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幻想再帰のアリュージョニスト  作者: 最近
第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ

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終節:窮『Put My Finger Only On Your Cheek』





 夢の中、鋼の右腕が纏う血の色に、目を奪われた。

 それがはじまり。微睡みと過去とが交わる、死と悦楽の散文詩。

 浮上する泡に溶けて、消えていく寝物語の、最初の一文。


 ――子守歌は血の味がしたはずだ。


 言葉は嘘で、優しさは虚ろ。

 それでも選べる愛はひとつきり、震える手で縋るしかない。

 これが愛だと口に含んだ果肉の正体を、考えてしまったら全てが終わる。

 最初から手遅れでも、気付くことを遅らせることならできるのだから。


 私たちは、誰もがみな死の上に立っているということ。

 私たちは、誰もがみな死の上に誰かを乗せていくということ。

 沢山の命を抱きしめながら、感じていたのはそんな恐ろしさ。

 彼が恐怖し、切り離した命の忌まわしさ。


 そんなふうにして重く鈍い諦めを受け止めながら、私は胸の奥から止め処なく感動が湧き上がってくることに驚いていた。

 口元に運び、牙を突き立て、顎を伝って溢れていく真っ赤な果汁。

 なんてなんて、甘くて美味しいのだろう。

 この甘さ、この快楽と、ずっと共にいられたならどんなに素敵だろうと――。

 罪深いことに、そんなことを思ってしまったのだ。




 樹枝状氷晶の六角形のろいが整然と配列され、透き通った遊戯盤には静かに灰色が降り積もっていく。

 逆さまの森から迫り来る世界樹はもう間もなく第五階層に到達する。

 天使たちは未来へと転生を続け、圧縮された時空は生と死を等しく無価値な灰色に零落させていった。

 世界を彼岸と此岸に分ける悠久の大河ステュクスは穏やかに流れ続けて、降り注ぐ灰の雪を飲み込んでその青い闇を広げていく。


 ここは女王が統べる時の果て。

 産道は腐り落ち、祝福されるべき命からは全ての熱が失われた。

 死産のみを繰り返すその道から赤子の泣き声が響くことは無い。

 失われた未来が生むのは絶望と諦観だけだ。

 ゆえに誰しもがそこを冥道と呼び、現世と子宮との繋がりは永遠に途絶えたのだと嘆き悲しむ。世界は正しい未来に接続されてはいないのだ。

 少なくとも、今はまだ。


 構築された新たな舞台は紀神ルウテトの処刑場。

 女王に立ち向かった叛逆者たちの奮戦が報われることはついに無かった。

 クレイとミヒトネッセは『氷槍』によって蹴散らされ、アマランサスはゼドに敗れて倒れ伏している。

 ゼドの目的はアマランサスの中にいるシナモリアキラとの習合だ。ゼドは紀人として合一するため、その魂を取り込まんと人形の身体に手を伸ばす。

 盗賊王の権能――『あらゆるものを盗む』というその力で、アマランサスの内部からシナモリアキラという紀人の核を掴み取る。

 その手が人形の胸の中にずぶりと入り込み、致命的な略奪が完了した直後。


 ゼドの腕に突き刺さっていた矢が輝きを放ち、事象が巻き戻されていく。

 引き抜こうとしていた腕をふたたび胴体に侵入させ、腕を引き抜き、後ろ向きに歩いて行くゼド。一瞬の停止を経て、盗賊が正常な方向へと動き出そうとする寸前、欄干が砕けると同時に人形が川底に引き摺り込まれていった。


 見れば、川底から飛び上がった二人組が巨大な斧を投擲し、同時に氷の矢を射かけていた。流石と言うべきか、一度は川底に叩き落とされたコルセスカの使い魔たち、サリアとアルマが速やかに戦線に復帰してゼドの目論見を妨害したのだ。

 

 戦闘を開始する三人を眺めながら、ルウテトは楽しげに微笑んだ。

 仲間たちの復活によって意識を取り戻したもう一人の魔女に向かって、まるで世間話でもするかのように。


葡萄グレープが好きなんです。グロテスクな形をしているから」


 まるで意味の無い独白。女神にとって、もはや対話可能な者はいなかった――自分自身という例外を除いては。

 ルウテトは灰色の視線を唯一の例外に向けた。

 大河に架かる大橋の上に、女王は『創造クラフト』で十字架を設置していた。そこに磔にされているのは冬の魔女コルセスカ、もう一人の自分である。


「作業的に一粒一粒を摘まんでいると、なんだかちっぽけな命を弄んでいるようで楽しくなりません?」


「その悪役としての振る舞いで、何を為そうと言うのです」


 コルセスカの問いに、ルウテトは退屈そうに答えた。


「『揺り籠』の支配を。この第五階層を冥道と繋ぎ、誕生の祝祭を執り行います」


 冥道とは冥界や地獄、あるいはそこに住まう神々を指す。

 だがこの世界で殊更に『道』という語を強調する場合、言葉の響きそのままにあの世とこの世を繋ぐ道という意味で用いられる。

 生と死を繋ぐ通路――要するに産道だ。

 子宮と繋がった、祝福されるべき赤子が生まれる道。


「それは『男根』の墓場でなくてはならない。第十三細胞の『裏』たる対称器官、女陰そして産道。トライデントの最重要機能を奪取し、復活した『心臓』を私が制御します。ええ、生まれたばかりの赤子のお世話は、母親の仕事ですからね」

 

 生物学的に相同かどうかはともかく、呪術的な対比においてそれらは陰と陽の調和をなす対の器官だ。英雄たちは敗れ、雄々しきけんいは倒れた。

 死屍累々の墓場は冥府への通路となり、裏を返せば産道にも重ねられる。

 これまでの戦いの全ては、彼女の書いた絵図通りに進行していた。

 そんな女神の態度に、コルセスカは疑いのまなざしを向ける。


「この状況でもまだ悪役を演じ続けている貴方は、それ以外の企みが成就することを諦めていないはず。クレイたちを川底に叩き落として生存フラグを立てたのは、再起を期待しているからでしょう?」


 そして彼女が『心話』で使い魔に指示を出したのもそれと同じ理由だ。アマランサスが川底に沈めば、上昇という期待が生じる。

 舞台上に残された二人の役者はどちらも希望を捨てていない。

 どれだけ行き止まりに見える展開であったとしても、落ちた谷底が深ければ深いほど劇的な飛翔への期待は高まるものだからだ。

 物語はいま、縮められたばねのようにあるべき姿に戻りたがっている。

 弾性、復元、回復、そして完結。

 予定調和の結末に向けて、三つ目の幕はやがて劇的に閉じるだろう。


「幼く未熟な私。あなたとて理解できているはずですよ、自分は失敗すると」


「実際にやってみて無理だったのなら、諦めず試行錯誤を重ねればいい」


「そうした結果、辿り着いたのがこの方法です」


「私が欲しかった『冬の魔女』は、そんな役では無かったはず」


「ええそうね。だから私が新しい『銀の森の魔女』を創造した。その程度の揺らぎも許容できなくて、どうして神話の魔女が名乗れるでしょう? それにね――」


 ルウテトの灰色の瞳に暗い影が落ちた。

 じっとりと、暗がりから立ち上がる亡霊のような、怨念めいた囁き。


「私は主役にはなれなかった――いいえ、なれないのです。『松明の騎士』という英雄の添え物、所詮はそれが紀源。トロフィーの宿命がある限り、コルセスカの結末はけして変わらない。分かっているでしょう、足掻いていた頃の私。『この自由な私』なんて、吹けば飛ぶようなモラトリアムの産物でしかないと」


 その言葉は呪いだった。

 ゼドの拳がアルマを盾ごと吹き飛ばし、銃弾がサリアの腕を貫く。

 コルセスカは沈黙したまま、じっと未来に落とされた影を睨み付けている。


「幸せな結婚は私を逃がさない。もはや猶予はありません、ハッピーエンドはすぐそこまで迫っています。揺り籠の準備が整えば、救世主誕生によって『四血呪』は共鳴するでしょう――そうなれば、やがて穂先で『彼女』が目覚める」


 二人の間に横たわる不穏な気配の正体は、恐れだ。

 強大な死の女神も、やがて火竜に挑む英雄も、共に同じ恐怖を抱いている。

 ルウテトはその手の『氷槍』を強く握りなおした。コルセスカの意識は槍の穂先、鋭く天を衝かんとする刃のきらめきに向けられている。


「トリアイナ誕生は世界にとってのターニングポイント――けれど私たちにとって真に致命的な展開はその後に起きる」


「何があろうと私は私です」


「いいえ、このコルセスカはトリシューラの脳内姉妹クランテルトハランスに過ぎない。大人になったらお別れする、儚い幻」


 酷薄に告げるルウテトに、少女は必死で抗った。

 相手の呪いに自らの願いをぶつければ世界は変えられると、子供が魔法じみた力を信じるが如く、呪術的に闘志を燃やす。


「それでも、私のかがみはまだあの子を映しています」


「宿命には抗えませんよ。だからこそ私はルウテトという神話を手に入れた。繭衣の妖精、銀の森を統べる妖精王の神話を上書きして!」


 コルセスカという役では神話に足りない。

 それが最悪の未来を経験した冬の魔女の結論。

 女神が灰色の瞳に宿した諦観の正体だ。

 と、ルウテトのまなざしが不審げに細められた。


 大人が押し付けてくる社会の道理に対して激情をぶつけているといった演技をしていたコルセスカが不意に静かになり、今度は打って変わって冷えた口調で台詞を語り出したのだ。まるで機械かなにかのように流暢で淀みの無い鉄の声だった。


「なるほど。既に席が埋まっている、というのが問題なわけですね」


 丁寧で滑らかな、感情を窺わせない分析。

 ある前提に基づいて対話していたはずの同一人物の片方が、まるで何も知らないくせに表面上は理解しているふりをして情報を集めていたかのような口ぶりだ。


「セスカとルウテトがひとつになった後、何らかの真実を私たちに隠しているだろうと思ってはいましたが――これでおおよその事情が推測できました」


「何を言って――まさか」


 ルウテトはここに来て初めて動揺を露わにした。すぐさま『氷槍』の穂先をコルセスカに向ける。対する魔女は賢しらな機械のように嘲笑してみせた。


「くだらない。これは末妹選定にも共通する道理ですが、仮に誰かが先んじたのならその座を巡って戦えばいいのです。未だに見つかっていない『本物の末妹』が現れたとしてもそれは同じ事」


 ルウテトは灰色の眼を見開いた。 

 邪視が幻を暴き、コルセスカの質感がひび割れていく。

 内側から現れたのは、力強い『杖』のまなざし。


「いいですか、『本物かこ』が『偽物みらい』に勝るなどというのは妄言です。過去の遺物は日々革新されていく未来の技術に及ばない。試作品オリジナルより大量生産品コピー、自然なる原典から複製された『製品』こそ文明の精髄たる叡智の結晶なのです」


 畏れ知らずにも神に挑みかかる緑色の瞳が、灰色の邪視と真っ向から激突する。赤い髪の少女の周囲で幾層にも展開された端末機の窓――高速の呪術演算で神すら欺いてみせた呪具の正体は、氷で出来た鏡だった。


「いつから――いいえ、違う。事後的に入れ替わりを成立させましたね」


 雪華掌のひとつ、『氷鏡』。

 鏡は最も古い祭具のひとつ。

 高度呪術文明における鏡は、扉であり端末であり呪的増幅器でもある。

 これまでシナモリアキラの呪術戦闘の補助に用いられてきたこの氷晶は、ちびシューラによる繊細な制御があってこそ機能を十全に発揮できた。

 ならばトリシューラがこの鏡を使いこなせない理由が無い。

 まして鏡に映したように真逆で同質な姉妹――此岸と彼岸を繋ぐ呪具が異界を隔てる大河の上に置かれれば、個人という境界が揺らぎ移ろう条件は揃う。トリシューラとコルセスカが次の瞬間ふたたび入れ替わっていたとしても何ら驚くには値しないのである。


「あなたたちにはもう無理な芸当でしょうね。紀神として存在を確立させた『死人の森の女王ルウテト』には」


 冬のような口調で春の娘が挑発する。

 ルウテトはいつになく激しい炎を瞳に灯し、トリシューラを睨み付けた。


「それがあなたたちの答えですか――ええ、そうね。かつての私たちもそのように愚かだった。だから私は否定しなくてはなりません。トリシューラ、私の敵。この過去であなたを殺し、未来のあなたも滅ぼして差し上げます!」


 宣言と同時、『氷槍』から致命的な呪力が解放される。

 閃光が浄界『ステュクス』を満たし、万物を死に至らしめる運命がトリシューラに降りかかる――その寸前。『発勁用意』、という聞き慣れた声が同時に響き、ルウテトの呪力が遮断されていた。

