表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幻想再帰のアリュージョニスト  作者: 最近
第5章 そして夜が明けたあと、百億の怒り

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

199/272

5-2 怒りについて(前編)




 勇士ユディーア。それはジャッフハリムにおいて『善き裏切り者』を示す名とされている。

 かつて紀神シャルマキヒュはジャッフハリムを治める言語支配者レストロオセを監視するため、しもべである戦乙女ユディーアを遣わした。王国を守る騎士として、更には女王が道を踏み外した際にはそれを諫める『正義の秤』として。


 だがユディーアは『暴君を裁く剣』としては不適格だった。彼女の秤はレストロオセという人物の魅力に傾くばかりで、もう片方に正しさを乗せることを忘れてしまったのだ。

 逆に神々の動向をレストロオセに伝えるようになったユディーアは同じ戦乙女たちの怒りを買い、姉妹たちとの争いで片方の角を切り落とされてしまう。以来、ユディーアは戦乙女たちと袂を分かつこととなった。


 ジャッフハリムを守護する四十四士の伝説が語られるとき、ユディーアの裏切りは聖妃レストロオセの徳の高さ、間者すらも味方に引き入れてしまう人間的魅力やカリスマ性を強調する逸話として扱われる。

 シャルマキヒュ信仰が盛んな東方ではもう少し話のディティールが異なるのだがそれはともかく、この『ご先祖様の物語』を聞かされるたび、幼いユディーアは思ったものだ。


(あたしのご先祖様は、きっとシャルマキヒュ神のことが嫌いだったんだろうなあ)


 だって生まれ故郷を捨てて、姉妹と争ってまで裏切るなんて大変なことだ。

 いくらレストロオセ様が素晴らしい人物だったからといって、そんなにすっぱりと離反を決意できるものだろうか? だいたい、この話にはご先祖様がシャルマキヒュ神に背くことへの悩みや迷いが一切出てこない。

 シャルマキヒュ神の下で働くのがよっぽど嫌だったと考えた方が納得がいく。

 きっとそれはそれはひどい扱いでこき使われていたに違いない。


 幼い少女はそんなふうにして自分を納得させた。

 けれど、もし想像が間違っていたら?

 考えることすら少女には恐ろしかった。

 仲間、家族、故郷、信じていたもの、大切なもの、守るべきもの。

 たくさんあったはずの、かけがえのないものたち。

 それらが、たった一つの『価値あるもの』に出会ってしまっただけで無価値なものに変わってしまっただなんて、そんなのは残酷すぎる。

 だから『ユディーア』となるべく育てられた少女はこう考えるようにした。

 ユディーアは最初から価値あるものなど何も持っていなかったのだ、と。




 第五階層の辺境区は灰色だ。

 無価値な有象無象がそこかしこで蠢いている。

 ユディーアはその全てに柔らかな眼差しを向けていた。一様に等しく、ただ無感動に。


「自称ではない、自称ではないのだ。我は、我は本当にシナモリアキラなのだ」


 破壊の爪痕が残る往来の中心に、すっかり気落ちした様子で弱々しく自己を主張する巨大な亜竜の姿があった。もはや脅威ではあるまいと高をくくった野次馬たちは視界スクショを念写したり傷ついて取れかかった鱗をちょろまかしたりと好き放題。敗者の末路は無惨だ。どこであろうとそれは変わらない。


「こいつは派手にやったなあ。毎度毎度、自称アキラの迷惑行為にも困ったもんだ。ゴーレムをもう二体ほど追加で頼むか。ほらどいたどいた、犬のお巡りさんのご到着だぞうっと」


 野太い声が辺りに響くと、人の群をかき分けて大柄な男が現れた。

 新たに登場したのは青いジャケット姿に警棒を腰に提げた犬頭の巨漢だ。犬精クーシーとか虹犬ヴァルレメスとか呼ばれるこの種族は多様な氏族に分かれているが、男の『犬種』はしわくちゃの強面からするとブルドッグ氏族だと思われた。

 自称『犬のお巡りさん』の到着に真っ先に反応したのは亜竜だった。彼は気力を削がれた状態でも必死に虚勢を張ろうとしたのか、威嚇するように大口を開く。


「自称ではないと言っているだろう。我は誇り高きシナモリアキラであるぞ」


「いやいや。機械女王に封じられてねえ、『シナモリアキラ殺し』の挑戦も退けてねえ、おまけに左手が呪われてねえ、の三拍子じゃ自称が付いても仕方ねえだろうよ」


 呆れたような表情でブルドッグ男が言うと、横合いから怒鳴り声が響く。カラス頭の鳥人、破壊された酒場の店主は大いに憤慨していた。


「カニャッツォ! 呼んだらすぐ来やがれ、てめえが遅いから店が潰れちまったじゃねえか」


「うっせえぞもうカニャッツォじゃねえって何度も言ってんだろ! シナモリアキラは辞めたんだよ! まあ遅れたのはすまん、途中でケンカに出くわして仲裁してたもんでな」


 ユディーアは内心で首を傾げた。

 『カニャッツォ』というのは例のロケットパンチ男では無かったのか。自分が持つメイファーラの名がそうであるように、よくある名前かあだ名、称号なのかもしれない。

 問題はどちらが『公社』の連絡員なのか、ということだが、それはすぐに明らかになった。


「俺は『公社』の警備主任、プーハニア・トストンスという者だ。この地区の治安維持を任されている」


 なるほど。『公社』が手配した人員とは、この虹犬のことだ。つまり捕獲したロケットパンチ男のアストラル体は不要。さっと後ろ手に解放すると、ふよふよと何処かに飛んでいく。さようなら、あなたのことは明日には忘れてるよ。

 カニャッツォあらためプーハニアの名乗りを受けて、亜竜は不快そうに鼻を鳴らす。


「『公社』の犬めが。腐敗と汚職に塗れた貴様らが語る治安維持とは何だ。賄賂を懐に入れ、悪党共を見逃すことか?」


 破壊活動を行っていた自分を棚に上げて亜竜が叫ぶ。激情を冷ましても歪んだ認知は変わらない。再びわき上がってくるシナモリアキラへの嫌悪感。気がつけば、いつの間にやら物騒な煽動を行っていた『ルビカンテ』も姿を眩ましていた。


「とりあえず、往来じゃ迷惑になるからこっち来てくれ。動けねえなら運搬用のゴーレムがもうすぐ来るからよ。つーか演説やデモなら事前に申請してくれれば協力もできるんだがなあ。もちろん暴れるのは無しだ」


