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幻想再帰のアリュージョニスト  作者: 最近
第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ

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終節:端『Acceptance』




 わかりづらい?

 そうかもね。というか、事態の全容を正しく把握できているのはそれこそルウテトとラクルラールだけだと思うけど、成り立てのあなたにそれと同じ視野を期待するのは高望みというもの。いいわ。今更ではあるけれど、再演劇の概要をこの私、アマランサスが説明しておきましょう。

 一応とはいえ共闘する仲間だし、情報共有は大事だものね。


 それにしてもどうしてかトリシューラもコルセスカも、シナモリアキラでさえ何も知らない様子なのが不可解なんだけど――共有されているはずの前提を誰も知らないこの状況、これにはどういう意味があるのかしら。

 それとも、これも説明がつかないことなの――?

 まあいいか、そんなの適当で。


 いい? この再演劇のベースとなっているのは、基幹参照世界におけるソフォクレスの悲劇『アンティゴネ』。そこに『オイディプス』とかアイスキュロスの『テーバイ攻めの七将』の要素も混ざっているけど、あくまでメインは『アンティゴネ』だと思っていい。私はそう考えている。


 これらの物語は予言された通りに宿命に弄ばれ、そうと知らずに父を殺し母と結婚したオイディプス王の悲劇を発端とする一連の破滅を描いている。

 テーバイ王オイディプスが宿命によって王国を追放された後、その二人の息子たちは王位を巡って争うことになった。その結果、兄エテオクレスが勝利し、弟ポリュネイケスは国を追放されたけど、ポリュネイケスはアルゴス王アドラストスを頼り、異国の軍勢を率いて祖国テーバイに攻め入った。王位を勝ち取った兄と敗北して祖国を裏切った弟、二人は戦いの末に相打ちとなって共に命を落とす。


 テーバイの新王となったのはオイディプスの叔父、宰相クレオン。彼は敵将と相打ちになった前王エテオクレスを手厚く葬らせたけど、異国の軍勢を引き入れた裏切り者ポリュネイケスを許さず、その埋葬を禁じて屍を野晒しにせよと厳命した。それに反発したのがオイディプスの娘にして相打ちになった王子たちの妹、テーバイの王女アンティゴネ。


 彼女はつい最近まで追放された父オイディプスと共に放浪の旅をしていて、老いた父が亡くなったために祖国に戻ってきた。もともと情の深い王女だったのね。そして同時に、神々の定めた法を大切にする信仰心に篤い一面もあった。そんなアンティゴネにとってクレオンのお触れは到底容認できるものではなく、妹イスメネの制止にもかかわらず彼女は叛逆者ポリュネイケスを埋葬してしまう。


 クレオンは法に背いたアンティゴネを裁き、地下牢に閉じ込める。アンティゴネはそこで首を括り、更にはアンティゴネの婚約者にしてクレオンの息子であった王子ハイモンもまた恋人の後を追って自刃する。息子の死を嘆いたクレオンの后エウリュディケもまた自害し、秩序の信奉者クレオン王は孤独に玉座に取り残される――概ねこのような話よ。


 この『アンティゴネ』って話のめんどくさい所はね、『オイディプス』との捩れた参照関係にある。オイディプスは予言された破滅を回避できず、神々の手のひらの上で滑稽に踊って悲惨な末路を迎えた。つまりは世界の残酷、運命や宿命には抗えないということの悲劇性が描かれている。

 一方その娘アンティゴネは家族への情愛と素朴な信仰心をもって『外なる法』、すなわち人が作りだした秩序と相対する。つまり人と神との対立構造が、形を変えて裏返っているの。


 ――私にはアンティゴネが理解できない。

 神に与えられた自然な人間らしさ。

 情、倫理、信仰、そして与えられた宿命。

 こんなおぞましいものを、当然のような顔をして、それでいて『自分自身の自由意思で選び取りました』みたいな顔で敢然と上位者クレオンに立ち向かう、アンティゴネの生き方には嫌悪すら覚える。

 私たちは宿命に翻弄されていることにすら気づけない滑稽なオイディプス。たとえ気付いてもその時には何もかもが手遅れ。神々の無力な操り人形。そんな諦めが被造物の本質なのだと、人形ならみんな知っている。


 トリシューラ、コルセスカ。

 あなたたちになら、アンティゴネのことが理解できる?

 この役を、私はどう解釈したらいいのかしら。

 もう私には判断できない。

 だから教えてよ。

 その便利なアプリで。

 ほら、私にはその資格があるんでしょ?






