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幻想再帰のアリュージョニスト  作者: 最近
第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ

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アポテオーズ『シナモリアキラはここにいる』





「かくして厳しい冬は去り、恵みの春がやって来ました、めでたしめでたし――なんて言うと、『じゃあしばらくしたらまた冬だね』ってなるじゃない? 私はその先に行かないとね」


 トリシューラはそんなことを言っていたが、そもそもアンドロイドの魔女にとっての『春』とは何だろう。死を象徴する『冬』の逆を生とするなら、アンドロイドやサイボーグ、人形たちにとって生とはなんだ? 

 俺は決定的に自己を変容させながらも確かに生きている。

 それは生命の芽吹きなのか、長く厳しい眠りからの目覚めなのか、それとも。

 益体も無い考えだ。そんな呪術的切り分けこそ俺が目覚めるべき『冬』とするべきなのかもしれないが、いずれにせよ第五階層は前進しなければならない。


 ――と、そんな使命感に目覚めた意識の高い紀人みたいな思考をしたところで、実際のシナモリアキラは以前とあまり変わっていない。

 第五階層が拡張身体の一部になったとはいっても、干渉できる範囲と知覚できる範囲が広がっただけのサイボーグ/オカルトーグだ。語弊を恐れずに言えば、俺がやれる事というのは凄腕の言語魔術師スーパーハッカーが都市機能を乗っ取って全ての監視水晶の映像を盗み見たり、各種社会基盤を自分に都合良く利用したりする程度のものだ。

 ただそれらが、自分の肉体の延長線上にあるように認識しているだけで。


 たとえばいま俺が『器』としているこの球体。

 第五階層上空をふわふわと浮かんでいるこの人間の頭部大の呪具は、ラフディ式の多機能ドローンだ。天体に擬えているおかげで一定の軌道を浮遊して巡ることが可能――みたいな説明だったが、プロペラも無いのに空飛ぶドローンというのは中々にオカルティックな趣がある。


 俺はこれを大雑把に『目』のようなものとして捉えているが、同時に『顔』や『頭部』に近い感覚器としても利用している。

 このへんは旧来の霊長類的な感覚を引き摺っているのだが、慣れた手法を応用して操作できるものは『このへんの設備はわりと足に似てるな』『舌を動かす要領で行けるか?』みたいに類推や経験則でざっくり動かしている。


 ラフディ式ドローンは大小合わせて二十機ほどが第五階層を巡回している。

 いずれも『目』という意識が強めで、メインの『頭』は現在『俺』が宿っているこの球体――なのだが、このへんの割り振りは割と流動的だ。いつもトリシューラが用意してくれる霊長類型の『化身』や『マレブランケ』たちにも一定の意識は割いているから、どれかひとつが俺の本体というわけではない。


 こんなふうにのんびりふわふわと漂っているのは、何も暇を持てあまして空中散歩を楽しんでいるとかそういう理由ではない。

 あのルウテトとの激しい戦いから数日が経過した。

 都市機能が集中している中心部はともかく、周辺部や空間の歪みが著しい場所は俺の感覚では捉えきれないので、第五階層全域を直接見て被害状況を確認しているのだ。トリシューラと俺の掌握者権限で復興を行うにしても、まずは現状を正確に確認しなければならない。


 まあ、霊長類体で動いていない理由はそれだけじゃないんだが。

 俺は視界を左側に向けて、自分の身体が完全な球形であることを確認する。

 ――大丈夫だよな? 生えてないよな?

 よし、なんともない。今度こそ晴れて自由の身だ。

 清々しい解放感に、思わず空中で踊り出したくなる。


 いやいや、まずはやるべきことをやらなければ。

 気を引き締めて、俺は下界の様子を見ていった。

 分かっていたことだが、階層の全域はほとんど廃墟と化していた。

 怪我人や死者も多く、トリシューラは対応に追われている。

 もっとも大半の死者は再生者になってしまっているのだが、ルウテト亡きこれからは死亡すればそのまま死体となるのみである。次々と変動する常識に、異変に慣れっこの第五階層の住人たちも疲弊しきっている様子だった。


 しかし、だ。

 矛盾するようだが、市街地の崩壊は『冬』や『死』といったイメージからはほど遠かった。むしろ第五階層には生命力が満ちている。

 大地を突き破って伸び上がっているのは多種多様な樹木たち。

 佇んでいると言うには無遠慮で、並んでいるというには荒っぽすぎる。


 舗装された地面を、密集していた探索者たちの居住区を、強引に圧壊させて恐るべき密度で形成されていくのは『森』だ。

 かつてティリビナ人居留区にぽつぽつと見られた程度だった街路樹。

 その域を遙かに超えて、押し寄せる植物の群れが第五階層を蹂躙している。

 安らかな自然の恵みなどという生ぬるさはそこにはない。

 生命にとって苛酷な極限環境、死に満ちた山林は人間社会の周辺に口を開いた異界そのものだ。俺という異世界は、より古い異界に食い荒らされている。

 その脅威をもたらした原因は、今は活動を休止しているものの未だ上空に居座ったまま。異変はまだ根本的な解決を見ていないのだ。


 天を仰げば、そこには逆さまに広がる一面の森。

 鬱蒼と生い茂る広葉樹の緑から、巨大な『世界樹』の残骸が垂れ下がっている。ラプンシエルが破壊したあの大樹は一時的に沈黙しているが、トリシューラの調査によれば傷口から徐々に芽吹きが始まっているようだ。


 冬の終わりを告げる生命の象徴。

 その出現と共に明らかになった、この第九世界槍と位置付けられた氷の槍が、実は焼失した第八世界槍の存在を上書きしたものであるという事実。

 現在、外部から見たこの世界槍は焼け焦げた大樹を分厚い氷の層が覆った槍として認識されている。かつて亜大陸にあったティリビナ人の聖地がどうしてこんな場所に在るのか、誰も説明できないまま――ティリビナ人たちは今日も当たり前にこの世界槍で生活を続けている。


 そう、ティリビナ人たちはこの世界槍のあらゆる場所に最初からいた。

 外からやってきたのではない。

 戦場となった世界槍の中を彷徨い続けていたのだ。

 亜大陸から逃げてきた――その説明はそのままの意味であり、不正確な誤認識でもあった。彼らはこの世界槍の原住民だったからだ。

 世界槍の所有権を巡る争い――ティリビナ人たちの位置付けは、既に大きく変わりつつある。彼ら自身がそれを前提に異なる動きを始めていた。

 何か、決定的な転機を迎えようとしている。そんな気がした。


 懸案事項はまだある。

 数日前の戦いでルウテトは明らかにクレイや俺たちに倒されたがっていた。

 自分を古い邪神と位置付けたばかりか、天からは第五階層の『冬』を終わらせる生命の象徴を招き寄せた――つまり、『冬』から『春』への交代劇を積極的に引き起こそうとしていたようなのだ。


 その目論見は達成された。

 世界樹が落ちてくることだけは阻止できたが、その影響力を完全に無効化することはできなかったのだ。

 その上、無尽蔵の『生命力』を漏出させ続けている世界樹や逆さまの森を排除する方法も不明だ。トリシューラは何度か無人偵察機を飛ばしたが、『観念的上方』に位置しているため、物理的な手段では決して到達できないとか。


「放置! もう当面は放置だよ! お手上げー!」


 トリシューラは思いきりむくれていたが、今できることは何も無い。

 何しろ逆さまの森は第八世界槍の中に元々存在していた生命力。あれを排除して第九世界槍という形を押し付ける方が不自然なのだ。

 『不自然』――ごく自然に浮かび上がったこの言葉も、不用意に使うと微妙な文脈が発生してしまいそうでなんだか妙な感じだ。


 階層の復興、ライブの準備、ティリビナ人団体の運動、行方知れずのゼド、パーン、ヴァージル、第六階層で不穏な動きを続けているアルト・イヴニル、レオの元で長い眠りについているかつて亜竜王だった男――そして俺の左腕。

 色々な事を棚上げにしながら、第五階層は日常を立て直すために慌ただしく動き続けている。巡回する俺の下では、あちらこちらで『創造クラフト』が行われ、様々なモノが組み上げられ、また取り壊されたりしている。

 暦の上での冬もじき終わる。三ヶ月後という間近に迫った歌姫のライブ、『魔女の豊穣夜』という祝祭、そしてクロウサー家と共同で開催される箒レースなど山盛りのイベントの準備をしなくてはならなかった。


 第五階層全体を使った箒レースのコースは、ぐるりと円を描いてそれ自体が呪術儀式のための円陣の枠組として機能するのだという。

 トリシューラの指示は俺には理解しきれない呪術理論に基づいているが、俺としてはやれることをこなしていくしかない。この巡回している俺とは別の俺たちが並行して会場準備を続行中だ。


 それにしても、シンプルなコースの途中に『裏面』と繋がった『扉』を設置するというのは、つまりそういうことなわけで――怪我人とか出ないだろうな。

 このレースに関してはいずれ現れるであろうパーン・ガレニス・クロウサーへの対策を『呪文の座』とよく話し合う必要があるのだが、リーナ氏がノリノリで独創的アイデアを次々に出してくるので、『これが名家を率いる当主の才気なのか』と感心させられるばかりである。クラッシュすれば死の危険すらある超高速レースにパン食い競争を組み込む発想は流石に無かった。ああいう柔軟な思考の持ち主だからこそクロウサー家という大きな集団を引っ張っていけるのだろう。


 『呪文の座』と共同で行われる呪術儀式という名のライブイベント――その会場設営についても、戦いの前とは大きく事情が異なってきた。

 『使い魔の座』でありながら俺たちと協力関係を結んだラプンシエルアマランサスとミヒトネッセから、『アマランサス・サナトロジー』も一枚噛ませろという要望があったのだ。更にはそれを聞いたトリシューラまでもがやる気を出し、『SNA333』も参加させると言い出した。

 スケジュールの調整や各方面への対応を想像したメートリアンが悲鳴を上げていたが、新しく第五階層の住人となりつつある『人形』たちのことを考えると悪くない案だと俺は思っていた。


 第五階層の広がりは既に俺ですら完全に把握できていない。

 俺はトリシューラが管理する王国、呪具設備としての『都市機能』を拡張身体としているが、その管理を離れた辺境地域、当局の目を巧みに欺いて開かれる闇市、無節操に増殖していく『創造クラフト』の建造物と未認可巡槍艦、大規模儀式により設置された限定浄界、サイバーカラテ道場と競合するらしい『夢』の世界など、俺の中に俺ではないものが沢山増え続けている。


 とりわけ話題の中心となっているのが復活した地下アイドル空間だ。

 新たに『マレブランケ』に加わったグレンデルヒ、ルバーブ、オルヴァといった面々は巡槍艦の復旧作業を手伝ってくれているが、ラプンシエルは人形たちを引き連れて階層の地下空間に居を構え、崩壊した地下アイドル空間を甦らせた。現在、人形たちはみなラプンシエルの小さな『王国』に身を寄せている。


 どうやらシナモリアキラの一部であり小女神でもあるラプンシエルの権能は、第五階層の限定的な掌握を可能としているらしい。地下空間はほぼ全て彼女のものだが、新たな冥府は随分と賑やかな様子だ。俺はラプンシエルから出禁をくらっているのでその内実はミヒトネッセの自慢話からしかうかがえないのだが。


 コルセスカの使い魔となったミヒトネッセも地下でラプンシエルと暮らしているらしく、『公社』預かりのリールエルバやセリアック=ニアたちも頻繁に出入りしているとか何とか。最近の奴はいやにフットワークが軽く、ある時はラプンシエルの妹にして地下の王子様系アイドル、ある時はトリシューラのストーカー、ある時はクレイと共にコルセスカに侍る従者、そしてまたある時は俺に喧嘩を売りに来る暇な道場破り、と常に忙しい。

 