 プーハニアの穏和な語りかけに対し、亜竜の態度は変わらない。


「地上太陽にかけて、我こそがこのガロアンディアンを憂う真の愛国者である。たとえ腐敗した権力の弾圧に晒されようとも、この魂までは屈さぬぞ!」


 もはや戦う気力など残っていないだろうに、諦めが悪い亜竜は小さく尾を振ってみせる。それを見てまいったなと頭をかくプーハニア。


「うちのボスが『みんな仲良く』って方針でね。お優しい方なもんで、流血沙汰は避けたいんだよ。これはあんたに対して言ってるんだが、わかるよな?」


「貴様らはいつもそうだ。我らから牙を抜き、偽りの平和で現状を誤魔化し、戦う意思をあざ笑う。貴様ら『公社』の頂点、猫の取り替え子の噂は聞いているぞ。懐柔、洗脳、調停の名の下に行われているのはそのじつ圧制だ。我はそのような流れには取り込まれぬぞ」


 梃子でも動かぬとばかりにその場から動こうとしない亜竜の姿に周囲は呆れかえり、プーハニアはやれやれと肩をすくめた。もうこうなれば実力行使しか手段はない。

 そう誰もが思った時だった。


「お願い、彼を見逃してあげて」


 事態を暴力によって強引に終息させた当人であるユディーアが、そんなことを言い出した。プーハニアは相手の瞳と角を見て、納得したように答える。 


「なるほど、近縁種族として放っておけないか。だがこっちも仕事でね。今の雇い主には恩義もあるし、なあなあで済ませてたらこの辺の悪党共は際限なくつけあがる。それがまずいのはわかるだろう?」


 ユディーアは全くその通りだと思った。

 だが頷けない。

 亜竜が怯えている暴力は、さきほど自分が振りかざした悪性そのものだ。『そんなふうに怒らないで、落ち着いて話をしよう』という冷静な振る舞いは、怒りの価値を貶める。少なくとも、そういう側面があるとされていた。

 そしてそれはジャッフハリムが抱える歪みであり、ユディーアが感じている窮屈さの正体でもあった。おそらくこの亜竜は、自分と全く同じ理由で『下』から逃げ出したのだ。今更ではあるが、彼女は身勝手な共感と同情を抱き始めていた。


 理由はそれだけではないが、衝動の大半はそれが原因だ。『公社』がその役割を果たす中で悪性を宿さねばならなかったのなら、それは必然であったのだろう。幼なじみのことを思う。その変わらぬあり方は、彼女の罪でもあった。ならこの状況は自分が招いたに等しい。

 会って、話さなければならない。


 そうした個人的な決意とは切り離されたところで、冷徹な計算も働いていた。慣れない土地に来たばかりの彼女にとっては切実な問題で、なによりこの土地で『通用するやり方なのかどうか』を試すいい機会でもあったからだ。

 ユディーアは無造作にプーハニアに近付き、その大きな手を細くしなやかな両手で挟みこむようにして握った。そうして上目遣いで懇願してみせる。


「彼はとても怯えてる。だから」


 適当なことを言いながら隠された手と手の間に『それ』を落とす。銀貨一枚。それがユディーアがプーハニアに握らせたもの。効果は覿面だった。

 

「ん、んん。あんたがこいつにもう暴れないようしっかり言い聞かせてくれるって言うなら考えないでもないが。俺も悪魔ってわけじゃあねえ」


 とつぜん聞き分けが良くなったプーハニアを見た野次馬たちは「虹犬じゃないのに」「安産型にこだわらないだと」「少なくとも下半身は腐敗してるんだよなあ」などとささやきを交わしている。名誉を損なってしまったようだが、ユディーアが罪悪感を抱くことはない。それも目的のひとつだったからだ。


「そういうわけだから、『ザルーザ』さん。もうシナモリアキラを名乗って暴れるのはやめてくれるかな。あなたが主張を引っ込めることを強制はしないけど、さっきの繰り返しをする気はないでしょ?」


 暴れ亜竜の顔の側面から瞳をのぞき込む。ユディーアはここでも銀貨を使った。至近距離で、牙の隙間から舌の上に放り投げる。あまりの早業に周囲の者は誰も気づいていない。


「お願い」


「承知した。我は戦士だ。敗者は敗者らしく去るのがこの場での道理であったな」


 これまでとは一転して大人しくなった亜竜の態度に、周囲も流石に何らかの呪術が使われていると感づく。彼らはユディーアの頭部で髪留めが淡い光を放っているのを見て納得する。おそらく『安らぎ』系統の鎮静呪術を使っているのだろうと。これ見よがしな偽装呪術の発動は体に染み着いた習慣のようなものだ。

 これで四枚。ゆっくりと町外れの森へと去っていく亜竜を見送りながら、ユディーアは心の中で枚数を数えた。それから気を取り直してプーハニアに向き直る。


「ところで犬のお巡りさん。ちょっと道を尋ねてもいいですか?」


「お安いご用ですお嬢さん。あー、ところで実を言えば俺もちょっとばかしこの辺で人を案内するようにって言いつけられてるんですが、若いお嬢さんの二人組に見覚えはないですかね」


「だと思った。これでお互いの問題は解決しそうです。ほらティエポロス、なにしてるの」


 なぜか街路の端で黒檀の民と握手をしていた連れに声をかける。寄り道は終わりだ。本来の目的に立ち返らなければならない。しきりに礼を述べる黒檀の民に別れを告げた二人は、プーハニアという案内人を得て『公社』へと向かうことになった。


 その場を去ろうとした時、ユディーアはふと肌に突き刺さる感覚を覚えて振り返った。天眼が訴えているのはかすかな視線の気配だ。騒ぎを起こした以上、耳目を集めるのは当然と言えるが、その視線はどこか妙だった。

 透き通るように真っ直ぐな意思を感じるのに、感情に色が無い。


 たぶん、同族。

 巨大な亜竜とはまた違った、自分と似たような背格好の天眼の民男性。赤亜竜の仮面を被った素性の知れない何者かは、それでも野次馬たちの中に溶け込んでいた。異様な風体というには第五階層は多様過ぎるからだ。ごく普通の通行人とも思えるが、何かがひっかかる。引っ掛かりの正体が掴めないまま、仮面の男は雑踏の中に消えていった。

 移動を始めてからふと思い出す。赤亜竜の面。あれは確か、竜神信教で伝統的に行われている奉納舞踏で『憤怒の相』を意味していた。最後に見たのは懐かしい博物城でのことだ。

 それだけの引っ掛かりが、何故か奥歯に挟まったように気になって仕方が無かった。




 ユディーアは裏切り者だ。

 栄えあるレストロオセ四十四士の末裔として『ユディーア』を襲名していながら、あろうことか対立する派閥の竜神信教と通じているのだ。

 『下』の大国ジャッフハリムには二つの勢力があり、互いに主導権を奪い合っている。

 一方は建国以来ジャッフハリムを守護してきた聖妃レストロオセと彼女に仕える四十四士。

 もう一方は世界最古の宗教と呼ばれる竜神信教。偉大なる藍色の天主セレクティフィレクティを組織の頂点である竜導師長に据えたこの宗教勢力はセレクティ派とも呼ばれている。


