5-3 自称、幼馴染み
両者共に必殺の間合い。狭い通路での相対、逃れる余地は後方を除いていずれも極小。
共に内力は絶大、生半可な防御ではガードした腕越しに全身の経絡を破壊されるのが目に見えている。故にこの戦いは先手必勝、ユディーアの踏み込みと貫手は狙い違わず『カーイン』の腹腔へと放たれ、致命的な一撃を浸透させる。
足りない。もっと攻め続けろ。
畳みかけるように手掌を壇中、追撃の手刀を肺愈、打ち降ろしの拳を神庭へ。
相手の経絡という経絡を横溢する内力で破断させることに専心していく。
ただ壊す。ただ砕く。この怒りが燃え尽きて灰になるよりも速く速くもっと速く。
殺す、殺す、可能な限りの苦しみを与え、歓喜に溺れさせ、溢れきった感情の波濤で意識を摩滅させて魂の破片まで残らず殺して殺して殺して殺して、
「かっ」
男は目を見開き、肉体を巡る衝撃に息を乱され、悶絶して倒れ伏す。
妙だ。呆気ない勝利、手応えのない敵の対応。明らかにおかしい、何かをされている。天眼を研ぎ澄まし、自分が既に術中に嵌まっているという前提で自分の意識と思考を精査する。
不意を突いた初撃、あの時点で既に囚われていた。
長い廊下、その光景に目を凝らす。
そこはどこまでも果てしなく続く永遠の閉鎖回廊。
遠くで覗き見ていたはずのクナータの姿も無い。幻術と断定して即座に自身の頭頂部、額、首の側面に指を突き入れていく。思則気結。内力による七情への干渉は他者のみならず自身にも適用される。それを利用すればユディーアの五感を惑わせる幻を打ち破ることも容易い。
世界が砕け、自分の視界に靄がかかっていたのだとようやく気が付く。
正常な現実に立ち返り、そしてユディーアは己の絶望的状況を認識した。
肉体がよろめく。体内で荒れ狂う内力と破断した経絡、夥しい数の内傷。
自分は死に体だ。視界が血の色に染まっている。キーンという耳鳴り以外の音がしない。目の前で男の唇が動く。『ほう、復帰が早いな』音の無い称賛。感心したような表情。こちらの意識が失われている間に既に五発は貰っている。両の眼球と鼻から出血、酷い頭痛に喉の腫れ、皮膚感覚もおぼつかない、更に天眼が前後左右から迫り来る六つの気配を捕捉。霊感でしか知覚できない呪的な攻撃だ。まともに受ければ今度こそ立て直しは不可能。
無理だ、勝てない。格が違いすぎる。
挑発された時点で既に勝敗は決していた。
自分は敵の掌の上で滑稽に激昂し、馬鹿みたいな死の舞踏を観察されていたわけだ。
ユディーアは己の敗北を理解して、敵との絶望的な力量差を受け入れた。
ああ、これは『メイファーラ・リト』では手も足も出ない。
通用しない武器にいつまでも拘っていても無意味だ、さっさと切り替えよう。
本当に、仕方が無い。
これは必要なことをするだけ。けど、ああ、吐き気がする。
この期に及んで何が百戦目だ馬鹿馬鹿しい。
親指の付け根から現れたコインがくるくると回りながら細い指の間を渡り歩く。
指から指へ、手の甲から手のひらへ。
左手から素早く弾かれて、銀色の軌跡が右手の中に収まった。
「何をする気かは知らないが」
相対する男は怪訝そうに眉をひそめ、警戒からか二本の『腕』を防御に割り振りながら残り四本の腕で今度こそ止めを刺そうとする。高密度の呪力によって構成された打撃が少女の肉体を砕き、そのまま崩壊させた。あまりにも呆気ない結末。まるで意趣返しのような。
「これは」
少女だったものが散らばっていく。皮膚や肉が、ではない。
テクスチャが、存在が剥落していくように、人間ひとり分の映像が崩れ落ちていく。
