5-5 第一の誘拐
彼方からの呼び声はいつだって突然だ。
『ユディーア、ユディーア、我が娘』と真っ白な世界それ自体が振動する。淡い光に満たされたどこでもないどこか。曖昧模糊とした夢のような空間。『ああ、またか』と内心で嘆息。
空間の断絶。あるいは時間の途絶。この真昼の夢は現実では瞬きの間の出来事だ。
ここで自分にできることは何も無く、ただ起きる事を受け止めるだけ。一方的に落ちてくる情報を聞き流すだけのつまらない時間。
ユディーアが自分の神を熱心に崇拝する模範的巫女であったならこの時間も素晴らしい神秘体験として受け止められただろうが、あいにくとこっちは裏切り者の不良霊媒だ。そのような殊勝な態度で託宣を受け止めるような精神構造はしていない。
これは託宣。あるいは啓示と呼ばれる神秘体験。
ありがたい神のお告げが始まろうとしているのだ。
天から降りてくるその光を神々しいと表現するのはありきたりだが、その程度には安っぽい演出ではある。使い古しと使い回し、戦乙女ならばだいたい見ている通過儀礼。
後光に照らされたその姿は既視感に満ちていた。様々な絵画や彫像による想像の平均値を曖昧にぼやかした女神の幻影。お約束の記号を押さえておけば少なくとも『この神格だ』と分かる部位だけがはっきりと像を結んでいる。隻眼、槍、猫をモチーフにした耳飾り、力強くしなやかな女戦士とはかくあるべし、みたいな理想像。
上位存在。眷族種としてのユディーアに加護を授けるもの。霊媒資格を有する彼女に、いつの頃からか語りかけてくるようになった白昼夢の世界の主。
すなわち、紀神シャルマキヒュ。
ユディーアに進むべき道を示す超越的存在だ。
裏切り者の末裔を、大いなる神は切り捨てていない。
森羅万象を見透かすと謳われる隻眼をユディーアに向け、女神が言葉を授ける。
「そなたに危機が迫っている。それは大いなる試練の始まりとなるであろう」
そしてその言葉はおおむねふんわりとしている。
英雄譚なんかでもそうだ。
いつだって神々の啓示は曖昧で中途半端。『物語の都合』とか『作劇上の逃げ』が透けて見えるくらいには今ひとつ役に立たない。
魔女として学び、そこそこ呪術世界の知識を身に付けたいまだからこそわかる。
『物語の都合』で詳しいことを言えないというのはまさしくその通り。
それが『神が描いた物語』であるというだけのこと。
手駒の操作と誘導。それがこの一幕が示す意味だ。
軍事を司る神シャルマキヒュは駒を奪い合う盤上遊戯でもやっているのだろう。対面にいるのがどの神かは知らないが、紀神というのはだいたいそういう存在だ。
そのことについて、ユディーアは今更なにも思わない。
そういうものと受け止めるだけだ。
幼い頃に感じていた宗教的熱狂は既に失われた。
無感動に、色のない夢の世界で時間を過ごす。
はやく終わんないかな。
「じきにそなたの槍は愛すべき者の血で染まる。嘆きと怒りが世界を埋め尽くす中でそなたは独りで取り残されるであろう。それが裏切り者の運命。愛を拒絶した者への罰」
そんなことはわかっている。
聖女の未来回想は確定した運命を残酷に突きつけてくる。恐れも覚悟も通り越した。ただ唇を噛みしめて耐える時間だって不毛と切り捨てて久しい。
「だがその運命が歪められようとしている。今回ばかりは心して聞け、私を信じぬ娘。神話の英雄たちと嵐の如き宿命が裏切り者たちの前に立ちはだかるであろう。時の娘ですらあらがえぬ流れがそなたたちの未来を揺るがし、そなたは死よりも恐るべき呪いに苛まれる」
何かがおかしい。女神のお告げの様子がいつもと違うことに気づいてユディーアは髪房の毛先をいじるのをやめた。見上げた先の巨体が放つ唯一無二の眼光はユディーアにはわからない何かを見透かしているようだった。
「大いなる獣の仔、その生誕は私たちこの世界の神にとっても待望の瞬間だ。しかし外より来る者たちにとってはそうではない。死せるイヴァ=ダストの見る夢から溢れ出した暗黒の力が迫っている」
二番目の月イヴァ=ダストは飛来神群、あるいは来訪者と呼ばれる異界の神々が住まうとされている隣接異界である。そしてこの世界で長い歴史を持つクロウサー家、リーヴァリオン家、ディスケイム家といった血脈の祖は来訪者であるという伝承があり、それは事実だった。
極めて珍しいことに、紀神シャルマキヒュは敵の存在を明確に示していた。おそらく危機がそれほどに差し迫っているのだろう。
「異界の理に尋常な手段で対抗してはならぬ。夢には悪夢。灰には炎。氷にはまなざし。邪神どもに力で勝つことはできぬものと深く心に刻め」
それが具体的にどういう意味なのかはわからない。神に疑問を抱くことは許されていないからだ。できるのはこの情報を記憶の片隅に留めておき、覚悟を固めることくらい。
やっぱりあんまり役に立たないなあ、このお告げ。
言いっぱなしのまま消えていく女神の気配。意識が薄れていくのを感じながら、ユディーアはぼんやりとそんなことを考えていた。
「ニアってばとってもかっこいいわ! 二人で並ぶと『猫騎士物語』のニャニャンとラディーンの決闘の場面みたいだったわ!」
「そこまで言うなら、騎士の扮装くらいはしてあげます」
白昼夢から目覚めると、『猫騎士』の甲冑を身につけたセリアック=ニアをクナータが激賞していた。ユディーア自身は『竜騎士』の甲冑を身につけてポーズをとっている。普段は胸当てに毛が生えた程度の軽装なので全身を覆う装甲が重くてかなわない。脇には竜を象った兜を抱えているが、こんなものを被ったら視界が遮られてさぞ鬱陶しいことだろう。
「えーとニアちゃん、なんか二人で殺陣っぽいことやってみる?」
「それはやめておきましょう、危ないので。というかこの鎧も猫剣も本物じゃないですか。トリシューラはこの場所を非常用の武器庫にでもしたいのでしょうか」