 もちろん、同じジャッフハリム人であり下方勢力の仲間として力を合わせて上方勢力に立ち向かうことは疑いようも無く正しい。

 しかしながら、四十四士のひとりが主君レストロオセをその手にかけ逃亡するという事件が起きてからジャッフハリム国内では両派の間で緊張が高まっている。対外的には『上』の陰謀ということになっているが、裏で手を引く黒幕は竜神信教派という噂も流れている。

 この状況下でユディーアの立場は極めて危うい。

 まして、彼女の家と竜神信教は切っても切れないほどに深い関係にある。


「支払い、これでいいですよね?」


 何気ない一幕を追想する。

 露店の店員に硬貨を渡した際の数秒感。

 ユディーアはプーハニアの後ろを歩きながら、頭の中で情報を整理していた。

 ミルーニャたちからの情報では足りなかった知識を修正し、現在の第五階層の状況を正しい形に整えていく。多様な勢力が蠢くこの場所は混沌に喩えられることもあるが、それでも一定の秩序は確かにある。ユディーアはその隙間を歩いて行く。

 店員への支払い。三秒間の情報交換を思い出していく。『塔』で競い合った旧友ラズリこと、竜神信教では巫女の同期生だったフィレクティはこんな事を言っていた。


(こちらが現在の第五階層における最新推しカプ情報になります、ご査収下さい)


(黙って。ひとの幼馴染み二人で生モノ妄想するのやめて。話を戻すけど、アズーリアたちのスケジュールは一応こんな感じ。問題は、そこに九槍の八位まで付いてくるってことだけど)


 映像記録と共に圧縮された信号が送られていく。意識と思考を加速させた情報伝達は、ユディーアが得意とする灰の色号を利用した呪術だった。店員はにこやかに微笑みながら言葉を返してくる。主観的な時間は際限なく引き延ばされ、世界はどこまでも遅くなっていく。


(第四階層の境界ラインに第七位が頻繁に姿を見せているというのも気になります。いつもの挑発とか小競り合いとかじゃなくて、何か大規模呪術の準備だという噂もあって)


(ハルベルトのライブに合わせて第五階層の制圧に動く可能性は? 第八位アレッシオはライブを軍事利用する。軍歌ライブからの騙し討ちが言震の引き金になることもあり得る)


(うーん、そうなんですけど。第八位と第七位が連携してるようにはあまり見えないのがちょっと気になるんですよね。個別に作戦を走らせているような)


(動きがバラバラで占術探知が効かない? あっちも対策してるってことかな)


(ええ。今の第五階層はとても不安定。占いがこんなにも難しく感じたのは初めてです)


 占いが取り柄のくせに役に立たない。

 そんな思考が漏れ出したのか、ラズリが不服そうな感情を返してくる。


(どうせ未来の記憶より不確かですよー。というかですね、どの勢力も占いで未来に干渉しようとしてるから、どうしても影響し合って予測が歪むんです。あなたクラスの強力な灰の色号使いなんかも相当数いますから、全体的に彩域が安定しないのです。ただでさえ先日、『死人の森』騒動があったばかりでしょう? 中央はもっとひどいですよ)


 ラズリの言い訳じみた思念は、しかし第五階層の不安定さを的確に言い表していた。

 未来とは本来、現在から見れば不確かで定まらないものだ。淡く曖昧な記憶解釈とはいえ、明確な指針を持って動いているユディーアのほうが特殊だと言える。


(そもそも、いまの辺境区って精度の高い占いはやりづらいんですよ。このお店のお遊びくらいならまだしも、本格的なのをやると『占い師狩り』に見つかってしまうので)


(なにそれ)


(占い師が襲撃され、拉致されたり殺害されたりする事件が近頃増えているのです。わたくしは平気ですけれど、同業者がもう何人も被害に遭っています)


 何らかの妨害工作か、無関係なただの凶悪犯罪か。

 いずれにせよ先読みの聖女を護衛する身としては留意しておくべき情報だった。

 ひとしきり情報を交換し合った二人にはまだ一秒ほど時間が残されていた。少しだけ個人的な雑談をする意欲がラズリにはあり、ユディーアもそれに付き合うにはやぶさかではない。


(ユディーアも来てくれて私ひとりの頃よりもだいぶ状況は良くなってはいます。じきに応援の二人も到着しますから、揃ったら新しい子の紹介もできますね)


(その新しい子っていうのは)


 旧知の巫女たちの顔を思い浮かべつつ、ユディーアは恐る恐る訊ねた。

 朗らかな感情と共に、ラズリはその通りであるとその想像を肯定する。


(ええ。今は少し塞ぎ込んでいますし、私を完全に信用しているわけではなさそうですが、ユディーアが説得してくれればきっと大丈夫です。のちほど本人に話をして場を整えますから、その時は頼みますね)


(うーん、まあできるだけ頑張ってみるよ)


 そうは言ったものの。ユディーア、というか『メイファーラ』にはその新入り巫女と仲良くやれるという確信が全くなかった。むしろ裏切り者と糾弾されて信用を失うのでは? あたしが説得って逆効果なんじゃ? どう話を持っていけばいいんだろう。


(そうそう、勇士ミシャルヒ、勇士ベフォニス両名は六王のパーンと行動を共にしているようです。彼らは祝祭前半のレースに出場予定なので、リーナ・ゾラ・クロウサーたちと接触するなら近付く機会はあるはず。こちらからも一人出しますから、よろしくお願いしますね)


 ユディーアは了解の意を送信して時間の加速を打ち切った。

 なるほど、と現実に立ち返って考える。

 随分と賑やかなレースイベントになりそうだ。




 ユディーアは裏切り者だ。

 いったい誰を裏切っているのだろう、と彼女はよく考える。

 裏切りを自覚するほどの『自分』が果たしてユディーアの中に存在しているのだろうか。

 あたしは、どこに立っているつもりなの?

 第五階層の街を歩いていると、不意にそんな思考が浮かんでくる。

 この場所の『どこでもなさ』は解放感と同時に不安をも呼び覚ましてしまう。


 彼女はあくまでも『裏切り者』であって間諜スパイでもなければ密偵でもなく、諜報員でも工作員でもない。

 ジャッフハリムや槍神教、そして『星見の塔』には情報機関が存在しているが、彼女は無関係ではないにせよそういった組織に所属しているというわけでもなかった。

 なぜなら、ユディーアには依って立つ確かな場所が無い。

 彼女にとって世界の全ては確かなものではありえなかった。愛国心、使命感、幼少期の洗脳教育、魔女の霊薬調整、破綻が約束されている友情、そして『トライデントの細胞』として漠然と感じる『自分が向かうべき方向性』すらもユディーアには虚ろに感じられた。