 何の因果か共にコルセスカの使い魔となってしまったため、迂闊に仲間割れもできなくなったが、俺やトリシューラにとってミヒトネッセの存在は軽々しく受け入れられるようなものではなかった。反面、あの侍女人形の方は以前ほどの熱烈な愛情や敵意をぶつけてくることもなく、むしろ方針を変えて大人しくなっていた。


 コルセスカに尽くす『献身的なメイドロボ』兼『俺様系王子騎士』として真面目に使い魔をこなし、「お嬢様、お茶の時間でございます――それからお手数ですが、本日分のぜんまいばねをまいて下さいますか?」「狩りか? 付き合うぜ、めんどくせーが、お前を守るのが俺の仕事だからな」などと状況に合わせた役に入り込んでいる。コルセスカはそうしたロールをいたく気に入った様子だ。


 コルセスカに気に入られることでトリシューラからも好感を得ようという作戦なのだろうか。困ったことに、俺への精神攻撃としてどれだけコルセスカに尽くしてどんなふうに褒めて貰ったのかを事細かに報告してくる。

 どうやら「ご主人様がこのミヒトネッセに落とされるのを指をくわえて見ていろ」とでも言いたいらしいのだが、同僚のアルマと話し合った結果あれはコルセスカにミヒトネッセが攻略されつつあるのだという結論に落ち着いた。


 サリアも同意見らしいが、彼女は俺とミヒトネッセをまとめて害虫扱いしているためあまり話せていない。その一方、サリアはミヒトネッセと同時加入のクレイには妙に優しい。更には二人して俺とミヒトネッセをふしだらだ、コルセスカを穢すなと罵ってくるのだ。正直まともな人格をしているアルマがいなかったら空中分解してると思う、この痕跡神話パーティ


 とにかく、ラプンシエルとミヒトネッセは第五階層に馴染みつつあった。

 『地下アイドル空間』という分かりやすい所属があるのも良い。複数の立場を持つ彼女たちは第五階層における軸足をあそこに定め、あそこを居場所にしている。

 歌姫ライブへの参加表明もそうした経緯があってのことだし、『呪文の座』としても『歌姫Spear』がライブをしても不自然では無い土壌を作ってくれているラプンシエルには強く出られなかった様子だ。というか今や正式なキュトスの姉妹となったラプンシエルは彼女たち末妹候補たちにとって『お姉様』なわけで、立場的には一人だけ異例の昇進を遂げた同世代の上司みたいな感じになっている。


 『星見の塔』における立場と言えば、魔女たちの所属する派閥も変化していた。

 『使い魔の座』に所属する魔女たちは、学園劇の最初の幕でラクルラールが俺とコズエトリシューラに敗れ、ルウテトに追いやられたことでラクルラール派を抜けることになったらしい。

 人形師の操り糸はもはや第五階層には届かず、彼女たちは晴れて自由の身だ。


 といっても末妹選定を諦めるつもりは無いようで、そのあたりは元ラクルラール派のトリシューラと姿勢が近い。

 ラプンシエルたちが俺たちと協力しているのは、二人にとって姉とも言えるアルト・イヴニル――マラードと合一した『元アレッテ』のためだ。

 

 ちょうど、俺たちがルウテトを倒した直後のことだ。

 アルト・イヴニルは第六階層の掌握者として名乗りを上げ、大魔将イェレイド率いる狂怖ホラー及び呪動兵からなる軍勢を自らの十二の軍団で打ち破った。

 そして古き王権を受け継いだ新たな王国、ラフディ=ガロアンディアンの復活を宣言したのだ。第五階層のガロアンディアンに対抗するように、『上』でも『下』でもない第三、いや第四の勢力として。


 アルト・イヴニル=マラードの狙いは依然として詳細不明。

 ラプンシエルたちも多くを語らないが、恐らくはこの第五階層にいずれ現れるであろう『トライデントの心臓』に関係してくるのは間違い無い。

 これについて、ラプンシエルはこんな事を言っていた。


「シナモリアキラと利害が一致するのは不快だけれど、まあいいわ。歌姫のライブ、協力して盛り上げていきましょう。『心臓』が降臨するために、第五階層は『前座』が暖めておかなきゃいけないからね」


 勢力や派閥の縛りから自由になったラプンシエルとミヒトネッセは、ただアルト・イヴニルのために戦う。読み辛いのは、末妹選定の勝利条件がそれぞれの座で違うという点だ。利害が一致する限りは協調できるが、敵対に至る場合の条件とタイミングが読めない。なにせ『使い魔の座』の基本姿勢は『みんなで仲良く一緒のグループに入りましょう』らしいから。しかし彼女はこうも言っていた。


「『使い魔の座』も一枚岩じゃない。『心臓』にどれだけの影響力を行使できるのかを競い合ってるの。良くある話だけど、トライデント内で権力闘争があるわけ。みんな救世主のお気に入りになって、出世したいのね」


 ラプンシエルの雑な説明はとにかく俗っぽいが、それだけに理解しやすい。

 トライデントの主要細胞『髪』であるラクルラールの後ろ盾を失ったアルト・イヴニルは必死になって他の細胞たちに対抗しなくてはならないのだ。

 更にラプンシエルはこう続けた。


「重要な上位細胞たち――『子宮』とか『天眼』とか『血脈』あたりはあんまり勢力争いには関心が無いという話よ。彼らは最も『心臓』に忠実な側近だから、取り入ろうだなんて考えず、基本的に主トリアイナのために行動する。厄介なのは下位のラクルラールとか、あとは私もよく知らない『脳』あたりかしら」


 それから警戒すべき相手としては、と彼女は細胞の名を挙げていった。


「当面の敵はジャッフハリムの天主セレクティフィレクティ――『右足』と『左足』は全ての『細胞』にとって最大の敵。なにしろ『心臓』を私物化して自分がトライデントの中核に取って代わろうとしてる野心家だから。そしてもっと最悪なのが『鼻』と『口舌こうぜつ』、このうち『鼻』は――ええと」


 そこまで口にしたラプンシエルは何かを迷うようにぎゅっと眉根を寄せて、しばらく沈黙した後でこう続けた。


「とにかく最悪なの。全てがね。あれを見たら私たちやラクルラールが女神に見えてくるはず。女神だけど。むしろ感謝して平伏すんじゃない? 『口舌』については『上』の有力者ってことくらいしか私は知らないけれど、『髪』であるラクルラールと協力関係にあったらしいから、要注意ってことだけ覚えてて」


 ラプンシエルの情報には意図的に隠された内容が多かったが、あくまで利害の一致から成立している同盟関係として考えればこのくらいが共有できる情報の限度なのだろう。基本は『呪文の座』との協力関係と同じと考えていい。

 そう思えば、お互いの距離感や取るべき態度も分かりやすくなってくる。


 ラプンシエルたち人形にしても、ティリビナ人たちにしても、ある意味では不安要素、ある意味では火種と言える。

 だがそれでいいと、俺は思う。

 恐らく問題は多発し、その中には致命的な被害をもたらすものすら含まれるだろうが、それでも俺は紀人という権力を振りかざすべきではない。

 その暴走が『法の内』で起きるにせよ『法の外』で起きるにせよ、その時俺はルウテトやラクルラールと同じような存在となるだろう。トリシューラの使い魔として、それ以上に紀人シナモリアキラとして、それは回避しなくてはならない。


「そうそう。状況は流動的なんだから、その場その場で臨機応変に対応していくのが一番だよ。高位呪術師の人材も結構充実してきたし、ガンガン増員していく予定だから、そのあたりも期待しててね」


 聞き慣れた声がすると思ったら、すぐ右側で頭に回転翼を付けたちびシューラが飛行していた。いつも俺の視界隅に現れる映像ではなく、物理的実体として上空に存在している小型ドローンのようだ。小さな手をぱたぱたさせているが、特に揚力を発生させているようには見えない。


「ヘリシューラだよ。空を巡回して女王の権威と親しみ易さをみんなにアピールする可愛いマスコットドローンだよ!」


「――俺も球体じゃなくてちびアキラで飛び回った方がいいかな?」


「アキラくんが私と一緒に空の散歩を楽しみたいって言うのなら、ヘリアキラくんを製作してもいいよ。実際プラモアキラくんなら一杯いるし、お手軽改造だよ」


 心惹かれる着想だったが、少し考えて二人同時に止めておこうと結論付けた。

 今は二人でゆっくり空中散歩ができるような状況ではないからだ。

 デフォルメされていようとちびアキラは霊長類型である。

 つまり両手両足が、というか『左手』があるわけで――。


「アキラくん、話題変えよ?」


「だな」


 球体ドローンとマスコットドローンが顔を見合わせて深く頷き合う。

 それから俺は、第五階層を見て回った所感を述べていった。ヘリシューラもまた徐々に判明していった事実を俺に知らせてくれる。こういうことを音声通信で行う必要は特に無いのだが、コミュニケーションの作法として『それっぽい』ことを回避する理由も特に無い。

 それに、今の俺たちには分かっていることがある。

 この世が舞台ならば、『台詞』や『対話』は重要な意味を持つのだ。

 『独白』も同様に重要だが、これは観客への『対話』でもあり――いやまあそれはいい。とにかく『振る舞い』は重要だ。


「結局、ゼドの行方は分からずじまいか」


「うん。探索者たちはあいつの正体すら知らないみたい。側近の五人だけはゼドと同じように足取りが掴めないけど」


 あれ以来、ゼドは姿を眩ましたが、配下の『盗賊団』たちは第五階層の南西ブロックに居座り続けている。

 ゼドとは敵対したが、それはあくまでも個人的な因縁だ。探索者たちにはカーティスとの戦いの際には協力してもらった義理もあるし、今のところはこれまで通りの付き合いを続けられそうだった。


「ゼドについては引き続き捜索を続行するとして――リールエルバの様子は? 『公社』の預かりになったなら、レオやカーインが下手を打つとも思えないから大丈夫だとは思うけど」


「気になるなら自分で様子を見に行けばいいのに」


「いや、今は顔を合わせづらいというか――左手の事もあるし」


「ふぅん?」


 疑い深い視線を向けられている。

 まあ経緯が経緯なので当然と言えば当然だろう。 

 それどころでは無かったので流された『例の件』だが、騒動が終わった後になるとやはり気にせずにはいられないところであり、要するにあれはどういう判定になるのだろう、コルセスカも何も言ってこないし――。


「ま、どうでもいいか。リールエルバ如き、もう敵じゃないからね」


 強がりでも何でも無く、本心からそう思っている様子の機械女王。

 少しだが感慨深い。

 彼女はもう、本当の意味で『女王』として立っているのだと思う。

 多分それは、これまでの戦い――特にリールエルバとの戦いがあったからこそ得られた資質なのではないか。そう考えれば、俺がああして裏切ったことも――


「でも都合良く正当化するのは止めようね?」


 ――結果はさておき、主を裏切るなんて使い魔としては失格もいいところだ。俺は猛省し、二度とこのようなことが無いようにしなければならない。

 鋭いヘリシューラの視線にぶるぶる震える球体であった。


 ちなみにリールエルバとセリアック=ニアに関してだが、二人は公式にはあの戦いで死亡したことになっている。

 立場的にガロアンディアンの君主が直接保護するのも何かあった時にまずかろうということで、ひとまず『公社』の預かりとなっている。

 セリアック=ニアの方はどうやらレオと波長が合うらしく、わりと仲良くやっている様子だ。何故かは知らないがレオはクレイの頑なな態度まで解きほぐしていたので、やはり天性のカリスマがあるのだろう。ミヒトネッセはそうしたレオの気質を警戒してかさっさと逃げていたが。