ぼやきながらも猫姫あらため猫騎士はクナータの好奇心に対して付き合いが良かった。先読みの聖女はセリアック=ニアにとっても守るべき対象だから、丁重な態度は当然といえば当然ではある。しかし素っ気ない態度の割には『嫌々やっている』という感じが無かったので、ユディーアは少々意外に思った。
今は『楽しい時間』だ。適度な関係性を維持しておくのは今後のためにも悪くはない。これから命を預け合う相手であるならば、それはなおさらだ。
だがユディーアは先ほどの託宣が気にかかっていた。女神は信用ならない相手だ。手駒である自分をどう動かそうとしているのか、その思惑は計り知れない。それでも危機が迫っている可能性があるという情報は共有しておくべきだと思えた。和やかな雰囲気に水を差す覚悟で口を開こうとしたユディーアはセリアック=ニアの発言で出鼻を挫かれた。猫騎士の言葉は真面目なトーンだった。
「お二人に聞いておきたいことがあるのですが、アズーリアの様子はどうでしたか?」
そういえば、セリアック=ニアはしばらくアズーリアと顔を合わせていない。クナータと顔を見合わせて、二人で順番に共通の友人について話していく。
「聞いた話だから詳しいことはわからないけど、守護の九槍になって最初の戦いが他の九槍たちとの主導権争いだなんて災難よね。呪術社会に揉まれたとも言えるのかしら」
「例の事件についてなら、アズさんの故郷は消失した第二世界槍から離れた地域にあって即座にどうこう、って話にはなってないみたい。けどご両親から『戻ってこないか』って連絡があったって聞いたよ」
二つの『近況報告』は時期こそ違ってはいたが共に『英雄』アズーリアが置かれた立場を端的に示していた。セリアック=ニアは「やはり」と難しそうな顔で呟く。
「スキリシアと槍神教圏との緊張は高まっています。下手をすると全面戦争に発展しかねないほどに。最悪の場合、アズーリアは自分の故郷や同胞と戦うことに」
「大丈夫だよ。そうはならない。そのための救世主なんだから」
安心させるように言う。おそらく、猫姫はアズーリアが『祖国の裏切り者』になるかもしれないと心配しているのだ。彼女自身がそうなってしまったことを後悔しているわけではないだろうが、友人が同じ困難に直面するとなれば心配にはなるのだろう。
セリアック=ニアがアズーリアに向ける感情は明らかに変化していた。かつては憎しみ、だが今は? それはきっとチョコレートリリーの仲間たちにとっても同じことだ。そしておそらく、裏切り者であるユディーアに対しても。
「訊いていいことかわからないんだけど、ニアちゃんは平気なの?」
だからユディーアも変化が必要なのだと、漠然と思う。それがどういった性質のものなのか、まだ自分にはわからなかったけれど。
「セリアはドラトリアを裏切りましたから。姉様は、少し塞ぎ込んでいます」
「そっか」
セリアック=ニアのあり方は揺らがない。
けれど、彼女の周囲は確実に変化していく。それに伴って、セリアック=ニア本人もまた変化に対応していかなければならない。それもまた変化のひとつなのだ。個人としての核が揺らがずとも変わらざるをえないことはある。
「大丈夫。みんな、良い方に変わっていけるわ」
クナータの慰めはいつだって慈母のようだ。彼女の思い出は確定した未来。その言葉は心からの安心が満ちている。だがユディーアは微かな違和感を覚えた。『変わっていける』?
『変化』はクナータの主観の中でどのように処理されているのだろう。それが前進でも後退でも、彼女にとってはある方向への変化には違いない。矢印の向きが未来だろうと過去だろうと、変化という現象そのものは同じだ。
「祝祭はとても激しくて、楽しくて、めまぐるしい出来事ばかり。つらくて、恐ろしくて、悲しくなる事も沢山起きたわ。それでも最後にはお母様の愛が全てを包、救い、あら?」
不意に。
クナータの声が不自然に揺れた。
十字に輝く瞳が色を失い、すぐに光を取り戻す。
新しい景色を映し始めた聖女の瞳から、血の涙が流れ落ちていく。ユディーアはこの現象を知っている。記憶が歪み始めているのだ。
「なあに、これ。この記憶は何、わからない、虹と洞窟、お花と氷、それにとっても綺麗な蝶々? こんなの違う、おかしいわ。お母様は、違う人よ!」
絶叫と共にクナータが崩れ落ちる。咄嗟に小さな体を支えたユディーアは戦慄していた。聖女の記憶に存在する『母』の姿が書き換わったということは、彼女の子であり転生先である救世主の存在が変質したということだ。
「なるほど。『脳』が危惧していた事態がさっそく発生したということですね」
猫姫も事態を把握し、即座に端末を操作して他の二人に連絡を試みた。しかし。
「妙ですね。繋がりません。通信障害、いえ妨害でしょうか」
警報が鳴り響いたのは次の瞬間だった。クナータを抱き抱えたままユディーアはエントランスに飛び出して、目の前の光景に愕然とする。
犬の群だ。愛玩動物のようにかわいらしいものではない。警備や追跡、狩猟や軍用に適した大型犬。俊敏そうな脚と鋭い牙を備えた戦闘用の使い魔が大挙して押し寄せる。建物内部には既に十匹ほどが進入しているが、玄関の外でより多くの犬が包囲しているのが見えた。
異様だったのは、この襲撃を可能としている原因だった。一階の大部分を上書きするように鮮やかな色彩の帯が空間を塗りつぶし、建物の壁面を消失させて外部と繋げていた。目を疑うしかないが、それは虹の架け橋としか言いようのないものだ。
「なにこれ、浄界の一種?」
虹、虹、夥しい数の虹が次々と出現して世界を上書きしていく。そのたびに『公社』が誇る鉄壁の警備システムが無力化され、あらゆる呪術攻撃を遮断する呪文防壁が突破されていった。猫カフェの店員に偽装していた言語魔術師の少女が目を回しながら鼻血を吹いて昏倒したのは、侵入者との呪文戦闘で敗北したためだろう。警備用の自動人形や大型の呪石像はぴくりとも動かない。
「あらあら、食いでのないこと。海魔の巫女といってもこの程度。獅子の仔もよほど手が足りないと見える」