残骸は全て銀色の硬貨に成り果てていた。
落下しかけた銀貨の群れが、ぴたりと空中で静止する。
「剥がれ落ちろ」
それは呪文だ。
呪わしい音が響くと同時、硬貨が一斉に裏返る。
表から裏へ。存在が丸ごと反転していく。
直後、無数の硬貨が弾けて飛散。勢い良く飛び出したのは鋭利な鉤爪だ。男は咄嗟に回避するが鋭利な刃は肩を掠めて裂傷を生む。衝撃と困惑が男の表情を揺さぶった。
「お、おおおおおっ?!」
飛び散る。鮮血が、ではない。
負傷した肩の傷口から、銀貨が飛び散っている。
広がっていく裂傷、皮膚や血肉の代わりに剥がれ落ちていくのは煌めく銀貨。
余裕ぶった表情、完璧に形成してきた役割、それらを強引に引き剥がすかのような暴力的な『引っ掻き回し』の結果、『カーインらしからぬ絶叫と動揺』という結果が出力される。
「剥がれ落ちていくっ、私の身体、いやこれは『カーイン』という存在がっ?!」
「最低。紛い物には効きが悪いみたい」
ユディーアは己の鉤爪を振るいながら吐き捨てた。
既にその肉体は無徴の霊長類や垂れ目がちの少女といった形から逸脱している。
亜竜人。分厚い鱗の鎧と鋭い鉤爪の剣で武装した生まれながらの戦士がそこにいた。
囁き声が聞こえる。
遠い遠い昔から、『ユディーアであるあたし』の底から語りかけてくる、誰か。
『ユディーアであれ』と、母よりも厳しい眼差しを向けてきた、誰か。
二番目の父が説き、三番目の父が刻み、四番目の父が植え付けた、祖霊の記憶。
彼女が囁いてくる。どう戦うべきかを教えてくれる。
ユディーアは懐かしい感覚に魂を震わせた。
「死んでしまえ」
そして調息と点穴で己の経絡をかき乱す。喜を消沈させ怒を増幅する。
声が消え、彼女自身の殺意が前へ前へと足を進めていく。
牙を獰猛に剥き出しにしながら、荒く息を吐く。
隻角に灰色の呪力が宿り、縦に割れた瞳が討つべき敵を捉えた。
「強靱な肉体も、六淫がもたらす病魔ならばっ」
瘴気が渦を巻く。大気を伝って穢れた呪いが亜竜の体内に侵入を試みる。
しかし天眼は不可視の攻撃を正確に捕捉し続けていた。回避困難なはずの六腕による迎撃を正確に鉤爪で破壊。何も無いはずの虚空から剥がれ落ちていく銀貨、銀貨、銀貨。
瘴気が削られ、六淫が変質していく。
長く湾曲した爪に宿った呪力が溢れ出し、ユディーアの背後に『より巨大な何かの姿』を描き出す。血が歌い、身体が吼える。沸騰する意識のままに敵を切り裂いた。
敵がその全身で『カーイン』を纏うなら、その全てを剥がしてやろう。
憎むべき相手の顔、その正体を暴き出し、心臓と魂を引き摺り出してやる。
亜竜が吼える。あらゆる呪力を零落させ、銀貨に貶めながら殺意を迸らせる。
「全てが色褪せる。あたしの前では」
『カーインの顔』には焦り。ユディーアは一気呵成に攻め立てていった。
当然、敵もあらゆる手段で異常な攻撃を防御し、回避しようとする。
黒々とした瘴気が壁となり、不可視の六腕がバラバラに反撃を行い、分裂した六人による多彩な呪力が廊下中を飛び交った。
しかし、それら全てが左右の鉤爪による斬撃で吹き散らされていった。
それは極めて単純な理屈。力はより強い力によってねじ伏せられる。
「あたしの『剥落の鉤爪』に、何か特殊なルールや制約があるとか思ってる? 無いよ」
必死に活路を見出そうとあの手この手で『鉤爪』の性質を見極めようとする敵をユディーアは嘲笑った。先ほどの邪悪な挑発を返そうとするように、相手の心を折りに行く。
「それはそれは。わざわざ教えてくれてどうもあり、ぐっ」