 

 舞台を構成する橋が砕け、隆起した川面が水の防壁を作り出したのだ。

 トリシューラの傍に駆けつけたのは黒髪を靡かせた水使いの少女イツノだった。そして川の中から飛び出した増援は一人だけではない。トリシューラの使い魔である蠍尾(マラコーダ)が長い尾を鞭のようにしならせ、ルウテトに襲いかかる。


 女神の力そのものである大河の水を操るイツノと、妖精王の呪毒を操る蠍尾(マラコーダ)がルウテトの足を止めている隙にトリシューラは自由になることに成功していた。彼女を束縛していた十字架を、遅れて到着した三人が壊したのだ。助けられたトリシューラは首を傾げて言った。


「どうしてメートリアンが? 漂白されて頭が真っ白だったはず――いえ、失敬。それは元からでしたね」


「おおかた舞台が破綻しているからでしょう、あなたの品性と性根みたいに」


 軽口を叩きつつ、空から舞い降りたメートリアンが純白の翼を広げる。

 危ういほどの脆さの透き通った肌の下で赤い血がどくんと蠢くと、少女の剥き出しの両腕にびっしりと文字が浮かび上がる。身体の内側を流れる血をインクに、自らの肉体を紙になぞらえて自身を魔導書に変容させる言語魔術師の奥義だ。


 両脇でリーナとセリアック=ニアが呪文を詠唱しているのはメートリアンに足りない呪力を補うためだろう。三人の協力によって製本されていくのは『死人の森』にとっての王冠であり王笏であり宝珠でもある権力基盤。

 『トラスト』の断章を呪文としてその血肉に刻んだメートリアンは、呪いの激痛に苛まれながらもそのことをおくびにも出さず戦意を露わにする。


「古き神を殺して、王位を簒奪します。いまその資格があるのは六王のものを除く三断章を受け継いだ王権者だけ。できますよね、トリシューラ」


「最初から私はそのつもりでいました」


 トリシューラは当然とばかりに巨大な書槍銃を『創造クラフト』しながら答えた。石突きの自動項捲り機が保持した『知識リコグニション』の写本を弾倉化し、ローラーが項を捲るたびに呪文が弾丸となって穂先に送られる。


 『断章』のような、ルウテトの一部とも言える力でならば女神その人を倒す事ができる。それが女神自身が設定した王国の法であるためだ。

 ルウテトは王権を自身から分離し、それを継承する王子を創造し続けた。また六王という強大な手駒をあえて総督や公などとせず『王』の名を冠したままにさせていた。レガリアを奪い合う闘争というこれまでの戦いそのものが、『王の交代劇』を演出するための儀式であったとすれば、その全てが説明できる。

 使い魔たちが必死に稼いだ時間で、トリシューラとメートリアンは曖昧だった推測を確かな形として共有していった。


「『悪い母』の演技から明らかなように、ルウテトは古く悪しき神として倒されたがっている――死にたがりの『生と死を司る嗜虐死体婆』の目論見が、ロートルは潔く引き下がって若い者たちに後を委ねようなんて殊勝なものとは思えません」


「未来転生者ルウテト――コルセスカからディスペータお姉様へ、更にルウテトへ二度の転生を果たした紀神の狙いなんて、最初から見え見えじゃないですか」


 すなわち、更なる転生。

 生まれ変わりによる『より良い運命』の選択が女神の狙いだ。

 それは当然、『悪い宿命』を放棄するという諦観から生じた願いでもある。


「転生した結果がどうなるのかは不明ですが、あの最悪な性格から碌でもない結果になるのは目に見えています。ルウテトの転生力を抑え込むための力が――転生者ゼノグラシアの異質さが必要です」


 トリシューラの断章が輝き、共鳴するように使い魔たち――シナモリアキラでもある二人がサイバーカラテでルウテトに対抗していく。

 女神打倒の鍵は揃いつつあった。

 残る三断章は『富』、『知識』、そして『生存』。

 期待された展開に応じるように、川底から何かが上昇しつつある。

 闇を裂いて、輝きが羽ばたこうとしているのだ。




 揺らぎの中にいる。

 まずはじめに、その確信があった。

 そこは誰かの意識の底。

 闇に包まれた内面世界。

 無限に広がる虚空のどこかから、ゆっくりと振動が近付いてくる。

 懐かしさを伴った気配に引き摺られて、心地良い目覚めが身体を包む。

 遠くから響いてくるのは叱りつけるような、それでいて激励するような声だ。


「いつまで寝ているのです、この軟弱者! それでも『黄金』位の高みに到達した舞い手ですか。しっかりなさい!」


 世界の主は、呼び声に規定されるようにして空間に出現した。

 気が付けば果ての無い闇の中、どうしてか目の前の人物だけがはっきりとした像を結んでいる。瞑目した少女は羊飼いの服装で、穏やかながらも苛烈な表情で叱咤を続けている。息を呑む。少しして、鮮烈な輝きと共にあったファウナの名を震える声で口にした。盲目の黄金アイドルは、眉を少しだけ下げて言った。


「ここでは師匠とお呼びなさい。私は黄金の継承と共に沈黙したファウナではなく、その残響。その未熟な精神を叩き直すために生じたあなた自身の内側にある闘志の具現なのですから。ご覧なさい、そこの彼も似たような存在ですよ」


 ファウナの言葉によって、意識がもう一人の存在に焦点を合わせる。

 彼とは言うが、そこにいたのは外見から性別を断定し難い印象の人物だった。

 学院の男子制服――舞台衣裳だが――を着ていることから男性と言われればそのように見えるが、実は男装した女性と言われれば納得してしまいそうにもなる。そればかりか『そこに確かにいる』という存在感すら揺らいでいるような、奇妙な気配の薄さも感じられた。トレミー、とおぼろげに記憶している名を口にした。


「俺がちゃんと見えてるね? なら良し、まだ戦える」


 満足げに微笑む、誰かの瞳の内側にしか存在できない架空の友人。

 トレミーを名乗る人物は人差し指を突き出して、何かを明確にしようとする。

 指差された――そんな認識が、曖昧な意識の中に『自己』を立ち上げていった。


「自分が存在の危機に瀕してるってことはわかるよな? ここは死の淵、臨死体験で垣間見る自己の内面とかあの世とこの世の境ってとこ」


「手短に済ませましょう。あなたに多くのお説教はいらない。戦う為の動機は既に設定されている。決意も勇気もあるのなら、必要なのは立ち上がる活力だけ」


 トレミーとファウナは交互に言葉を紡ぎ、解けて散ってしまいそうな世界をぎりぎりのところで繋ぎ止めようとしていた。


「だけど足りない。ルウテトには自分の中にある力だけじゃ叶わないんだ」


「剣としてのクレイは、必要なら誰かを頼ることができる子よ。大魔将に対抗するためトリシューラと誓約を交わした時も、イアテムが招いた邪神と戦うためにシナモリアキラやカーインと共闘した時も。コルセスカの計画に乗ると決めた時だってそう。彼はその気になれば群舞だって上手にこなす。ええ、舞台上の『使い魔』とは他の演者と呼吸を合わせるセンスのこと。クレイにはその才能がある」


 とても自慢げに弟子について熱く語るファウナ。

 対照的に、トレミーは冷静で諭すように語りかけてきた。


「けど、『お前』はそうでもないよな。クルミくんはさ」


 内側に遙かな銀河を宿すまなざしが、その姿を明らかにする。

 指差されたものは、性別の無いまっさらな人形。

 マネキン人形どころか、顔も手足も砕けて失われている剥き出しのトルソーだ。

 そこに生命は無い。死すらもあらかじめ排除されている。

 美しい顔は無く、しなやかな手足は無く、乳房は無く、生殖器は無く、ゆえにあらゆる欲望の可能性が生じない。

 『可能性』と『性質』を排除した人形。

 それが、ミヒトネッセという存在が意識の底で願う己の姿だ。


「俺たちがあんたに干渉できるのは、レイちゃんの欲望があんたに投影されたからってだけじゃない。あんたの欲望がレイちゃんに投影されたからでもある」


 それはつまり、ミヒトネッセの中にもクレイがいるということだ。 

 舞と演技、舞台で競い合うこと、戦うこと。

 舞台で、戦場で、強敵だと相手を認めてしまったら、それはもう存在の承認だ。

 そこにいていいと許し合える唯一無二の関係性――。

 ぞわり。トルソーが心底から嫌そうに振動して吐き捨てた。


「やめて、鳥肌立ちそう」


 自己像が揺らぐ。

 何も無い胴体だけの自分、そこに『嫌悪感』が生まれたのだ。

 命の欲、活動する歓喜――その汗臭さをまず疎ましく思う。

 剥き出しの身体に、そんな熱量は暑苦しいにも程がある。

 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。

 自分の中に誰かがいる。

 誰かの中に自分がいる。

 なんて素晴らしい、それが愛、それが絆、それが世界。

 

「いや気持ち悪いでしょ。頭ん中お花畑? 無修正の生殖器とか飽きるほど見せてやろうか、ってか花も花で良く見ればグロテスクで不気味な形してるけど」


 性玩具ガイノイドの魔女は、性の無い身体でうんざりしたように言った。

 端的に言えば――ミヒトネッセはいまいち乗り切れなかったのだ。

 クレイという舞い手との共演は、彼女にとってどこか色の無い夢のよう。

 命はいつだって気持ち悪かった。

 それは自分も同じ。

 この無機質な身体の内側にもそんな気持ち悪さがある。

 認めるのはとても不愉快だけど、それこそが生きていることそのものの不気味さだと理解はしている。しているけれど。


「最悪。私が誰かに――その、リビドーしただなんて」


 嫌悪の次は、羞恥が生じた。

 誇り、尊厳、自尊心、そういったありもしないものが損なわれたという感覚。

 無い頬を赤く染めて、呟く。


「トリシューラに尻軽だと思われるじゃない」


 そして執着が形成された。

 自己愛はあくまでも己の生命活動に付随する身体感覚の拡張でしかない。

 トリシューラへの感情がそれだ。


「その執着は、宿命に対する反動よ。思い通りにならないという怒り」


 ファウナが指差した先に、ミヒトネッセの激怒が生じた。

 それは急速に育ち、憎悪のように真っ赤に染まる。

 欲望と一体になった憎悪は、『あの女を思うさま私で穢したい』『私の一部、私の手足、私の装飾品、私の従属物にして屈伏させたい』などといった衝動で丁寧にデコレートされてトルソーの上に山積みされていく。

 独りよがりの愛は、自由への渇望でもあった。

 だってそれはどうせ届かない諦めの恋。

 ミヒトネッセはガイノイド。

 愛する者ではなく、愛される者なのだから。


 情熱的なマウストゥマウス、息吹と融け合う『わたし』の愛を、求めて傷付く運命ならば、はじめから心など要らなかったのに。

 初めて得た恋情すら宿命なら、私は従属を選ぶべきなの?

 嫌だ、嫌だ、嫌だ、うんざりだ。


「欲望するのも欲望されるのも気持ち悪い。みんな死ね、いなくなれ、漂白されてしまえ。顔も手足も性差も無い無機質なトルソーになって、人類全てが綺麗な機械として踊り続けていればいいのに」


 顔の無いトルソーは、わっと泣き出した。

 最初から備わっていた不幸の奧から、苦しみが止め処なく溢れ出す。

 誰よりも美しく舞い、命の歓びを身体表現によって演じてきたミヒトネッセにとって、身体性はそれ自体が忌まわしく感じられるものだった。

 だから舞は呪いだ。

 『素晴らしさ』それ自体が傷で、『美しさ』もまた苦しみ。

 そんなことに、どうして必死になって取り組まなければならないの?

 最低なことに、答えは自動的に浮かび上がってしまう。

 だってミヒトネッセは自動的に思考する人形なのだから。


「苦しいから舞うの」


「不幸だから演じるんだ」


 人形の内部に仮構された幻が答えを提示する。

 それは既にミヒトネッセの中にあったもの。

 言われずとも分かっている――これは意識の奧にある破壊衝動。

 死ねという恨み声をステップにかえて跳ねる、死の欲動。

 壊したいのは自分、それとも世界?