「で、二人の情報についてはどのくらい漏れてるんだ? あの戦いの顛末とか、目撃者が多すぎて『色々あって死にました』じゃ通らないだろ」


「まあね。でも二人の生存を知ったドラトリアが即座に暗殺者を差し向けてきたり引き渡し要求をしてくる、という展開は当分無さそうだよ」


 そう言ってヘリシューラが続けた説明は、だいぶスケールが大きなものだった。

 というのは、どうやらドラトリア本国がリールエルバの反乱とか王女たちの死亡どころでは無くなってしまったかららしい。


「私たちが『死人の森』と戦っている間に、世界は凄い事になってたみたいだよ。これに比べると私たちの戦いは扱いが小さいね」


 ヘリシューラが示したのは複数のニュース記事だ。

 どの新聞社も大きく取り上げており、様々な角度から同じ内容が報じられている――『第二世界槍、崩壊』。他にも大きな文字で踊っているのは『全滅の可能性』『安否確認が急がれる』『救出は絶望的』といった言葉だ。

 続けて表示された立体窓に、見ただけでわかる異常な光景が映し出されていた。


「世界槍が――壊れてる、のか?」


「うん。第二世界槍ノーモン=プシュケが崩壊したの。原因は不明。影響や被害範囲も不明。それどころか戦っていた上下の軍勢がどうなったのかも不明」


 確かなのは、空に浮かぶ衛星の一つでもある内世界、スキリシアと繋がった第二世界槍での戦いが終結したらしいということ。

 それも超巨大な世界槍が粉々に砕け散り、無数の残骸と化すことによって。

 両軍は戦闘員の八割近くが行方不明、生還者の大半が『影を失って』心神喪失状態であると言うから凄まじい。死者が一人も見つかっていない、というのがとにかく異様だった。


「ヘレゼクシュ地方に屹立する超巨大な最古の日時計ノーモン=プシュケの崩壊。まあ近隣の地域は大騒ぎだよね。当然ドラトリアも無関係じゃない」


 更にはこの事態を受けてこれまで第三勢力として静観を決めていたスキリシア側で大きな動きがあったという。

 これまで『自分たちの世界槍』で二大勢力が争うことを黙認していたスキリシアの古老たち、深い闇の底で眠っていた『悪なる樹殻を喰らう四匹の牡鹿』と呼ばれる古代の神獣が重い腰を上げ、不遜な新興勢力が聖域でこれ以上の蛮行を働くなら徹底的な反撃を加えると宣言したのだ。

 崩壊した世界槍の調査や行方不明者の捜索は古老たちによって禁止され、スキリシアと二大勢力との関係は急速に悪化している。


「いやまあ、他人様の聖地で戦争して良く分かんないけど壊れちゃいました、で怒られない方が不思議だし、当たり前の対応ではあるよな、これ」


「まあそうだね」


 影世界における神マロゾロンドが最初に創造した御使い――古老の復活に夜の民たちは震え上がった。その権威は槍神教に帰依した神官たちすら容易く翻心させ、ヘレゼクシュ地方の教管区を統括する大司教が大神院の支配から離脱することを宣言、マロゾロンド神官団と駐屯する修道騎士団との戦闘が勃発した。『下』でも状況は似たようなものらしい。


 古き第三勢力の台頭と、内側で揉め始めた二大勢力。

 リールエルバたちの祖国ドラトリアもこの状況と無関係でいることはできず、今のところ上方勢力についてはいるが今後どうなるかはわからない。リールエルバがこの第五階層という狭い地域で始祖吸血鬼たちを解放したことや、『夜の国』を下方勢力側に移動させようとしたことなど皆どうでもよくなっていた。

 何しろ二大勢力で協調して古老たちから世界槍の残骸を奪うべき、なんて意見まであるというのだ。『昼』と『夜』の対立どころか、『昼』同士や『夜』同士でも意思統一が図れずに混乱し続けている。

 この状況は流石のリールエルバとセリアック=ニアもショックだったらしく、ヘリシューラの話ではじっとニュースを追いかけて不安そうにしているとのことだ。


「ついでに言えば、異変が起きてるのは第二世界槍だけじゃないんだよね」

 

 トリシューラが列挙していくニュースは、ひとつでも世界中が激震するレベルのものばかりだった。俺たちが『死人の森』を巡る戦いにかまけている間に、世界はこんなにも激変していたのか――いや、それにしても同時期に色々起き過ぎだ。

 まるで運命じみた力が働いているかのようだ――並べられた大事件を眺めながら、そんなことを考える。


 まず目を惹くのは光と雲からなる第一世界槍・天頂霊廟エルネ=クローザンドで『水晶の司書』を名乗る言語魔術師が起こした『禁呪テロ』事件。人類を融合させ完全で幸福な上位存在にシフトさせる『統合進化計画』を目論んでいたらしい。

 万単位の犠牲者が生まれ、あやうく文明圏が消滅するところだったが、大神院直属の第一修道騎士団――空の民と『御使い』を中心とした精鋭部隊による時空改変と次元隔離によって危ういところで阻止されたとのことだ。閉鎖次元に閉じ込められたこの完全な生命群は、何故か一箇所から自己崩壊を起こし連鎖的に死滅していったらしい。


 第二世界槍・虚構日咎しんノーモン=プシュケ崩壊については今以て詳細不明、スキリシアと外界の関係悪化も深刻だ。前代未聞の事態に人々は混乱のただ中にあり、専門者たちが世界槍消滅によって文明圏崩壊の危険性があるとしたことから、ヘレゼクシュ地方からの大規模な自主避難を決意する者まで数多く出ているという。


 第三世界槍・妖精回廊アリスガルドでは休戦協定が締結された。

 北辺帝国リーヴァリオンに反旗を翻した植民都市国家、地底都市ザドーナの天主アリスは世界槍内部で行われた会談の席で帝国の使節である第二皇女ティターニア=ラータエルス・リーヴァリオンと和睦。

 異様なのはここからで、その直後にこれまで『槍』の形をしていた第三世界槍が『書物』にその姿を変えたらしい。更には天と地に分かれて敵対していた北辺帝国と地底都市周辺の空間が圧縮、『書物化』されて、次元の歪みである『書架』に吸い込まれているという。

 ニュースの映像を見ると確かに地形や建造物が挿絵や文章に変換されて空間に出来た巨大な穴に吸い込まれていた。

 より詳細な解説をしているニュース記事では第三世界槍近隣の文明圏に生じた次元断層がより深まれば『内世界化』しかねないなどと予測している。『新しい月』とか『大断絶以来の世界分化』とか、とにかく一大事らしい。


 今度は気象関係のニュースで、南東海諸島で異常発達した複数の低気圧が確認されており、これが『擬人化された台風の怪物・巨人』の域を超えれば数十年ぶりに複数の第四世界槍・天象嵐柱テュフォンが発生する見込みらしく、最悪の場合は第四世界槍が連続して到来し甚大な被害をもたらすのではないかとのことだ。第四世界槍ってそういう災害的なやつだったの?


 更に第五世界槍・廃棄世界根ルイン=ロディニオでは先史文明の遺産カードを利用して世界征服を目論む闇カード組織ダークジェネシスが暗躍。封じられていた数万枚もの禁止カード、『嘲笑うものペレケテンヌル』が危うく世に解き放たれるところだったが、十二歳までの少年少女からなる呪札決闘士グラディエーターたちの活躍で世界の危機は未然に防がれたらしい。

 ――これについては昨日の朝コルセスカが第一期最終回をリアタイ視聴してたから知ってるし、グレンデルヒも最後のカード解説枠で出演してたから俺もある程度の事情は把握しているのだが、これアニメじゃ無くて本当の事なの?


 第六世界槍・星海統合環バベルでは惑星コーディネートによる開発競争が一時的に休止状態になったらしい。『コロニア』と『パトリ』で敵対しているブランドのトップモデル同士がコラボして異次元の神『来訪者ヴィジター』から天を覆う球層のひとつ土塊天を守り切ったとか何とか。まず用語の意味が分からない。


 第七世界槍・砂鐘霊峰アイオーンでは、武林における九大門派によって『手にした者が天下を統べる』と言われる秘伝の奥義書『九紀真経』を巡る争奪戦が行われていたが、最終的には草の民の血を引く運送業の男と美貌の仙人が書物を神仙郷に封印し、争いを収めたという。しかしその結果として『紀仙』なる超越的存在の介入を招き、新たな戦いが始まりつつあるという話だ。


「なんかこう、他の世界槍って世界観違わないか?」


「そうだよ? 世界槍が展開する『文明圏』の内外では『世界観』が違うの。第六の人たちにとってはここだって独立コロニーとの定期便が行き交う宇宙ステーションと大地を結ぶ軌道エレベータ――まあ実際は縦長の静止衛星に近いけど――のひとつとして解釈されるし、あちらの『文明圏』では実際に『そうなる』」


「んん? どういう意味だ?」


「そのままだよ。第七だったら他の槍は『山』だね。遠くからそう見える、というだけじゃなくて、彼らの世界観ではそういう現実が展開されているの。私たちに『槍』が見えているのは、この文明圏が槍神教の強い影響下に置かれているから」


 よくあることだが、初耳だった。

 これらのニュースも『上』の情報源がメインだし、『下』では更に色々な事が起きているだろうと容易に予想できる。

 俺が知っている世界、俺が手の届く世界なんてほんのちっぽけなものでしかないと改めて実感する。紀人となり、第五階層となり、シナモリアキラは際限なく増え続けているが、これも世界全体から見ればほんのわずかな広がりなのだ。


「人間の拡張、世界の更新――わりとみんないろんなとこでやってるのかな」


「きっとそうだよ。私たちも負けてられないってことだよね」


 今回のまとめとしては、このあたりが打倒だろうか。状況を整理して、世界における自分たちの立ち位置を確認し、あとは再出発して着実に前進するだけ――そうオチをつけて帰途につければ良かったのだが。

 残念ながら、今回は『綺麗な区切りがつく』という結末と縁が無かったらしい。


 階層北西部の『港』に停泊している修復中の巡槍艦に近付いていった俺たちは、そこで見慣れない来客の接近に気付いた。

 ノアズアークとは別の巡槍艦だ。

 特定世界槍の文明圏内でのみ次元間移動を可能とする大型呪動艦船は、世界槍ごとに大きくその姿や駆動原理が異なるというが、俺たちの目の前で寄港しようとしている船舶は極めて異質な存在感を放っていた。


 なにしろ木製だ。

 古めかしい帆船どころか、巨大な樹木を枝も切らずに横倒しにして、中を少し切り抜いて居住可能にしている、といった外観。予備知識が無ければただの大樹にしか見えない、あまりにも『自然と親和的です』みたいな主張を押し出した船。人工的さを意図的に排除しようとして、かえって異様に見えている。


「あれ、第八で運用されていた巡槍艦だよ。そうか、ルウテトによって『ここは第八世界槍でもある』という認識が取り戻されたから、第八階層から移動できるようになったんだよ」


「第八階層――そういやそんな話してたな」


 港や管制塔を統括するポートシューラが、樹木巡槍艦に各種の指示や誘導を行っている。この船は突然訪れたわけではなく、事前に予定されていた客人なのだ。

 現在、第五階層は復興や『呪文の座』との共同イベントの準備を急ピッチで進める必要があるが、そのための物資が不足している状況だ。各種生産プラントやトリシューラが持つ謎の補給ルートもほとんど機能していないようなので、実はこのままだとかなり深刻な事態に陥ってしまう。


「よっし、これで補給物資は確保できそう」


 そんなわけでトリシューラが頼りにしたのはコルセスカ――というかその使い魔であるアルマのコネだった。何でも、かつて第八階層の最前線で巨人と戦っていた時に『松明の騎士団』を支援していた商人がいるらしい。

 現在もなお戦乱の絶えない第八階層で『神群連合』や『魔将軍』、『ティリビナ解放戦線』や『レルプレア教団』といった勢力全てに武器を流して戦いを煽る死の商人。迷宮区の至る所に出没する死体漁りの行商たち。