腹部を貫く。臓腑を抉り、血肉を割って、椎骨を削る。
存在が砕け、銀貨となって散らばっていく。今や廊下は大量の銀貨で足の踏み場も無い。
男との体格差、肉体的な性能差は亜竜人に変身した今となっては逆転している。
致命的なのは武器の差だ。ユディーアには鉤爪がある。
平爪ならぬ鉤爪。最も原始的な、生物最古にして本来の武装。
徒手空拳に修めた武術と内力ではいかにも分が悪い。
天下の名槍、名だたる魔剣、仰々しい大呪文。それらがあってはじめて勝負になる。
ディスケイムが長い歳月をかけて鍛え上げた『これ』はそういうものだ。
忌まわしい、と毒づく。生まれつきの体格差で無理矢理に殴り倒した。こういう勝ち方ほど虚しくなるものはない。何がカーインとの百戦目だ。
それは穢されたもの。最初からどこにも無かったというのに。
「ホント、最悪」
血の詠唱。秩序の血統言語魔術。繰り返される近親交配と再演される王と神の聖婚。
産み落とされたその瞬間から、ユディーアの爪は『無詠唱のオルゴーの滅びの呪文』として完成されていた。現存するあらゆる呪術の中で理論上最強とされる『オルゴーの滅びの呪文』は出力という側面から見れば紛れもなく呪術の頂点に位置付けられる。
すなわちユディーアの攻撃は、ただ単純に力強い、それだけのものだ。
研鑚を重ねた武術を比べ合うような、あの日の夢想からはほど遠い。
腕を引き抜く。駄目押しの斬撃を加えてから蹴り飛ばす。
『カーイン』だったものが全て剥がれ落ち、その内側に隠されていたものが露わになる。
さあ見せてみろ、と暗い愉悦に浸る。
お前が大事そうに見せびらかしていた『カーイン』という仮面を剥がしたとき、その中身がどんな表情を見せるのか。
その苦痛と羞恥を何倍にも増幅させて『偽物としての誇り』さえ砕いてやろう。
憎しみが命ずるままに暴力的な思考に身を任せるユディーアの視界に奇妙なものが映った。膝を突いた男、銀貨の大半を剥落させて露出した『内側』の姿が、歪んで見える。
輪郭がぼやけている。存在を直視できない。
肉眼で見て、天眼で捉えているにも関わらず、それが何なのか断定しがたい。
靄に包まれたようなヒトのシルエット、その頭部に何かがあることに気付く。
「黒い、角?」
漆黒の肌、苦痛に歪んだ顔、その額から生えているのは二本の角だった。
位置の問題でユディーアの角とは呪術的にやや意味合が異なる。『頭の一部』ではなく『顔の一部』とされる器官だ。邪視の発動部位かと警戒して天眼を防御態勢に切り替える。
歯噛みする。あの子にあんなものは無かった。どう見ても茨ではない。彼は、少なくとも変身前はいわゆる無徴種族だった。たとえ開花しても角なんて生えない。つまり偽装ではない。
ならばあれこそが、この偽物の本性。
「見せたな、それがお前か」
「私は、カーインだ」
この後に及んで、男はその名前に拘った。
宣名すらせずに、わずかに剥がれ落ちず身体に貼りついている『カーインの残り滓』をこれ以上零すまいと必死になって押さえている姿は滑稽ですらあった。
「そう。じゃあそう言い続けながら惨めに死んでよ。自称カーインさん」
「自称ではない。私は誇り高き武人、ロウ・カーインだ」
しつこい。不快感に顔を顰め、牙を軋ませる。
ふと、その姿が弱々しく地に臥せった亜竜の姿を思い起こさせた。
『シナモリアキラ』に縋った暴力的な厄介者。惨めな弱者の末路。
自分でも理由のわからない苛立ちに胸を掻き毟られて、ユディーアは激昂した。
「もう黙れ。その醜い中身ごと解体してやる」