「クレイ。いいえ、クレイ役を失格になった無名の役者。舞台『死人の森』はあなたを選ぶことはありませんでした。しかし悲観することはありません。この広い世界にはオーディションなど幾らでもあります。上の世界、下の世界、あるいは他の世界槍にも。私があなたを別の世界に連れ出してもいい」


 氷の響きがする言葉と共に、牢獄の闇に光が差し込む。

 それは希望であり、同時に諦めを促すものでもあった。

 しかし、と女は言葉を繋ぐ。


「しかし、それでもなお、この舞台を譲れないというのなら」


 あたかも、昔話の中で主人公に手を差し伸べる魔女さながらに。

 コルセスカは、クレイという名から零れ落ちた残骸に道を示した。


「自分こそがその役に相応しいと全身全霊で主張しなくてはなりません。たったひとつしかない主役の座、たとえ兄弟姉妹であろうとも蹴落として我こそはと名乗りを上げる。競い合えとあなたの心がまだ命じるならば、私と共に来て下さい」


「俺は」


 当惑する男に向けて、畳みかけるように冬の魔女は呪文を浴びせていく。

 アマランサスから伝え聞いたという『再演劇』の概要。

 自分たちの運命を翻弄する舞台が何を下敷きにして上演されているのか。

 全てを語り終えると、コルセスカは自分にはその状況を踏まえて事態を打開するための秘策があると豪語してのけた。

 状況を脇から観察していたミヒトネッセはその性急さに眉根を寄せる。


「『オイディプス』、そして『アンティゴネ』という劇に基づいた仕掛けを、私たちで引っ繰り返してやりましょう」


 地の底の牢獄に囚われたクレイとミヒトネッセ――二人の前に現れたコルセスカは脱出と反撃の計画を提案したが、救出される側の反応は鈍い。

 この二人にはコルセスカと共闘する理由が無い。

 そもそもが敵同士。

 相容れない両者が手を取り合うなど、普通ならばあり得ない。

 そしてそれ以上に、主に不要と捨てられたクレイは自身の存在価値を見失っていた。意思無き抜け殻の身体で、外界からの入力に反射で応じているだけだ。

 折れた刃の瞳でコルセスカの氷の瞳を見返しながら、男は言った。


「そのオイディプス王をベースに俺が創造されたのだとして――では、俺がすべきことは何だ。創造主の定めた宿命に従い、このまま闇の中で朽ちていくのが相応しい結末というものでは無いのか?」


 無気力な溜息を吐き出すクレイに、コルセスカは強い否定を返す。


「いいえ。他ならぬこの私が、それはルウテトの趣味では無いと保証します。何故なら、彼女はその結末(エンディング)を既に見終わっている。良い運命にせよ悪い運命にせよ、個別の結末全てに目を通しておきたいのが私です。前回の言動からして、あなたはルウテトにとって期待外れだった。ならば今度こそ期待に応えられるように、今までのあなたでは考えもしなかった叛逆を行うのです!」


 クレイを味方に引き入れるためにコルセスカが選択した説得方法は、そもそも相手の動機をそのまま再利用することだった。クレイは『死人の森の剣』だ。女王のために戦い、女王のために生きる。叛逆を女王が望んでいるなら叛逆するのがこの『役(キャラクター)』だとコルセスカは理解していた。

 実際に、この言葉はクレイの瞳にわずかな生気を取り戻した。

 一方で、ミヒトネッセの反応は冷ややかだ。


「ルウテトが被造物の反抗を望んでいるのなら、結局手のひらの上じゃない。馬鹿馬鹿しい、私はそんな茶番には付き合えない。だいたいあんた、どういうつもりでここにいるわけ? 助けに来ましたみたいな顔してるけど、要するに私たちを駒として使いたいってわけでしょう」


 気に入らない、と端整なかんばせが険しく歪む。

 刃の如き視線を隣から奪い取ったかのように、ミヒトネッセはコルセスカを睨め付けた。明確な敵意を込めて冬の魔女を認識する侍女人形の姿に、左右非対称の顔が薄い笑みを浮かべる。義眼の中で妖しく光が揺らめいた。


「――確かに、私とルウテトには本質的には違いが無いかもしれません。ですが確かなことがひとつ。ルウテトはあなたを含めたラクルラール派を完全に打ち倒すつもりですが、私はアルト・イヴニルやアマランサスを含めた人形たちの身の安全を保証します。この瞳にかけて、私の創造する世界にあなたたちの居場所を作る」


「どうしてそんなことが言えるの」


「私がトリシルシリーズを肯定しているからです。それは私自身の世界を肯定することにも繋がる。いいですか、末妹選定は今なお続行中です。ならば冬の魔女の動機はたったひとつに決まっている」


