしていた濃密な『朱』の気配。あれは土地の性質が朱の彩域と適合しているからというだけではない。恐ろしく強大な朱の色号使いたちが一所に集まり、朱神を活性化させていたために起こっていた現象だったのだ。
「レンディ赤爵、ケアヴ夜公、ロティン僧正、ボーキン将軍。侵入者を殺しなさい。これは群の長としての命令です」
ライラの号令一下、怪物たちが牙を剥く。
ユディーアは最悪の可能性を引き当ててしまったことに内心で舌打ちしていた。常人ならば即死していて当然の致命傷を平然と受け流す生命力。これは紛れもなくジャッフハリムが生み出した最大の罪、『長寿者』の特性に由来するものだ。
永久封鎖刑から逃げてきた凶悪犯罪者たちは司法の追跡を振り切ることが可能なほど強大な呪術師であり、更には膨大な『命数』を持つ。
たとえ致命傷を負わせても、『何年分の命数を失った』として平然と復活する。
ユディーアはニアホンを操作し、敵の命数を測定するアプリを起動した。
生命を『数』としてカウントする概念は猫が異界から持ち込んだという言い伝えが存在するため、セリアック=ニアはこの機能をニアホンに持たせていた。敵対者の情報を検索するのと同時に命数を計測、その結果が表示される。
レンディ『自称』赤爵。赤い肌のラープ人。採石場で働いていた火工術師。前歴を生かして爆破テロ請負を繰り返す指名手配犯。推定命数はおよそ六千五百。
ケアヴ三世。淫魔と並んで有名な夜の民の固有変種『夢馬』で、外見は直立二足歩行する黒い馬。大規模洗脳の罪で極刑判決を受け逃亡。推定命数はおよそ五千二百。
破戒僧ロティン。石喰いヴィーガンのトロルで環境テロリスト。七百年前の宗教改革期に竜神信教から分派して以来の公共の敵。推定命数はおよそ四千六百。
ボーキン将軍。茶褐色の肌をした南方系の元ジャッフハリム軍人。部隊ごとテロリストグループと化してジャッフハリム浄化を目的に活動を続けている。推定命数およそ五千五百。
そしてライラ・ラプス。推定命数およそ十九万八千。
「じゅうきゅうまんっ?!」
自分の命数を確認する。およそ千足らず、いや違う、測定途中だったのかカウントがひとつ増えてちょうど千だ。亜竜は種族寿命を超えた千年竜になってようやく『古竜』として畏怖を集める存在になるというが、ユディーアはまだその入り口にすら立てていない。
罪人たちの命数はユディーアを大きく上回っているが、ライラはもう完全に次元が違う。
命数を単純な強さの指標にすることはできないが、『殺しにくさ』の指標にはなる。仮にユディーアの鉤爪が百の命を奪えるとしてもおおよそ二千回も致命傷を与えなければライラは殺せない。そのライラは棒立ちで攻撃を受けてくれるわけではないし、強力な配下まで引き連れている。撤退すべきだと理性は判断していた。だがもう一人の意見は違った。
「にあ! かんけーない! 情報奪う! 聖女見つける!」
ちびニアの言葉がユディーアに本来の目的を思い出させる。
必要なのはライラを殺すことではない。彼女からクナータの居場所を聞き出すことだ。
過去視で情報を奪えれば、相手を殺す必要は無いのである。
とにかく隙を見て一撃を入れさえすればそれでいい。
思考を切り替えて周囲の位置関係を再確認する。
部屋の中央で相対するライラとユディーア、部屋の端には手練れの暗殺者と思われる踊り子たちが五人。四人の長寿者たちは敵に挟まれているが、ライラの戦力を考えればユディーアが孤立していると言った方が適切だ。長寿者のうち二人がユディーアを一気に仕留めようと詰め寄り、残る二人が殺戮の期待で興奮しながら踊り子たちに飛びかかった。
「爆破するなら左右どっちの乳がいい? こんがり焼くなら顔と股どっちがいい?」
「増えすぎた人類をいざ間引かん! 拙僧の拳で悔い改めよ!」