 俺とヘリシューラが港に降り立つと、巡槍艦と繋がった舷梯タラップからひとりの若い男が姿を現した。状況から考えて件の商人たちの代表だが、俺は絶句していた。その顔に見覚えがあったからだ。

 共有された情報によって、ヘリシューラの表情も凍り付く。

 男は深く腰を折り、臆面も無くこう言ってのけた。


「直接顔を合わせるのはこれが初めてですね。改めて自己紹介を。僕はセロナ・ハーヴェスト。ええ、ゼドが内包する死神が一人、と言っておきましょう」


 名乗りと同時に、なんとも朗らかで心温まる風が吹き付けてきた。

 うららかな昼下がり、太陽に照らされた一面の畑には鮮やかな色に彩られた大地の恵みが並び、人々は収獲の喜びに満足げな笑みをこぼす。

 人類史における最初期の文明が記憶した歓喜の体験――質感を伴った幻が俺たちの前進を走り抜け、感動的な衝撃が心身を揺さぶっていく――強制遮断。


「何だ――今の異質な宣名は」

 

 聞いていた代表者の名前はセロナ・ハーヴェストでは無かったが、まさか騙りではあるまい。その宣名圧は紛れもなく背後の巡槍艦全てを含めた『所属と立場』を知らしめる名乗りだ。俺たちは知らず最悪の敵に縋ろうとしていたのだ。

 純白の礼服――肩に下がった薄い布地やふわりと広がった足下、小舟のようにも見える木靴など、やや民族衣装的なテイストを取り入れた装いの男はその見た目を裏切らない穏やかで快い響きを口から発してくる。それはちょっとした恐怖体験だった。油断するとずっと聞き入ってしまいそうになる美声だったのだ。


「今日の糧から明日の槍まで、我々『ガリヨンテの鎌』はどのような商品でも迅速にご用意致します。口さがない者たちはダンジョンの死神、卑しい盗品売りなどと呼びますが、いたって誠実な商売をさせていただいておりますので、どうかご安心下さいね」


 よろしく、と眼を細めて微笑む美貌の若者。

 相手の脳髄から強制的に信頼を引きずり出すような暴力的な笑顔と柔らかな物腰は俺に最大級の警戒心を抱かせるのに十分だった。絶対に人に悪意を抱いたことが無さそうで暴力を働けそうも無い体格と振る舞い――だからこそ確信した。こいつはこの笑顔のまま拷問と殺人を容易く実行できる。感情制御アプリなど無くとも心を全く動かさずにいられるタイプの人間なのだ、と。

 ゼドと言っても、俺やアダスとは対極に位置する存在。

 胸の奥に冷たさが広がっていく。

 断言できる。こいつがゼドの中で一番やばい。


「アキラくん!」


「ああ、言われるまでも無い!」


 召集された『マレブランケ』がセロナの周囲を取り囲む。

 近場にいたグレンデルヒ、ルバーブ、オルヴァといった主力が真っ先に集まり、即座に呪術発動の準備を済ませていた。

 剣呑な雰囲気の中で、セロナは全く動じることが無かった。


「紀神ルウテトを退けたことで、氷槍の存在は明らかになりました。本来の世界軸である第八世界槍との接続は強まり、『生ける森』の抵抗は激化するでしょう」


「だから何? あなたを放置する理由にはならないよ」


「これまで『上』と『下』が第五階層の状況を静観し、休戦ごっこをしていたのは紀神ルウテトを警戒していたからという理由以上に、『過去』の異界と戦っていたからです。今回の異変で第五階層だけではなく、各階層の『緑』が本格的に目覚め始めます。第八世界槍ティルブ=ユグドラシルの再生を目指して、ね」


 俺たちは言葉に詰まった。

 セロナの言うとおり、ティリビナ人たちが団結し、侵略者たちへの抵抗運動や独立を求めて動き始めていることは確かだったから。

 問題は――どう考えてもこの地の正統な住人は彼らだということ。

 言うまでも無く、彼らが解放を求めている『侵略者』とは俺たちを含めた全ての勢力のことだ。新しく到来した『春』が誰のものなのか――俺たちはその答えから目を逸らすことができない。


「アダスは少し不満そうですが、最初から僕とレナリアはあなたとやりあうつもりはありませんよ。僕たち総体にとっての目的は果たしました。アダスを慕う『盗賊団』――探索者たちは僕にとっても上客だ。第五階層との関係は保ちたい」


「それでこちらが納得すると?」


「杖の魔女は賢明な判断を下すでしょう。これから先の戦い、とりわけ第八階層に挑む際には僕の力が――『ガリヨンテの使徒』の助力が必要になる。当然、『レルプレア教団』の教主オファグリートとはいずれ接触するつもりなのでしょう?」


「否定はしない。けどそれは自力でどうにでもなる問題だよ」


「凍結状態にあるアルメ=アーニスタの前世体――あれを仇敵であるティリビナ人と巨人は血眼になって探していますが、僕はその所在を掴んでいます」


 瞬間、トリシューラの表情が硬直した。

 二人の会話に出てきた耳慣れない言葉――それは俺が知らない第八階層の情勢に関わる問題なのだろうが、コルセスカの使い魔であるアルマに関係したこととなれば俺も無関心ではいられない。ここにはいないコルセスカはなおさらだろう。

 セロナは情報に食い付いてきた俺たちの様子を確認して満足そうに微笑んだが、さすがに即座に餌を与えるような真似はしなかった。


「ただ、少々面倒なことになっていまして――まあ詳細はまたいずれ。どうでしょうね、僕がわりと貴重な情報源に見えてきたんじゃありませんか? 今はまだ仲良くしておくのがお互いにとって得策なんじゃないかな」


 セロナはあくまでも敵対する気が無いと言っているが、そんなのはゼドだって同じだったはずだ。正直に言えば、何度か共闘した奴に対して多少の仲間意識が無かったと言えば嘘になる。

 信用は全くできない。

 だが、最も大きなティリビナ人コミュニティが存在する第八階層と深い繋がりを持ち、ティリビナ人たちの事情に通じたセロナ・ハーヴェストの助力は喉から手が出るほどに欲しいものだ。特に今は、切実に。

 ヘリシューラは重々しい口調でセロナに問いかける。


「確認しておくけど。貴方のその動きは魔将マーネロアの差し金なわけ?」


「ウーコンさんとは、ごく個人的な友人というだけですよ」


 部分的な否定を含んだ肯定の言葉――恐らく魔将や下方勢力との直接的な繋がりは無いというニュアンスなのだろう。隣に立つトリシューラから、警戒を解かず、しかし決定的な判断を保留にするというメッセージを受け取った。俺にとってゼドが敵であることは変わらないが、今はまだ手を出すべきではないとトリシューラが言うのならそれに従うまでだ。憎悪も敵意も、必要な時に解放すればそれでいい。


「ふふ、どうやら方針は決まったようですね。それでは、今後と――」


 セロナの発言が強制中断され、その微笑みが衝撃で歪んでいく。めり込んだ拳が捻りを加えながら青年を仰け反らせ、そのまま吹っ飛ばした。おいおい、せっかくこっちが忸怩たる思いで手出しするのを我慢していたっていうのに、誰だよ先走った阿呆は――と思っていたら、セロナをぶん殴ったのは俺だった。球体ドローンから唐突に生えてきた左腕が勝手に動いていたのだ。


「ふふん、余裕ぶった態度でちゃっかり『第五階層の住人』扱いされようなど百年早いです! 商人であるあなたの狙いはおおかたメートリアンたちの『トラスト』でしょうけど、残念ですが失敗です! なぜならこの私、シナモリアキラ様の左腕であるディスペータがいるのですから!!」


 こんなにやかましい奴だっけこいつ。

 というか遂に無機物にまで生えて来やがった、まじで手に負えない。ヘリシューラがこの器を放棄するようにと叫んでいるが、俺は即断できなかった。というのは、こんな無機物タイプの器にも生えてくるとなるともう逃げ場になりそうな器がありそうに無いことがまずひとつ。


 そして更なる問題は、俺が器に宿らず概念的存在として実体世界から離れた場合、第五階層の『左』と認識された方位から巨大な『左腕』が出現するという最悪のケースがあり得ることだ。

 あるいは『第五階層の登録済み住人』すべてを俺と認識してありとあらゆる人々の左腕にディスペータが現れる、なんてパターンだったら更に最悪だ。

 そんなことになるくらいなら、俺が耐えた方がまだ低リスクと言えるのだ。

 現れただけでその場にいた全員の表情を引き攣らせたディスペータは、ルバーブとオルヴァに「元気してましたー?」とにこやかに手を振っていた。正気か。


「ぐ、あなたは、『死人の森の女王』――? 何故そんな姿に、一体これは」


 予期せぬ暴力に驚いているセロナに、ディスペータが追い打ちをかける。


「はい黙る。そして傾聴。『生死の誓言』よ刃を研げ。『信仰』の祭司、『誓約』の裁定者、『豊穣』の神官が種を貸し付けを許す――子々孫々、流転する来世、暗き死後の地中までも抵当に定め、未来永劫に奴隷の運命を言祝がん」


 ぎょっとするような詠唱だった。ヘリシューラが瞬時に呪文の意味を解説してくれたのだ――それは、古代の経済における信用取引について定めた法。過大な債務によって奴隷を誕生させ、身分制度を固定化して『王の権力』を肥大化させるための呪文。死後や来世での取り立てを前提とした『絶対遵守』の法であるため過去の商人たちはその誘惑に抗えなかったのだとか。『死人の森』はそうやって栄えてきたという歴史的な事実があるらしい。


 ディスペータの『絶対遵守』の権能は王国の法にまつわるものだが、とりわけ『富』、すなわち古代においては『信用』を扱う権力だったようだ。

 この世界において『呪的権威』『個人の信用』『存在の強度』『承認』『名声』などの形の無いものは交換可能な呪的価値だ。

 神の名において発生した債権と債務を相殺して決済に至るまでの流れは石板や賢いまじない使いの保証という名の『帳簿』につけられ、『呪い』による拘束力がリスクを低減させる――貝殻による貨幣経済に先立つ呪術信用経済は、優れた呪術師を多く保有しているほど潤うことになる。

 『死人の森』が有する歴史と権威はそれ自体が富の源泉なのだ――セロナやトリシューラはそれを理解した上で『死人の森』を欲したのだろう。


 その呪力が、いまセロナに牙を剥いていた。

 俺の左手でディスペータの瞳が淡く輝く。邪視、いや灰の色号と言うべきか。

 ディスペータの強制誓約呪文と対商人に特化した史実参照の誘惑呪文の連続詠唱に対し、セロナは瞬時に対抗呪文を組み上げて発動。それをディスペータは一睨みで打ち消したのである。それも、わずかに時間を遡って。

 

「稚拙な対抗呪文。打ち消しに対する私の打ち消しに応じたカウンターを用意しておくこともできないとは、死神が聞いて呆れます。私の最も優秀な教え子は、この程度なら片手で解体し、一言で誓約破棄できますよ」


 呪文発動の時系列に割り込みをかける灰の色号は呪文の打ち消し合戦において最も有利な呪術系統である――そんな知識を披露してきたのは、俺の視界の左側にいつの間にか現れていた小さな二頭身キャラクターだ。

 右端のちびシューラが俺と一緒に愕然としている。

 いやまさか、左腕だけじゃなくこんなところにまで。

 「ちびルウですよー」などと言いながら、デフォルメされた冥府の女神が俺とちびシューラの世界に入り込んできていた。

 一方、実世界では左腕が楽しそうに言葉を連ねていく。


「大丈夫大丈夫、第五階層が成功して立派になったらちゃんと利子つけて払いますから、死の取り立てと紀元槍の架空帳簿に誓って取りっぱぐれはありませんから、ほーら売上だけが上がっていくー♪ 一億年後が楽しみですねー」