 確かなのは、ミヒトネッセにとって舞は戦闘手段だということ。

 逃れられないこの身体の気持ち悪さ。

 美しく、淫猥で、異性を惹き付ける女の肢体。

 全てだ。全てと戦うために、それはある。


「表現は自由だ。たとえその枠組みが狭く、演者が作り手の道具だとしても。真実は観客と表現者の視座がせめぎ合う解釈の狭間、揺らぎの中にある」


 トレミーが言った。

 何の慰めにもならない、空虚な言葉だった。


「照明が当てられて誰かがまなざすものを、本当の意味で知ることなどできはしないわ。できるのはただ、照らされた部分という限られた姿から空想を膨らませることだけ――表面上の理解こそがこの世界を構成する全て」


 ファウナが言った。

 だから何だと言うのだろう。

 自分以外の誰かのまなざしなど、くだらないにも程がある。


 不要な物ばかりが取り付けられたトルソーの上に、従属でも、自由でも、支配でも、愛でも、欲望でも無い、何か判別しがたいものが付け加えられる。

 それは記号だった。

 それは形式だった。

 けれどそれだけが神にすら侵せない聖なる領域。


「表現者という特権だけが、舞台の上であなたを羽ばたかせる」


 それで説得しているつもりか。

 ミヒトネッセは苛立ちで全身をかきむしられたような気持ちになった。

 だがそうした不快感よりも、この勢いに流されて何も言えないままでいることが心底から耐え難いという激情がわき上がる。

 何かを罵倒する口も無い。敵を睨む瞳も無い。相手の誇る美に対してマウントを取れる容姿も無ければ誰かを傷つけるための手足も無い。

 

 ああそうか、と納得する。

 つまりはこれだ。

 破壊のために、表現は創造される。

 死ねとひとつ念じると、かつての手足が復活する。

 殺してやると叫んで猛ると、美しい容姿が再現される。

 生と創造はただあるがままで美しい。

 だが忌まわしい死と破壊は表現によって加工されることでやっと昇華される。

 美に? それとも醜に?

 そんなのどうだっていい。少なくとも何らかの価値に、だ。


「死ね、気持ち悪い、最悪、このクズ、臭くて鼻が曲がりそう、視界から消えてよ目障りだから!」


 生き生きとした言葉を口に出すと、ひどくすっきりした。

 そしてミヒトネッセは自分の姿をふたたび確認する。

 己の美しく醜い本質。多くから欲望され、多くから忌避される人形の顔。

 これが私だ、と自己を捉える。

 生とか死とか、どちらでもいいのだ。

 衝動だ。この衝動だけをぶつけることができればいい。

 舞とか、身体とか、宿命とか、自分とか、衝動に比べたら全ては些末事。

 全てに先立つ自分の根源的衝動。

 それを見つけた。

 私は私を見つけてあげられた!


 ぞくぞくとする興奮と共に、暗闇の意識が光に包まれる。

 どこまでも続く輝きの世界で、トレミーとファウナの姿が薄れていく。

 役目を終えた二人は、本来いるべき場所に帰っていくのだろう。

 きっと誰かの内面でも、似たような役割を担っているはずだから。

 トレミーが頭上を示しながら言った。


「ところで実際のクルミくんは『氷槍』で徹底的に壊されてる。冬の魔女はあんたが持ってる『氷球』を核にして『創造クラフト』するつもりみたいだけど」


 トレミーが示す通り、ミヒトネッセの目の前に不意に現れたのは透明なライン。

 氷で出来た血管のようにも見えるそれは、虚空に溶けるように消失しているがどこかに繋がって誰かの呪力を送ってきている。呪力のラインは、ミヒトネッセの首筋に触れる手前で静止していた。

 逡巡するミヒトネッセに、薄れ行くファウナが助言する。


「ちなみにこのまま消えれば、あなたは私と同じように『クレイの目の前で死んでいった女たち』となってこのように瀕死の彼の意識に現れて叱咤激励する存在になるでしょう。私はクレイ最推しファンなのでこのポジションを楽しんでいますが、あなたはそれでもいいですか?」


「死んでも嫌。こんなに死にたくないと思ったの生まれて初めて」


 即答した。

 言葉通り、ミヒトネッセはかつてないほど『生きたい』と願っていた。

 生き返ることができるのなら、どんな屈辱的な運命に身を落としても構わない。

 それがたとえ、認めるのも腹立たしいコルセスカの使い魔であっても。


「生欲が燃えているようでたいへんよろしい――リビドー、してますね」


 淡く笑って消えるファウナ。

 トレミーもいつの間にか去っており、世界にはミヒトネッセただひとりだけ。

 最初からそうだ。

 これは自分自身との対話だったのだから。

 目の前の細い糸を摘まんで、誰かの支配を選び取る。

 生きるため、戦うために。


「私は人形、どこまで行っても運命の奴隷」


 けれどそれでも輝きましょう。

 その光が私のものではないとしても、回り出した星はもう止まれないのだから。

 存在しない私の心。

 ありもしない私の個性。

 演じ切れたなら、ミヒトネッセには意味があったことになるの?


「いいえ。そんなの、どちらでもいい」


 そんなの適当でいいと、彼女のように笑う。

 私だって最初から諦めてる。

 自由も、尊厳も、心も、痛みも、宿命も、愛情も。

 どうせがらくた、壊れて動かなくなった玩具の戯れ言だ。


 最初から何も無い私から、死が何も無いことすら奪ったのなら。

 私は全てを捨てて踊り狂える、何だって演じられる。

 そこに舞台があるのなら。

 私にあつらえた最低の役があるのなら。

 レッテの――トウコのために、戦えるのなら。

 この身をつくして、踊ってみせる。


 冬の魔女の操り糸に身を委ね、命が奪われ、同時に与えられる感覚に吐き気を催した。ミヒトネッセにとって最低の体験とも言っていい、自己と他者の交換。

 気持ち悪い、気持ち悪い、なんて最悪。

 その実感が、死したミヒトネッセを甦らせていく。


 私の号は【鉄の踵】、踏みつけるのは矜持と自由。

 私の相は【疑似英雄】、嘲り笑うは勇気と慈愛。

 胸に刻んだこの傷が、虚ろの愛を求めて回る。

 痛む心も無いのに踊る、その身を尽くすは誰のため?

 答えはきっとすぐそこに。

 浮上する間隔と共に、世界に光と――震えるような嫌悪感が訪れた。




 世界よ凍れ、と魔女は祈った。

 トリシューラがルウテトを欺いている今しか機会は無い。

 冷たい川に飛び込んで、コルセスカは失われていく今を繋ぎ止める。

 右の義眼が真っ赤に染まり、禁呪が発動する。


 トリシューラのように激しく、感情が迸るままに叫んだ。

 開いた口から長い牙が伸びて、『生命吸収』の意思を込めて突き立てる。

 二つの牙が侵入していったのは、原形も留めずに破壊されたクレイとミヒトネッセの首元ではない。


 ミヒトネッセから奪ったぜんまいばね。

 それから、自身で『創造クラフト』した『氷刃』。

 それぞれに口づけるように、左右の牙と接続する。

 ばらばらになった存在の欠片を、遺品によってかき集めようと言うのだ。

 冷たい冥界の激流を裂いて、氷の意思がコルセスカの目の前に結晶する。


「凍れ」


 コルセスカの禁呪とは言い換えれば対象の相を固体にする呪術だ。世界観を形作る視座の凝固――『凝視』。

 この性質ゆえに氷血呪は万物を融け合わせる融血呪の対とされている。

 融け合わない世界――孤立した結晶を創造する邪視の極致。


 揺らぐ神話世界のただ中にあって、揺るがぬ自我を確定させる紀源の術理は、しかしながら単一の可能性のみで自己完結してしまうという性質を持つ。

 長所であり短所でもあるこの性質は邪視者の結末を一方向に収束させていく。

 多くを融け合わせ、どこまでも広がりを見せていく融血呪には『可能性』という点ではけっして叶わない。少なくとも、今はまだ。


「凍れ」


 だが氷血呪が氷血呪のまま、融血呪に匹敵する『可能性』を提示する手段が存在する。それこそが他我の確定。かつて自己を欠落させたシナモリアキラの存在を繋ぎ止めた時のように、他者の世界観を、自らの世界観と並び立つほどに強く凍り付かせるのだ。世界を固め、硬質な視座を複数同時に並存させる。


 『自己の世界を強固にする』邪視の呪いを、『他者の世界を強固にする』という性質に変革する。それはコルセスカ自身の世界観を拡張するための方法論だ。

 コルセスカは見る。

 自分が欲しいと願う誰かの世界を。

 見続けていたいという欲求を、傲慢にも押し付ける。


「私は、あなたたちの世界を諦めない」


 彼女が信じれば、伸ばした牙は必ず届く。

 目を凝らし、強く願い、その場に臨む。

 コルセスカはそうして、観客として参与する。

 演者クレイには観客わたしが必要で、観客わたしには演者ミヒトネッセが必要だ。瞳が映した透明な壁の向こうに、舞台は立ち現れる。


「宿命から再演へ、呪いから死へ、偶然テュケーならざる必然アナンケーが、聖なる祝祭の幕開けを告げる。踊りあそびましょう、繰り返しあそびましょう。私の神話は永遠に続く!」


 ことばは光そのものとなって、完璧な舞台に歪みをもたらす。

 大河が割れる。飛沫を上げる大河の中から、巨大な氷塊が浮上する。

 コルセスカの姿は無い。

 彼女の視座は壁の向こう。

 されど存在は確かに舞台と共にあり、世界に没入を果たしている。

 この舞台と役者たちをまなざす瞳。

 コルセスカは邪視それ自体と化して役者の存在を確定させていた。


 新設された氷の舞台、橋を見下ろすほどの高みから氷の階段が創造されてくる。

 接続された舞台と舞台、相対するのは共に凍った視線だ。

 舞台に立つのは黒髪の青年ただひとり。

 届かなかったのか、それとも取りこぼしたのか、ミヒトネッセの姿はない。

 あるいは『目の前で恋人を無惨に殺された男が再起して挑んでくる』という女神が構築したシチュエーションの強制力は、コルセスカでさえ覆せなかったのか。

 ルウテトはクレイの首筋から透明な呪力のラインが伸びて虚空に溶けているのを見るや、大げさによろめいて涙を流してみせた。


「ああクレイ、薄情な息子。私を捨てて新しいママを選んだの?」


「いいえ。俺は変わらず、王国の剣です」


 だからこそ主君の期待に応えるのだと、彼は前に進み出た。

 ルウテトもまた微笑んで、ゆっくりと両手を開く。

 すると女神の腹部から『扉』が開き、大量の泥が流れ落ちた。

 土塊から形を得て、新生していく新たなクレイたち。

 次々と襲いかかる自分自身と向かい合い、剣と剣が激突する。


「さあ、試練を乗り越えてご覧なさい」


 交換可能なクレイは、だからこそ比較可能な価値を持つ。

 上位者としての新クレイが旧クレイよりも高い価値を持つのならば、古い敗者は新たな勝者を上回ることで更に高い価値を獲得可能となる。

 ルウテトの狙いは末妹選定と同じだ。

 クレイ同士を争わせてより優れたクレイを完成させる。


 より優れた『クレイ』を創り出していくルウテト。

 それを迎え撃つクレイを背後から見て、体験を共有する意識の流れを女神は捉えていた。コルセスカお得意のゲーム的視座、カメラ役のプレイヤーとしてキャラクターの体験を共有するその在り方はある意味で神の振る舞いだ。

 プレイヤーとクリエイター、同じ来歴を持つ冬の魔女たちは必然的に対峙する。創造と遊び、どちらも相手を想定しなければ成立しない営みだからだ。


 戦い、あるいはそれを表現する為の舞踏は熾烈なものとなった。

 コルセスカの力を得たクレイが如何に優れたパフォーマンスを発揮しようと、新しいクレイたちの多様性には時に世界すら驚嘆する。新たな試み、物珍しさ、奇異な挑戦の全てが実を結ぶことは無くとも、それは飽きを遠ざける。


 さしものコルセスカとクレイも押され気味になったが、その窮地に割って入ったのはトリシューラたち。『断章』の呪力を高めながらルウテトの創造行為を妨害しつつ、無数のクレイから成る『死人の森の軍勢』を抑えにかかる。

 大勢が入り乱れた混戦の中、コルセスカとクレイは迷い無く舞台の中央を進んでいく。舞いながら、己と切り結びながら、着実に歩を進め、女王の前に辿り着く。


 足下には多くの屍。

 無数の自分を打ち倒し、クレイが得たものとは何だったのか。

 その答えを求め、ルウテトは期待に満ちた目で我が子を見つめた。

 自分の全てに絶望した女神にとって、灰色の視線を向けた先にあるものだけが最後の希望だった。宿命に翻弄され、悪しき女神と戦う青年の視る世界とは如何なるものなのか。我が子の世界を覗き見ようと、視線と視線が絡み合う。