終わらせよう。こんなものはもう見たくない。
とても、見ていられない。
嫌な思考が自分の怒りを鈍らせる前に、敵を殺して復讐譚を完結させる。
そうすれば、きっと。
迷いを振り払って鉤爪を振り下ろす。
紀竜の一撃に匹敵する巨大な呪力が敵の頭上に迫り、そして。
神理の妖精紡ぎて曰く。
必殺であったはずの一撃は男の周囲に立ちこめていた瘴気でわずかに減速し、右腕によって真横に捌かれる。決死の覚悟で踏み込んだ男の気迫がユディーアを打った。己はカーインであるという確信を込めた宣名が大気を恐れおののかせ、剥落したはずの銀貨の山、零落しきった価値が次々と男の身体に吸い寄せられていく。
裂帛の気合いと共に肩をぶつける。全体重が乗った見栄えも何も気にしない捨て身の一撃。瀕死の男がみっともなく足掻いたその先に、一つの未来が開かれた。
吹き飛ばされた亜竜の目の前で、男はしかとその両足で立っていた。
そこにいたのは紛れもないカーインであった。
『敵』でも『男』でもない。
彼自身の意思が手繰り寄せた運命。
これは、ロウ・カーインの物語なのだ。
一足のみで間合いが詰まる。
お手本のような『山』の教え。あの日のカーインをなぞるように。
渾身の一打が、ユディーアの胸を打ち据え、一歩、二歩と退かせた。
「なに、これ」
ユディーアは己の認識の異様さに恐怖すら覚えていた。
何かが改変された。あの瞬間、世界がはっきりと変容した。
確定したはずの未来を書き換えられた、そんな感覚。
ふざけるな。運命と秩序に逆らってはならない。それがどれほどの代償を伴うのか、それがどれだけ呪わしいことなのか、わかっているのかこの男は。
「経絡、秘孔を、突いた」
息も絶え絶えにカーインはそう言ってのけた。
なにもかもがふざけている。
経絡秘孔を突いた? そんなわけがあるか。
この男が引き起こしているものがそんな現象であるはずがない。
何か得体の知れない力が渦巻いている。
明らかに違うが、正体がわからないため『武術の秘奥』と言い張って押し通せば呪術にも武術にも明るくないものは不承不承でも納得せざるを得ない、これはそういう狙いの強弁だ。
呪武双方に通じたユディーアにはわかる。
この男、ロウ・カーインは何か異質だ。既存の呪術系統、『塔』の四大分類や天主の色号論では捉えきれないような未知の力を働かせている。
許してはならない。このような無法を、自分は認められない。
絶対に相容れないという確信がある。
「殺してやる」
身体の奥が震えている。
目の前の異変を感知して、自分という媒介を通じて巨大な怪物が目覚めようとしていた。
やはりカーインは運命に背いている。なら都合がいい。利用できるなら利用してやる。
対抗手段ならある。間違った力には修正を。動く振り子は止め、あるべき秩序を取り戻す。
己の『竜覚』を研ぎ澄まして彼方へと意識の先を伸ばしていく。
来たれ、来たれと心深くに埋没し、至れ、至れと魂高くへ放心する。
この身は霊媒。竜の巫女。
司るのは秩序を守護する無慈悲な悪運。
対するカーインは更なる苦難の気配を感じながらも不敵に笑う。
未だこの瞬間が『待ちに待った百戦目』であるかのように、楽しげに。
この見るも無惨な呪いの押し付け合いが、そんなものであってたまるか。
怒りと憎悪はカーインを見るたびに膨れあがる。
燃え尽きて灰になる暇など与えてくれない。このカーインの存在そのものが薪なのだ。
「正せ」
「紡げ」
両者共に必殺の間合い。
双方の手は互いにとって未知数。しかしどちらもそれが致命打になり得る『最悪』であるという確信のもとに渾身の一撃を繰り出すべく前に踏み出した、その刹那に。