 何かをしても成し遂げたという実感が無い。

 このまま空虚な達成もどきを成し遂げた気になって、虚無感のまま死ぬ。

 そんな予感がずっと彼女の足を引いている。


 色が無いのだ。最初は素晴らしく美しいと感じられた使命。人生を賭けるに値すると思わせてくれるほどの価値ある運命。共に苦難を乗り越えたことで育まれた唯一無二の絆。

 だがそれも時間と共に色褪せていく。

 何もかも、モノトーンに変わっていく。


「相変わらずね、死灰の子」


 プーハニアの下世話な軽口に「彼氏なんていないですよー」とユディーアは笑顔を作る。

 隣を歩くクナータは相変わらずきょろきょろと物珍しそうに周囲に興味を示しており、気を抜くと走り出しそうなのでしっかりと手を繋いでおく。子供扱いにむくれた少女は頬を膨らませてからべえと舌を出して言った。


「潜伏していた巫女とは無事に接触できたのね」


 軒先に各種の武器を並べた探索者向けの店から野太い声が響く。


「竜神信教派の動向には引き続き目を光らせておきなさい」


 店主は呪符や武器といった探索者向けの道具を手に持って宣伝している。そういえば短槍を投げて無くしてしまった。プーハニアに断って少しばかり買い物の時間をとらせてもらう。

 背後を通り過ぎた誰かが端末に話しかける。


「あなたも私も」


 店主のセールストークは小気味よく、ユディーアはどの武器にしようかと目移りした。


「レストロオセの勇士であり『塔』の魔女」


 店内にはそこそこの客がいて、それぞれ人種も性別もバラバラだった。次の瞬間には街の中に溶け込んでいるような、共通点の無い独立した個。擦れ違うだけの通行人たち。

 彼らは独り言を呟いたり、端末で遠くの誰かと話したり、連れと相談したりと口を開いては関係の無い音を大気に放出していく。そこに秩序は存在しない。


「目指す地点はひとつ」


 だから会話のリズムは独特で、ユディーアからの言葉は独り言になりがちだ。

 慣れている弟子だからこそ対話がかろうじて成立していた。


「ポルガーお姉様。聖妃様は、救世主の生誕に間に合いそうですか?」


 店主がさすがにまけらんないけど、サービスで鞘と滑り止めならつけちゃう、お嬢ちゃん可愛いからと笑って言うと、プーハニアがじゃあ俺も呪符でも買うかと会話に加わってくる。


「無理ね」「だから誕生の直後が勝負になる」「セレクティフィレクティや『上』の細胞」「薄汚い『司書』どもの手に渡る前に」「あなたが救世主を確保して」「レストロオセ様の下に連れてこなければならない」


 透き通った宝珠の美しさを感心しながら眺めていたクナータが、見てみてとユディーアの袖を引いた。仲がいいねえと目を細めるプーハニア。おめえにしてやるサービスはねえぞこの不良警備員めと冷たい対応の店主。


「逃走経路については幾通りか準備しているけど」「今の時点では確定させたくないの」「複数のプランと案内人を同時に動かしている」「準備が終わったら使いを送るわ」


 ユディーアは店主に礼を言いながら支払いを済ませる。

 相手の手に銀貨を落として、これで五枚目と心の中で数えながら。


「セレクティフィレクティはあたしを第九魔将として自派に取り込めたと信じています。弱体化した今のセレクティ派は聖女クナータの守りをあたしに委ねるしかない」


「逆に言えば」「フィレクティは自由に動ける」


 店主の感謝の言葉を背に店をあとにしたユディーアの目の前を、『影走り』の配達人が滑るように移動していく。漆黒の風となって高速移動する夜の民たちは『影の中』という異界を使って距離を縮めていた。小規模な宅配便なら『影走り』というジャッフハリムの常識が、第五階層にも浸透している。これも友人の地道な努力の成果だろう。


「竜神信教がティリビナ同胞団に接近しているのも気になるわ」「幾つかの『目』がミシャルヒと合流した」「『クロウサー』の動向を探る」「本来はあなたに任せたい仕事だったけど」「聖女の護衛もある」「派手な動きは控えなさい」


 雑踏が奏でる喧噪に向かって、ユディーアは独り呟いた。


「わかりました、お姉様」


 レストロオセ四十四士にしてキュトスの姉妹六十三位、ポルガー。

 『千里眼』や『観察者』と呼ばれる正体不明の魔女。

 紀神シャルマキヒュから戦乙女の称号を授けられた天眼の民。

 そして、ユディーアの魔女としての、そして裏切り者としての師。

 レストロオセ派である彼女は『塔』、そして神々に情報を流し、また掠め取っている。

 きっとユディーアの与り知らぬところでも暗躍しているのだろう。例えば槍神教や竜神信教の中にも彼女の『目』は潜んでいるに違いない。


 師との会話はいつもこうだ。

 ユディーアが『ポルガーお姉様に見られている』と感じたとき、彼女は既にそこにいる。

 どこにいるのかは不明だが、たしかに存在したはずの彼女はユディーアにしか知覚できず、また彼女と接触したという記録は灰色の彩域にすら残らない。

 ユディーアがこれまでに師に対して口にした言葉は存在しないのと一緒だ。

 師と言葉を交わすたび、彼女はまったく無意味な行為をしているのではないかと考え、いつものような色の乏しい気分に襲われる。

 暗い感情と共に定期連絡を終えようとしたユディーアは、しかし珍しい事態に直面した。

 用件を済ませたはずのポルガーが、続けて話しかけてきたのだ。

 まだ食べるのか、と呆れつつクナータに付き合ってアイスクリームの露店に向かい、いい格好をしようとしてかプーハニアが支払うと言い出してユディーアが固辞してとひと悶着。


「ユディーア。その虚無感は正しい」


「どういう意味ですか」


 ポルガーの表情はわからない。

 けれど、若い女の子の前で頼りになるところを見せたがるプーハニアの瞳の奥には何かいい知れない光が宿っているような気がしてユディーアは不安に駆られた。

 ブルドッグは全てを見通すような瞳で安産型については気にしないでくれ、どうか忘れてくれ調べないでと情けない声で懇願した。


「あなたはこの役回りに向いているということよ。私たちのような魔女は長い時を生きる。社会の外側で、それでも人の営みから完全に外れることもできずに境界を歩むことを強いられる。それが垣根の上に立つものの宿命」


 垣根の上に立つもの。魔女がそう口にする時はふつう、彼岸と此岸の狭間という霊的な意味あいで使われる。だが、ポルガーはあえて意味をずらした。


「国家と大義に忠誠を誓うスパイ? 馬鹿馬鹿しい、私たちは魔女よ。そんなものであったことなど一度たりとて無い」


 魔女ウィッチ、あるいは間者ウィッチ

 ポルガーの認識では、その二つは似たようなものだ。

 ユディーアもまたそうなのだと師は断言する。


「多くの種族は急ぎ足で死んでいく。長い時を生きる巨人や光妖精たちですら滅びる。まして、文明圏や共同体など吹けば飛ぶような儚い虚像に過ぎない。火竜の破局を回避したとて、義国圏や鈴国圏の現体制はあとどれくらい保つかしら。百年? 二百年? 千年王国が実現できたら立派だけど、二千年は無理でしょうね。けれど私たちはその先も生きる」