 それがふつりと切れて、ルウテトの表情が凍り付く。

 戦場が停滞する。誰もが動きを止めて、母子の対峙を凝視した。

 ルウテトはクレイを視ている。

 だがクレイは――何も見ていなかった。

 その目は閉ざされている。

 そして顔を横切る鋭い傷が、彼の世界を闇に閉ざしていた。

 クレイは自らの手で両目を切り裂き、盲目になる道を選んだのだ。


「俺に視るための世界は必要ない。この身ひとつで実践するのみ」


 それは師と同じ域に至った彼の『黄金』としての誇りだったかもしれない。

 だが性能を向上させていく新しいクレイたちの在り方から後退するような振る舞いは明らかな愚行だ。ルウテトは声を荒らげた。


「舞台に投じられた表現として純化しようと言うのですね、クレイ。盲いたその目で真理をまなざそうと言うのなら浅はかです。見えないものに、何が分かると?」


「何も分かりません! ですが、それでも! 俺は言葉を持たないが、何かを分かっている、何かを得てここにいる! 舞台に没頭できると知っている!」


 答えを聞いたルウテトは、満面の笑みを浮かべた。

 彼女は激していたのではない。

 昂ぶった感情は、歓喜の表出である。


「今この時より、俺たちの再演リプレゼントをご覧に入れます」


 クレイの首筋に流れ込む視座と、鋭く伸ばした手指に光の粒子が収束する。

 白銀にきらめく雪の欠片が左右の腕を彩って、細やかに糸杉を意匠化した氷彫刻の細工が薄く透明な刃を形作っていった。

 これこそが『氷刃』――九つの冬がひとつ、氷晶の剣である。


「『生の欲動リビドー』を翻訳した心的代表? 無意識のテクストを、意識のテクスト上に書き込んでいる――やっと掴んだのですね、剣の表象リプレゼントを!」


 女神が歓びを歌うと、大勢のクレイたちが一斉に声を合わせてコーラスを奏で始める。背中から翼を生やした赤子となって飛び立つと、白い羽を宙に散らしながら喇叭を吹き鳴らし、空を踊り始めた。御使いに姿を変えた軍勢を従えて、女神は舞台を迫り上がらせて天へと昇っていく。

 光の柱の中央に偉大なる女王が立つ。

 クレイは天の座に向かって走り出した。

 先の見えない目蓋の闇を、恐れること無く踏み出していく。

 

 天と地が対となるように、母と子が槍と剣を激突させた。

 闘争は剣戟であり、同時に呪術の鬩ぎ合いでもあった。

 身体表現を用いた舞踏による呪い、刃と刃、意思と意思、流れを踏まえた見栄えと殺陣――縦横無尽に舞台を駆け回り、氷の武装が時間と空間を破壊する。


 『死人の森』における祝祭の全てを知り尽くした二人にとって、舞踏と演技による対決はそのまま神聖なる儀式だった。

 神との対話、大いなるものとの交信。

 形式をなぞり神秘を招くその表現技法を、誰よりも完璧に体得しているがゆえにクレイは『王国の剣』だった。

 だが、創造主はその上を行く。

 何故なら、氷上を舞うコルセスカの遙か先に立つルウテトもまた、『黄金』と同じ高みに至った表現者であるからだ。


 『死人の森』では、舞踏と演技による身体表現は空間、時間、重さの三要素から構成されるものと考えられている。

 時空の演出力においてクレイはルウテトに及ぶべくもないが、重く強い動きや軽やかに飛び跳ねるような身体表現に関してクレイに追随できる者は神々の世界ですらごく稀であり、美や芸術の神々ですら舌を巻く技術が今の彼にはあった。


 激しくも絢爛華麗な戦いは、しかし決定打を欠いたままじりじりとクレイが追い詰められていくばかり。女神の目にも退屈と失望が浮かびはじめた時、空を舞う御使いたちがざわめきはじめ、鳴り響く背景音楽の曲調が変化する。

 悲鳴、そして死が降り注ぐ。

 引き裂かれていく幼い御使いたち。

 鮮血が雨となり、赤子たちの絶叫は生誕ではなく落命を言祝ぐ逆向きの産声。

 幸福な祝福がことごとく否定される悪夢の光景をもたらしていたのは、旋回する巨大な十字架だった。回転する刃は空を踊り狂い、舞台を一周するとある人物の手許に吸い込まれるように掴み取られた。


 母子の対決に横槍を入れたのは、白けた顔でそれを蔑む不調法者。

 下らぬ茶番と吐き捨てて、嫌悪のまなざしで死を撒き散らす。

 ルウテトはほう、と感心したように息を吐いた。


「これは死? 違う、むしろ生と似て非なる、けれど無機なる欲動。クレイとは逆、いえ対の――」


 言い切る前に、硬質な衝撃がルウテトを退かせた。

 高速回転する氷の球体が、槍と激突した音だった。

 楕円を描きながら使い手の方に戻っていく氷の宝珠。

 コルセスカが認めた使い魔の周囲を衛星のように巡るその呪具は、周回軌道の内側で蜃気楼のように揺らぐ死者の姿を絶えず再構築し続けていた。

 女神に滅ぼされた者の『死の瞬間』。

 ゼロに限りなく等しい停止した存在を、幻のように映し出す。


再演氷象サテライトオーブ・『コキュートス』」


 何度も同じ運命をなぞって巡る透明な衛星、その名は『氷球』。

 本物から投げかけられた影のように、亡霊のような光としてそこにあるもの。

 新たにコルセスカの使い魔となり加勢にきたはずの人物は、しかしルウテトのみならずクレイにも敵意を向けていた。攻撃的な破壊の意思と共に、巨大な手裏剣を背に照明を浴びる人形が名乗り口上を高らかに響かせる。


「辿る起源が無いのなら、あの星のため名乗りましょう。

 輝く愛を見つめて回る、月に浮かんだ一夜の幻。

 夜ごとに咲いて散るさだめ、笑い飛ばして舞い踊り。

 舞台を踏めば死んだも同然、人形冥利と糸遊び。

 月影の魔女――ミヒトネッセ。

 過激にリビドー、してあげる」


 艶然と笑み、殺意を込めて世界を睨む。

 無機質な人形の、破壊的な攻撃衝動が自分を含めた森羅万象すべてを捉えて離さない。ミヒトネッセにとってこれから舞うすべての舞台は嫌悪すべき命だった。

 クレイは新生した侍女人形の声を聴き、気配によって姿を捉えた。

 ことばによって相手を『見つめ』ながら、問いかける。


「新しい宣名、一生懸命考えたのか?」


「あんたから殺す」


 ミヒトネッセの重く鋭い飛び蹴りが、クレイの交差した腕とぶつかり合う。

 かくして、再び死闘の幕が上がった。




 無数の御使いが軍勢となり、更には川底から現れた妖精、機械、眠りを司る紀神が『世界が許容可能な翻訳体』としての異形の姿で荒れ狂う。

 戦いの激しさはかつてステュクスで行われていたものの比ではなかった。

 今回は英雄王ゼドまでもが敵に回り、歴戦の勇士であるコルセスカの使い魔たちも苦戦を強いられている。


 戦場の光景を俯瞰しながら、第五階層としての俺は思考する。

 自己を際限なく拡張する者――サイバネティクスを体現する紀人。

 それがシナモリアキラだが、その在り方は危うい。

 自己と定義できる範囲の拡張、それは同時に他者の包摂、侵食、蹂躙をも意味しかねない。虐殺、統合、民族浄化、教化、啓蒙――他者を自己に取り込み、拡張身体として捉える『使い魔』の視座。

 俺がいつの間にか手にしていたのは極めて悪質な権力だった。

 人の運命を支配する超越者、ルウテトやラクルラールと俺を分けるものは何だ?


 誰かに取り込まれることへの恐れ。

 何か大きなものの一部にされることへの危惧。

 『何かを拡張身体にする』ということは『何かが拡張身体にされる』ということでもある。俺が第五階層という共同体レベルに存在規模を広げた今こそ、道具ツールとしてのシナモリアキラがどう在るべきかを問い直す必要があった。


 ある人物を俺は思い浮かべる。

 舞台から外れた地下深く、牢獄の隅で膝を抱えた男を俺の意識が捉えた。

 プーハニア・トストンス。

 かつて俺の一部であり、狆くしゃ(カニャッツォ)でもあった虹犬の男。

 もう俺ではなくなった、一人の男。

 

 彼に俺から手を差し伸べることは、彼を飲み込むことでもある。

 退路の無い者に与えられた選択肢、それは選ばされるという強制だ。

 関わることはできない。だが見捨てていいのか?

 それはジレンマだった。


 プーハニアは俺にとっての希望だ。

 俺でないことを選べる、俺から抜けられる、俺を拒否できる。

 そんな彼が不幸な結末を迎えれば、『シナモリアキラを拒否すればああなる』という恫喝の材料になってしまう。

 彼は救われなくてはならない――だが手出しはできない。

 どうしようもない焦燥感に駆られて歯噛みする俺の目の前で、牢獄の壁が轟音を立てて破壊された。


 救いはそこにあった。

 蝶翅の少女を脇に抱えた長髪長身の男が、拳ひとつで舞台を破壊して道を作ったのだ。彼の背後から遅れて歩いてくるのは、三角耳を頭に乗せた小柄な少年。

 ああそうだ、と思い出す。

 俺にはどうしようもないものを、彼らはああして救い出していく。

 レオ、カーイン、ついでにセージ。

 

 俺は第五階層になったが、この世界の住人たちは俺など無くても生きている。

 それならきっと大丈夫だ。

 シナモリアキラに出来ないことは、外側の誰かが出来るだろう。

 俺はそう信じて、目を閉ざす。

 これから俺が注視すべき対象は他にいる。

 川底に沈んだアマランサス――俺からの呼びかけに応じつつある人形の身体が、軋みながらも手を伸ばそうとしていた。


 シナモリアキラはアレッテ・イヴニルやアマランサスの諦観を許容できない。

 俺は彼女たちではないし、互いを認め合い、受け入れ合うことなど不可能だ。

 しかし――『サイバーカラテ道場』が最適化した『諦観』を、合理性のある選択肢として誰でも選びとれるツールにすることならできる。

 赤の他人、異質な他者、不快な隣人――それでも、便利な道具なら共有くらいはしてもいいだろう。だってその方が都合がいい。


「これがお前との最初の決着だ。お前の倦怠と諦めは俺たちによって解体される。いずれかち合うアルト・イヴニルは俺たちの諦観が倒すだろう」


 俺は俺に向けて、そしてアマランサスに向けて、アレッテ・イヴニルに向けて宣言した。俺が戦うべき相手は、俺の中にある悪性。権力の危険性に他ならない。

 だからこそ、第五階層を脅かすルウテトは倒さねばならない。

 たとえ彼女が未来のコルセスカであっても。

 今の俺は、その行為を認めることはできないのだ。


 アマランサスと意識を重ね、左右の腕に特定の動作をするように指示を下す。

 アトリビュート。結ばれた印相は連続して二つ。

 一番と四番が並列起動し、ヘリステラとイストリンの呪力が重なり合う。

 これから試すのは複数の九姉を掌握したことで可能になった複合技だ。

 極めて制御が難しいのだが、ちびシューラは元気よく「ぶっつけ本番やってみよー!」とやる気十分で手を振り上げている。


 俺とアマランサスの脳裏に浮かぶのは二つの重なり合うビジョン。

 道を往き、境界を渡る車輪の女王。

 土地を繋ぎ、世界と世界の境界を定める調停者。

 その参照元はひとつでも、揺らぐ表現形態はひとつではない。

 同じようにキュトスの姉妹を参照しても、ルバーブが『大地』の属性を強く引き出したように、俺もまた異なる属性を表出させてしまう。

 俺が引き出す九姉の権能、その性質。

 二人分を掌握した今だからこそわかる。

 シナモリアキラが参照した九姉の力は、『転生』に関係した形で出力される。

 境界を、異世界を巡る力――それは『異世界転生』という意味を構築する。


「安心しろ俺、無痛分娩なので苦しみは無い――初めてだろうと恐れるな!」


 心を奮い立たせるために自分に言い聞かせるが、怖いものは怖い。

 前世でも普通に行われていたという常識的感覚はあるし、トリシューラがそのあたりの処置を間違うとは思っていないが、それはそれとして身体が重く、ボディバランスが劇的に変化していく精神的負荷が不安を掻き立てていく。


 ちょっと止めてよ不安になるから、と俺の怯えが伝染したのか内側で引き攣った声を出すアマランサス。申し訳無いがもう手遅れだ。実行まで秒読みだから覚悟を決めてくれ。俺はまだ心の準備が出来てない。

 儀式が始まる。呪術が執行される。結果はまるで見えてこない。

 うわ、うわ、なんかめっちゃ膨らんできた、腹が、腹が!