赤肌の爆破魔レンディと岩肌の破戒僧ロティンが踊り子たちに襲いかかる。機敏に身を躱した五人。うち一人が奇術のように二振りの長大なサーベルを出現させて舞うように斬りかかりレンディの腕を切断。それ以外の踊り子たちも香水呪術とネイルアートで応戦し、肉体言語魔術による身体強化を受けて大柄なトロルの膂力を辛うじて受け流していく。
踊り子たちの一人、リーダー格と思われる銀髪の少女が突出し、爆炎と剛腕を潜り抜けて跳躍した。岩石頭を踏みつけて更に高みへ。二つの髪房と蝶のリボンが風に翻り、舞い散る鱗粉と共にユディーアの傍に降り立つ。呆けていたゴーリーが我に帰って叫んだ。
「姐さん!」
銀髪の少女は大男にウィンクしつつユディーアに素早く指示を下した。
「私があの犬型のオルガンローデをどうにかして傘の魔女の守りを奪うわ。合図したら過去視をお願い。それまでそっちの二人を抑えていて」
少女が両手を広げると手品のように武器が出現。右手に鉤爪、左手にステッキを構え、ユディーアが聞き返す間も無く虹犬に突撃していった。胴を伸ばして襲いかかるオルガンローデの猛攻を鮮やかに回避して貴婦人の傘と鉤爪をぶつけ合う。凄まじい手練れだ。息をも吐かせぬ連撃で相手に反撃の余地を与えていない。だが武芸の腕前以上に朱の色号使いとしての練度が凄まじかった。虹犬の得意分野である朱神の掌握合戦で一歩も退かず、それどころか相手が支配する彩域から一部を奪い取って自分のものにする芸当まで見せている。同系統の術者ゆえの強み、セリアック=ニアには出来なかったアプローチの戦い方だ。
踊り子たちの正体は知れないが、流れはこちらに傾いている。
このまま押し切れるかもしれない。鉤爪に呪力を流し込み、ユディーアは迫り来る二人の罪人を迎え撃った。足下から伸びてくる影の触手を踏みつけて破砕し、軍服を着崩した男が振り下ろす納刀したままのサーベルを鉤爪で防ぐ。ずしりとした重み、爪が軋む異音。
「ほう、やはりオルガンローデか。無詠唱でその深度とは!」
元軍人のテロリスト、ボーキン将軍は飛び退って感嘆した。口髭をさすりながらサーベルの鞘を撫でると、装飾された竜の彫刻が淡く発光する。鞘から刃を抜くことなく得物を構えると、鞘の周囲に古代文字の呪文が螺旋を描いて纏わり付いた。
ユディーアの直感が警鐘を鳴らす。オルガンローデと打ち合えるほどの強靱な鞘と、納刀状態で自動的に呪文詠唱を開始するサーベル。予想される敵の攻撃手段は一つだ。
「ケアヴ殿。あのオルガンローデの詠唱深度を上回るまで少しかかる。時間を稼いでくれ」
「いいわよぉ。私、こういう可愛い子と遊ぶの大好き」
低い声で応じた黒馬は艶めかしく身体をくねらせながら彩域を掌握。瞳を朱色に染め上げると空間に『窓』を構築する。アストラル界の更に底、人類の無意識を反映した夢界と物質界が接続され、不条理な現象がこちら側に流出する。
悪夢が具現する。朱神たちが激痛に悲鳴を上げて彩域が汚染されていく。
ユディーアの目の前で形を成したそれは悪趣味な泥人形の群れだ。
世界が歪む、視界が狭まっていく。意識が深い影の底へと沈み、時間の感覚が失われる。
天眼による邪視防御を貫通する領域型の精神汚染。夢馬が見せる幻影は暴力的に相手の無意識の底にある忌避感を刺激する。
「キニス、可愛い俺のキニス」
遠く懐かしい声。泥人形がどろどろに溶けた口を開くと泡が漏れて浮上していく。
どこかで見たような男性に、これもどこかで見たような女性がのし掛かっている。女性は自分のものとそっくりな鉤爪で男性の肉体を引き裂き、飛び散る泥にも構わずに淡々と殺戮を実行していく。泥の胴体をバラバラにして放り捨てる。生首はなおも「キニス」と呼び続ける。女性は男性の後ろに隠れていたもうひとりの女性を引き摺り出して八つ裂きにする。その腹から取り出されたのは小さな赤ん坊。泣き出した赤子の瞳が十字に輝く。