「踊れ、ダアルノート!」
「お願い、ナーグストール!」
呪文と共に具現化した骨の剣と宝石の剣が二人の間に割って入った。
カーインの首筋に骨が、ユディーアの首筋に宝石が押し当てられ、聞き覚えのある声が背後からかけられた。
「また惨劇を生み出す気ですか。第五階層は魔竜を退けたばかりなんです、これ以上の面倒を増やさないで下さい。試練の必要も無いというのに」
宝石の剣を持っているのは三角耳に宝石のような瞳の美しい少女だった。
ユディーアは彼女を知っている。ドラトリアの猫姫、そうだった存在。
最愛の姉のため、祖国を裏切って生きると決めた、誇り高き妖精使い。
名をセリアック=ニア。ナーグストールの寄り代。
「そーそー。カーくんもユディちゃんも仲間同士で喧嘩すんのはそのへんまで。仲良く殴り合うのはいい関係性だけど、周囲に被害が出るのはやばいでしょ。あとカーくんは遊び過ぎ」
軽薄な口調で言うのは若い男だった。奇妙なほど存在感が希薄だが、不思議と印象に残る。
まなざしは刃の鋭さ、瞳の輝きは夜空の星々のように深く、頭の後ろで束ねた髪はカラスの濡れ羽色。すらりと長い手足と端整な容貌はまるでおとぎ話の王子様のよう。右腕と一体化した骨の刃は異形ではあるがどこか厳粛さを感じさせる。そして、それらを全て台無しにするような締まりの無い笑みと薄っぺらな言葉。黙っていれば美貌の王子で通るだろうに。
ユディーアはこの男を知らないが、知っている。今の宿主なのだろう。
彼はトロメリア。トレミーとも呼ばれる、四十四士のひとり。
「トロメリア。折角いいところだったのだが」
不服そうに言うカーインに、トロメリアの表情が引き攣る。
「反省ゼロかい。どうしよニアちゃん、陛下に言いつけよっか? 珍しく俺も怒り気味よ?」
「カーインは死んでいいです。今はまずいとしてもあとで各方面に声かけてボッコボコのズタズタにする準備をしておきましょう。姉様は何も言ってませんがセリアはそう思います」
セリアック=ニアの声にも怒気が混じっていたが、彼女がユディーアに突きつけている刃が揺らぐことは無い。この場で仲間割れを許す気は無いということだろう。
そう、仲間。
この不快な存在がカーインだろうとカーインでなかろうと、同じ勢力に属する仲間であることだけは確かだった。ユディーアは私情を切り離して憎い仇と共に戦わなくてはならない。
「あたし、は」
「ここは抑えて。聖女が不安定になりつつある。じきに彼が来ます」
セリアック=ニアの囁きで我に帰る。
怒りと憎しみはまだ燻っているものの、守るべき対象の存在を思い出したことでユディーアは冷静さを取り戻した。戦意は消えていない。だがその方向性は変えられる。
戦闘態勢を解除することに決めた。亜竜人の凶暴な姿が灰色の靄に包まれて、霊長類体の少女に変身していく。ふう、と息を吐いて落ち着いたふりをする。
「わかった。わかってる。どうかしてた。安い挑発に乗って、危うく味方と殺し合うところだった。今後は私情は捨てて、割り切って行動する。救世主の誕生は近い、今はそのために力を合わせないと、だから。だから、あなたにも、謝罪を、ごめんなさ、うっ」
強引に表情を取り繕ってあらゆる感情を行動から切り離しつつ手を伸ばす。
笑顔と握手と謝罪と友好の意思を示そうとして口を押さえて嘔吐く。
喉まで込み上げた吐瀉物を必死に飲み込んで、自分の未熟さに恥じ入るユディーア。
「いえ無理に和解しなくていいですよカーインとなんて」