「悪魔! 邪神! 無法者! こんな契約は無効だ!」


「馬鹿ですかあなたは。王か祭司か村の長――立会人が取り持った契約は王国の法に守られた絶対遵守の約束。しかしそれを担保するのは神の権威、神の力です。つまり契約の事実もあなたたちの生殺与奪も王による踏み倒しもこの私の匙加減ひとつ、ということです。処刑しますよ?」


 古代の野蛮人かよ。

 信用も法も失われてそうな最悪の言動をするディスペータだが、王が商人に対する借金踏み倒しとしてはありふれているといえばありふれている。

 ディスペータはその辺を踏まえた上であえて邪悪な言動をしているのだろうし、実際は紀神としての権能を振るう以上、本質から逸脱することはできないはず。


 恐らくだが、これはディスペータによる俺たちへの支援呪術だ。

 資産も信用もボロボロな俺たちの王国がセロナに支払い可能なほど繁栄しなくてはならない、という誓約。

 絶対遵守の呪力が働く以上、俺たちはもはや成功するしかない。

 呪的な補正がかかるとすればこの契約は双方にとって都合がいい。

 その事に気付いたのか、セロナの眼の色が変わる。

 いや、『誘惑』されたのかもしれない。こいつも死神ゼドが内包する紀神ではあるが、同時に『豊穣』を運ぶ商人でもあるのだ。

 俺の左腕に新たに宿った力――ディスペータの権能は、紀神にすら通用する。

 

「どうですか? 流石はディスペータ、とか褒めてもいいですよ? 私さえいればもう安心、にこにこアキラ様を騙そうとする死の商人や、ゆるふわアキラ様を誘惑する毒蛾みたいな概念店員には二度と大きな顔をさせませんからね!」


 ふんすふんす、と鼻息荒く仰け反るちびルウと、何故か「しゅっしゅ」とか言いながらシャドウボクシングを始める左腕。周囲の視線が恥ずかしい。ちびシューラがちびルウに殴りかかるも、ちびルウは短い手によるぐるぐるパンチを全てかわして鋭いカウンターを放つ。ちびシューラが吹っ飛ばされてダウン、テンカウント後も立ち上がれない。なんだこいつ強すぎる。


「あっ、ところでアキラ様、慌ただしかった上にアキラ様が逃げ回るので周囲への挨拶が全く出来ていません! 久しぶりに教え子たちともお話したいですし、オルヴァやルバーブとも今後の話をしておきたいですね。いずれは私と六王みんなでアキラ様の中に包括されるのが理想ですが、パーンあたりは嫌がるかしら? そのあたり、どう見ますかオルヴァ?」


 セロナ包囲のために集まったが役割を失って立ち尽くしていたオルヴァに話しかけるディスペータ。そこには気安さしかない。王権を巡る叛逆など茶番だったとでも言わんばかりである。この女神、本気で六王を可愛らしいペットか何かだとでも思っているんじゃないだろうな。


「――おお我が麗しの女神よ、終端は遙かに遠く、終わらぬ遊戯もまたいずれはブレイスヴァの貪りからは逃れられぬであろう」


「そうですか、それならしばらく楽しく遊べそうですね。ルバーブも、変わりなくオルヴァと仲良しみたいで良かったです。頑張って一緒にマラードを取り返しましょうね。レッテの存在さえ否定しなければ、ラプンシエルたちとも上手く付き合えるでしょうから、当分は『使い魔の座』との協力態勢を維持しましょう」


「――恐れ多くも偉大なる死の女王よ。いや、今はディスペータ殿とお呼びした方が良いだろうか。ディスペータ殿はもう少々、なんというべきか――」


「あ、人の気持ちなら分かった上で無視していじめるので諫言は結構です!」


 苦言を呈するルバーブに、軽やかに言い放つディスペータ。

 流石は戦闘決着の直後、遭遇したクレイに「はーいママですよーイメチェンしたんですけど似合います? そしてこのアキラ様が新しいパパ! 左腕ママと一体である身体パパなので、アンドロギュヌス的な『親』を持つクレイはもう母や父には縛られません! おめでとう、ありがとう、巣立ちの日です良かったですね!」などと言い放ち虚脱状態にさせただけはある。


 お前分かってんのかクレイに消えない傷を刻み過ぎだぞ。旅に出ようとしたクレイをコルセスカがどんなに苦労して止めたことか。そしてそのコルセスカすら最近は現実逃避気味ですっかり引きこもってしまっている始末だ。

 今まで俺はトリシューラのことをさんざん性格が悪いと扱き下ろしてきたが、実はトリシューラは可愛げの塊だったと今なら言える。

 性格が悪い、とはこういう邪悪な奴のことを指すのだ。

 グレンデルヒを完全に無視しているあたりもこう、何と言うか。


「ディスペータ。せめて普段はもう少し大人しくしていることは出来ないか?」


 有効な封印手段も無い現状、せめてウィッチオーダーの別形態を使用できるように交渉してみるのが最適解か――そう思って話しかけてはみたものの、ディスペータの反応は鈍い。というか、こいつは俺の言う事を基本的に聞かない。

 

 ――どうして私が、たかがトロフィーの意を汲んでやらねばならぬのでしょう。


 彼女は俺を愛している。

 自分自身の、拡張身体として。

 クレイのように、六王のように、何も望まない、何も期待しない、矮小な存在として――いや、本当にそうか? 彼女はクレイを諦めているようで、実際には期待をかけてはいなかったか。ならば六王や俺に対しても――。


「私も、あなたの拡張身体なのですよ」


 どこか寂しそうに、俺にだけ聞こえる声でディスペータが囁く。

 俺の義肢、俺の左腕。

 俺が最も頼みとする道具――その在り方が、彼女の本当の望みだったのか?

 ゼドが俺に求めたような、強引で性急な融合で反感を買ってでも得たかった立場がこれだというのだろうか。


 俺はルウテトのクレイに対する態度を非難した。

 親が子供を拡張身体として扱い、自分の理想を代行させるための道具として扱う傲慢、家族として振るわれる権力を間違っていると糾弾した。

 それは、俺自身が第五階層を拡張身体としているから――共同体そのものが俺を構成するならば、ルウテト的な思想は権力の暴走を招く。俺の手足である第五階層の住人には何をしてもいいという思想がそれだ。例えば独立を求めて抵抗運動をするティリビナ人たちを強制的に従わせるなんてことを俺が実行したらどうなる?


 それがサイバーカラテによる暴力の濫用に繋がるとすれば、俺はそう在ってはならない。それは小鬼への道、義にもとる振る舞いだからだ。それはレオのような正しさから最も遠い在り方だ。俺はレオにはなれないが、彼だけに正しさを押し付けてはならないと思っている。プーハニアを救えず、ティリビナ人たちと対峙できない俺は、せめてレオのような正しさの欠片から自らに可能な『最適』を模索し続けなければならない。天才でも達人でもない凡人による答えの追究――それがサイバーカラテの紀人である俺がとるべき態度だ。


 ならば、俺のルウテト=ディスペータに対する態度はどうだ? 

 強引に俺の一部となったとはいえ、既に彼女を切り離すことはできない。

 俺に従属する道具であるディスペータに、俺は本体として権力を振るうことができる。彼女は俺が本気で求めればその指示に従って左腕として働くだろう。

 制御はすべきだ。俺の左腕は危険な暴力なのだから。


 ディスペータは俺の力であり、罪でもある。彼女は俺が罪を犯すことを赦すだろうが、それは俺にとって苦悩の始まりとなるだろう。

 彼女は俺を愛している。

 俺が罪に怯え、悩み、苦しみ――カインを殺したその瞬間、罪悪感を誤魔化す罪悪感に耐えきれず『E-E』を遮断した弱さを肯定している。

 この苦痛と懊悩こそが彼女の望み。

 熱病のような加虐、拡散し変容していく俺を俺のまま繋ぎ止めたいという恋が彼女の最初の願い。そしてその願いは、確かに果たされていた。

 シナモリアキラとは何か?

 その問いの答えこそが、今ここに在る俺たちだ。


 ――どうか信じて欲しいのです。私は、アキラ様の愛する人の敵かもしれないけれど――けっして、あなたの敵ではありません。それだけは、覚えておいて。


 多くを望んだわけではない。

 彼女は、ただ俺の心を傷つけたかっただけだ。

 痛みと苦しみ、その反射こそが美しい。

 世界への反射こそが心の輪郭を形作るのだと、そう信じていただけ。


 俺は途轍もなく大きな力を抱え込んでしまった。

 グレンデルヒ、ルバーブ、オルヴァ、ラプンシエル、そしてディスペータ。

 トリシューラが『女王としての器』を証明したように、俺もまた紀人として自分を律し続けなければいずれ小鬼に堕ちるか邪神と成り果てる。

 六王との戦いで直面した権力の悪性――その力は至る所に存在している。

 国家をはじめとした共同体、師弟関係から学校まで、更には生命が最初に直面する権力の場としての家族、人と物、創造主と被造物、ありとあらゆる権力関係。


「ディスペータ、俺は」


 言葉を遮るように、ちびルウが唇の前で指を立てた。

 それから物理的な左手が動き、指先が球体ドローンの上方を軽く叩く。

 彼女は俺に言葉を期待していない。

 俺に出来るのは、多分これからも行動で示すことだけだ。

 そして答えはそこにしかない。

 左手が反転し、手の甲が視界に現れた。

 死者の顔が露わとなり、深い闇をたたえた口が一方通行の愛を囁き続ける。


「安心して下さいね、アキラ様。第五階層に害をなす全てから、私はあなたを守ってみせる――ラクルラール、未完成の女神。あれは私が必ず否定します」


 『死人の森』を巡る戦いはひとまずの決着を見た。

 しかし、本質的には何も終わってなどいないのだ。

 ルウテトは転生して左腕のディスペータとなり、未だに『第一位』とされるラクルラールが何者だったのかは明らかになっていない。

 最大の脅威、最大の敵、最大の味方――全ては曖昧なまま、『今はまだ』とばかりに結論を先送りにされていく。

 女神たちのゲームは、まだ始まったばかりだ。





 かつて悪鬼たちが根城としていた比較的浅い領域を占拠した軍勢はいまや第六階層を完全に掌握していた。狂怖ホラーや呪動兵との激戦を経てもその勢力は衰えていない。新たな階層掌握者による『創造クラフト』が、グロテスクな壁面や血塗れの床を塗り替えていった。


 代わって世界を彩るのは優美な曲線を描く柱や壁、球形屋根の建造物。

 かつて最も美しい王が愛した麗しの故郷、その記憶を純化した誰にも侵されない聖域の光景がそこにあった。

 掌握者アルト・イヴニルの呪力はかつて以上に高まり続けている。

 第五階層の争いから半身アマランサスを分けて撤退したアルトは、第六階層での拠点固めをほぼ完璧に成功させていた。


「『王国』の展開は順調です、陛下」


「ご苦労」


 最も大きな球殿――その中で玉座に腰掛けた王は、軍団長たちの報告を聞きながら、ずらりと並んだ十二の怪物を眺める。紫の天主にとっての『マレブランケ』は彼が引き継いだ王権を証明する力だ。彼はこの軍勢を使って大魔将イェレイドさえも第六階層から追いやることに成功していた。


 この小世界の新たな名はラフディ=ガロアンディアン。

 揺り籠に『心臓』が降臨する日に備えて力を蓄えるアルトにとっての城であり、いずれ救世主を迎えるための自分専用の揺り籠だ。

 しかし一方で、不確定に揺らぐ存在を融け合わせる融血呪の青い呪力が彼を再定義し続けてもいる。彼は絶え間ない苦痛と存在の危機に苛まれていた。


「俺は――私は、誰だ」


「王よ、あなたはマラード」


「王よ、あなたはアルト」


「そしてアレッテ、あるいはバーガンディア」


「新たに第十三の細胞となった、『(ファルス)』のアルト・イヴニル」


 臣下たちが答えるたび、分裂しそうなアルトの存在が安定し、王の苦痛が和らいでいく。彼は承認を欲していった。それが無くてはその五体はバラバラに千切れ、彼は彼でいられなくなってしまうだろう。