 街には当たり前の人間の営みがあった。

 その誰もが他愛ない言葉を口にして、ごく普通の日々をどうにか送っている。

 一日、それが無数に積み重なって年月となり歴史となる。

 この賑やかな世界も、いずれは廃墟に変わるのだろうか。


「あたしにとっての真の居場所は、『星見の塔』ということですか」


「愚か者。話を聞いていた? キュトスの姉妹だとか『塔』だとかいう枠組みだって永遠ではないの。『居場所などない』あるいは『そんなものは定まらない』が答えってこと」


 ユディーアにはわからない。

 ポルガーが弟子になにを期待していて、何をさせたいのか。

 母がそうしたような『わかりやすい求め』がそこにはない。『お前が自分で考え、自分で決めろ』という突き放した態度が、ユディーアを不安にさせる。


「あたし、姉妹には」


「わかっているはず。自分にその資格があることを。この私の紀ではなくともユディーアならばいずれかの頂に手が届く。自分の頭で考えておくことね」


 思考はぐるぐると巡り、迷って、どこにも辿り着かないまま。

 ユディーアはいつもこうだ。

 わからないまま、時間だけが過ぎていく。


「どこに、向かえば」


「ん? もうすぐそこだ。さて、俺の道案内もここまでだ。また何かあったら頼ってくれよ、ニアちゃんやリーナちゃんの友達なら俺はどんな協力も惜しまないぜ。あの子たちには何かと世話になってるからな」


 気付いた時には、既に聞こえてくるのはプーハニアの明るい声だけになっていた。

 ユディーアは微笑んで、ありがとうと礼を言った。

 口から出てきたのは、当たり前の事だが目の前の相手への言葉だけだ。




 ユディーアは裏切り者だ。

 そんな在り方を恥ずかしいと思う自分と、それで正しいと思う自分、その二つは矛盾無くユディーアの中で共存していた。それが裏切りの勇士ユディーアとしての精神の形だったから。

 けれどたまに想像する。

 裏も表も無く、純粋なただひとりの誰かとして生きることができたなら。

 それはきっと、とても快い在り方なのだろう。


 ユディーアはそのような存在に心当たりがある。

 彼の噂を第五階層に来てから何度か耳にする機会があった。その全てが良い評判で、その相変わらずな影響力に呆れると同時に感嘆させられる。

 

「レオ様によろしく伝えといてくれ。じゃあまたな、お嬢さんたち!」


 どんな荒くれ者も、どんな悪漢も、種族人種の隔てなく。三角耳の少年の真っ直ぐな美しさ、気持ちの良い純真さを好ましく思っているようだった。

 レオ。記憶喪失の少年。

 案内人のプーハニアという男もまた少年を慕う一人だ。今の自分があるのは彼のお陰だとすら言っていた。熱が込められた口調は敬愛よりも信仰心にすら近いように思える。


「レオ様。レオ様、か」


 今のうちにこの呼び方に慣れておかないと。自分に言い聞かせるように、口の中で何度か繰り返して呼ぶ。それにしても誰がこんな名前を付けたのだろう。文脈を理解した上で名付けたのだとしたら、とんだ皮肉屋か上手いことを言ったと得意がっている阿呆のどちらかだ。


 手を振るプーハニアと別れてユディーアとクナータは辺境区でもひときわ目立つ建造物に足を踏み入れた。透明な自動扉が横にスライドし、広いエントランスが彼女たちを出迎える。

 天井では木製のシーリングファンライトがくるくると回り、壁面にはコルクボード、床面は中間色のウォールナット材、そこかしこに緑色の観葉植物という内装は『公社のビル』というかオーガニックなカフェのようだが、少なくとも一階部分に関してはらしい雰囲気作りに成功していた。エントランスの片側、一階の大部分を解放スペース型のカフェにしているからだ。


「ユディーア、凄いわ! あれって猫カフェよ、猫カフェ!」


「なにそれ」


 友人が興奮している意味が良くわからず首を傾げるユディーア。

 観察してみると、どうやら何らかのコンセプトカフェであるらしく、異界の幻獣を愛玩しながらゆったりとした時間を楽しむという主旨であるらしい。

 しかしながら猫なる幻獣は本来この世界には存在しない。

 数少ない目撃例も残されている記録も確かなものはなく、共通している情報は『三角耳』ということくらい。それ以外の特徴は翼があるとか角があるとか七色とか髭が大陸より長いとかめちゃくちゃなものばかりだ。

 そんなわけで、この猫カフェなる空間では第五階層の『創造クラフト』を利用して客がそれぞれ想像した『猫ちゃん』を具現化、好き勝手に可愛がったり自慢しあったり念写してアストラルネットに上げたりしているらしい。壁のコルクボードにはこれまで顧客がクラフトしてきた『猫ちゃん画像』が貼り付けられている。指先で触れることで立体幻像として眺めることもできるようだ。


「ユディーア! ユディーア!」


「はいはい。とっても楽しかったんだよね? じゃあちょっとだけ寄り道しよっか」


 きらきらした十字の瞳で見つめられて何度も拒否できるほどユディーアの精神は強くは無かった。先読みの聖女の記憶通りなんだからちょっとくらい遅刻しても平気、と自分に言い聞かせながら二人で猫カフェに立ち寄る。


「はいはい、二名様ご案内だし。メニューみて決まったら適当に呼んで欲しいし」


 すると蝶の羽を背中でぱたぱたさせながらやる気の無さそうな店員がやってきて応対する。クナータと同じくらいに見える小柄な少女で大きな熊のぬいぐるみを抱いている。これで接客業をやろうとしているのはかなり挑戦的だ。ユディーアはこの店は大丈夫なのかと不安になったが、クナータは可愛い可愛いとご機嫌の様子。


 ふと、ユディーアは強烈な視線に監視されている気配を感じた。息を止める。天眼が研ぎ澄まされ、周囲一帯の空間を精査していくと、視線の原因に突き当たった。

 窓際の席に一人で座っている少年。チェックのシャツと分厚い眼鏡、テーブルにはコーヒーとラップトップの書籍型端末といういかにもな出で立ちだったが、熱情に満ちた視線と荒い息にはぞっとさせらるものがあった。彼が見ているのは自分たちではなく、すぐ傍の店員だ。


「はあはあセージさん今日もダウナーで素敵です今夜こそ出待ちしてデートデートデート」


 厄介客を通り越してストーカーに見えるのだが、この少女店員は大丈夫なのだろうかとユディーアは別のことが気になって仕方が無い。クナータが手慣れた様子でクラフトに初挑戦するのを眺めつつ、気もそぞろにメニューを見て注文を決める。