やめて、その子にまで手を出さないで。
悪夢の意味も理解できないまま、ただ湧き上がる恐怖がユディーアを打ちのめす。
無造作に振り下ろされる死に対する無力感、逆らう意欲を根こそぎ奪うような諦念。
それだけは許容できない。受け入れたくない。
あたしから、もう何も奪わないで。
けれど悲鳴が口をついて出ることは無かった。
悪夢に反抗することは許されていない。ユディーアがユディーアとして生を受けた以上、身体に流れる血の意思が定めた秩序には従う義務がある。
無力感に苛まれ、意識が絶望に染まる寸前、割って入った声が悪夢の世界を破壊した。
急激に自己が浮上し、意識が明瞭になる。
見れば二足歩行の黒馬が呻き、その胸から手刀を生やしている。
「何だかわからんが今が好機! 死ねぇい!」
背後から黒馬の心臓を貫いたゴーリーが裂帛の気合いを込めて叫んだ。右腕の刺青が禍々しい紫色に発光し、敵の体内で呪いを炸裂させる。全身を爆発四散させながらも瞬間的に再生する黒馬と、攻撃の準備を終えて走り出すボーキン将軍。鞘の中で爆発的に呪力が膨れあがっていく。呪いの総量はユディーアの鉤爪を凌駕していた。まともに受ければ鉤爪は砕け、ユディーアは死を免れない。ゆえに正しい対応は一つ。発動前に阻害するのみ。
突如として不可視の衝撃がサーベルを突き上げ、ボーキンは泡を食って得物を取り落とすまいと手を伸ばす。その腕に時間差で叩きつけられたのは逆向きに飛来した短剣の柄。自分を叩き起こすための仕込みだったが思わぬ役に立った。犬の死体に刺さっていた状態から逆行した短剣が反対側で戦う踊り子の手に収まり、意図せずして援護になっていた。
ユディーアは機を逃さずに畳みかけた。爪撃の回転運動と連動した腰がそこから繋がった不可視の何かを振り回す。再びボーキンを襲った衝撃が男の身体を吹き飛ばした。
それと同時に、銀髪の少女の準備も完了する。
「祈りに応えよ、イシルドゥムア!」
優雅に立つ少女の背後で半透明の輪郭が明滅する。伸び上がるようなシルエットは三角耳の獣にして異形の神像。あらゆる過去を見通す八つの眼と輝く両腕、七本の尻尾を持つ外なる神。その頭部には怒り、喜び、悲しみの三つの女性の顔が備わっている。
「悪竜を呪い、私に祈りなさい」
少女が告げると同時、ライラ・ラプスは足下に転がっていたバナナの皮で足を滑らせた。
すってんころりん、という間抜けな擬音が可視化され、受け身すら取れない派手な転倒。
ライラの頭部が胴長のオルガンローデ犬の尻を強打、のたうち回った頭部がボーキン将軍の方へと暴走。激突の衝撃で鞘から抜けたサーベルが呪力を炸裂させ、オルガンローデ犬を凌駕する凄まじい破壊力のオルガンローデ剣が長い胴体を縦に切断していった。
「よくも私のチワックスを! まだまだ、ここからでもっ」
激昂して瞳を朱色に染める傘の魔女。激昂した貴婦人は周囲の罪人たちの掌握彩域を侵食しながら自我を肥大化させていった。部屋中を上書きして空と虹の浄界を構築する。
自分が絶対者として振る舞うための空間。
間合いは自由自在、天候は意のまま、虹の橋は生死の境界すら飛び越え、創造される使い魔の軍勢は無尽蔵。天空に傘から放出した光の矢を撃ち放てば神話の再現すら可能になる。
相手の切り札を引き出したユディーアはここしかないと狙い定めて疾走した。
「愚かなっ」
ライラの放出する呪力衝撃破が銀髪の少女を退かせる。ユディーアは鉤爪を前に突きだしながら一直線に走った。無謀な突撃だと思い知らせるかのように傘の魔女は無数の虹を敵対者の方へと向けようとして、
「可愛い内装だね」
展開した浄界が意のままに制御出来ないことにようやく気付き、愕然とする。
よく見れば、構築された異界はかつて戦った時とは比べものにならないほど劣化していた。
まるで安っぽい室内の塗装。