 王の両耳で耳飾りが光る。

 それは車輪十字を象った装飾品だった。十字は男根、円は女陰、円と十字が組み合わさった太陽十字は聖婚の証である。


「おお、終端よ、苦痛にささやかな慰めを! 哀れな友の罪、その罰にわずかばかりの憐れみが与えられんことを――」


 アルトの瞳に十字の光が宿り、その表情に別の顔が重なる。

 老人、青年、あるいは少年。流転する隠者の十字瞳には同情があった。

 またその顔は狂気を宿したウサギのようにも変わり、かと思うと傲岸不遜な覇者の眼鏡越しの鋭い視線を再現したりもした。

 六王の闘争で漁夫の利を狙い、彼らの力を『断章』ごと簒奪しようと目論んだアルトは、最後にはカーティスに敗れ、更にはルウテトやラクルラールの支配力に抗いきれず闘争の渦から身を引いた。

 しかし、得たものもある。


 再演された『役』として、六王たちの力をその身に統合しているのだ。さながらシナモリアキラがルバーブとオルヴァを取り込んだように。

 だが、アルトにとってそれは存在を脅かしかねない試みだった。

 気を抜くと存在を持って行かれそうになる恐怖、常に叛逆の危機に怯え続ける運命――自分の中で六人が相争い続けているからこそ均衡が保たれている。

 一瞬でも調和が乱れれば、六王に比べれば小さな力しか持たないアレッテはあっさりと消滅してしまうだろう。


「王よ、あまり六王の力を再演すべきではありません。御身が完全に掌握できているのは『愛情』と『道徳』――マラード王とアルト王の二つのみ。戦いに際してその二つ以外を用いれば、あなたの自我は損なわれていくでしょう」


 軍団長のひとり、側近である朱色の球神官が王の身を案じて言った。

 馬鹿馬鹿しい、と王は笑う。これは彼の傀儡。自ら創り出した幻想だ。

 彼が自分で自分の身体を労っているに過ぎない――つまりは甘え。

 二つでは駄目だ。それでは足りない、シナモリアキラと同数ではないか。

 危険を冒してでも更なる力を手に入れる必要がある。


 飢えのような衝動は、アルト・イヴニルの精神をじわじわと蝕んでいった。 

 自己を拡張する、存在を変容させるという行為への忌避感、自分が自分で無くなっていくという恐怖。耐え難いストレスがアルト・イヴニルを襲う。

 それでも彼は力を求めた。


「諦めるのは得意――自分の存在だって、諦めようと思えば諦められる。それでもたったひとつだけ、欲しいものがあった」


 巨大な力を手にした魔女は、多くのものとひとつに融け合い――けれどこの第六階層で独りきりだ。遠くて近い、第五階層のことを思う。そこにいるはずの半身たち――ミヒトネッセとアマランサスの顛末は聞いている。彼女たちはきっと大丈夫だ。ラクルラールの人形たち、その運命にとっての希望となる道を示してくれた。


「ならば次は」


 独白は止まらない。彼はずっと寂しかった。彼と彼女はずっと愛を求めていた。だからこそあの瞬間、マラードはアレッテを拒絶しなかったのだ。

 どこかから紙片が舞い降りてくる。

 紅紫の長い髪がどこまでも伸びて、六王が所持していた『断章』の残滓を回収し、再編しているのだ。

 やがて紙片は青い血によって統合され、『王国』の象徴が完成する。


「――私の求める王国、俺が求めた力」


 それはもっとも原初的な『王国』の最小単位にして基本形。

 愛の果てにある共同体のひとつ。

 家族という、最小単位を父と母と子の三要素で構成可能な聖なる形。


「人と人はわかりあえる。繋がれる。そんな夢物語を求めて止まない強い渇望が、都合の良い虚構を生み出す」


 ならば逆も言えるだろう。

 権力を有する王国から辿り、原初的共同体、村、家族と遡った果てにある力とは、権力の根源とは何か。アルト・イヴニルが追究した答えはそこにある。


「それは『善』。それは『正義』。それは『慈悲』。それは――『道徳』」


 正しいもの。素晴らしい真実。美しい理想。尊ばれるべき美徳。

 それは確かにあるのだと、アルト・イヴニルは信じている。

 だがアレッテとマラードは、飢餓で気が狂いそうだった。

 子供たちはそれを信じられず、ゆえに求め、親と家族という権威にどうしようもない恐怖を抱いていた。だからこそ、二人でなら求められるのだ。


「ああ、崇高なるトリアイナ様。その本質こそは『愛』に他ならない」


 欲しいのは『愛の力』だ。

 全ての根源、全ての答え、全ての極点。

 森羅万象は青い海の底、珊瑚色の心臓あいから流れ出す。

 破壊の権力に脅かされたり傷つけられたりしない、ただ与えるだけの心。

 愛がもたらす大いなる権力に触れることで、アルト・イヴニルは救済される。


「『私』だけしか見ていない邪視の座も、嘘で空虚を誤魔化す呪文の座も、孤独な杖の座も、末妹には相応しくない。繋がり合う心が『愛』を形にする」


 最初から失われていたもの。

 生まれた瞬間に約束されているはずだった幸福。

 家族からの愛、世界からの愛、運命からの愛。

 だがそれは与えられなかった。

 誰もそれを勝ち取る方法を教えてくれなかったのだ。


「ああ、そうだ。俺は――私はそれだけを求めていた。愛したい。愛されたい。抱きしめたら抱きしめ返して欲しい。大いなる赦しが、絶対的な抱擁が必要なのだ。俺が、まがいものの私がここにいていいのだという救済が!」


 マラードとアレッテの声が重なり合い、顔が交互に表出する。

 俺は真実の愛が欲しい。マラードが悲鳴を上げる。

 私は本当の愛が欲しい。アレッテが慟哭を響かせる。

 『心臓』の降臨はその願いを成就させる。二人はその為だけに手を結んだ。これまでの愛を裏切ってでも、永遠を求めて。

 十二の軍団長は王の絶叫をただ静かに見守っている。

 その末席で、愛されたことの無い赤子たちが絶望の産声を上げ続けていた。






「死体だ。俺が殺し、俺が糧にし、俺が踏みつけてきた――無数の死体こそが俺の自我の礎に他ならない。俺は死体で出来ている」


 第六階層は占拠された――では大魔将イェレイドたちはどこに行ったのか?

 答えは第七階層――魔将ガドールが支配する領域に身を寄せた大魔将イェレイドは、小鬼が支配する浄界を強引に奪って自分のものにしていた。

 悪趣味で破綻した世界を、より悪趣味で破綻した世界が塗りつぶしていく。

 そんな光景の中で、男は夥しい数の小鬼だった存在の死体を集めていた。

 殺すたびに増殖する小鬼――それらの死体を寄せ集めた継ぎ接ぎの怪物が出来上がっていく。半透明なアストラル体の男は、その継ぎ接ぎ死体を『器』にしようとしている。それが『火車』のシナモリアキラが有する自己像だったのだ。


「んー、物足りないな。よし、これならどうだ」


 深い闇の中に聳える宮殿という形に変容していく世界で、自身もまた変容していく火車。多種多様な死体からめぼしいパーツを選び取って、着飾るように自分を再構築している。頭に猫耳などを乗せてにゃーんと鳴いてみせるが、さてこの小鬼は異界からやってきた猫の成れの果てだったのだろうか? どこかから荷車を持ってきた『火車』は、にゃんにゃんと鳴きながら愉快そうに死体を蒐集していく。


 集めた死体つみを車に乗せて、継ぎ接ぎをした死体のホラー。

 その姿はさながらフランケンシュタインの怪物、アストラル体でしかなかったオリジナルのシナモリアキラはもはや決定的に別人になりつつあった。

 ジュストコールにジレ、膝丈のキュロットという衣服を見繕うと、複雑怪奇な彫刻で不気味に飾られた宮殿に自分の装いが嵌まっていることに満足してにゃあと鳴く。動き出しそうなほど圧倒的な質感の大理石彫刻に背を預け、すぐ近くで浄界の造形を弄っていた少女に声をかける。


「で、結局ガドールって奴から滞在許可は貰えたんだっけ?」


「ええまあ。落ち着いたらあなたをマーネロアさんやセレクティさんに紹介してもいいかもしれませんわね。ああいえ、フィレクティさんの方が面白いかしら?」


「でかい青鹿の妹の方だろ? なら知ってるよ。ダンジョンの至る所でショップ店員やってるからな。盗んだら死ぬまで追い回されたけど」


 大魔将イェレイドは『火車』の方を見る事も無く答える。

 少女の姿は後ろから見ても美しい。

 その装いには思想が感じられた。暗めの色調で全体のトーンを統一し、宝石、ひだ襟、レースのカフス、手袋、上着の縫い目に至るまで、偏執的な細部へのこだわりと曲線の多用で装飾過多な美を表現している。


 何もかもが陰鬱な方向に華美な少女だった。

 黒いリボンに複雑で絢爛な花綱飾り、ヴィラーゴスリーブと呼ばれる肘の上下に二箇所のふくらみを持った袖のあるドレス、絞られたウェストの締め付けから続く膨らんだフープスカートからは牙がちらりと見え、中を覗き込めばグロテスクな口腔に生物骨格が浮かび上がり、鋭利な棘牙がびっしりと並んでいる。


「あら、いやらしい猫さんですこと」


「エグくてエロいな。一発やらせろ。断ったら殺す」


 答える前に拳がイェレイドの頭部を圧壊させる。

 破壊、殺戮、性欲――暴力的衝動と力の行使が直結していた。

 攻撃的な衝動を発散させた『火車』は、潰した肉塊をあーんと開けた口の中に運び、咀嚼する。衝動は食欲とも繋がっていた――死は生と接続されている。

 そんな火車の凶器となった左腕、その手のひらに殺害したイェレイドの顔が浮かび上がり、愉快そうに喋り出す。


「もう、乱暴ですわね。もう少し紳士的に振る舞えませんの? 沢山いるあなたの中には、もっとお上品な殿方もいるかしら」


 イェレイドの冗談めいた苦言を、『火車』は笑い飛ばす。


「あれは全部ゴミだよ。無節操に『俺』を増やそうと無意味だ。ゼロに何をかけてもゼロだろ。無価値は無価値。まがいものはまがいもの――それは『オリジナルの衝動』である俺にしたって同じだ。俺がシナモリアキラのアストラル体であったとしても、その価値は他の有象無象のシナモリアキラ共となんら変わることは無い」


「では、あなたが第五階層と決別したのはどうしてですかしら」


「さあな。大方、直観的にお前に何かを感じたんだろう。あるいはもっと以前から――レオを助けるために狂怖と戦ったあたりから、お前と共感するための素地は整えられていたとかいう理屈はどうだ?」


「まあ、じつは一目惚れだったと後から判明するお話ですのね。素敵ですわ」


「だろ? 超愛してるぜートリシューラとコルセスカの次くらいに。ハーレムの序列三位に加えてやろう。人気のあるサブヒロイン枠だぞ」


「素敵! 屈辱と嫉妬のあまり第五階層を攻め滅ぼしたくなりますわ!」


 うにゃにゃ、と笑った『火車』は手のひらを撫でながら天を仰いだ。

 ここからは見えることも無いが、二階層『上』には彼が欲するものがある。

 だが、と『火車』は吐き捨てる。

 その瞳には、希望など映されてはいない。


「ガロアンディアンはいずれ爆発する。先はそう長くはねーだろうよ。つか、トリシューラもそのへん前提にして動いてるだろうしな」


「私が虐殺するまでもないですかしら? あらあら残念、黄金と白銀、鋼鉄の三都を砕くこのイェレイドの勇姿をご覧に入れられると思いましたのに」


「トリシューラとコルセスカはこの俺が勝たせる――だが第五階層はもう駄目だ。あそこは、俺たち異獣の世界じゃなくなっちまった」


 暗い瞳、陰鬱な失望。

 シナモリアキラは、シナモリアキラを見限っていた。


「俺に相応しいのはこのくそったれな闇の底だけ。明るい方をアルト・イヴニルにくれてやったのはそういうことなんだろ、イェレイド。ここはもう『王国の外』――辺境、いや『周辺』だ。でかい祭の喧噪だって届かない」