「はーいコーヒー二人分だしー、あっ手が滑ったー」


 心配は杞憂に終わった。少女店員のわざとらしい失敗によりコーヒーカップは放物線を描き、ストーカーっぽい少年の頭部に熱い液体をぶちまけたのだ。少女はユディーアたちに謝罪しつつ、少年をゴミを見るような目で見ながらこう言った。


「ごめんなさいだし。代わりを用意するのでちょっと待ってて欲しいし。それからファルくんは回転率のためにさっさと消えて。あとこれ足りないから買い出し行ってきて。自腹ね」


「はいっ! この愛の走狗ファルファレロ、セージさんのためならどんな理不尽でも受け入れてみせます! まかせて下さいよ、なんせ僕はシナモリアキラですからね! ワンワン!」


「猫カフェに犬はいらねえんだよカス。ほらさっさと行けし。あ、虹犬のお客様は歓迎でーすぽりこれぽりこれ、炎上したらてめえのせいだし、おらっケツ振ってんじゃねえしっ」

 

「キャウーン! シナモリアキラの業界ではご褒美です!」


 少年少女のやり取りを見ながらユディーアは心底から引いていた。

 やはりシナモリアキラはこんな連中ばかりなのだ。

 可能な限りクナータとは関わらせまいと決意を新たにする。

 そんな一幕がありつつも、猫カフェでの時間はおおむね楽しいものになった。

 クナータは太った毛玉のような猫をクラフトし、ユディーアは友人をイメージした球体連結型の猫をクラフトした。念写記録を店に保存して貰うと、壁のコルクボードに二人の猫が表示される。仲睦まじくじゃれあう猫たちの姿を見てクナータはにっこりと笑った。


 素敵な記憶、楽しい思い出。

 この寄り道を選んで良かったと思うと同時に、ユディーアは底の無い不安に襲われる。

 ユディーアにとって価値のあるものは、いずれ全て色褪せてしまう。

 それは既に決まっていることだ。


「どうしたの? ユディーアったら、具合が悪そうだわ」


「そんなことないよ? ゆっくり休めたし、楽しかったし。猫カフェまた来ようかな」


「素敵。次はお母様と一緒に楽しんだのよね」


 クナータと話していて死にたくなるのはこういう瞬間だ。

 自分ではどうしようも無いたぐいの後悔が際限なく押し寄せてきて、制御の出来ない衝動を抑えるためにユディーアは必死にいつもの笑顔で取り繕う。

 

「そろそろ行こっか。あんまり待たせても悪いし」


 会話を打ち切って立ち上がる。会計を済ませて店を出ると、昇降機へと真っ直ぐに向かう。

 最上階だ。そこに辿り着けば、もう後戻りはできない。

 物語のレールに乗る。

 救世主トリアイナ誕生の前日譚。

 その始まりに辿り着くための真っ直ぐな道程に退路なんて無い。

 クナータの死は、もう引き伸ばすことも目を逸らすこともできない現実になる。

 友人の小さな手を握ろうとして、ユディーアは思い留まった。


 一緒に逃げよう、そう言ったら彼女はどんな顔をするだろう。

 そう言うと知っていた、けれどそれはできないと悲しそうに拒絶される?

 そう言ってくれるとわかっていた、だから世界なんて捨てて遠い所でこの世の終わりまで仲良く暮らそう、そんな都合のいい結末が待っている?

 馬鹿馬鹿しい想像だった。

 ユディーアはそこまで強くない。

 それを口に出すことなんてできないし、仮に出来たとしても上手く行くことなんてない。

 幼いキニスは、父の手を取らなかった。

 迷い、戸惑い、時間が全てを押し流していった。

 待つのはただ、万民に等しく訪れる死という終わりだけだ。


 狭い昇降機の中を、沈黙が包み込んでいる。

 物思いに耽る。クナータのこと。自分のこと。世界のこと。運命のこと。

 死について、生について、とりとめのない思考が巡っていく。

 ユディーアは全てのジャッフハリム人が受けられる抗齢化処置を受けていない。長寿化は種族間の寿命格差を埋めるために存在する。聖妃レストロオセの偉業として挙げられる代表的な福祉政策だが、この政策によって深刻化した人口問題と資源問題を憂う反対派や自然保護団体、何より『下』の一大勢力である竜神信教の人々はこの処置を拒む傾向があった。


 ではユディーアはいずれかの強い信念があって抗齢化処置を受けていないのかと言えばそうではなく、単に『上』への潜入任務が長期に及んだ際に不審に思われないためだ。

 だからそう、かつての自分が感じていた漠然とした疎外感は自然なことだ。自分の意思が介在しないところで生じた運命に、きっと誰だって悩んでいる。この感情はさして重要なものではない。日常の中にそっと埋没させていけばいい。


 ああ、けれど。

 遠い日々には無邪気に暖かい気持ちを信じられた時代もあったのだ。

 同じ『山』で修行した、少し年下の男の子。

 自分と同じように勇士の家に生まれて、けれど自分とは関わりの無いところで生まれた不名誉な運命に悩んでいて、世界への疑問と窮屈さを感じている所まで一緒だった、幼馴染み。


 彼は予定通りに裏切りを全うできただろうか。

 味方の勇士たちすら騙して、宮中内の敵を完全に欺けただろうか。

 聖妃レストロオセは配下に裏切られ、致命的な呪いに倒れた。

 強大な死の呪いが運命を規定している以上、暗殺の呪詛はもはや効果をなさない。

 面会謝絶のまま誰の前にも現れない以上、その動きは誰にも掴めない。


 聖妃暗殺を目論んだ裏切り者はジャッフハリムから指名手配されている。

 その存在は、きちんと第五階層における火種として燻っているだろうか。

 最後に会ったのは『山』での修業時代。

 配属先が同じだと教えられたのはつい最近のことだ。

 再会したらまず何を話そうか。

 いつになく心が浮き立っている自分に気付く。


 昇降機の扉が開く。

 最上階に辿り着いた二人が通路に足を踏み出すと、通路を背に長身の男が腕を組んで立っているのが見えた。途端、クナータの頬が熱く紅潮し、十字の瞳を好奇心いっぱいにキラキラさせながら興奮した様子になる。


「私ったら、とってもお邪魔だったの! 手に汗握ったわ! 遠くで見ていたから、頑張ってユディーア! 勇気を出して、自分を信じて! あなたならきっとやれたわ! 勝ちに行きましょう勝ちに! ひたすらアタックあるべしよ! 守りに入ってはダメ!!」


 かつてないほど熱心に声援を送りつつ、廊下の先へと駆けていくクナータ。

 通路を曲がって姿が見えなくなったと思いきや、曲がり角から顔だけを出してじっとこちらを観察していた。何なんだろうと首を傾げながら追いかけようとして、ようやく気付く。