 敵意を向け合う関係性でありながら、それゆえに共有できるものがある。

 両者が敵対するそもそもの理由。

 ここにはいない鋼鉄の魔女だけが、敵同士を結びつける唯一の接点だ。

 コルセスカの視線は揺るぎない。

 ただ冬の魔女という視座を高みに届かせるため、地上の探索者としてのコルセスカは己の欲望で二人を飲み込もうとしていた。


「私と共に戦って下さい。この世界の生命にして死の具現である火竜を討ち滅ぼす勇者たちは、予定調和の終焉と向き合ったことのある者こそがふさわしい」


 視線は呪いだった。

 呪縛された二人は息を凍らせ、思考と感情さえも麻痺したように静止する。

 目が離せない、この異形の美しさをもった白銀の魔女といつまでも見つめ合いたい、あの瞳が映す世界を共に見てみたい――奇しくもかつてミヒトネッセが行使した投影の呪いがコルセスカの両目から放たれていた。


 元来、ミヒトネッセは霊媒として作り出された人形。

 他者の欲望を写し取り、過剰に戯画化された『役』として演じ、露悪的に出力する全自動零落呪具。その本質は従属。誰かの強い意思に付随して性能を発揮するのが本領と定められた道具に過ぎない。


 ラクルラールの人形、アレッテ・イヴニルの妹、ルウテトの隠れ蓑。

 『強い者に従わされる』――そのような運命を辿るよう、あらかじめ設定されている。ゆえに抗えない。強者が『そうする』と決めたならミヒトネッセは従うことしかできないのだ。

 強烈な意思そのものを投射する甘い誘惑――諦観に支配されて空っぽになった人形にとって、志向性を持った呪力は洗脳的な動員力を発揮していた。


「私はコルセスカ、いずれ未知なる末妹になる女神候補。私が神として創造する世界はあなたたちが諦めてしまった既知の運命ではなく、未知の幸運です」


 甘言壮語とでも形容すべき魅力的な誘惑、圧倒的な魔女としての存在感に呑まれてミヒトネッセはそのまま冬の魔女の手を取ろうとする。

 憎しみと怒り――これまでの『摂取』で覚えてきた感情が心の底から泡のように浮かび、淡く弾けて消えた。

 なんてちっぽけな自由意思。

 『ミヒトネッセ』という自我などこんなもの。

 諦めに身を委ねながら、ミヒトネッセは横目で自分と同じ残骸を見た。

 空っぽの『クレイだったもの』は再び主君のために立てるかもしれないという期待に胸躍らせていた。その幸せそうな顔に、ミヒトネッセの表情が歪む。


 『従属』という同一の『紀』持つ人形同士。

 自分の無い男。つまらない男。苛つく男。

 そう思っていた――けれど、違うのかもしれない。

 輝きを反射することしかできない『月』の自分とは違う。

 自ら輝ける『星』――自己の運命を変革してみせたアルト・イヴニルや、四魔女という主役の座を手にしたトリシューラ。認めがたいがコルセスカもまた紛れもない英雄だ。そしてこの全てを失った男。主に捨てられてなお一途に忠節を尽くそうとする彼の本質は、ただ従属を強いられているだけの自分とは違い、従属を選び取ることのできる強さを持った、輝ける『星』なのではないか?


 さざ波立つ人形の心が舞台を震わせる。

 投射されたコルセスカの視線は、同時にミヒトネッセの荒れ狂う心中を瞳によって感じていた。『投影』と『摂取』――感情が共振し、両者の間に膨大な情報が――熱量が行き交う。その繋がりはやがて明瞭な形をとりつつあった。

 だがその直前、待ったをかける声があった。


「そしてまた『英雄物語のお人形』か。いったいいつまで舞台に立つつもりだ? それこそが奴隷を縛る鎖だというのに」


 割って入った声は、既知の声でありながら未知のものだった。

 暗い牢獄、白い部屋、舞台は明転して漆黒の穴蔵へと置き換わる。

 振り向いたクレイだった男は、そこに自分の姿を見た。


「降りた先もまた舞台です。死すらも人を舞台から自由にはしない。なら戦わなければ。あの光の先に向かって、世界の壁に向かって、声の限りに自分を演じきるしかないでしょう?」