とりわけ大きな虹の橋、その上をゆっくりと『歩き去っていく』何者かが笑う。背中を向けている上に丸いシルエットの傘をさしているせいで顔が見えない。妙齢女性らしき声、ウエストの強調とスカートの膨張、袖口のひだ飾りと装飾過剰な傘といったスタイルから『貴婦人』という言葉が連想される。
ユディーアの直感が日傘とも雨傘ともつかないあの呪具こそ敵の『杖』に違いないと告げていた。おそらくその呪力は既に発揮されている。いつの間にか室内にはしとしとと雨が降りしきり、虹が架かっている空間の周囲には透き通った青空が広がっている。支離滅裂な世界の創造主は明らかにこの人物だ。
「それ以上動かないで」
「いいえ、これでお暇させていただきます。もう用事は済みましたから」
警告に対して素っ気なく返す貴婦人。ならば実力行使に及ぶまでと一歩踏みだそうとしてユディーアは片方の腕がいやに軽いことに気づく。
抱えていた兜を放り出して抱き抱えていたクナータが、どこにもいない。
「先読みの聖女の身柄は私たちが預かります。それでは」
意味がわからなかった。
発生した現象の因果が明らかに捻れている。
クナータはユディーアの手の中から消失し、貴婦人に攫われた。おかしいのは、『私たちが預かります』という宣言の直後に貴婦人のすぐそばにクナータが出現したことだ。まるでその宣言によって現実が書き換えられたかのような不自然な流れ。ぎょっとするほど巨大な犬がクナータの小柄な体を咥えた。器用にひょいと放り投げ、その背中に乗せる。
「お願い、ナーグストール!」
犬たちの合間を駆け抜けて側面に回り込んでいたセリアック=ニアが攻撃を仕掛ける。背後で実体化した球体連結型のシルエットが主の動きと連動して拳を振りかぶった。猫化身ナーグストールによる高速の連続殴打。暴風の如き連撃を、貴婦人は涼風のように受け流す。
「可愛らしい猫ちゃんですこと」
猫の打撃をことごとく弾ききったのは、盾でも壁でもなく、広げた傘だった。
そして傘が前方に突き出されたことで貴婦人の顔が露わとなる。女は犬の頭をしていた。蝶のように広がった特徴的な形の耳、恐らくはパピヨン氏族の虹犬。
パピヨン虹犬の貴婦人が無造作に傘を振る。すると一斉に猟犬たちが虹を渡ってユディーアとセリアック=ニアに襲いかかった。
「その子を、返せっ」
甲冑に噛みついた犬を振り払い、槍で貫き、踏みつけて首をへし折る。訓練された猟犬は大柄な成人だろうと押し倒して噛み殺すことが可能だが、そんな事実はユディーアには関係が無かった。前後左右から飛びかかる犬の群、その動きが手に取るように把握できる。天眼は冴え渡り、殺意は全身の隅々まで行き渡っていた。鼻先から尾まで斬撃が抜けて犬が両断され、旋回する穂先が血飛沫と断末魔を撒き散らしながら屍の道を舗装する。
最速で追いついてあの女を殺す。敵の脅威度はもはや疑いようもないほどに明白。一切の容赦無く全力でかからねば死ぬのはこちらになるだろう。
だが消失した壁を越えて外に出た瞬間、ユディーアは早々に出鼻を挫かれた。横合いから吹っ飛んできた人間大の質量によって邪魔されたのだ。
こちらにのしかかってくる体の重さとその正体を確認してユディーアの顔は滅多に無いことだが思い切りひきつった。よりにもよってカーインだったからだ。
「ちょっ、邪魔っ」
「ぐ、すまない、不覚をとった」
露骨に嫌そうな態度をとってしまった自分こそ不覚、と自省しつつユディーアは次にどんな顔をするべきか判断を迷っていた。カーインが全身に裂傷だらけで血塗れな上に息も絶え絶えの満身創痍であったからだ。
その上、勢いよく落下して地面に叩きつけられたのは先ほど顔合わせをしたクレイに他ならない。彼もまた激戦を物語るように口から血を流し、全身に手傷を負っていた。
襲撃者はあの虹犬の貴婦人だけではない。
新しい脅威が続々と姿を現し、それらは虹犬の貴婦人と同等以上の威圧感を放っている。
「華やかじゃない、君は全く美しくない! これが本当に当代のカーインなのかい?」
「んだども、こいつらが裏の魔将だってのに間違いはねえべ。かまわね、やっつけちまえばおんなじこどだ。トロメリアのあおたれだろうが、めんこいがぎっこだろうが、おらたつの敵だってことに変わりはねえ」
新たに出現した二人のシルエットは対照的な細身と巨体。
一人は薔薇を人の形にしたかのような麗人だ。長く艶やかに流れる黒髪に挿された赤色。胸元や腰、袖口にひだを集めたドレスもまた赤と黒。真紅の薔薇を口に咥えているのは流石に演出過剰とさえ思えるが、堂々たる佇まいは完成された絵のようで様になっていた。
そして驚くべき事に、その面差しはカーインとよく似ている。切れ長の瞳に細く長い睫毛、声も体格も雰囲気も男なのか女なのか判然としない点はむしろ男性的なカーインとは正反対なのだが、感覚的に受ける印象がすぐ傍にいる幼馴染みもどきにそっくりなのだ。
もう一人はひと目でそれとわかる岩肌種だった。ごつごつとした岩のような肌が装甲のように背中や腕を覆い尽くし、小山のようにこんもりと盛り上がっている。見上げるような巨躯はこの種族としては平均的ながら、歳を重ねるほどに分厚くなると言われる岩石肌の重みは目を見張るほど。背中に岩塊を背負っているかのような姿はユディーアが知る同じ種族の魔将ベフォニスと同等かそれ以上だった。
そしてこの人物の外見で最も特徴的なのは頭部だ。二つあった。双頭である。全く同じ顔立ちの頭部が仲良く二つ並んで、完全に同期して喋っていたのだ。
「素材は華やか、チャーミングな耳が華やか、そしてこれは舞台俳優さながらの逸材じゃあないか美しい! 見るに堪えない街だと思っていたが、いるところにはいるものだ!」
薔薇の麗人はユディーア、セリアック=ニア、クレイを順繰りに指差しながら品定めをしつつ、その容姿に値札を付けていく。直前まで戦っていたカーインのことなど既に眼中には無いと言わんばかりだ。