 目の前にいる男。見覚えがある。自分は彼を知っている。

 褐色の肌、長くつややかな黒髪は編み込んで肩に垂らされており、一目で第七世界槍文明圏のものとわかる道衣に足首まで隠すスカート状の衣裳が印象に残る。


「随分とゆっくりした到着だな。姫君はだいぶ気まぐれだったと見える」


 まっすぐなまなざし。

 記憶にあった少年の顔からはすっかり幼さが消えて、とうに自分を追い越した背丈もあってうっかり別人だと勘違いしそうになる。けれど、確かな面影があった。対面してみればそれは一目瞭然だ。紛れもなくここにいるのはあの日々を『山』で過ごした幼馴染み。


「それが、正しい記憶だから」


 声は上ずっていないだろうか。角はさっき隠したけど出した方がいいだろうか。

 自分は、いつものような笑顔を浮かべているだろうか。

 鏡が欲しい。いっそ時間を止めて確認してしまおうかとさえ思った。


「かまわない。あの方はそれくらいのことを気にしたりはしないからな」


「あの方、ね」


 レストロオセ四十四士が敬意と忠誠心を捧げる相手は聖妃レストロオセただ一人。

 それが正しい在り方だし、そうでないのならそれは裏切りだ。

 そう、ユディーアは裏切り者だ。

 目の前の男がそうであるように。


「ジャッフハリムの目とは接触できたようだな」


「安心して、気取られてはいない。竜神信教(セレクティ)派も聖妃レストロオセ派もあたしのことをどちらかのスパイ、もしくは二重スパイだと思ってほどほどに信用して、ほどほどに警戒してる。けどこっちのことはそもそも掴めていない」


 ラズリもポルガーも、正確に『彼』を理解できてなどいない。

 ここにいるのは呪文の座のメイファーラ。仲間であるセリアック=ニアとリールエルバと合流し、同盟相手である杖の座と協力するために『公社』を訪問した。

 それは紛れもない事実であり、正しい現状認識でもあった。


「だろうな。セレクティにせよレストロオセ様にせよ、『あの方』への認識はディスケイムが博物城で保存していた獅子王の後継者であるという古い情報に留まっている。セレクティ派への牽制として放ったレストロオセ様本人ですら彼の本質を理解しきれていないのだ」


「まあ今の時点ではあたしたちだって理解しようが無いんだけど。それはそれとして、本当にこれ、大丈夫? いちおうあたし、魔将で勇士なんだよ。きみと会って話してるのがばれたら色々とまずいことになると思うんだけど」


「そこは信用してくれていい。『公社』には傑出した言語魔術師が二人いる」


「へえ。トロメリアさん以外にもう一人? 信用できるの?」


「彼に心酔している。忠誠心はどうかしていると言っていい。我々のことを把握しているのも彼女だけだ。あとで紹介しよう。少し癖のある性格だが、君ならまず安全だろうからな」


 安全? と首を傾げながらもユディーアの思考はどこか浮ついていて、済ませておくべき現状確認さえもどかしいと感じてしまう。本当はもっとするべきことがあるような気がする。でもそれが何なのか、ユディーアにはわからない。

 だから、まずは当たり前のことをしよう。

 当たり触りのない、再会した二人が普通にすることを。


「久しぶりだね、『カーイン』」


「ああ。君も、壮健そうでなによりだ。『ユディーア』」


 瞬間、胸に安堵が湧き上がってくる。

 その感情が『上』でできた仲間たちと過ごしている時の安心感にそっくりなことに気付いて、ユディーアは自分の単純さがおかしくなった。

 自分にとって未来は不安なもの。だからこそ、美しい過去の思い出や友情は安心できる聖域になっているのだろう。


「君、だって。『貴様ー、勝負しろー』とか言ってたくせに」


「さて、どうだったかな。なにしろ昔の話だ。正直あまり実感がわかない」


 彼が、手を差し出している。

 握手の求め。ああそうか、と懐かしい記憶が蘇り、目尻が下がる。

 ご期待に応えて、いつもの悪戯をしてやろう。

 『山』での修業時代、ユディーアは不意打ちのように過去視を仕掛けて幼馴染みの秘密や弱点を探り当ててきた。彼女の高い戦闘能力と訓練での高い勝率は、対戦相手の過去を覗き見ることで個々人の対策を効率的に練ることができるゆえのものであったのだ。

 本来は不躾な行為だが、子供時代はそれが当たり前だった。

 何よりも彼の不敵な表情は『受けて立つ』という意味に違いない。


 再会した幼馴染みがどんなふうに過ごしてきたのか。それがもうすぐわかる。

 手を伸ばしながら、ユディーアは自分が少し緊張していることに気付いた。

 いやこれは効率的に情報を取得するためで別に変な意味は。

 昔よりもずっと大きくなった手がそこにあった。修練を欠かしていないとわかる手のひらに自分のものを重ねる。質感、体温、意識しすぎると集中が途切れる、雑念よ去れ。

 彩域に目を凝らし、安らかそうな灰神パルムたちにそっと意識の指先で触れる。

 灰色の窓が広がり、ユディーアの目の前を過去の光景が通り過ぎていった。

 手を握った相手、長身の男は微笑みを深くしてユディーアを見守っている。

 あるいは固唾を飲んで、もしかしたら、舌なめずりをするかのように。 

 こちらの反応を、今か今かと待ちかねていた。


「ねえ」


 灰色の世界をじっと見つめながら、ユディーアは言った。

 視線は過去の窓から逸らしていない。男の顔は見ないまま、見られないまま、ユディーアの目は過去に起きていた確定済みの事実に釘付けにされていた。

 自分の過去視能力は絶対だ。それは覆らない。呪文による改変すら解釈の変更に留まる。

 だが、無意味と知りつつ彼女は問わずにはいられなかった。


「いま、あたしがみたものは、なに? 解釈の余地があるのなら教えて」


「そのままだ。ユディーア」


 深いバリトンが耳の奥に響く。入り込んでくる。

 ユディーアの、自分たちの世界を侵食してくる。

 致命的なほど、どこまでも深く。


「君の幼馴染みは私が殺した。彼は『カーイン』になれないまま、私にその存在と役割を譲り渡してくれた。大切な家や師、兄弟弟子たちとの記憶ごと。もちろん、君との思い出もだ」


 存在するはずの音は全て途絶えていた。

 耳が痛くなるほどの沈黙がユディーアの世界を支配している。

 静寂、そうあるべき空間を不躾な振動が揺るがしていく。


「残念だったな、ユディーア。だがこう考えてみてはどうかな。私はカーインだ。その名を与えられ、そのように振る舞い、そう扱われてきた。カーインとしての思考、カーインとしての言動、カーインとしての実力、カーインとしての価値。彼が果たせなかったことを私は彼の代理人として実行しているんだ。私のこの在り方は、既にカーインそのものだと言えないか?」


 沈黙。


「そう、たとえば。シナモリアキラとサイバーカラテを知っているな? ああした思考がこういうときには便利に作用する。役割と枠組、機能と認識。それらの合致が存在を形作る」