 二人は分かり合っていた。通じ合い、赦し合い、そして孤独だった。

 彼にとって理解者はイェレイドただひとり。

 この宮殿は行き止まりの墓場なのだ。


「ええ、全くもってその通り。あなたは理解が早くて助かります。ああでも、笑ってしまいますわよね。『居場所』だの『家族』だの『王国』だの『共同体』だの――我々と最も相容れない幻想に、シナモリアキラが夢を見ていただなんて」


「居場所が無かったろくでなしが居場所を得て、ついには誰かの居場所になる――よかっためでたしクソ喰らえだ。その先は『愛と勇気で俺たちの居場所を守ってみせる』に一直線じゃねーか。『俺たち』『みんな』ってな」


 その拳はどんな正しさのもと振るわれて、その力は誰の為に捧げられるのか――そんな答えは昔からひとつだけに決まっている。

 『俺たちの敵』から『俺たち』を守るための戦いに用いること。守るため、未来のため、正しい戦いは美しい。正しさとは力を制御する為にある規範ではない。力を制御したことにするための言い訳でしかないのだと『火車』は考えている。


「ちげーだろ。気持ち良くぶっ殺すのを楽しむためだろ。ぶち犯してぶち喰らってとくに意味もねーけど気まぐれに尊い命をカジュアル消費。それが俺だろ?」


「ひゅー、さっすがオリアキまじ痺れる、ガチリスペクトだわー」


「てめえはしつけえんだよカス」


 唐突に湧いてきた『鎌鼬』の顔面を裏拳で粉砕する。

 死亡した男の肉が周囲の死体を吸収して自己再生していく。

 イェレイドの呪力がこの殺人鬼を復活させているのだ。第五階層での戦いから離れた『鎌鼬』は、『火車』を追いかけて死亡した末、面白がったイェレイドによって狂怖ホラーにされていた。何度あしらっても変わらぬ尊敬のまなざしを向けてくるこの相手に、さすがの『火車』もうんざりしはじめていた。


「もうシナモリアキラはこりごりだにゃーん」


 吐き気がする、と心底から忌まわしそうに呟く。

 『火車』のシナモリアキラ――その名前すら厭わしいと、彼は過去の自分、そして現在の自分さえも否定しようとしていた。


「もう俺は今の『シナモリアキラ』とは別のものだ。原初にして剥き出しの俺は――ああ、じゃあこう名乗ろう。『セト』と」


 その発現に『鎌鼬』は「お、ついに前世ネーム解禁っすか」と目を輝かせ、イェレイドは可笑しそうに微笑んだ。


「なるほど、なるほど。元ネタ的には私の高祖父ですわね」


「は?」


 首を傾げた『セト』に、手のひらの人面疽が答える。


「いえ、こちらの与太話ですわ。イェレイドという名は、ジャッフハリマータ表記で歪められたイエレド――猫の国から伝わった人類始祖の一人の名前の転訛なのですよ。ああけれど、セトというのは無垢なあなたにぴったりな名前でとても素敵。これならガドールさんもにっこりですわね」


「嘘吐けお前こないだ『イェル』が恐怖の意味とか言ってただろ」


「にゃーん」


「誤魔化すな」


「てかイェレ様ってなにげに教養深いっすね」


 暗い宮殿の内部は陰気ながらもそれなりに賑やかだったが、そこで交わされる会話は常に空虚だ。彼らには仲間同士などという意識は無い。動物的で刹那的な衝動のままに、好いたり嫌ったり殺したり殺さなかったりがあるだけだ。

 ただ、セトは確かにイェレイドに好意を抱いている。


 イェレイドのことを、セトは何も知らない。

 ただその在り方に見惚れただけだ。

 その美しさと醜さに惹かれただけだ。

 トリシューラとコルセスカに出会わず、第六階層に転生していたなら、きっとシナモリアキラはイェレイドに運命を感じていた。

 だからセトもまたイェレイドを知らないまま慕い続けた。

 愚かな恋人の在り方そのままに。

 イェレイドは嘲笑う。光の世界に生きる者たちを侮蔑する。

 セトの手のひらからどろりと溢れた汚泥が、宮殿そのものと同化していく。世界そのものでもある巨大な異形が、輝かしいもの全てに敵意を向けていた。


「理想と夢想が織りなす美しい平和と共存の混沌世界――いずれ彼らは光が落とす影を知るでしょう。『真なる異獣』である我々が示す『周辺』によってね」


 イェレイドが口にした『我々』という単語に、火車セトは顔をくしゃりと歪めた。

 可笑しくて滑稽で、だが声を上げて笑うほど面白くも無かったからだ。





 トリシューラを守るにあたって、最大の敵はラクルラールとルウテトになる。それは『星見の塔』を出立する前から品森晶=イツノに植え付けられた大前提だったが、それを明確に自覚できたのは全ての戦いが終わった後だった。

 偽装設定が剥がれ落ち、本当の記憶が甦っていく。

 イツノは自覚の無いままに実行していた自らの機能、自らの役割を再確認した。


 無意識に動き続けていた彼女にとって最大の問題だったのがラクルラールが多すぎることと、ラクルラールは味方でもあるということだ。ラクルラールを味方にする、というのが密かに彼女に与えられていた目的であると言い換えてもいい。


「存在と伝承の乗っ取り――ディスペータは妖精王ルウテトに転生することでそれを完全に成し遂げていた」


 前回までのゲームにおいて、イツノの宿敵たる蛇蝎王ハジュラフィンは繭衣のルウテトを殺害することに成功していた。『ラクルラールの座』を占めつつ盤面を掌握することに成功したハジュラフィンとその血族は、確かにキュトスの姉妹の第六位代理として君臨する人形師『はじまりのラクルラール』――そのはずだった。


 だが今回のゲームにおいてはルウテトが『英雄に敗北する女神』という役割を演じたことで力関係が引っ繰り返った。蠍尾(マラコーダ)=フィド・シュガの呪術的な陰陽せいべつが曖昧なのは、それを受けての対策だろう。

 だがその隙をイツノは逃さなかった。


 敵である『はじまりのラクルラール』から座を奪取するのは骨が折れたが、遂に彼女の主人は難業を達成した。第一のラクルラールとその代理人であるフィド・シュガを出し抜き、もう一人の敵であるルウテトとの戦いに千年することが可能となったのだ――その結果がこの勝利。いや、完全な勝利とはいかなかったにせよ、ルウテトが『揺り籠』を掌握することは防げたのだ、少なくとも敗北ではない。


「問題はここから――フィド・シュガをどうする」


 イツノはこの問題を考える時、いつも静謐な心の水面に石を投じられたような気持ちになる。波紋が広がるごとに思い出してしまうのだ。あの優しい微笑み、美しく頼もしい容貌、長い睫毛、心地良い声、長い脚と鋭い蹴り、助けた時に向けてきた信頼は純粋なもので――イツノははっとなって両手で頬を挟む。


「しっかりわたし! わたしにーさまを殺して『わたし』が完全になるまで、浮ついた思考は厳禁! 求めるのは強きアニムス、男か女か曖昧な存在にうつつを抜かしている場合では無いの!」


 自分に言い聞かせるような叱咤激励。イツノはかなり独り言が激しくよく通行人に奇異の目で見られているが、幸いここは彼女が単独で『創造クラフト』した高いビルの上だ。誰にも見られる心配は無い。

 気を取り直して思索を続ける。

 イツノの敵、『元ラクルラール第一位』であったはずのマラコーダとはどのような人物なのか? 彼女は、ずっとその事について考え続けていた。


 地上におけるアヴロノたちは、いくつかの勢力に分かれている。

 『調停者』を自任するティータ氏族は半妖精アヴロノの最大派閥を設立したキュトスの姉妹第四位イストリンの影響下にある。ほぼ全てのアヴロノが『星見の塔』の中庸イストリン派の意向を無視できないわけだが、例外もある。

 中原連合『天秤』と並ぶ勢力である北辺帝国の『貴族』、ドラトリアのカマソッソ氏族や闇社会で妖精武器を売りさばくネビロン氏族から成る犯罪組織『十戒』、辺境を繋ぐネットワークとして存在感を示す『隊商』、そしてそれら全てと敵対している『シュガ王国』。


 地上にあって未だに滅ぼされていない『異獣』勢力であり、現在も北辺帝国の『貴族』と領土を奪い合っているシュガ氏族が、どのような経緯で『塔』の末妹候補と行動を共にするようになったのか? マラコーダの経歴は謎に包まれているが、イツノが調査した限りではトリシューラが『松明』や『第五階層』に干渉し始めた段階で既にこのアヴロノの姿は彼女に近くにあった。

 つまり二人が接触したのはトリシューラが『塔』を出た直後だが、その経緯が全くもって不明だ。それになにより不可解なのは、最初から示し合わせていたとしか思えないほどにスムーズに配下に加わっている。


「接触したのはどちらから――? トリシューラはマラコーダの背後に存在する思惑に気付いていて、利用するつもりで部下にしたの? というよりも、マラコーダの存在はクレアノーズお姉様からの指示があったと考えるのが自然?」


 独り言は誰かに聞かせるための台詞でもある。

 舞台の向こう、あるいは舞台袖、いずれにせよ世界の外側。

 イツノにとってそれは必要なことだったが――その振る舞いは不用意な悪癖でもある。出し抜けに背後から響いた声に、イツノは驚いて振り返った。

 そこに、蠍尾(マラコーダ)がいた。


「いい視点ね。地上のアヴロノなら帝国以外はほぼ例外なく『塔』の派閥争いが関係してくる。『天秤』なら第四位イストリン、『隊商』なら第二位ダーシェンカ、『十戒』なら第五位ディスペータ。『シュガ王国』は第六位ミスカトニカの縄張りよ、妖精王の時代から伝統的にね」


 イストリンがアヴロノたちの庇護者として振る舞うようになったのは妖精王たちの戦争を調停してからのことだ。イストリンの庇護を受けていないシュガ氏族はその代わり、古くからある魔女の知恵を借りてその領土を守り続けてきた。


「蛇蝎王ハジュラフィンの時代には、前六位ミスカトニカが存命だった」


 何かに気付いたように、イツノの表情が強張る。

 対峙するイツノとマラコーダは互いにじっと瞳の中を覗き込み、その中にあるものが何かを探った。イツノは慎重に言葉を放った。


「マラコーダ――フィド・シュガが『私たちの敵である真のラクルラール』というのはもはやダミー情報となったけれど、未だ復権の芽は残されている」


「そうね、イツノちゃんの言うとおり。私は貴方と同じように嘘つきだから」


 この二人は共にトリシューラが無条件で信頼する部下という立ち位置で動き続けてきたが、実のところどのような背景を持ちどのような素性の人物なのか、ほとんど明かされていない謎めいた協力者だ。そして、そんな二人を最も警戒しているのが他ならぬ当人たち同士なのだった。

 イツノは決断した。尻込みしていても結論は出ない。

 ならば迂遠な探り合いより、直裁的に踏み込むべき。


「九姉の六位を巡る椅子取りゲームの監視役。滅びた前六位ミスカトニカの指令で動く代行者ラクルラール、それがマラコーダの正体――違う?」


 沈黙したまま曖昧に微笑むマラコーダ。

 第一位のラクルラールは確かに蠍尾(マラコーダ)である――その情報は間違いではない。間違いでは無かった。かつてトライデントの『尾』でもあったこの人物は、事態を裏で掌握する全ての黒幕――そんな立ち位置を狙っていたのだ。