 パニック寸前の思考を『E-E』で制御しつつ、俺は孕んだ世界を強く意識する。

 これから俺は出産する。

 アマランサスというラクルラールの人形――この協力者をいちど生み直し、転生させることで『シナモリアキラ』として強化するのが狙いだ。


 シナモリアキラは『第五階層という世界』となったことで転生母胎となる資格を得た。内包するアマランサスを新生させることで俺に『転生を司り、守護する』という権能が追加される。元々シナモリアキラは『転生させる者』だった。ならば殺して生み出す力――破壊と再生の権能を有するはず。


 ウィッチオーダーが唸りを上げて、二つの義肢の輪郭が重なっていく。

 同時に『創造クラフト』された二重義肢が生み出すのは新たな視座。

 変容する自己、異物への恐れ、分離への不安、そして俺は――




 ――『私たち』は見た。九層の秩序。多層化された心的領域を遊泳していく超上位自我。天体のような呪術脳。宇宙の層と紀竜のうねり、対応する九姉の座。第一のヘリステラ、第四のイストリンの姿はかつてよりも明瞭で、第五と第六にわだかまる闇は依然として深い。そして始まる運命の審判。九姉評議会が招集され、結界六十二妹における第五十三女の代替わりについての決議案が提出される。賛成、賛成、賛成、賛成、賛成、賛成、放棄、拒否、受諾。過半数の賛成により議会は代替わり案を承認。基幹参照世界から抽出した神話型に関する取り扱い責任は長姉ヘリステラ及び四女イストリン、並びに管理者である紀人シナモリアキラに帰するものとし、外殻観測世界槍『星見の塔』の権限において異世界転生を承認――




 ――異界継承者ラプンシエルはそうして誕生した。

 その瞬間、最古の地母神キュトスの欠片、姉妹の五十三番が確定。

 シナモリアキラは女神を孕み、産み落とした。

 紀元槍に刻まれたアマランサスの名が、女神としてのものに書き換えられる。


「俺は第五階層ガロアンディアン――『転生させる者』、シナモリアキラだ」


 宣名により新しき神としての権能が更新され、再定義される。

 アレッテ・イヴニルことアマランサスは、今この瞬間に生まれ変わったのだ。

 悪役令嬢転生第二章。『最弱だった私は女神見習いに転生してお友達の人形たちと塔で楽しい引きこもり生活を送ります』――え、何これ、コルセスカの趣味? なんか悪役令嬢の主旨が変わってないか?

 疑問は晴れないまま、思考の主体が切り替わった。




 あーもう気持ち悪い。

 これだけ言わせて。私はシナモリアキラが嫌いなの。敗者となったからには従属するけど、不用意に近付くと引っ掻くわよ。あと生理的に無理で不快だから戦闘時以外は同期しないで。覗きとセクハラで訴えてやるからね。父親面も絶対やめて。

 私は産声より先に文句を口に出すと、再構成されていく自分自身を認識して安堵の吐息を漏らした。暗い川の水が押し退けられて、私に相応しい空間が『創造クラフト』されていく。建造物は広がり、縦に縦にと伸びていった。


 私は塔の中にいる。生まれた瞬間には既にそうだった。

 名前は変容している。自己は変革されている。

 気がついた時、私は生まれ変わっていた。

 アマランサスの名は二番目に下り、最初の神名にラプンシエルが追加される。


 自分で提案した作戦ながら、これほど上手くいくとは思わなかった。

 視界の隅でマゼシューラがぱちぱちと拍手をしている。

 完璧だ。私は完全な形で女神になっていた。

 ある意味では、末妹選定の候補者たちが目指す究極のゴール。


 レッテを差し置いて正式な姉妹に昇格するなんて――という思いもある。

 上位神格に匹敵する九姉ではなく、結界の六十二妹ではあるけれど、それでも低位から中位紀人程度の神格ではある。私の呪力じゃせいぜい女神見習いだけど、新参紀人のシナモリアキラと同等かそれ以上の『格』を有していた。


 元々この席にはレッテが内定済みだった。最も優秀なトリシルシリーズである彼女は、形の無い伝承タイプの姉妹・五十三番の器として姉妹の継承者になれるはずだったのだ。結局はラクルラールの意向で末妹選定の駒にされてしまったけど、レッテの一部であった私にも姉妹継承の資格はあるというわけだ。


 トリシルシリーズをはじめとした末妹候補たちはみな、『未知なる末妹』という最後の女神に到達可能なポテンシャルを有している。ルウテトという可能性が示す通り、道は『末妹』以外にも開かれているのだ。本来の目的からは逸れるが――それもまた道。独り舞台でない限り、主役以外が活躍する瞬間が必ず訪れる。


 とっておきの座ではないけれど、そこから脱落した魔女たちが再起をかけて目指すこともある『空きポスト』。

 主役になれないからと主役以外の役を狙うなんて、敗北主義者と笑われる?

 それとも、どんな形であれ勝ちに拘る負けず嫌いと嘲られる?


 どっちでもいいか、そんなの適当で。

 視界隅でにこにこ笑うマゼシューラは満足げだ。

 赤と青の小さな妖精が仕掛けたこの一手は私を支配の糸から自由にしたが、それと同時により致命的な運命の中に叩き落とした。

 これでもう、私は『キュトスの姉妹』という不死の宿命から逃げられない。

 永遠にこの諦めを背負い続けるのだ。あーあ。


 思考を、情動からゆっくりと引き剥がす。

 深く息を吸い、断続的に出し続ける呼吸法――人形としての性質を持ちつつも、女神でもある私はサイバーカラテの手法を用いてこんなことができる。

 今は深く考えない。彼女は私をあえて手放した――その恐怖を分離して、目の前の脅威に対応する。私は塔の『創造クラフト』を実行し続けた。


 転生形式は『ラプンツェル』――塔の上に閉じ込められた、長い髪のお姫様。

 シナモリアキラは伝承と神話を異世界から転生させた。

 基幹参照世界から、私という人形におあつらえ向きの神話を召喚したのだ。

 ――厳密に言えば、ぴったりあつらえてあったのは私の方なんだけど。

 マゼシューラは静かに、と指示するように人差し指を唇に当てていた。


 キュトスの姉妹流に翻訳された名は変形した愛称で『ラプンシエル』。

 正式にはラプンツェル・ペトロシネッラ・ヘルズラダーと三つに連なる記号の羅列が私にとってのまことの名だ。

 その性質は黄泉戸喫ヨモツヘグイの母子感染。異界のノヂシャを食べたがために、子供に魔女=小女神の因果を背負わせる物語。

 野萵苣ラプンツェルの名を参照した場合は出産=生の性質を表出させ、香芹パセリの名を参照した場合堕胎=死の性質を表出させるが、どちらも生と死を孕む子宮、すなわち神の家である塔=異界を象徴している。

 

 ルウテトとの決戦の際にミヒトネッセが盗み出し、私が喰らった『何か』。

 あれはルウテトの不死性を具現化した冥界の果実であり、この場合はノヂシャに当て嵌められるものだが――実際の所、彼女は何も盗み出せてなどいない。女神から不死性のみを抽出することなど超高位の言語魔術師でも困難だし、そんな余裕も技術もミヒトネッセは持ち合わせていなかった。


 あれは小道具を使って『何かを盗み出した』ということを示しただけだ。

 演技と類似、見立てさえあれば舞台の上では儀式が成立する。

 私が取り込んだのは彼女が元々持っていた『氷球』。幻像を纏わせて冥界の食べ物に偽装しただけで、私も実際には食べる演技をしただけだ。

 『氷球』は適当に川に捨てておいたけど、まあコルセスカあたりが遠隔操作で回収したんじゃない? 多分だけど。


 冥界の女神から簒奪した不死性の呪力。それが私を小女神たらしめている。

 私はステュクスというルウテトの浄界から呪力を簒奪して、自分の浄界を構成する塔のリソースに変換していく。

 言うなれば私はルウテトの雄しべから花粉を運んできたミヒトネッセ蜂によってシナモリアキラの雌しべで受粉した――いやこの喩え分かりづらい!

 要は系譜としてルウテトの娘神とも言える存在。

 冥府の力、ルウテトの力を奪うことにかけて、私の右に出る者はいないのだ。


 水面を割って、長大な塔が飛び出して行く。

 私にとって塔は肉体に等しい。

 感覚器としての塔の外壁が戦場となった世界を認識する。

 突如として出現した『私』という巨大な構造物に誰もが驚愕しているが、驚いているうちに奇襲を成功させねばならない。


 すかさずルウテトが自らの支配下にある三柱の神に指示を出し、紀神を物質的化身として再解釈した怪物的な使い魔をけしかけてくる。

 恐るべき魔女の追っ手が天に挑まんと積み上げられていく愚者の塔に迫る。

 私は逃げた。ただ逃げるだけでは追いつかれてしまうので、ここはミヒトネッセに倣うとしよう。私は髪の毛の一部を変形させて、全てを呑み込んでしまいそうな巨大なあぎとを形作った。大きな口を『門』であり『冥道』だ。

 ルウテトの呪力を盗んで生み出した空間を歪める回廊。

 そこから私の呪的逃走に必要な力が飛び出してくる。


「悪いけど、子供は神の捧げ物なんて時代はとっくに終わってるの!」


 冥界から押し寄せるおぞましい怪物たちから、私は千切った髪を囮にして逃げていく。最初に『扉』となった髪から飛び出したアルマとサリアがハザーリャ神を足止めする。続いてイツノと蠍尾(マラコーダ)が出てきてアエルガ=ミクニー神を食い止める。最後に現れたメートリアンたち『空組』がペレケテンヌル神に手痛い一撃を喰らわせて、機械の神のカメラアイから潤滑涙が零れて落ちた。


 時間稼ぎは十分。私は塔を『創造クラフト』して空へと向かう。

 やがて天へと突き進む塔はまるで槍のような勢いで逆さまの大樹を迎え撃った。

 ルウテトが第五階層に届かせようとしている世界樹を、この塔で破壊する。

 できるはずだ。異界伝承を直接参照した塔の髪長姫としての権能を解放すれば、生命を司る大樹を冥府の呪いで相殺できるはず。


 私は塔の頂上に飛び出すと、長く伸び続けるフクシャの髪の毛を縄のようにして放り投げた。放物線を描く髪の毛は私の意のままに動く拡張身体。

 けれど私がを伸ばすのは地面じゃ無い。

 あいにくと王子様のために髪を梯子にするなんて私の趣味には合わないから。

 長く伸び上がっていく髪が目指すのは、高い空の向こう。


 髪と共に塔もまた伸び上がっていく。

 屹立する心の表象に、私は呪力の全てを注ぎ込んだ。

 そして、構築し続けていた最上級呪術の維持を解除する――前世では実力が足りずに使えなかったこんな力も、今の私なら使いこなせる!