「彼は最高に華やかだな、君のような不格好な男が相手をするのは勿体ない! 今からでも私と交代しないか、いやするべきだ、美しい花は全てに優先されるのだから!」
「やかまし。死んどけ」
蔑むような一瞥が空間を薙ぎ払った。双頭トロルの目がかっと輝いたかと思うと、その視線上に存在したあらゆるものが動きを停止させ、灰色の物言わぬ石像と化していく。石化の邪視だ、それも極めて強力な。騒動を聞きつけて様子を見に来た通行人たちが問答無用で巻き込まれた瞬間、蜘蛛の子を散らすように人の気配が周囲から消えていく。第五階層の住民が危機感を覚えて逃げ出すという異常事態がこの相手の危険性を明確に示していた。
薔薇の麗人は片手で顔を隠すようにしながらも平然と立っている。どのような手段を用いてか石化邪視を防いだのだ。不愉快そうに眉をひそめながら溜息を吐く。
「私はね、不格好な君の中で唯一その石化術だけは評価に値すると思っている。華やかじゃない有象無象を石像という美の形式に押し込めることができるからね。しかし今のは最悪だ。見たまえよ、あそこにティリビナの民がいただろう。私が防がなければ彼の生命力に溢れた身体が無機質な石塊に変わってしまうところだった」
「ああ? 枯れ木っこのことなんか知らね。おめえがくだらねえこと言うからだ」
暴言が放たれた瞬間、空間を引き裂く破裂音と共に地面に無数の裂傷が走り、岩肌の巨体が勢い良く後退した。その身体には傷一つ付いていないが、音速を超えた衝撃の凄まじさは地面を深く抉りとるような痕跡が如実に物語っていた。破壊をもたらしたのは薔薇の麗人が手に握っていた長大な茨の鞭だ。美貌は凄烈な怒りに染まっていた。
「美しき顕花の末裔を枯れ木と呼んだか、下郎。私の前で彼らの春待ちを蔑む愚か者がどのような末路を辿ったか、その身に教えてやっても良いのだぞ」
「やってみろ。その細っけえ腕でやれるもんならな」
超人たちは本来の敵であるユディーアたちを差し置いて勝手に険悪になり勝手に殺意をぶつけ合っていた。仲間割れは望むところではあるが、敵がこのような余裕を持っていられるのはそれだけこちらが軽んじられているということだ。今のうちに仕掛けるべきだと理性は判断していた。しかし、両者が漲らせている呪力の強大さがそれを躊躇わせる。
「お二人とも、戯れはほどほどに。真面目に仕事をしている私を見習って下さいな」
前後左右、激しく位置を変えながら間断なく攻撃を仕掛けるセリアック=ニア。その猛攻全てを傘で防ぎ続ける虹犬の貴婦人は、口ぶりとは裏腹に相手と向き合ってすらいない。涼しげな表情のまま猫姫の攻撃を完全に無視している。
ユディーアはせめてクナータを取り戻そうと貴婦人の傍に控える大型犬に向かっていくが、咄嗟に足を止めて槍を身体の前に出す。硬質な音が響いて斬撃が弾かれた。
透き通るような殺意だった。天眼が捉えたほんのわずかな予兆を見逃していたら確実にやられていた、それほど自然な一撃。ユディーアを奇襲したのは槍使いの男だった。男性としてはさほど体格に恵まれているわけではない。それゆえに彼が両腕で構える三叉槍の長大さが際立って感じられる。青く透き通った三つの刃と薄い雪のような白銀の柄。刃が重なり合う中心部には瞳を意匠化した装飾が施され、青い宝石が神秘的な輝きを放っていた。
美麗な武器とは裏腹に男の印象は薄い。動きやすそうな軽鎧は普段のユディーアと似たり寄ったりで、その容貌は赤亜竜の仮面に覆い隠されてよくわからない。表情が読めないというのはそれだけで印象を曖昧にしてしまう。
記憶にひっかかるものがあった。赤亜竜の仮面。雑踏の中で一度だけ見かけた、透明な雰囲気の男だ。この人物は亜竜と戦う自分を観察していたのか。
「お前タち、何を、シてイる」
最初ユディーアはその音が何を意味しているのか理解できなかった。
調子の外れた、音の大小も高低も全てがちぐはぐな悲鳴。
仮面の中から聞こえたそれが目の前の槍使いが発した声だと気付いたのは、三人の襲撃者がその言葉に反応してからだ。戯れは終わりとばかりにそれぞれの敵対者と相対し、無言で殺意を漲らせる。この仮面の槍使いこそが四人組のリーダー格なのだ。
「蝶の歪ミは短い、速ヤかに仕事を終エろ。奪ウの、こレで終ワりじゃナい。気、抜くナ」
無造作に突きを放つ。三叉の刃が鉤となって穂先を引っ掛け、捻りと共に叩き落とされたこちらの槍を踏みつけて男の掌打が迫る。誘いに乗った相手の腕を外に弾くと同時、手首の内を突いて怒気を増幅させる。戦闘中の興奮はとりわけ怒りの感情を喚起させやすい。こちらの心拍と血圧を闘争に最適化した領域まで高めつつ、相手には度を超した怒りをもたらして冷静さを失わせ臓器に負荷をかける。前のめりになって口を開き、腹の奥から絞り出した怒りの感情を咆哮に、そして呪文へと練り上げていく。灼熱の怒りが口の中で燃え上がり、ユディーアは目の前にある男の胴体に向けて至近距離で『吐息』を放とうとした。しかし。
「凍レ」
消滅。いや、これは凍結と言うべきか。
不自然な唐突さで激情が停止し、吐き出されようとしていた怒りが鎮火されていた。
経絡秘孔を突いたはずの相手も激しい怒りに我を忘れているようには見えない。
壮絶な悪寒。飛び退って距離をとる。追撃の薙ぎ払いが甲冑の胸部を雪のように引き裂いてユディーアの胸に裂傷を創った。傷は浅いが、流れ出した血が凍っている。
感じた悪寒は言葉そのままに物理的な冷気が原因だった。
赤亜竜の面を被った男、その三叉槍から凄まじい冷気が放射されている。
この男は魔槍使いなのだ。
天眼を研ぎ澄まし、敵の一挙一動をつぶさに捉える。
これが女神の託宣にあった『危険』であることは明らかだ。
つまりは来訪者の放った刺客。敵の種族構成を考えればユディーア自身の古巣であるディスケイム家との関係性が疑われるが、この段階で自分を切り捨てる意味がわからない。本家としてはユディーアがクナータを手元に置いておく現状が最も理想的な状態のはず。