否、『まるで』ではない。これは室内の壁紙に空と虹の絵を描いただけの偽物だ。
青い塗料に白をまぶし、虹のラインを散りばめた、チープ極まりない空のイラスト。
浄界を構築した当初は迫真性のある世界だったものが、その外側から侵食してきた『安物』によって駆逐され、価値を貶められていく。
「爽やかで、解放感があって、幼稚園の落書きみたいでいいんじゃないっ」
一撃、二撃、そしてとどめ。心臓を抉り出した後で臓物と骨を真横にぶちまけ、追撃で首をはね飛ばした上で頭蓋に鉤爪を突き入れた。開いた『窓』が朱色から灰色へと変質していく。
削れた命数は百足らず。肉体は高速で復元されていく。もっと急げと朱色だらけの不利な彩域を押し退けて必死に灰色をかき集める。ライラの再生が先か、過去の読み込みが先か。
両者が弾かれたように飛び退る。
ユディーアは灰色の燐光を纏った鉤爪を押さえて荒く息を吐き、ライラは獰猛な唸り声を上げながら血走った目で敵を睨んだ。
「私の世界を、お父様への信仰の証をっ、愚弄しましたねっ! 虹犬の天界を貶めるとは、その所業は万死に値するっ! 穢らわしい鮮血使いめ、お前には必ずや罰を与えます」
「凄い、絵と本物の違いが理解できるんだ。犬って賢い生き物なんだね」
沈黙。臨界点を超えた怒りが憎悪となって煮えたぎる。
ユディーアが脱出の経路を脳裏に思い浮かべながら強硬突破の段取りをシミュレーションしていると、銀髪の少女が前に出てライラに呼びかけた。
「提案があるんだけど、ここで矛を収める気は無い? このまま続けるとこのあたりの彩域が使い物にならなくなっちゃう。せっかくの良質な土地なのに、勿体ないと思わない?」
「何を馬鹿なことを」
「王国を奪うのが目的なら、この朱色が強い彩域はあなたの領地になる予定なんでしょう? 私はいいのよ別に。こいつらが困るだけだし」
銀髪の少女はゴーリーを指差しながら平然と言ってのける。「そりゃねえですよぉ」と縋り付こうとする大男をステッキで押しやりながら少女は続けた。
「それともここでどちらかが滅びるまで不毛な命の削り合いでもする? 言っておくけど、私はこの身体と後ろのコたちを含めて寄り代を三十人、第五階層に待機させている。たとえ相手が名高い傘の魔女であろうとも、命数の五割は削って見せるわ」
その場にいる誰もがぎょっとした目で踊り子たちを見た。
銀髪の少女を含めた五人の少女が、流れるように言葉を繋いでいったからだ。
全員が別々の個人であるというのに発言者は次々と入れ替わり、継ぎ目無く一つの文章として成立している。演出や練習の成果などではない。彼女たちは一個人、一人格の代弁をすることができる寄り代あるいは霊媒だったのだ。
ライラが神の子なら、銀髪の少女もまた神かそれに類する上位存在。
全力で激突すればお互いただでは済まない。
ライラはしばし沈黙していたが、不安そうに群の長を見る配下たちを見て決断した。
「負ける気はしませんが、滅ぼすのは骨が折れそうです。何より手癖の悪い盗神が相手、戦っている間に何を盗まれるかわかったものではありません」
「あら、ばれてたのね。ざーんねん。乗ってきたらその傘を盗むチャンスだったのに」
銀髪の少女は心底から無念そうにしょげてみせる。虹犬の秘宝である伝説の武器を畳みながら、ライラはすっかり冷静さを取り戻した口調で言った。
「あなたの縄張りを荒らすのはこれでおしまいです。優れた彩域でしたが、これが唯一無二の機会というわけでもなし。そちらの呪文に乗って差し上げます。行きますよ、あなたたち」
言うが速いか、ライラは黒馬が床に広げた黒い影の中に入って行く。四人の長寿者たちが続けて去って行くと、影は縮小してその場から消滅した。
激戦の幕はひとまず下りた。ユディーアはほっと息を吐きつつも、油断無く踊り子たちを観察していた。そんな中、圧制者から解放されたゴーリーは目尻に涙を浮かべながら銀髪の少女の腰に縋り付いた。