「そうそうどう考えてもこれカーくんが悪いでしょ最低でしょ。最初に普通に事情を話してから誠意ある態度を取れば回避できた戦闘だよねこれ? めっちゃ悪質だよわかってる?」
二人から責められてふて腐れたようにそっぽを向いたカーインが、
「己の流儀に従ったまでだ」
などと言うものだから叱責は更に激しさを増した。
まるで子供のような態度。ユディーアの中でまた溶岩のような感情が沸々と湧き上がってくるが、必死に自制。思考を戻そう。本来の流れ、あるべき秩序を取り戻せ。
「もう、いいので。彼の所に向かいましょう。ティエポロス、いえ先読みの聖女クナータもそこにいるんですよね?」
「そうですね。馬鹿に馬鹿って言い続けても虚しいだけです。ばーかばーか」
セリアック=ニアとトロメリアはカーインからユディーアを庇うような配置で廊下の先へと進んでいく。トロメリアが指をくるくると回すと、戦いの余波で破壊された室内が瞬く間に修復されていった。見事なクラフトの精度だ。
「挨拶が遅くなりましたが、お久しぶりですトロメリアさん。前は女性だったので、少し驚きました。新しい妖精の担い手を選ばれたんですね」
「まーね。あとで挨拶したげてよ、レイちゃんことうちのクレイと」
そうか、とユディーアは目を見開いた。
クレイ。最後の再生者にして『死人の森』の王子。
報告では知っていたが、これがそうなのか。
「いえ、待って下さい。トロメリアさん、こちらの内情を彼は知っているんですか? もっと段階的に、それこそ救世主降臨のあとに引き込んでいくのだとばかり。というかそれを言ったらニアちゃんだって意外というか」
ユディーアとて全ての状況を把握しているわけではない。
第五階層という末妹選定を巡る中心的舞台にいなかった以上、予想外の事態には戸惑うことも多い。仲間であるセリアック=ニアとトロメリアだが、『この時点で』仲間になるとは聞いていなかった。これは『正しい』のか? 疑問と不安と混乱で胸が埋め尽くされる。
ユディーアの胸中も知らず、トロメリアは気楽そうに言った。
「うちの宿主ちゃんはトライデントの『大前提』を話したらわかってくれたよ。むしろ俺らの存在がお姫様の物語には必要だって理解したら舞台の裏方としてもやる気が出てきたっぽい」
「セリアはあらゆるものを利用して姉様を守るだけです。今はこの勢力に与するのが最も良いと判断しました。大きな波に押し流されるのはお断りです」
並んだ四人の思想、立場は本来噛み合わないものだ。
それでも、この瞬間は目的を同じくして並び立っている。
やがて一行は奥まった所にある部屋の前に辿り着いた。
トロメリアがノックをすると、甲高い悲鳴がそれに答えた。
「ティエポロス?!」
ユディーアは駆け出し、ドアを強引に開ける。
暗幕によって光量を制限された空間、天井の中心だけが円形の採光窓となって光の柱を落としている。光に照らされた中央、そこに誰かがいた。
薄暗い部屋でひとり、少女が歌っている。
聖女は光の中。即席の神々しさの下で一心不乱に意味の分からない言語を、祈祷を、見知らぬリズムで歌い上げていく。誰かに届かせるように、誰かに訴えるように。
そして、そのすぐ傍に。
誰もいない、誰も座っていない、がらんどうの玉座があった。
寒い。背筋を撫でられるような感覚。
クナータは既に霊媒としての職務を始めている。恍惚とした状態にある彼女には意識が無く、この場所にはおよそ明確な方向性を持った意図を持つ何者かは存在しない。
そう、この部屋にはトランス状態の聖女以外には誰もいない。