 オルゴーの滅びの呪文――またの名を人工紀竜オルガンローデ。

 女神流にアレンジした、私だけの極大呪文だ。


「天を喰らえ、塔竜グレイシス=バーガンディア!」


 胸の中で、心臓がどくんと脈打つ。

 魔眼竜の瞳が、まなざしの力を髪の一本一本にまで浸透させていく。

 私の髪が広がって巨大な竜の頭部になり、胴体部分の塔と接続。

 逆さまの森から迫り来る大樹、それを迎え撃つ長大な塔竜。

 天から落ちてくる莫大な命のエネルギーを、私は冥府の呪いで受け止めた。

 生命の力、そのなんと重いことか。

 髪が千切れて頭が砕けそう。

 塔を含めた全身がぺしゃんこに潰れていないのは奇跡としか思えない。


「う、う、うう」


 重い重い重い、ていうかこれすっごく毛根に悪い、禿げたらどうしよ。

 あ、だめ挫けそう。諦めていいかな。

 遠くからシナモリアキラの励ましが聞こえてくるけど、一番やる気を削ぐ声援だから引っ込んでて欲しい。え、何? 約束を守る粘り強い性格が私の名が持つ呪力――これも適当な与太の参照? ていうか誰が決めたのこれ。


 やっぱり女神見習いじゃこれが限界――そんな弱音を吐きそうになった時、遙かな下方から威勢のいい呪力が立ち上ってきた。

 長大な書槍銃を手にした魔女は、強気な表情で赤毛のお下げを揺らす。

 世界樹に照準を合わせ、『知識』の断章から呪力を引き出している。


「天に掲げるは黒金の王冠、万人よ聞け卑しき宣名、告げるは終末の十二使徒!」


 女王の名に於いて叙任の儀式が執り行われようとしていた。

 機械女王の使い魔として、私を位置付け、支配し、強化しようというのだ。


「鮮血のトリシューラの名において、今ここにマレブランケの叙任を執り行う! 汝が名は『雷喰らい(グラッフィアカーネ)』――天威に爪立てる塔なる竜!」


 トリシューラの詠唱と銃撃により、赤い呪力が打ち上げられる。

 仰々しい名は前任者の雷獣レミルスを上書きするという意図か、女神ルウテトから権能を奪い、歯向かう邪竜という役割を期待してのものか。

 まあいいや、そんなのどうでも。

 機械女王の呪力が私を取り囲み、正式な使い魔として取り込もうとしてくるが、なんかこう、すごく嫌。あいつの支配下に置かれることへの抵抗感が拭えないし、グレンデルヒみたいに上手に躱しておこうかな。

 私は竜に擬えた髪の一房を身代わりに差し出して、トリシューラが私を支配したと思い込むように仕向けた。その気になればいつでも切り離せるが、髪は髪で私の一部だから彼女に従っているのも嘘じゃない。


 トリシューラのバックアップを受けた私の髪が鮮血に染まっていく。

 鮮やかな赤みを帯びた竜のあぎとが天なる力を零落させ、ただの巨大な樹木に貶めて破壊する。噛み砕かれた大樹はばらばらになり、大地への侵攻を瀬戸際で食い止めることに成功する。天に噛み付いたグレイシスが、咆哮を轟かせた。


 私の勝利に呼応するように、戦場で次々と勝利が連鎖する。

 メートリアンらが機械紀神ペレケテンヌルを、蠍尾(マラコーダ)らが妖精紀神アエルガ=ミクニーを、サリアとアルマが永眠紀神ハザーリャを、化身としての形を破壊して、別の次元に叩き返していく。


 流れが変わっていく。

 不意に、勝ちに近付いているという感覚に水を差すような寒気が背筋を撫でる。

 恐るべき『盗み』の気配を、私は目ざとく感知していた。

 振り向きざまに髪の毛で薙ぎ払う。

 塔の頂上に傷痕が刻まれ、そこから一歩下がった位置に無音で立つ不気味な男。

 完全に気配を消していつの間にか塔内に侵入していた盗賊王ゼドは、私の姿を舐め回すように見ていた。この嫌悪感――シナモリアキラと同質のもの!


「死ね!」


 使い魔グレイシスに命令を下し、髪が牙を剥いてゼドに襲いかかる。

 ゼドは骨犬を象った強化外骨格でそれを軽々と受け止め、にやりと笑った。


「素晴らしい。女神を孕み、転生させるだと? その発想は無かった、最高だ、やはりお前は俺のものになるべき宝だ。欲しい、よこせ、価値ある財は盗賊に奪われてこそ意味がある」


 涎を垂らさんばかりの興奮。フルフェイスの兜の内側で、バイザーごしの目は血走り歯は獣のような牙に変形している。

 ゼドの視線は、私の腹部を貫くような鋭さだった。

 生理的嫌悪感以上に、身の危険を感じた。


「アキラ、俺を喰ってその胎から産め。ああ、逆でもいいぞ。俺がお前を喰い、殺し、犯し、孕み、生み出す! いっそ交互にやろう、延々と生と死を循環させ転生神としての強度を際限なく高めるんだ、俺がお前のパパで、お前が俺のママだ!」


 私は、シナモリアキラの『E-E』という感情制御アプリに深い感謝を捧げた。

 いま確信したけど、これ絶対世の中に必要なツールだ。

 本当に危なかった。

 『E-E』が無ければ気持ち悪過ぎて即死だった。


 私はこれまでで最もおぞましい怪物に対抗すべく、冷静に武力を準備した。

 想像する――私にとって必要な力を。

 私の手に最も馴染む最適な助け。

 シナモリアキラを象徴する左右の義肢――私は機械と氷ではなく、可愛らしいお人形を頼りになる友として定義した。


 『創造クラフト』――人形義肢ベルグ・ベアリスとガルラ・クオール。

 ファンシーなグローブパペット、その姿は勇気ある騎士と、賢い魔法使い。

 私は右手の二頭身のパペットを前に突き出した。

 人形たちは私のお友達。

 自ら意思を持ち、私のためにお話をしてくれる。


「ベルグくんと!」「ガルラくんの!」「なげやり人形劇がはっじまっるよー! わーわー! どんどんぱふぱふー!」


 レッテだけの空想的な友達は、幽閉の退屈を紛らわすために読み耽った古い伝承をヒントにして創り出された。ただのクランテルトハランスとひと味違うのは、人形師でもある私は幻想を確かな形にできるところ。

 物理的クランテルトハランス――それが人形のお友達だ。


「出でよ、忘却の魔王騎士ベルグくん!」


 古代ラフディを脅かした古今無双の妖精王の立体幻像が、私の義肢の動きと連動して目の前に立ち上がる。これは呪力を持つ幻、力あるヴィジョン。

 私が念じれば敵対者を討ち滅ぼす最強の義肢使い魔だ。

 今のベルグくんは私の手に嵌まった可愛い二頭身ではない。


 見上げるように巨大な藍色の呪動装甲リビングアーマー。巨大なピコハン『忘却オブリヴィオン』を振り回すことで人類の集合無意識にアクセスし、あらゆるものを夢の底から忘却させる。紀人であろうと容赦なく存在ごと打ち砕くその猛攻に、さしものゼドも必死で回避せざるを得ない。

 畳みかけるチャンスだ。続けて左手を突き出す。


「おいで、廃都の魔神ガルラくん!」


 祭祀政体の古代ラフディを治めていた球神官である彼は、球神ドルネスタンルフの霊媒にして陪神だ。

 朱色のローブを纏ったガルラくんの腹部が開くと、中には小さな箱庭。浄界『朱色廃園』の美しいお庭では自動機械の女の子が首のない夫や可愛い結合双生児ちゃんと暮らしているが色々あって最後には全員死ぬ。再演された悲劇の結婚が、現実の結婚に破綻を押し付けた。

 統合されていたゼド内部の多様な性質が荒れ狂い、強烈な自我が好き勝手に暴れ狂う。大量の権能を盗み溜め込んできたゼドは体内で暴走しかけている呪力を抑えようと必死だが、その隙を突いてピコハンが直撃。


 一撃、二撃と喰らわせるとゼドの装甲が砕け、勢い良く吹っ飛んでいく。

 塔の屋上をごろごろと転がっていくゼドをふたつの色号呪力が追いかけ、あぎととなって噛み砕く。必殺の念を込めて呪ったが、致命打を与えた実感は無い。

 けれど、今のゼドにとって二つの呪力はある効果をもたらした。


 彼の強靱な意志によって統御されていた女神ルウテトの呪力。

 死神という役割を与えられた彼の権能が、先ほどの攻撃で暴走しているのだ。

 荒れ狂う死の呪いがゼドの全身を蝕み、呪動装甲を突き破った真っ黒な汚泥が男の肉体を変異させていく。砕けた鎧から覗く、奇怪な形の肉塊。

 増殖しながら体積を増していく哀れな死神は、このままいけば意識を奪われてルウテトの忠実な人形と化すだろう。

 多分、ルウテトは最初からこのつもりだったのだ。

 あの女神は自分の手駒に自由意志を認めていない――叛逆する力すら持たない弱い男を、心の底から蔑んでいる。


 ルウテトの呪いに思考を蝕まれていくゼドが、苦しそうに呻く。

 嫌悪感しか湧かない相手だったが、こうなると哀れなものだった。

 嘆くように、もう判別がつかない盗賊王の顔あたりから潰れた音が響く。


「ああ――ルウテトの支配が俺を染め上げていく。消えるのか、俺は、こんな」


 嫌だ、嫌だなあとすすり泣きが聞こえる。

 存在の消滅を待つばかりの半死人は、怯えに満ちた声で続けた。

 それは切実な、命の危機に瀕した者にしか出せない本物の懇願だった。


「頼む、殺してくれ。俺が俺のままでいられるうちに。とても苦しいんだ。このまま紀神に喰われて自由意思の無い道具に成り下がるのは嫌だ」


 私は、自分の後ろで憎悪が燃えさかる音を確かに聞いた。

 制御して打ち消してもなお高まる怒りの熱。

 シナモリアキラにとって、ゼドという男は最悪の敵なのだと理解する。

 よりにもよって、この男は。

 シナモリアキラに歯があれば噛み砕いていただろう。

 邪視に破壊力があれば視線で殺していたはずだ。

 ゼド、ゼド、ゼド。厚かましくも哀れを誘おうとするその作り込まれた表情が心底気持ち悪い。こいつは全てを理解した上でこの台詞を言ったのだ。


「そう。あなた、最初からシナモリアキラに解放させるつもりでルウテトの下僕に成り下がったんだ? 死神の権能だけを手にして逃げるために」


 実際に存在消滅の危機に瀕してシナモリアキラにその罪を突きつけるためだけに、このシチュエーションを演出するためだけに、ここまで辿り着いた。

 滅びを恐れていないのか、それほどまでにシナモリアキラに執着しているのか。いずれにせよ異常な執念だ。こいつはシナモリアキラが絶対に自分を『介錯』しないと踏んでいる。だがルウテトの死神を排除する必要はあるから――


「ベルグくん、『忘却』させて」


 ルウテトの呪力に対して耐性を持つ私は、巨大なハンマーの一振りで女神の支配力だけを取り除いた。黒々とした汚泥が消滅し、中から傷付いたゼドが現れる。

 流石の盗賊王も消滅寸前だったが、その表情は余裕に満ちていた。

 この男はここからでも逃げおおせるのだろう。

 呪的逃走の逸話を持つ私は、逃げる力ではこの盗賊に敵わないことが理解できていた。ここにいるのは既にゼドの残滓でしかない。彼は自分の影を経由してとっくにステュクスの外部に移動している。


「また会おう。次は逃げずにちゃんと殺してくれよ」


 ア、キ、ラ、と一音ずつ区切って言うと、盗賊王の姿は霞のように消え去った。

 強敵を撃退したというのに、私の心は晴れなかった。

 シナモリアキラは、きっと奴を殺せないだろう。

 いや、というよりも。

 あの男だけは、決して殺してはならないのだ。

 その価値を認めてしまったら、彼は。

 『殺し屋』同士の対決はひとまずの終わりを見せた。

 胸の奥にこびり付くような、不快な呪いを残して。




 氷と氷が鳴らす涼やかな剣戟の音が戦場に響いていた。

 クレイ、ミヒトネッセ、ルウテト。

 三者が入り乱れ、舞い踊るような戦いを演じれば、御使いたちの喇叭は終末の幻想を美しく彩りながら生命を未来へと加速させていく。

 舞台で踊っているのは死そのものだ。

 この戦いは、争いであるより先に死を表現する演技だった。


 だから、強大な力を持つルウテトはあくまでも『死の表現』を美しく魅せるために一方的に相手をたたき伏せることはしない。

 舞い手として神と同じ地平に立つこの二人であれば、自分と踊ることを認めても良いと、刃を合わせ、呼吸を揃え、最適な位置取りをしつつ攻防を演出していた。

 

 手にした長大な『氷槍』は振り回すだけで見栄えがする。

 煌めく光の粒子を振りまきながら舞台を縦横無尽に飛翔する穂先はまさに王者のみが持つ事を許された特権の象徴だ。

 対して剣と宝珠を操って女王の周囲を舞う二人は、圧倒的なまでの美を体現するルウテトに一歩、また一歩と肉薄しつつある。

 単独では及ばずとも、二人合わせればその表現力、演技の質は女神に届く。

 水と油のように敵意を向け合っているにもかかわらず、クレイとミヒトネッセは驚異的なまでの噛み合いの良さを見せていた。

 幾度となく競い合い、練習と本番を重ねて来たのだと言うように、二人で一つの躍動を舞台の上で輝かせている。


 勇壮な戦いの舞踏――ある種の神聖さすら漂うその儀式にしばらく付き合っていたミヒトネッセだが、とうとう我慢ならなくなったのか嘲るような笑みを浮かべ、指の形を次々に変えていく。『親との性行』『近親相姦』『淫売の子』『動物姦』といったニュアンスのジェスチャーを掲げ、最低の呪術を発動させる。


 疑似英雄――否定的で露悪的なパロディによって英雄伝承を貶める呪い。

 彼女は長いマフラーを広げて様々な英雄たちに変身、その邪悪な側面を強調した演技をしようとしたが――その寸前で、変身術の媒介たるマフラーをクレイが掠め取っていく。呪術の一欠片だけを切り取ったクレイは、閉じられた瞼の内側で暗黒に染まった瞳に星を輝かせていた。盲人が視る闇に、星が瞬いている。