「姐さぁん、うっうっ、来てくれるって信じてたよぉ~」
「あーもう泣くな情けない」
「ばぶばぶ~、まま~、ぼくがんばったの~」
ユディーアは何か見てはいけないものを見てしまった気がしてそっと目を逸らした。
そこに駆けつけたのは肩にちびニアを乗せた入れ墨彫りウルムゾリム。手が血に濡れているのは警備に当たっていたライラ配下の虹犬たちを始末していたためだろう。
「だ、旦那?! いったいどうしちまったんです?!」
空気が凍る。
ダヴン・ゴーリー、牢獄街の誰もが恐れるギャングのボスはゆっくりと立ち上がり、沈黙したままシュコー、と鉄のマスクから呼吸音を漏らした。
「おう。ご苦労だったな、ウルムゾリム。ちょうど今、ゴミ掃除が終わったところだ」
厳かに、そして有無を言わせぬ気迫。ゴーリーはごく自然に振る舞おうとしていた。
当惑するウルムゾリムの行動を労い、後始末のために自分の配下たちを呼び寄せる。
その様子を指差しながら、銀髪の少女は小声でユディーアに囁いた。
「あの子、私には頭が上がらないの。素の性格はあんな感じだけどね」
小さく笑いながら少女が身を寄せてくる。
ユディーアが警戒に身を固くすると、相手は目を細めてこちらを覗き込んできた。
「さて、それじゃあ本題に入りましょう。過去視能力者としてのあなたに依頼があるの」
思わぬ成り行きから共闘する事になった得体の知れない上位存在。
ただ偶然の出会いとするには不自然な相手だ。予想通り、彼女が求めてきたのはユディーアが持つ専門的な技能だった。
「調べて欲しいのはとあるティリビナ人の遺体。今日の夕刻、じゃなくてもう昨日か。酒場のど真ん中で殺害された、『ティリビナ同胞団』の幹部と目される重要人物」
「それって」
「そう、たまたま居合わせたあなたが調査した遺体ね。部下が凍らせて保存してるんだけど、あれをもう少し深く遡って欲しいの。あのティリビナ人にはね、女王暗殺を目論んだという疑いがあるのよ」
不意打ちのように既知の情報を新しい情報と接続されてユディーアは一瞬だけ混乱した。
一つの単語が脳内で反響する。女王暗殺。女王とは、ガロアンディアンの王のことか?
杖の座、同盟者であるアンドロイドの魔女。
確かに祝祭に乗じてトリシューラを暗殺しようとする者が現れることは十分に考えられる。おまけに『ティリビナ同胞団』は独立派であり、反ガロアンディアンを掲げている。
「正確に言えば、彼が行ったのは女王暗殺を計画して依頼するところまで。実行犯は既に動き出している。あなたには過去視で暗殺者の手がかりを探って欲しい」
最初に行ったよりも更に遡り、暗殺計画の詳細な情報を入手しろ、ということだ。
そこまではわかる。
わからないのは、この少女の立ち位置だ。
彼女が何者で、何を目的として女王暗殺を阻止しようとしているのか。
そもそも情報の出所はどこなのか?
何もかもがわからないままでは、相手を信用することなどできはしない。
ユディーアの視線を受け止めながら、少女は言葉を続けていく。
「機械女王トリシューラの暗殺。私ですら困難な大仕事だけど、彼なら成し遂げかねない。その名も『王殺し』。『暴君を暗殺してみた』系動画でお馴染みの世界有数の動画配信者にして死神シェロンの弟子を自称する凄腕の暗殺者よ」
『王殺し』。その名を口にした瞬間、少女の瞳が濡れたように光を湛えた。回転するハイライトの美しさにユディーアは思わず息を飲んだ。
そこで銀髪の少女ははっと口もとに手を当てる。「言い忘れてた」と自分の頭を軽く小突いてみせる。そんな仕草すら様になる少女らしさが超然とした存在感と同居していた。
「私はレナリア・V・オルガナ。暗殺者で、いちおう紀人。よろしくね」
柔らかく微笑む銀髪の少女の背後で、四人の踊り子たちが全く同じ笑みを浮かべていた。