判断材料が足りない。ユディーアは槍使いと激しくぶつかり合いながら、戦場全域に知覚を広げ、天眼での情報収集を行う。
戦場は綺麗な四対四。分断されて互いに連携をとることもできないが、それは敵も同じ事だった。一方で距離が離れているためか邪視の展開が容易になるという利点もある。
その恩恵を最も受けているのは、虹の架け橋だらけの領域から離れた双頭トロルだった。
邪視による周囲の石化。それによって生まれた全ての岩石を自在に変形、操作して岩の槍を生み出し投射する岩肌の呪術師は、単騎で軍勢の如き火力を発揮していた。
相対する盲目の男は目を合わせないことで石化を無効化しつつ、身軽なステップで次々と岩の槍を回避し、着実に間合いを詰めていく。
「相変わらずおんぶに抱っこか、トロメリアぁ! そいな使い捨ての相棒じゃ、おらたつみてえに息の合った動きはできねえど!」
間合いに入ったクレイは絶え間なく手刀で攻め立てる。その華麗な斬撃は舞踏さながらであったが、相手の分厚い岩石肌にはまるで歯が立っていない。クレイも腕の内側や腹部、関節など装甲の薄い部分を狙ってはいるのだが、双頭トロルの体術は手刀を的確に弾いていた。
「本物の連携ってもんをおめたつに見せてやる」
腰を深く落とし、両腕を交差させた防御態勢。クレイは貫手による一撃でそれに応じた。手刀による刺突はガードの下を抜けて腹部に突き刺さったが、直後に「噴っ」という裂帛の気合いに押されて吹き飛ばされる。甲高い音が響いた。手刀が装甲に弾かれて半ばからへし折れたのだ。柔らかいはずの腹部を一瞬で硬化させたのは基本呪術である『報復』だ。
『死人の森の王子』が振るう剣をへし折るなど、ただの『報復』にできることではない。
「相乗効果。一心同体の二人による完全な調和がより強大な呪力を生んでいるのか」
クレイは折れた左腕を庇いながら冷静に分析を行う。
優れた双頭呪術師は基本呪術であっても単頭人より遙かに優れた精度で行使できる。
一つの身体に二つの心。クレイとトロメリアも在り方は似ているが、この相手とは年季と練度に天と地ほどの差があった。
「前にも言ったじゃんか、ノッくん。息を一つにするだけが一心同体じゃない、裏でこそこそフォローに回るのもパートナーの仕事なんだって!」
クレイの片目が微かに開き、そこから溢れ出す銀河の光景が石化空間を侵食していく。
いや、既に侵食は終わっていたのだ。クレイが矢面に立って戦っている間、トロメリアは密かに相手の浄界を改竄する下準備を済ませていた。協力して同じ事を成し遂げるのではなく、それぞれ違うことをして役割分担を行う。パートナーシップに対する思想の差だ。
書き換えられた世界、星々の輝きが集うその下でクレイが腕を天に翳す。
虚空に散らばっていた全ての光がクレイに従属し、巨大な剣となって屹立した。
「星読みの賢者は王たる貴種に道を示すのが役目だ。導き支えるが決断するのは王自身。あんたみたいに王を呪縛して自分の色に染めるのはキングメーカーのやることじゃない」
敵と旧知の間柄らしきトロメリアの口調は珍しく軽薄さが消えた真剣なものだ。
対する双頭トロルの反応は劇的だった。
「黙れっ! トロルはおらの種族だ、おらのやり方に指図すんなっ」
「その結果がベフォニス家のあの惨状だろ。当主はあんたが好き勝手に改造できる人形じゃないんだぜ。呪宝石を埋め込んだり巨人の腕を移植したり、勇士会議でも問題視されてる」
「そいな失敗作どものことなんか知るかっ! おらの王だっ、おらの王国だっ! おらの意のままにならねえもんはあっちゃならねえ!」
その在り方すら他者に依存するトロメリアとは対極とすら言える圧倒的なエゴが肉体から溢れ出し、大地をどす黒く染め上げていく。自分の手の届く場所、視界に入る全てを『自己』として定義する邪視者の欲望に底は無く、開いた奈落はどこまでも深い。
巨大な欲望の穴から、何かが迫り上がってくる。
「たたっ殺せっ、おらのベフォニス! トロルの王よ!」
双頭トロルが地の底から呼び出した使い魔が大地を鳴動させ、腕の一振りで『公社』のビルが粉砕される。ただその場に立つだけで周囲の建造物が踏み潰され、薙ぎ倒されていく。
巨人だ。その場にいる誰もが同じように目を見張った。
それがただ巨大な石像であったなら、ユディーアは『ミルーニャが使うゴーレム』の延長線上の存在として認識できた。だが、これはそのようなものではない。
ビルよりも巨大なヒト型は、その全身の隅から隅まで余さず呪宝石の塊だった。
呪力を宿した鉱石を加工し、儀式を行い、呪術的な付加価値を付けたそれは装飾品程度のサイズでも優れた呪具としての機能を発揮する。巨大な巡槍艦の動力部などに使用されている呪宝石は一抱えほどの大きさであり、呪術文明を支える重要な資源であり技術の精髄でもある。
それが巨人そのものとして現れ、使い魔として動いているのだ。
神にも匹敵するほどの呪力が溢れ出し、青白い稲妻となって大気を灼く。
「悪しき暴君と邪な奸臣が目の前にいれば、それを斬るのが俺という剣だ」
瞑目し、迷い無く呪宝石の巨神に立ち向かうクレイ。
振り上げた腕の動きと連動して天を衝く巨大な剣が動き、振り下ろされる。
迎え撃つ巨神の手にはいつの間にか古びたハンマーが握られていた。呪宝石で構築された本体とは対照的に石と木で出来た巨大なだけの簡素な武器。
「ダメだ、あれと打ち合うのはまずいっ」
トロメリアの警告は遅きに失した。これは彼にとっても予想外の危機だったのだ。
巨大な武器同士が激突し、呪力が大気を震わせる。
「轟け、『ラウスの戦槌』」
宣名が神話を引き寄せる。武器に纏わる逸話、伝承、持ち主の起源、それらは『英雄を示す象徴的な記号』の銘を唱えることでただの一語に圧縮されて膨大な情報を参照する。