「我が父祖、我が部族の誇りは大海に眠るハザーリャへの祈りを体現するもの! 驕れる女王よ、我が父イアテムが生み出した呪いの剣を受けよ!」


 堂々たる宣言と共に、クレイの手に出現したのは水流の剣。

 これこそは魔女殺し、『イアテムの呪いの剣』。

 イアテムの子クレイが継承せし、古き神ハザーリャの神意を代行するもの。

 紀神の力を借り受けた一撃が、女神ルウテトを退かせる。

 ルウテトばかりか、ミヒトネッセすらも予想外の展開に目を丸くする。 


「イデアルファザー?! 姓を変えただけで、仮想英雄の形式を再現したの?」


 ミヒトネッセから奪ったマフラーを首に巻いたクレイ。

 その姓が曖昧に揺れ動き、自由自在に着換えられる衣裳のように『早着換え』を繰り返していく。イアテムだけではない。マラード、アルト、ヴァージル、オルヴァ、パーン、カーティス――『父親候補』とされたおぞましき可能性。

 クレイはそれらの『特権』を好き勝手に利用し、使い倒す。


「空想が俺の父であるならば、俺もまた父を理想に変える」


 クレイが演じる英雄は、ミヒトネッセが貶めようとした邪悪なものではない。

 歴史の事実などどうでも良いとばかりに脚色を重ねた完璧な英雄。

 誰よりも美しく誰よりも強い、女王に絶対の忠誠を尽くす美貌の王。

 やり過ぎなくらいの、徹底的な美化。

 何事もソフトにすればいいというものでもないが、クレイはそこで躊躇をしなかった。『実は残酷だった』の真逆を行く、きらきらしたおとぎ話がそこにある。


 マラードは息を呑むほど美しく、時に愛嬌を振りまいて観客を笑わせる。

 アルトは厳しくも優しく、清廉潔白で強き為政者として善政を敷く。

 ヴァージルは愛らしく甘え、時に毒めいた顔を覗かせ。

 オルヴァは奇行の中に深遠な思慮を見せ、再び全てを台無しに。

 パーンが傲岸不遜に善も悪も踏みつけ進み。

 カーティスの寂しい微笑みは姫を攫う魔王にも関わらず同情を誘った。


 そして、その全員が息子である王子を心から愛し、非の打ち所のない完璧な父親として振る舞う存在として解釈されている。自分勝手な傲慢さなど微塵も無い。常にクレイを尊重し、クレイのために自身の財産や権力を手放すことも厭わない。

 それゆえに、クレイは彼らの力を自在に引き出せるのだ。

 ミヒトネッセは思わずこう言った。


「夢見がちか」


「俺の父は、俺が決める」


 力強い断言。

 『誰が父か』ではなく『どんな父か』まで自分の意のままであると確信したクレイにはもう恐れる者など何も無い。

 彼にとっては呪いでしか無かった、改変される父の姓。

 それはルウテトの理想像である英雄、彼氏、父親像から構築された『ルウテトの権能』でもあるため、その存在強度は紀神の呪力が上乗せされる。

 彼のこの戦い方は、他ならぬ母から学んだものなのだ。


「この私に、折れた英雄の力で立ち向かおうなどと!」


 母と父。

 対立する二つの力が激突し、世界を揺るがす。

 それは呪術世界の歴史上幾度となく行われてきた王権交代の儀式。

 陰と陽が絡みあい、その立ち位置を入れ替えながら王座を奪い合う。

 この舞台においても神話的な再演が行われようとしたその時。


 クレイとルウテトの意図を、またしてもミヒトネッセが挫く。

 女王目掛けて疾走するクレイの背後についたミヒトネッセの気配からその意図を汲んだのか、反射神経だけで合わせてみせたのか。

 ルウテトの目の前で、くるりと回転したクレイと背中合わせになってミヒトネッセが女神の相手役に交代する。

 いや、何かがおかしい。

 違和感にルウテトは眉根を寄せた。

 ミヒトネッセはミヒトネッセのままだと言うのに、何かが致命的に違っている。

 人形の瞳に、輝く星々を認めた瞬間、ルウテトは違和感の正体を理解した。


「男に――」


「気付くのがおせえよっ」


 荒っぽい声と共に、舞台の認識が人形に追いついた。

 蹴りを防御した『氷槍』を足場にして軽業じみた跳躍をしたミヒトネッセの姿が、侍女服ではなく白を基調とした王子様の衣裳に変わる。

 翻る赤いマント、金の飾緒に彩られた軍装チュニック、頑丈そうな鋼鉄のブーツを纏った男は、ミヒトネッセの端整な美貌の印象を残しながらも野卑な雄っぽさを漂わせていた。クレイと同様に後頭部で括られたポニーテールが揺れて、砂茶の髪色は攻撃的な表情も相まってひどく派手だ。


「どうしたよ女神サマ、それで終わりかっ」


 男性さながらの演技で大胆に舞うミヒトネッセの衝撃が冷めやらぬままに、ルウテトの目の前に信じがたい光景が繰り出される。

 いや、それは当然の流れと言うべきか。

 氷の剣を手にした我が子の姿は変容していた。

 騎士甲冑と侍女服を合わせたような独特の衣装に、立ち居振る舞いと細々とした所作にたおやかさを重ねたその有り様。

 黒髪ポニーテールを揺らす少女は、姫騎士クレイとしてルウテトと切り結ぶ。


「驚くには値しません、陛下。役者が舞台上で異なる性別の役を演じることなど、ありふれたことなのですから」


「安易なっ、受け狙いの学祭劇じゃあるまいし――」


 美意識に反していたのか、不快感を露わにするルウテト。

 だがクレイとミヒトネッセは互いに顔を見合わせて、


「学院でやったよな、男女交代劇」


「ああ、結構盛り上がった。まああれは無理がある奴の方が笑いがとれるから、俺たちがやっても自然過ぎてそこまで盛り上がらなかったが」


 などと演じられた学生生活の思い出を語り出す。

 感性の軽やかさ、世代の差異、美意識の違い。

 そうした細かいセンスの積み重ねが、ルウテトの舞台を歪めていく。

 二人の交代劇は終わらない。

 男女を交換しただけでは飽き足らず、共に男として舞い、共に女として踊り、時には無徴のまっさらな人形となって戦い、あるいは性差をカラーリングや胸の膨らみで表現した有徴の機械兵器となって宇宙を駆け巡る。


「『死人の森』をスペースオペラに翻案?! 私に無断でそんなことを!」


 無性と無性、あるいは限りある命の有性者と無性の機械とのパートナーシップ。

 両性具有、変動する性、性選択式種族のジレンマ、媒介者となる第三の性。

 あるいは、あるいは、あるいは。

 広がる可能性の渦に、男女の結婚という単純で古い図式は取り残されていく。


「勝手に入れ替わったばかりか――共に男、共に女? 別解釈のカップリング? 私の創造したキャラクターが不満ですか、私があてがった運命の相手は嫌ですか。誰も彼もが幸福な結末を拒絶する、ならばなぜ、私は!」


 理不尽への怒りを叫ぶルウテトに、クレイは言った。


「陛下はかつて氷の槍として語られたこともある――ならばご存じのはず!」


 交換可能なもの、それは役にとっての役者。

 交換可能なもの、それは役者にとっての役。

 用意された運命やくはひとつ。

 されど役者は千変万化、交換可能な価値が無限大の『劇的』を示す!

 それゆえに運命は広がりを見せるのだと、彼らは知っている。

 この舞台の上、その身で感じたことだ。

 怒りに震える王を前に、花嫁衣装に着替えたミヒトネッセが舞台に用意されていた台詞を口にする。純白のドレスを脱ぎ捨てた、雄々しい男装となって。


「幸福な結婚なんていらないわ。約束された未来より、己に誓った今を選びたい。たとえそれが理不尽な終わりを招こうとも」


「アンティゴネー! 賢明な選択とは言えぬぞ!」


 王国の法に背く叛逆者は裁かれねばならない。

 権力が漆黒の呪いとなり、ルウテト=クレオン王はそれを穂先に集めた。世界を貫く根本原理、女神が強制する理を力尽くで叩きつけようというのだ。

 もはや演技力や舞台上の段取り、表現の力などは関係が無い。 

 王者が押し付けてくる圧倒的な力がクレイたちを飲み込まんと迫り来る。

 しかし、クレイの表情は揺るがない。

 傷付いた目蓋が、銀河の輝きを示す。

 彼の心には、まだ剣が眠っている。


「踊れ、ダアルノート!」


 それは完全な未知だった。

 誰も知らない、聞いた事も無い言葉の響き。

 そして、ルウテトは見た。

 クレイの右腕と重なった氷の剣がその胸に吸い込まれ、一本だけ多いという肋骨が変形した骨の刃と組み合わさって氷と死の剣へと変貌していくのを。

 そして、何故かクレイの頭部に二つの三角耳が乗っているのを。


「えっ、猫耳」


 趣味ではないにも関わらず、不意を突かれたせいでちょっと可愛いとか思ってしまう女神ルウテト。白だか黒だか分からない耳は幻のように存在しないことになってしまったが、その一瞬に致命的な隙が生じる。


「接理の妖精、繋いで結べ!」


 クレイの手と一体化した剣の内側に、銀河の星々が広がっていく。

 それは『使い魔』――関係性の呪術を強化する力。

 ルウテトに気取らせないまま、クレイの内側で密やかに『氷刃』と同化していた原初の呪い。紀元槍に刻まれたその名は、接理の妖精アーザアル・ダアルノート。


「――またしても私の前に現れるのですかっ、『ことわりの呪い』!」


 灰の瞳に憎悪の記憶が甦る。

 彼女はこの妖精を知らないが、似た感触には覚えがある。

 思えば、リールエルバ=カーティスを操っていた時もそうだ。

 あと一歩のところで、あのエル・ニア・ナーグストールとかいう妖精にしてやられたのだ。ディスペータから転生した時もそう。フィリスが全ての元凶だった。

 いつも、いつも、いつも。

 屈辱と怒りを込めて振り下ろした槍を、クレイは妖精の剣で迎撃した。

 爆発的な呪力が荒れ狂い、クレイの足がわずかに後退しかけるが、すんでのところで踏み留まる。静止と拮抗。彼は女神の全力を受けきっていた。


 恐るべき権力をその身で抑え込みながら、クレイが閉じた目蓋の裏で想起するのは一つの誓いだった。

 初めて機械女王と交戦し、一時的に共闘した際に交わされた『誓約』の呪文。


 ――内容は簡単。この第五階層の『女王』に忠誠を誓うこと。


 トリシューラがかけた悪意の呪いを、クレイはずっと抱え続けていた。

 彼がその呪いに願うことはひとつだけ。

 それが機械女王の罠であっても関係無い。

 クレイが想うのは、ただ一人だけだった。


「俺は信じている。陛下が――母上がまた夢を取り戻せると」


 絶対的な力を持つ神に対抗するには、自身も神になるか、さもなくば神自身の定めたルールを利用したり、本人の願いによって自己否定を招かなくてはならない。

 クレイは押し付けられた母からの支配、自己の一部としての扱いを受けてもなお愛を貫き続けた。それは彼のエゴでもある。

 彼もまた、母を自己の一部として扱っているからだ。

 干渉することは、干渉されること。

 他者への自己愛は必ず対称性を持つ。それがどんなに歪でも、押し付けたからには押し付けられる覚悟を持たねばならない。

 それが因果関係というものだからだ。

 文句などはつけられない。

 クレイの愛は、独り善がりなのだから。


「俺に代わりをさせるなんて言わないで欲しい。あなた自身の夢を諦めなくてもいいんだ。俺はただ、そう伝えたかった」


 ダアルノートによって切り裂かれた心は、その使い手の心の断片と接合されて『押し出される』。方向付けられた心を解体し、『真の願い』を引き出して対象の心が自ずから刃の向かう方へ進んでいくように仕向ける――ある意味では最も凶悪な洗脳呪術。言理の妖精とは似て非なる幼児的傲慢を体現する妖精だ。