いないはずなのに、確かにユディーアは『彼』を感じていた。
トロメリアとカーインが跪き、少し遅れてセリアック=ニアがゆっくりと同じ姿勢をとる。
まるで部屋の中央、空っぽの玉座に誰かが座っているかのように。
否、それは玉座というにはあまりにも異様だった。
刑死者不在の電気椅子。
正負の王冠と足首飾り。神がもたらす稲妻の神秘を零落させ、死の裁きすらも人の手で管理するための傲慢なる舞台装置。
裁かれるべき罪人も跪くべき王もそこにはいない。
今はまだ。
だが、先読みの聖女にとっては違う。
クナータがその座の未来を回想し、ユディーアがその過去をまなざす時、ひとつの可能性が現在に具現する。
そう、この瞬間に必要とされていたのはクナータと、もうひとりいた。
ユディーア。過去視の罪人。
歌うクナータ、その頬にそっと触れる。
いつかのように、罪を繰り返すように。
そう。これは、全てあたしが始めたことだ。
あたしが起こした。あたしが甦らせた。あたしが目覚めさせてしまった。
ユディーアの後悔はあの瞬間からずっと消えたことがない。
無垢だった、無垢なだけであったはずのルーシメアはあの日、『ルーシメア』となった。
トライデントの『脳』、それは最初にして最後の王。
未だ存在せず、未だ確定していない、いずれ至るであろう未来の王。
目には見えない。
だが、電気椅子に何かの存在を感じる。
「久しぶりだね、キニスお姉ちゃん。あ、今はユディーアの方がいいか」
澄んだ声が響く。
無垢で純粋で可愛らしく、そしてどこまでも暴力的な、有無を言わせない言葉。
裁くものの言葉。神の摂理を代弁するものの言葉。真理を知るものの言葉。
そして、変わり果てた弟同然の幼馴染みの言葉。
もはや幼馴染みなどでは無くなった何かの意思がユディーアに向けられている。
挑むように、虚空を睨み付ける。
「ルーシメア」
周囲で微かな動揺の気配。
予定に無い言動だった。秩序を乱し、運命に逆らうこの振る舞いは、ユディーアが最も嫌う類の暴走だ。自分の行動に一貫性は無いと自覚している。だがそれでも問わなければならないことがある。この身に感じる悪竜を、未だにおぞましいと感じている以上は。
正直に言ってしまえば。
自分は、叛意を抱いてこの場所に赴いたのだ。
ユディーアは、片腕だけを変身させた。
三人がぎょっとする気配。『剥落の鉤爪』は灰色を纏い、時空間ごと抉り取る準備を既に整えている。たとえ相手が『いつどこ』に存在していようと『いまここ』に干渉してきているのなら『いまここ』からの攻撃が可能だ。受け継がれてきた血脈が滅びの呪文を唱え、銀貨を数えるべく偽りの鮮血が沸騰する。
「ちょいちょい! ユディちゃん何やってんの、その『化身』はしまってしまって!」
慌てたようなトロメリアの言葉を無視して、ユディーアは虚空を直視して言った。
「あたしは、あなたに問い質したいことがある」
そのためにここにきた。
場合によってはこの場の三人と切り結んでも構わないとさえ思っていた。
覚悟も意思も支離滅裂で、我ながら本当に一貫性が無いけれど。
それが偽りの無いユディーアの意思だったのだ。
見えないどこかで、小さく気配が揺らぐ。
喜び、微笑み、快い感情。
「うん。いいよ。ユディーアはそうでなくちゃ。話してくれる? あなたの惑いと正義を」
殺意と叛意を『善し』と受け止め、玉座の何者かは鷹揚に振る舞った。
予想通りの成り行き。唇を噛んで、鼓動を打つ胸を落ち着ける。
ここからだ。
問われているのは、王だけではない。
ユディーアもまた、試されていた。