呪力が渦を巻き、衝撃破が地表を割り砕いて持ち上げていく。
圧縮された神話の奔流は容易く剣を打ち砕き、真下にいたクレイごと大地を陥没させた。
あまりにも圧倒的な破壊力はその背後に存在した全てを打ち砕いていた。
辺境区の外周部から外に広がる広大な森が根こそぎ更地となり、第五階層の『果て』として設定されている空間が歪んで『泡』が浮遊する異空間が露出する。
世界槍の自動修復力がすぐに機能したが、この巨神はその気になれば世界槍の一部を砕くことすら可能なのだ。
敵を跡形も無く消滅させた双頭トロルは唸るように喉を鳴らし、下を向いてぶつぶつと呟き続けていた。四つの瞳は底無しの欲望と妄執に染まり、深い洞窟のように口を開いていた。
「再生者の力ぁまだ奪い足りね。もっとだ、もっと再生者と戦うだ。今度こそおらは王をこさえる。ペラティアもガロアンディアンもおらの贄だ、全部よこせ、何もかもおらのもんだ」
二つの口から涎が垂れ落ちる。
古典的な偏見、伝承に語られる『邪悪で欲深なトロル』のステレオタイプ。
悪意が形を成したような怪物が世界に穴を空けながら彷徨い歩く。
「どこさ行ったアルテミシア。もう素体がおめえしかいねえだよ。あの娘っこを組み込んで、今度こそ完璧なベフォニス王をこさえるだ。おらの、おらの王国、おらの第五階層ぅ」
怪物の欲望が王子の剣を砕く一方で、猫と犬の戦闘もまた佳境を迎えていた。
無数の犬が球化し、宝石に変換され、呪力を撒き散らしながら炸裂する。
一撃で行動不能、続く止めで戦闘不能に至るナーグストールの打撃。
その全てを受け止める傘の防御はまさに鉄壁だ。
「相変わらずね宝石の悪魔。女王ディミラッサを誑かした時のように、その娘も沈黙のままに操っているのですか。同じ猫の取り替え子とはいえ、獅子王の代わりにはなりませんのに」
パピヨン虹犬の貴婦人の口ぶりはナーグストールを知っているふうだったが、セリアック=ニアはそのような些事には頓着しない。
「あなたとナーグストールの因縁とかどうでもいいです。無意味な揺さぶりと独り言はペットにして下さい」
「なんて迷いの無い心かしら。では力でねじ伏せましょう」
回転する傘が爪の斬撃を弾く。
芳しい香水呪術が局地的に降り続ける雨によって無効化されるという相性の悪さゆえ、セリアック=ニアは厳しい戦いを強いられていた。鉄壁の防御、どこからともなく湧き出てくる使い魔の物量、得体の知れない浄界。だが貴婦人の力にはまだ先があった。
虹犬が手にした傘、その先端が眩い輝きを放つ。
「蒼天撃ち抜け、『レメスの穹弩』」
神話を再現する『伝説の武器の宣名』が高らかに響く。
傘の先端から七色の光、あるいはそれ以上に多彩な煌めきが分散していった。
多色のスペクトルが矢となって天へと舞い上がり、停止する。
「我が父の偉業を知りなさい」
その言葉と同時に、天から光の雨が降り注いだ。
無差別に降り注ぐ光の柱は建造物の屋根を溶解させ、地下室やシェルターの防護壁を貫通して隠れていた人々に無慈悲な裁きを下す。ナーグストールの腕で難を逃れたセリアック=ニアは軽蔑と怒りを露わにした。
「見境の無い。それがレメスとやらの意思だとすれば、どこかの冥府神並の邪悪さですね」
「何を他人事のように。今のは父なるレメスに歯向かったあなたの愚行への報いなのですよ。この『傘の弩』は防いだ攻撃や呪いを蓄積し、恨みを込めて撃ち返す。槍神による虹国への侵略、その報復を再現したこの一射はお父様に従わぬ愚かな異民族を滅殺するためのもの」
かしゃん、と傘を一度畳むと柄の下部からくすんだ色の石が排出された。おそらく傘の中には呪宝石が詰め込まれているのだろう。無制限に先ほどの光の雨を撃てるわけではないようだが、残弾があとどれほどあるのかまでは定かでは無かった。
「お父様の神意は全てを救済する。平伏なさい。人は神に跪くもの。神が運命と序列を定め、それに逆らうことは許されない。この聖女も同じこと。あらゆる巫女は神の奉仕者です」
「その傲慢さ、とても『下』の種族とは思えませんね」
セリアック=ニアは『下』がイコールでジャッフハリムだと認識しているようだが、そうではないことをユディーアは知っていた。
本来、虹犬はレメス神に創造された奉仕種族である。
その信仰心は古い世代であればあるほどに強く、『群れの序列』を価値観の最上位に置く虹犬の守旧派はジャッフハリムから遠く離れた『虹国ヴァルニア』で独立を守っている。
貴婦人の思考と在り方は明らかに虹国出身者のものだった。
「傲慢なのは現代に蔓延る悪しき考えです。この世界は神の所有物。人はみな神の奴隷。であれば奴隷種族たちに必要なのは効率的に神に奉仕するための序列化と管理です。我ら虹犬は生まれながらに神の飼育動物。家畜種族の在るべき規範を、この愚かな都に示しましょう」
虹犬の多様な氏族形態は、交配によって家畜をデザインするというある種の傲慢さによって彼らの生まれが規定されていることを示している。『神の家畜』というのは単純な事実だ。虹犬たちは新しき神レメスが創造した高い知能を持った犬である。
そして世代を遡るほど、屈辱的な種族の起源を誇りとする虹犬は多い。
信仰と文化がそもそも現代の価値観とコンフリクトを起こしている種族との共存は困難を極める。時には紛争にまで発展するケースもあり、このような主張はジャッフハリムが長年に渡って手を焼いてきた問題のごく一部に過ぎない。虹犬の保守反動派のみならず、異なる文明圏との共存は未だ実現できていない絵空事であった。
猫と犬の激闘は終幕に近付いていた。セリアック=ニアの呪宝石が先に底を尽いたのだ。彼女の攻撃は遂に貴婦人の防御を貫くことが出来ず、逆に貴婦人の絶え間ない攻撃は少しずつ、だが確実に猫姫を追い詰めていた。
それでも猫は牙を剥き、爪を輝かせながら叫ぶ。
「飼い慣らされた犬なんかにっ」
虹犬の貴婦人は高みから見下ろし、引き金を引く。