 どうしてこう、口数の多い人ってうっとうしいタイプが多いんだろう。

 ユディーアはうんざりしながら手を引いていった。

 肌の質感、触れる体温、もう何も感じない。

 ただ、そこにはモノがある。それだけだ。


「カーインじゃ、ない」


「いいや、私こそがカーインだ。君が期待していた『誰か』がカーインと呼ばれることは遂に無かった。ああいや、正確にはただひとり、かつての君だけが戯れに呼んでいたが、それは叶わなかった願望だ。この私は正しくカーインという役割で、そのように機能している」


 ユディーアの断言に、男は即座の否定で返した。

 双方に確信があり、それは永遠に噛み合わない。


「ああ、この外見がお気に召さなかったかな。違うカーインがいいだろうか? お望みの姿に変わることもできるが、どれがいいかな」


 男の姿が目まぐるしく入れ替わり、そして奇術のように増えていった。

 それも当然だろう。カーインとは『道化ぐしゃ』。

 耳目を集め奇矯な振る舞いで周囲を湧かせ、喝采の中でくだらなさを華やかに演じる。

 増える。男が次々と現れ、衣を替え、新たな表情を見せる。

 けれど。あの子は増えたりしなかった。

 本来ならあの子は『山』でまっすぐに鍛錬を積み重ねていて、成長していれば立派な武術家になっていたはず。正しさを重んじ、弱きを助け強きを挫く。義侠の精神を有した栄えある勇士は、家のために使命を全うする。それが正しい未来、そうでなければならないのに。


 多種多様な姿の『カーイン』がユディーアの前で微笑み、優雅にポーズを決め、あちらこちらへと現れては消える。

 そして、あらゆる催しがそうであるように最後を飾ったのはとっておきの演出だった。

 幼少期の『彼』が思い出のままの姿でそこにいた。

 男の奇術は、的確にユディーアの逆鱗を突いていた。

 べらべらと良く喋る口。そのうえ目障りな幻。

 もういい、黙らないなら黙らせよう。

 薄っぺらい笑顔が顔に貼りついて、いつも通りの柔らかな声を口から吐き出す。


「そっか。びっくりしたなあ。あたしって、今までホンキで怒ったことが無かったんだ」


 苛立ち、うっとうしい、うんざり、これはその程度の不快感でいいはずだ。

 薄っぺらな冷笑主義と物事を一段上から見下ろして腕組みしているような眼差し、そうした下らない態度には相応のつまらない感情を向けるのが費用対効果がいい。

 だってそうだろう。程度の低い問題にコストのかかる感情を浪費するのは割に合わない。


 自分でも信じていないであろう中身の無い弁明、取り繕う気のない空虚な慰め、そう表現することすら躊躇われる偽物の自己正当化。

 この男がたとえに出してきたシナモリアキラやサイバーカラテに感じていた不快さの正体が、いまわかった。空虚なのだ。この男と同じく、価値が無い。それどころか、あったはずの価値を玩弄し、貶めてすらいる。


 呪文、言語魔術、黒の色号、世界を読み解くあらゆる術理。

 それらは事象を切り分け、人に救いを与えることだってできる。

 だがそれは、救いを与えるほうと救いを与えられるほう、双方が合意してはじめて成立する救済の共同実現だ。ただ口にしただけの無責任な言葉に正しい呪力は宿らない。ユディーアが暴力的にフィリスで解体を行った時のように。


 そのへんのならず者がシナモリアキラを名乗っても本質は変わらないし、最初にいたシナモリアキラになったりはしない。サイバーカラテが他流派の技術を取り入れたところで、その術理と体系は元の武術が歴史の中で研鑚を積み上げてきたようには整合しない。複数の『理』が衝突して、最初にあった本質は損なわれてしまうことだろう。それはもう別の何かだ。


 『カーイン』になるはずだったあの日の少年は、もういない。

 どれだけ摸倣しようと、どれだけ再現しようと、どれだけ完璧な『カーイン』が既にそうあるべく振る舞っていようと。

 これは違う。これはあってはならない。これを否定しなければならない。

 空虚で無価値な、灰色の世界に生きるもの。

 美しい思い出。かけがえのない記憶、少年には確かな可能性があった。

 灰色ではない彩りがあったはずなのだ。

 だから違う。『カーイン』は、ここにはいない。

 不実で空虚な『ユディーア』と同じであってはならないのだ。


「実を言えば、待ち遠しくてならなかった。君と対面し、この事実を伝える瞬間がね」


「そっか、良かったね」


 心底から楽しそうに、とっておきのデザートを前にした子供のように。

 その瞳は闘争の予感に酔いしれていた。なんて下劣なんだろう、心底から軽蔑する。

 武術家として育てられたカーイン。その解釈を、これは致命的に履き違えているのだ。

 これではただの戦闘狂だ。血に飢えただけの獣を義侠とは呼ばない。


 結局、聖域なんてとっくに失われていたのだ。

 ユディーアにとって価値あるものは、いつだって色褪せて消えてしまう。

 色鮮やかな思い出と輝かしい約束はくすんだ灰色の記憶に変わっていく。

 永遠に失われたもの、あるはずのなかったもの、未練たらしく抱えていた小さな期待を今度こそ握り潰す。行き場の無い感情をぶつけるのに最適な形に手を整えた。

 固めた拳は怒りのあらわれだ。


 ユディーアは思う。

 復讐は無価値だ。けれど、かつて価値があったことを示す手段は復讐しかない。

 それが過去、どれだけ大切なものであったのか、それが失われたことでどれだけの嘆きと怒りと憎しみが生まれたのか、それを証明するのが復讐だ。

 

「それではやろうか、ユディーア。待望の百戦目、心ゆくまで楽しもう」


 虚を突く一撃。仕掛けられた方も、仕掛けた方すら意識していなかった刹那の出来事。

 ユディーアは自分が貫手を放っていたことに後から気付いた。

 目の前で男が笑う。歓喜で満たされた瞳が激しく揺れる。

 告げる。練り上げた内力が呪文と共に弾けて経穴に浸透する。


「喜則気緩。お前はもう、楽しさを楽しめない」


 彩域を満たす灰神が悪夢の気配に怯えていた。

 灰の色を練り上げて放つ一連の動作は既に終わっている。

 殺戮に足る呪いで空間を満たしてから、ユディーアは相手を殺す事に決めた。

 それは全く自然に、日々行われる鍛錬の延長線上の動作として実行される。

 套路をなぞるように。

 遠い日々、もう帰れない幼い記憶を反復するように。


「生きて感じる意識の全て、苦楽に満ちた七情の海で溺れ死ね」


 鈍い輝きが、ユディーアの瞳に宿る。

 失われたものに祈るように、ありもしない価値を求めるように。

 あるはずのない楽園を奪われたものは、怒りを信じて血と闘争に酔うしかない。

 無価値な戦いが始まる。全てが色褪せた世界には、美しかった記憶の灰をかき集めるような空虚さだけが残された。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