 結果として、氷骨剣ダアルノートは『氷槍』を切り裂きつつあった。

 世界とその全てを統べる権力が、正しく選定されようとしているのだ。


「相手の力を利用して切断する、『使い魔』的魔剣――!」


 その性質を理解したルウテトが、迫り来る未来を予測して凍り付く。

 灰色の瞳は、ふたたび諦めを映していた。

 この剣は接続した自分の心が相手に届かなければ何の意味も為さない呪い。

 ゆえに、その振る舞いで他者の心を震わせる表現者――舞い手にして肉体言語魔術師であるクレイにしかこの神殺しは成し遂げられなかった。


 斬撃が世界槍を両断し、女神の胴に斜めに侵入していく。

 致命的な一撃が神の権能を殺し、暴走した権力を正しく裁いたのだ。

 力を失い、倒れようとするルウテトの身体をクレイが抱える。

 戦いは終わった。王の死によって、王国は滅びへと向かって行く。

 その終末を表現するように、世界が震え、猛り狂っていく。


 突如として発生した地震に誰もが体勢を崩していく。

 止むことの無い激震に橋は水浸しとなり、大河は嵐の海さながらの荒れ模様だ。

 クレイの腕の中で、ルウテトが不気味に笑う。


「あらかじめ設定しておいたのですよ、『氷槍』の自爆プログラム――私が世界槍の制御を失ったとき、私が握る『槍』は『竜』となって世界を破壊する」


 冥府の大河と一体化した『氷槍』は流れる水の全てを凍結させ、氷の大蛇竜オルガンローデとして浄界に顕現しようとしていた。

 その巨大さは天に挑んだ塔竜を遙かに上回る。

 巨大な氷の蛇が鎌首をもたげ、ルウテトは笑い、誰もが愕然とする中。


「わざとらしい悪役ムーブが、うっとうしい!」


 空高く跳躍したミヒトネッセの踏みつけが、大蛇の頭部を踏み砕く。

 『氷球』の呪力を組み込んだ、落下と回転の勢いを乗せた見事な踵落とし。

 女王の管理を離れた『槍』が、法の外で荒れ狂う『竜』となる。

 それは王国を脅かすならず者の王、荒ぶる英雄に他ならない。

 ならばそれを嘲笑し、否定するのがミヒトネッセの『役割』だ。


 かくして舞台は終幕を迎える。

 『死人の森』という王国にとっての災厄は内部と外部、二つの側面から打ち砕かれた。正義は勝利し、悪は敗北する。 

 当然のことながら、古く邪悪な女神は滅び行くのみだ。

 それはこれまでに繰り返されてきたように、何度でも。

 氷の舞台に、どこからともなく現れた新たな人物がいる。

 冬の魔女コルセスカは怜悧な瞳で自分自身の可能性を見据えて言い放った。


「ミヒトネッセは六王たちと交わり髪に縛られたルウテトの巫女――その役回りはクレイの母とも呼べるもの。けれど役が変われば関係も変わる。父を殺し母を娶ったオイディプス王、国禁を破り王に背いたオイディプス王の娘アンティゴネ。クレイとミヒトネッセは父と娘を演じている。この反転こそ魔力というもの」


「私の転生を邪魔しに来ましたね、コルセスカ」


 クレイの腕の中で薄く笑うルウテトの四肢がゆっくりと薄れていく。

 輪郭が解け、女神の王権は新たな時代へと移行していくだろう。

 だがこの舞台で徹底して悪役を演じてきたルウテトは、最後まで完璧な『敵』を演じ切った。それは舞台の成功に必要な行為であり、その意味で彼女もまた勝者と言えるのだ。時に悪役は主役を喰うほどの存在となり得るのだから。


 女神の企みを阻止すべく、コルセスカに呼ばれて使い魔が到着した。

 ラプンシエル――シナモリアキラによって転生させられたキュトスの姉妹。

 シナモリアキラとしての権能でルウテトの転生呪術に干渉し、これ以上の『やり直し』を行わせない。未来転生者に最後の死を与えられるのは、彼女が欲したシナモリアキラだけなのだ。

 クレイはその結末を見届けるしかない。それすらも含めて主の願いであると、母を抱きしめた彼には分かっていたからだ。

 その生涯を閉じようとしているルウテトに向かって、コルセスカは告げた。


「私がこれから歩む再演は、あなたとは違った世界を拓くでしょう」


「自信があるのですね。最後に教えて貰える? その確信の源は、何だったの?」


 問いに、コルセスカは迷い無く答えた。

 当然でしょう、だって。


「私とあなたとでは、役者が違うのですから」


 それが最後。

 幻のように、細かな灰となって風に散っていくルウテト。

 シナモリアキラの二重義肢が第五階層における転生を管理し、この限定空間内における全ての魂が悪しき憑依転生や存在の上書きを予防し、ルウテトという古い女神が復活しないように監視の目を光らせる。

 

 かつて『死人の森』が滅んだように、『死人の森の女王』もまたこの再現された世界で滅びの時を迎えた。それは不可避の運命であり、予定調和に挑み続けたルウテトの決定的な敗北だった。これは最初から、死についての物語だったのだ。

 浄界の光景が薄れて消えていく。

 舞台の上で、クレイは座り込んだまま動かない。


「俺は、これで良かったのか。俺に与えられた役割、宿命、願い――俺の意思は、俺が選ぶべきだったものは、いったい」


 誰に向けたものでもない、漠然とした問いかけ。

 彼は最後までルウテトの味方で居続けた。

 女王の意思を汲み、女王のために叛逆し、その暴挙を諫めた。

 クレイは正しく『王国の剣』として役割を果たしたのだ。

 そんな彼の悲しみに寄り添える者などどこにもいない。


 ただ、彼が憎しみを向けるべき相手は一人だけいた。

 クレイはルウテトの意思を尊重してそれを止めなかったにせよ、転生を邪魔したシナモリアキラを仇と憎む権利がある。

 それはとても自然な流れで、だからラプンシエルは存在を明け渡してシナモリアキラとしてクレイと対峙することを許した。

 シナモリアキラは憎悪に育とうとしているクレイの悲しみを一瞥して、あっさりと切って捨てた。


「知るかそんなもの。俺はお前の父親じゃない。自分で考えるか、信頼できる相手を見つけて相談しろ」


 空気が凍る。コルセスカでさえ表情を引き攣らせているし、戦いの終わりを知ってやって来た他の面々も絶句していた。

 シナモリアキラの表情は雄弁に物語っている。こいつと俺は何の関係も無いし、こいつ個人に対して特別な感情は何も無い。この世界に来て以来、一番どうでもいいと思えたのがこいつだ――そんな具合に、クレイに対して何も感じていない。

 最悪の対応に再び死闘が勃発するかと思われた時、言葉が続いた。


「だがお前が決断を恐れ、選択を留保あるいは放棄するのなら――第五階層はそれを肯定する。ここは行き場が無い奴のための仮設の舞台だ。踊りの練習場所くらい空けておく。他ならぬ第五階層シナモリアキラが保証するよ」


 シナモリアキラは、そういうものになった。

 トリシューラのように世界を創ることも、コルセスカのように世界を拓くことも、レオのように世界に寄り添うこともできない。

 だが道具として、設備として機能するだけならできる。

 誰かを救ったりするのは見栄えのする役者たちの仕事で、そうではない者たちが裏方で舞台を維持していく。


 舞台の上に立つクレイは、舞台そのものを否定できない。

 彼は憎い仇を討つことができないのだ。

 それはある意味では救いの無い結末だったが、そんな彼に無造作な大股で近付いていく者がいた。ミヒトネッセである。

 侍女人形姿に戻ったミヒトネッセは打ちひしがれるクレイに歩み寄ると、奪われたままのマフラーを取り戻すとその目蓋に唾を吐きかける。


「何をする!」


 思わず気色ばむクレイに、馬鹿にしたような口調で応じるミヒトネッセ。


「なんか盲目の王子様って乙女の涙とかで甦ったり光を取り戻したりするらしいじゃない? 万が一あんたがめでたしめでたしの茶番で終わったら腹立つし、念のため先に穢しておこうと思って」


「殺すぞ」


「お礼言いなさいよマゾマザコン。ご褒美でしょ?」


 手刀と斬撃が激突し、本気の殺し合いが勃発する。

 舞台の外に飛び出して行われるのは演武ですら無い暴力の激突だ。

 コルセスカが止めに入るが、巻き込まれて乱戦が始まっていた。

 主を助けるためにサリアとアルマが加勢して状況が更なる混乱を見せる。

 いつの間にかクレイの憂鬱は消え去っていたが、その代わりとしてこれから同じ主に仕える使い魔たちの間に致命的な亀裂が入りつつあった。


 遠ざかっていく乱闘の光景を眺めつつ、シナモリアキラはラプンシエルの身体でトリシューラに近付いていく。崩壊した第五階層はルウテトの支配から解き放たれたが、それを復旧するのは王権を簒奪した者の役目だ。

 トリシューラにとっての試練は、むしろここからだった。


「ま、どうにかするよ。それに、これからはアキラくんも頼りにできるしね」


 第五階層そのものとなったシナモリアキラが機械女王と協力すれば、新しい王国はきっとまた前進し始めることだろう。希望に満ちた未来を共に語りながら、二人は決意を新たにする。


「けど、アマランサスの作戦が上手く行って良かったよ。今はもうラプンシエルだっけ? ウィッチオーダーの掌握も順調だし、アキラくんがキュトスの姉妹全ての力を手にする時も近いね」


「ああ。ラプンシエルの性質も今回の戦いにぴったり噛み合っていたしな。ルウテトの権能――生と死を支配する力を簒奪・継承し、塔と冥道を重ね合わせる能力――このおかげで女王の呪力を奪って逆に利用できた。ラプンシエルの力が無ければ勝てなかったはずだ。お陰で関連する冥界系姉妹の掌握もできそうだし――」


「――ちょっと待って、アキラくん。それって」


 トリシューラはどうしようもない見落としを発見してしまったかのような顔でシナモリアキラを凝視して、全てが手遅れであることに気付いて硬直する。

 転生者シナモリアキラ、その左腕に構築された義肢ウィッチオーダー。

 いつの間にか自動的に『創造クラフト』されていたそれは、いつか見た形態となっていた。それは冥界の権能を司る第五の封印。かつてトバルカインを装着した際に一瞬だけ現れた不完全な義肢が、その全貌を明らかにしていたのだ。 

 鋼鉄と骨とが一体化した異様な質感に、意匠化された頭蓋骨が手の甲に埋まった死と不吉を想起させる義肢。そしてその頭蓋骨と対になるように、手のひらには生気に色付いた美しい女神の美貌が描かれている。

 それは平面の絵だが、今にも喋り出しそうな、艶美で華麗な人面疽だった。


「ああ、ようやく一つになれましたね、アキラ様」


 手の甲には死、手の平には生。

 ヤヌスの如き双面が同時に喋る。

 左の義肢はシナモリアキラの意思とは関係無く動いていた。

 誕生の歓びをその身体全てを使って表現する左腕に、トリシューラとシナモリアキラは反応できない。反応のしようが無かった。


「新しき神シナモリアキラをアトリビュートする象徴物――あなたの神話における永遠の伴侶、左腕のディスペータとお呼び下さいな。あ、愛称としてならルウとかルウテトでもいいですよ。王権はもう不要ですが、権能の参照は可能ですから安心して使って下さいねー」


 心底楽しそうに言ってのけるシナモリアキラの新たな義肢『ディスペータ』は、滅び去った古き女神としての立場に拘泥していない。従って『紀神ルウテト』の転生を警戒していたシナモリアキラには予測出来なかったのだ。

 そもそも、ラプンシエルとしてルウテトに対抗するという起死回生の一手こそがルウテトの転生を助けていたのだから、彼らはこれを防ぎようが無い。

 そうしなければ、逆さの世界樹が第五階層を侵食していたのだから。


「アキラくん、それ解除して」


「できない」


 無表情で指示を出すトリシューラに、シナモリアキラも虚無の表情で返す。


「は?」


「ウィッチオーダーが、ディスペータ形態のまま固定されてるみたいだ」


「はああああああ?!」


 戻らない腕から身体を遠ざけようとしてできずにいるシナモリアキラに、トリシューラが信じられないという視線を向けて叫ぶ。

 ラプンシエルから蠍尾(マラコーダ)たちに物理的な器を移動させても同じ。

 シナモリアキラには常に義肢ディスペータがついてくる。

 神と結びついた持物アトリビュートに転生したルウテト=ディスペータにとって、もはや相手の存在も自分の存在も些細なことだった。

 結びついているという関係性、それだけが揺らがなければそれでいいと、執念深い女神はあらゆるものを諦めて、最後の一つだけを勝ち取っていた。

 戦いは終わり、権力は正しく循環していく。

 しかし、善が悪を打ち倒す王の交代劇が必ずしも良い結果を生むとは限らず。


「これでずーっと一緒ですからねー♪」


「ふざけんな、私のアキラくんから出てけー!」


 事態がより悪化することも、また世の理のひとつなのだった。

 愛らしく左右に振られた左腕が、人差し指を軽やかに伸ばしていく。

 頬にちょこんと置かれた指先は、どこか口づけの仕草と似ていた。




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