「忠義を知らぬ猫風情が」
熱線の雨が少女と猫の化身を穿ち、炸裂する光の奔流が一帯をまとめて飲み込んでいった。
後に残されたのは、溶解した猫騎士甲冑の残骸、そして価値を失った石ころのみ。
「それでは、楽しい言震兵器の準備を続けましょうか。この堕落した都を破壊するために」
王子や猫姫が圧倒的な力に敗れるのと並行して、薔薇の麗人と対峙していたカーインもまた無数の茨に絡め取られて戦闘不能に陥っていた。どこからともなく出現して自在に相手を拘束する茨や蔦はティリビナの民が得意とする呪術だが、カーインの相手は尋常なティリビナ人と比較しても更に熟達した使い手だった。あるいは、ユディーアが知る中で最も優れた樹木系呪術の使い手たるプリエステラをも凌駕するかもしれない。
「なんということだろう。カーインの名が騙りだったとは。華やかではないと思ったが、このような無様な現実を突きつけられるとはね」
大気を引き裂く音。鞭がカーインの胸を打ち据え、茨が凄惨な引っ掻き傷を創る。
彼の全身にはこのような傷が無数に刻まれ、衣服は既にぼろ切れと化していた。両手両足は完全に伸びて茨に拘束されており、もはや逃れる術は無いように思える。
「私は、誇り高き勇士、ロウ・カーインだ」
「口を慎みたまえよ、君。どのような事情があるにせよ、それ以上の妄言は誇り高く美しかった我が父カーインへの侮辱と捉えるぞ」
「何」
カーインの表情がかつてないほどの動揺を示す。
ユディーアとの戦いでさえこのような感情は見せなかった男の精神が、『正統』が目の前にいるかもしれないという可能性に揺らいでいた。
「父上は美しく人心を惹き付ける力を持った我が兄にその名を受け継がせた。そして美しく武技に優れていた私にはこの鞭を授けて下さったのだ。ああ、だがなんという悲劇! 私の知らぬ間に誉れ高きテテリビナの血は途絶えてしまったと言うのか?!」
テテリビナという言葉の意味を麗人は知っている。それは致命的な証明だった。
表向き霊長類系の無徴種族ということになっている勇士カーイン。その秘密を知るのは四十四士でもごく一部に限られる。そしてこの麗人は四十四士ではない。
何よりもそれ以前に、この麗人の容貌と呪術は伝承に謳われるカーインにそっくりだ。
「君のような紛い物がカーインを僭称しているのは気分が悪い。兄とその子孫たちの名であると一度は割り切ったゆえ、いまさら執着は無い。だが悪質な騙りが血族の名誉を穢しているとなれば話は別だ。その名、私が貰い受けよう」
そう言うと、麗人は咥えていた薔薇を指に挟んで天高く投げ放った。
茨の鞭を頭上に掲げ、片方の手を腰の下に伸ばしながら俯いて瞑目する。
落下してきた薔薇が茨の鞭と接触するのとほぼ同時、天を仰いだ麗人の目が見開かれた。
宣名が呼び起こしたのはやはり神話の時代だった。しかし、その表現形式は神の偉業を再現する他の伝説の武器とは一線を画している。それはこの茨の鞭の来歴が薔薇の麗人の血に直接由来するものであるからだ。
「咲き誇れ、『妖華絢爛螺衣光鞭』!!」
茨の鞭が麗人の手と同化するように融け合い、緑の奔流が長くしなやかな腕を覆い尽くしていく。美しいかんばせは薔薇色に染まり、花のようにほころんでいった。
そしてカーインの目の前で繰り広げられたのは、言葉通りの絢爛なる開花。
麗人の顔が咲き乱れ、血のように鮮やかな大輪の赤薔薇へと変容する。
八重咲きとなった頭部の下には首から胴まで一繋がりとなった主幹。多肉質の茎が絡み合うような異形ながら、躍動的な生命力を感じさせる。腕は棘に塗れた枝に変じて茨の鞭と一体化して境目はもはやわからない。鋸のような歯牙の小葉は衣服の装飾にも似て美しく、両足は根となって大地に深く食い込んでいた。
歩行する巨大な花。そうとしか言い様のない姿は紛れもなく『テテリビナ』の自称に違わぬ彼らの本質だった。すなわち世界がまだずっと単純だった頃、物質界の楔を植物に選んだ原初の妖精たち、『花のアヴロノ』の生き残りである。
「どうだい偽物君。私は華やかだろう?」
カーインの表情はなんとも形容しがたい微妙なものだった。
相手の発言がある種のユーモアなのかどうかを判断しかねているのかもしれない。
「その姿を華やかでないと評するのは難しいだろうな」
「素直な回答ではないが、美意識はまともなようだね、それだけは褒めてあげよう」
言いながら薔薇の麗人、いや麗人の薔薇はもはや手足とも鞭とも区別のつかなくなった茨を幾重にも枝分かれさせてカーインに絡みつかせていく。
蔓が巻き付き、茨が血を求め、光ではなく呪力を奪うために他者に寄生する。
美しくもおぞましい妖華が贄として求めるのは血肉であり魂であり存在そのものだ。
「不出来なものは美しい花の養分となるために存在している。君も己の運命に従いたまえ」
無数の蔦と茨がカーインの全身を覆い隠し、やがてその存在すらも包み込んだ。
偽りのカーインは奪われ、より相応しい存在に受け継がれる。
それはどちらかと言えば『正しい』結末で、ユディーアにとってみれば望ましいとさえ言える結果だと言えた。そう思えるはずだったのに。
天眼で戦場の全域を認識していたユディーアは、行き場を失った感情を持て余すように槍を振り回した。身軽に跳躍した仮面の槍使いがユディーアを踏みつける。腕で弾くが重みで体軸がわずかにぶれてしまう。歯噛みする。この相手、さっきからこの調子で微妙に身体の軸を揺さぶるような攻撃ばかりを繰り返してくる。
両者の戦闘は激しい槍のぶつけ合いであり感情の投射と遮断の応酬、その繰り返しだった。
ユディーアが天眼で相手の動きを読みつつわずかな隙に穂先を突き入れようとすれば、相手はそれ以上の精度で刺突を捌き、精密な反撃を繰り出してくる。
傍目からは互角に見える戦い。
しかしユディーアはわずかに自分が劣っていることを認識しないわけにはいかなかった。