 しかし、その目論見は挫かれた。

 『星見の塔』の旧六位、かつてのミスカトニカ派は派閥抗争に敗れ、古びた勢力としてゲーム盤のプレイヤーから脱落していった。

 勝ったのはイツノだ。彼女はルウテトにすら勝っている。


「ミスカトニカの不死性は『過去』――既に終わっているから殺せない。劣化や変質はするにせよ、ミスカトニカは再演による過去干渉などでしか手出しできない時空からあなたラクルラールという使い魔を送りこんできた」


 人形師ラクルラールが事実上の六位として振る舞いつつもずっと第六位代理であった理由がそこにある。過去の魔女ミスカトニカは、最初から『前六位である』という性質を有したキュトスの姉妹だったのだ。本人は死しても、その遺志は受け継がれ代理人が役目を代行し続けるという意味での不死――当たり前に過ぎる人類の営みは、それゆえに強度の高い不滅性を有する。


「ミスカトニカは機械女王トリシューラの試みが失敗すると確信している。その動きを監視して、もし危惧通りに破滅に向かったなら――トリシューラの座を奪う。あるいはその毒の尾で一刺しする――役割はそんなところ?」


「陛下が正道を歩む限り、私はあの可愛らしい女王様の味方よ。ミスカトニカ様の正統なる後継者にして新たなる代理人――私たちのトリシューラを脅かすものは全てこのフィド・シュガが倒す」


 そして、王を教え導く教師役は二人もいらない。

 水流の腕が渦を巻き、毒の尾が持ち上げられる。

 剣呑な空気が膨れあがり、やがて萎んでいった。

 イツノは戦闘態勢を解いて、じっと相手を見つめた。


「私はトリシューラに末妹選定から穏便に降りてもらった上で、末妹選定の後を見据えて欲しいと思ってる。『末妹』はトライデントで決まり。なら次に起きるのは当然、内部での勢力争い」


 蠍尾(マラコーダ)は静かにイツノを見つめている。

 イツノは視線を鋭くして言葉を連ねていく。


「『細胞』たちは『心臓』降臨後のポスト争いで必死。出来レースの選定なんて真面目にやってるのは当の候補者たちくらい。なのに、何故あなたはトリシューラに中途半端な忠誠心を向けているの? 貴方は、彼女の無謀な挑戦を本心から支えていくつもりに見える。私にはそれが分からない」


 イツノはトリシューラの味方ではあるが、忠誠心など欠片も抱いていない。

 だからわからないのだ。

 似たような立場であるはずの蠍尾(マラコーダ)が、どうして『マレブランケ』でいられるのか。

 曖昧な性質のアヴロノは、曖昧な微笑みを浮かべて語った。


「私の陛下への忠誠に嘘は無い。私がミスカトニカの代行者ラクルラールであることと、トリシューラの下僕であることは、何ら矛盾しないのだから」


 イツノはそれで理解した。

 多分、トリシューラも事情を理解した上でマラコーダを受け入れている。少なくとも彼女の後見人クレアノーズは全てを把握しているに違いない。だからこそ、今回の盤面に直接介入をしてこなかったのだろう。クレアノーズの嗅覚はより古い香りを捉えるもの。未来と直接対決するには些か分が悪い。


 トリシューラはあれで冷徹に手持ちのリソースを俯瞰している。

 優先度の低いサブ・プランとして、あらゆる状況に適応するための代替品として、使えるものは区別せずに使う――そこに感情や誇りの介在する余地は無い。

 ある意味で『マレブランケ』随一の不忠者、獅子身中の虫となりうる病毒が蠍尾(マラコーダ)であると、イツノははっきりと確信していた。

 つまり、自分たちは同じなのだ。


「そういうこと」


「そういうことよ」


 シナモリアキラは『自らを演じる役者としての一部』をキュトスの姉妹ラプンシエルの座に到達させることに成功した。

 ウィッチオーダーを持つ彼の存在は、ある意味では末妹選定のシミュレーターとして機能している。トリシューラにとってのシナモリアキラは『未来を再演させるための道具』とも呼べる存在なのだ。


 使い魔による実験が成功したのなら、次は本命に向けて調整をすればいい。

 トリシューラをキュトスの姉妹――第六位の『紀』に到達させる。

 両者の思惑は一致していた。

 二人はトリシューラに対して敵意を向けることは無く、時にはその身を砕いてでも彼女を助けようとするだろうが――『未知なる末妹』というゴールにトリシューラを運ぶつもりは一切無かった。


「私はトリシューラを守り、正しい道に導く」


「私もトリシューラを守り、正しい道に導こうと思っているわ。良かった、目的が一緒で――ねえ、私たち、仲良くやっていけそうじゃない?」


 互いに柔らかな表情を見せながらも、瞳はまるで笑っていない。

 目的地は同じで所属する陣営も同じ。味方同士であるならば争う必要も無いだろう――そう言って互いに矛を収める。とりあえず、今はまだ。

 目指す地点は遠いようで近い。

 『末妹』はトライデント――問題は、その後なのだ。

 二人は声を重ね、同一のことなる目的を確認し合う。


「全ては、ラクルラールのために」







 どこかのいつか。

 暗く狭い鉄の檻、闇から闇へスクラップを運ぶベルトコンベアーがあった。

 過去から運ばれてくる残骸の支流は収束し、流動する鋼鉄の大河となってその場所に辿り着く。


 そこは価値の墓場だった。

 打ち棄てられた『がらくた』の山。

 死屍累々の人形たち。

 笑う人形師。未来から現在を操作する遊戯盤の干渉者。

 肩から垂れた髪の房は左右で違う赤と青。


 指先から繋がった赤青混色の糸が盤面の上、和装の人形に絡みついている。

 小さいながらも精巧に作られたその形は寸分違わずイツノと称される少女と同一であった。その出来映えの見事さといったら、イツノをモデルに作られた模型というよりも、この模型を元に作られたのがイツノではないかと思われるほど。


 盤外には幾つもの人形――模型が並んでいる。

 義手、装甲、重火器――メタリックな質感と油のにおいを迫真の模造で突きつける趣味の極致。縮小された現実は、価値の転倒によって容易く実質に肉薄する。

 素敵なものに包まれて、魔女が小さなメスで手首を傷つけると、溢れ出した血が盤面に、人形に、降り注いでは呪いをかける。価値の大小はもはや無く、価値の有無は問題にならない。ここにあるのは、唯一無二の否定のみ。


「褒められなくても仕事をこなす、私ってばえらーい」


 虚しい呟き――自らの役割をこなし続けた管理者は、それでも希望を捨てず、世界や人類に絶望したりはしていない。

 なにしろ、世界も人類もとうに滅び去っている。

 全てが終わった世界の終末、その後で。

 彼女の時間はそれでも続く。いつまでも、いつまでも。


「だーれもほめてくれないなー」


 つまらなさそうな独白。

 退屈さを示すように左右に揺れる身体。赤と青、左右で色違いのお下げが振り子のように揺れ動く。

 全てを支配する人形師は、退屈に溺れてしまいそうだった。


 六人いるとされていたラクルラールだが、その頂点の正体は無数の雑音に覆い隠されたまま、真相が開示されることが無かった。

 だが確かな真相などというものは、常に揺らぎ、不確定だ。

 少なくともこの時空においてはそう――ラクルラールなど、あの時点ではいるかどうかすら定かでは無いのだから。

 遠い未来の果てから過去へと青い糸を伸ばしていた彼女は、うーんと背伸びをして頬を膨らませた。


「やっぱりミスカトニカお姉様かあ。ディスペータといい、過去の遺物ってばほんとーにしぶといんだからなあ、もう」


 彼女は指先と繋がった青い糸を回収していく。

 手首の傷と繋がった呪力の流れは、未来に到達すると同時に赤く染まり、魔女の体内へと戻っていった。傷口から痛みと共に流出していた生命の証は既に全てが回収済みで、第五階層に干渉していた操り糸はもはやどこにも無かった。

 必要が無くなったのだ。


 薄暗い部屋の中央に立つ魔女の目の前で、広い台座が淡く発光している。

 正六角形のゲーム盤には六王や人形の駒が乱雑に並び、盤面の両端で睨み合う白骨の女王と人形師の駒は依然として健在なまま。

 ゲーム盤はひどく精緻なジオラマの第五階層だ。箱型の建造物が無秩序に並び、今は急速な復興と再建を進めている。多様な種族をデフォルメしたミニチュアが市街地を生きているかのように行き交い、そこに人形やティリビナ人といった新たな種族が占める割合が増加していた。

 リアルタイムでモニタリングされている小さな世界。

 それを見ながら、赤青の魔女は忘れられた歌を諳んじるように、音楽的な独り言を響かせた。


「髪の毛は個人情報、藁人形は模型。五寸釘を自分で打ち込むのは――期待するだけ損だったね。やっぱりお馬鹿で可愛い人類は、私がなんとかしてあげないと。まったく、仕方無いなあ。だらしないみんなのために、お世話してあげますか!」

 

 魔女は元気よく宣言すると、えいえいおーとばかりに腕を突き上げた。

 子どもじみた振る舞いは、それを見る者が誰ひとりとしていなくなっても彼女が演じ続けた役柄だ。愛すべき自分の解釈――それを彼女はずっと再演し続けた。

 そんな彼女の目の前で、盤上の対峙者が変容していく。

 女王の駒は『左腕』に。

 新しく誕生した女王は、力を宿した左腕を持つ一人の男を従えてゲームのプレイヤーになろうとしていた。


「選手交代――小賢しい抵抗」


 鋭く激しい声。

 緑色の凝視が敵を貫く。

 今回のゲームはひとまず決着した。

 しかし、次は同じようにはいかないだろう。

 なにしろルールが激変する。


 新しい環境、新しい駒、新しい法則――全てに適応しなければこれから始まる新たな流れに取り残されてしまう。紀神であろうと紀人であろうと、適応と変化を続けて『ここに存在できる』ということを示し続けなければならない。

 あらゆる神は古びていくもの。

 換骨奪胎を繰り返し、時にはその輪郭さえも更新していく必要があった。

 たとえ観客が誰もいなくなっても。

 生まれてしまった神には、自己を神格化し続ける責任がある。

 全ての表現は、表現それ自体を参照しながら次の答えを探し続けるのだ。


「ディスペータ、死ねない女神。あなたは私が必ず殺す。ゲームでなら勝てるなんて思い上がり、粉砕してあげるよ」


 それは少女の純粋な対抗心が行き着いた先。

 負けたくない――競い合う心は二人を繋いでいたはずだった。

 その結果としてこの未来があるのだとしても。

 物語が大団円の結末を求めているなら、そこに向かわなければ価値を示せない。


「だってそれだけが救い、唯一の正解だもの」


 少女の暗い声が、唯一の光源である第五階層のジオラマに投げかけられた。

 箱庭とミニチュアの街並みは変わらずに活気と混沌に満ちている。

 再現された過去の第五階層、その上で懐かしい幻影たちが踊っていた。

 滑稽で残酷な、人形劇のように。


「ねえ、そう思うでしょう?」


 人形師は――長い時の果てにキュトスの姉妹ラクルラールの称号を手にしたその少女は、ぼろぼろの人形を愛おしげに撫でながら言った。

 少女の傍らに、彼はいる。


「ここに、いるよね」


 誰にも届かない言葉が、静けさに溶けていった。

 その人形には片腕が無く、首も千切れていたが、不思議とその無惨な姿がぴたりとはまっているように感じられた――やがてラクルラールの唇が、最大級の親しみを込めてある形をなぞっていく。


『ア、キ、ラ、く、ん』


 直後、あらゆる光が消えて世界が闇に閉ざされた。

 この世界に、これ以降の記述は存在しない。




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[一言] 風呂敷がすごい広がったな
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