それも武術の研鑚や技量とは別の所、『天眼の精度』という種族的才能と修練が合わさった一点において相手は自分を凌駕している。
このままでは勝てない。他の三人は敗北した。クナータを救出できるのはもはやユディーアだけだ。しかし仮面の槍使いだけでも苦戦しているというのにそれに三人の強敵が加勢に来ればそれこそ勝ち目など無くなってしまう。ならば、とユディーアは覚悟を決める。天眼への負荷を度外視し、極限を超えて空間知覚能力を引き上げていった。
辺り一帯の彩域に呼びかけながら灰神たちを強引に叩き起こす。悲鳴を上げる空間リソースが過剰な負荷により深刻なダメージを負うが構わずに時間への知覚能力を拡張、灰神を握り潰しながら固定。この土地の彩域を殺してもいいという色号使いの倫理に反した決意で時間を支配していく。
色号術の外法と天眼の超過駆動。二つを組み合わせた時間と空間の掌握。
ユディーアの切り札となる『疑似的な時間停止』は最強の初見殺しだ。相手が同等の時間操作能力を持っていない限り抵抗は不可能。実力者を四人同時に相手にするのが困難なら気付かれないうちに忍び寄り心臓と霊核を抉り出せばいい。時間停止能力者による暗殺はあらゆる種類の強さを無意味にする。
血が歌う。右腕が変容して本来の姿へと立ち返っていく。
剥き出しとなった亜竜の腕には『剥落の鉤爪』。
生まれる前から詠唱され続けてきた『オルゴーの滅びの呪文』であればどんな障壁も装甲も貫ける。ユディーアは鉤爪を振りかぶりながら世界を停止させた。
その直前。歪んだ音がもう一つの世界を止める。
「凍レ、『氷血のコルセスカ』」
まさかとは思っていた。
仮にそうだとしても優れた贋作だろうという希望的観測があった。
いや、そうであってほしい、もしそうだとしたらどうしようもないというある種の諦めがユディーアにそれを考えさせないようにしていた。
仮に、相手も同じ時間停止能力者であったとしたら。
もしもの予感は最悪の形で的中していた。
仮面の男が魔槍の銘を開帳すると同時、時空が凍り付き、世界は静寂に包まれる。
時間停止能力者たちは全く同時に静止した世界に降り立ち、加速した状態で激突した。
真の力を解放した氷の魔槍がユディーアの槍を軽々と引き裂く。役立たずの棒きれを迷い無く捨てたユディーアは虚空で静止したそれを足場にして跳躍、上空から飛びかかるようにして鉤爪を振り下ろす。単純な破壊力では並ぶものが無いとさえ言われる極大呪文の一撃を、伝説の魔槍は正面から防ぎきった。『氷血のコルセスカ』という銘が宿す伝承、その膨大な呪力の一端が冷気となって鉤爪を押し退ける。
ユディーアに宿るのが命を繋ぐ呪文の竜なら、魔槍が宿すのは命を終わらせる邪視の竜だ。三叉の穂先から放たれる呪力が氷の蛇竜の形をとって襲いかかる。
必死に応戦しながらユディーアは既に敗北を受け入れている自分に気付いていた。
これは無理だ。どうしようもない。憂いと恐れを緩和しながら冷静な思考に変換して現状を分析してもやはり悲観的な結論しか出てこない。
実力で劣っている。相性が悪い。そもそも奇襲を許してしまっている。
敵勢力がどのような手段で未来回想を改変したのか、その正体とは、この恐るべき刺客たちをどのようにして集めたのか。何もかもがわからないまま、自分はここで敗北するだろう。
手のひらの中で銀貨の枚数を数え、女神の託宣を思い出す。
ここで死ぬ事は無いという事実だけが安心材料ではあったが、それは同時に屈辱と罪悪感を呼び起こす事実でもあった。ユディーアは負けながらおめおめと逃げおおせるが、護衛すべき聖女を守り切れずに生き恥を晒すことになる。
そして恐らく、死よりも苛酷な呪いをその身に受けることになるのだ。
最低の現実。受け入れるしかないが、唯々諾々と従うのでは芸が無い。
せめて一撃だけでも入れてやる。
そのふざけた仮面の内側にある素顔を暴いてやらないと気が済まない。
「武器が凄いのはよくわかったよ。だから次はさ、その顔と名前の価値を教えてっ!」
挑発的に叫んで飛びかかる。隙だらけで大振りな一撃。
破れかぶれの一撃はあっさりと弾かれて、体勢を崩したユディーアの胸に魔槍の穂先が突き刺さった。心臓が凍り、全身の血と気息が停止していく。それに伴って思考が鈍磨し、意識が、心が氷の中に閉じ込められる。
「呪イを苦シめ、ペラティアの末裔。俺はオ前に、劣っテいないと証明シたぞ」
それは仮面の裏に秘されていた『個』としての表情。
ユディーアという個人に対する対抗心。その血に対しての敵意。
氷の魔槍を振るう天眼の民、ユディーアに敵意を向けている、よりにもよってペラティアの名前に言及。情報を記憶に刻みつつ、ああよかったと唯一の成果を確認して安堵する。わざわざ『妖精』で雑な挑発をした甲斐があったというものだ。
「こノ屈辱をよく覚エておけ、キニス・ペラティア・ディスケイム。そシて魂に刻メ。俺の名はアルティウス。ガロアンディアンを破壊スる、新シい亜竜王の名前だ」
宣名と同時、赤亜竜の仮面に亀裂が走る。
ユディーアが最後に放った粗雑な一撃は仮面を破壊するためだけのものだ。
アルティウスと名乗った男には傷一つついていないが、その正体と価値に肉薄することには成功した。これで『次』の目算が立てられる。
曖昧になっていく意識でそんなことを考えていたユディーアは、仮面が割れて視界に飛び込んできた相手の顔を目の当たりにした衝撃で全ての思考を吹き飛ばされた。
何だ、これは。
それは白い鱗だった。亜竜のものと思しき大きな一枚の鱗が男の顔に貼りついている。
その他には何も無い。
目も、鼻も、耳も、口さえも。
ただ一枚の鱗、それが顔の肉と完全に一体化して頭部を形作っている。
理解を拒む仮面の内側にあったのは、更に異様な生身の仮面だった。
おぞましい冷たさが疑問すらも押し潰し、ユディーアの意識は暗闇に落ちていく。
こうして聖女クナータは攫われた。
確かな未来は、この瞬間に失われたのだ。