 コルセスカが指差す方向、舞台中央に照明が当たる。

 九本の槍が支える二つの大地、模型で作られた世界図は矮小なようで広大だ。

 その全てが、こことは違う劇場で舞台なのだと魔女は語る。


「光の当たらない世界もある。傲慢な夢に他人を巻き込むなよ冬の魔女、まるで毒婦だぞ――ああ、そういえば将来の姿がまさに毒婦だったな」


 麗しい容貌の王子の背後で、重なり合う六人分の影絵が嘲弄する。

 ルウテトの眷族と化した盗賊王ゼドは、その手に一振りの剣を握っていた。

 コルセスカは挑発を無視した。影の輪郭をなぞるように相手の意図を探る。


「私の妨害に――いえ、ここにいる全員を始末しに来ましたか」


 『真のクレイ』が『クレイだったもの』を排除すれば本物の存在を脅かすものは無くなる。もちろん、ルウテトが『新たなクレイ』を作らない限りにおいて。


「ならば奴隷はあなたも同じこと。ルウテトはどちらがクレイとして生き残っても良いと考えているはずです。それを知りながらここまで来たあなたは、宿命とか自由意思なんて最初から問題にしていない」


「よく喋る口だ。呪文の座にでも転向したらどうだ」


「転向するまでもなく、邪視は全てを内包していますよ」


 対峙する両者の間では既に静かな戦いが始まっていた。

 舌戦、睨み合い、間合いの図り合い。

 開戦の予兆が幾度となく空間を行き交い、張り詰めた大気が破裂の気配を漂わせる。固唾をのんで見守るしか無いような雰囲気は、しかし低い唸りによって掻き消されてしまう。ぞっとするような怒りが一人の空虚を埋め尽くしていく。


「毒婦と――我が主を蔑んだか、盗賊風情が」


 その場にいた三人はそれぞれの感情をもって目を見開いた。

 何も無い男の怒り――この期に及んで、彼はルウテトへの侮辱に怒りを覚えているのだった。呆れ、嘲り、そして確信。

 コルセスカが柔らかい表情で見守っていることなど露知らず、王子だった残骸が王子の座を奪った盗賊に刃の視線を向けた。


「薄汚い死神が、軽々しく王国の剣を名乗るな」


「その程度の誇りは残されていたか、負け犬。いや、元々それしか無かったのか」


 返答は斬撃だった。

 舞台を蹴る脚は軽やかで、翻る腕のしなり、大気を切断する手刀の冴えは以前と比べて何の遜色もありはしない。役を降ろされたとしても、舞い手として、役者として積み重ねた研鑚は残骸の中から失われてはいないのだ。


「そう、何もかも失ったあなたは、何も失ってなどいない」


 コルセスカの呟きに、ミヒトネッセが顔を歪めて小さく舌打ちした。

 氷の視線が、侍女人形の方にも向けられていたからだ。 

 一方、二人の王子は舞台を跳ね回り、壮絶な剣舞を演じていく。


「そんなものか、こそ泥が! 『彼』の舞はそんなにも軽いものか? 大地を感じられぬ足取りになまくらの剣、それでは王子クレイの役が泣くぞ!」


 直前まで気力を失っていたとは思えないほどの大声で挑発する役の残骸。

 刃の視線が捉えるのは目の前の『クレイ』。

 振るわれた手刀が切り裂くのは、『彼』として捉えた希望の役。

 今、この瞬間。

 無名の役者は確信を掴んだ。

 切断し、分割すべき対象として『クレイ』を認識したのだ。


 ――そう、それが『解体』だよ、レイちゃん。


 誰かの声が舞台に響く。

 挑戦者の胸に光が灯る。

 それは闇の中で淡く輝く炎のようであり、夜の間にだけ咲く儚い花のようでもあった。王子たちの斬撃が交錯する刹那に煌めきが一気に膨れあがる。

 男は刃を抜いた。

 手刀を拳に変えて、胸に手を当てて、振り下ろされた簒奪者の剣を迎え撃った。


 斬撃から溢れ出した鮮やかな光に包まれたクレイの姿が変わっていく。高貴さと勇猛さを重ね合わせた軍装、金の飾緒と肩章が踊り、丈の短いジャケットの胸では果実と花で満たされた羊の角の意匠が勲章となって一際強い輝きを放っている。

 その全ての光、紛う事なき『黄金』であった。


 影が擦れ違い、甲高い音と共に鋼の剣が宙を舞う。

 衣裳に仕込んでいた赤い血糊を噴水の如く吹き上げながら、くるくると舞ってみせる『偽の王子』――やがてぴたりと静止する。資格を取り戻した『真の王子』が手にした刃から血を払うと、偽王子はどうと倒れ伏した。

 鋼鉄の剣は鮮やかな断面を晒している。

 斬鉄を成し遂げたのは、骨だ。

 真の王子となった男の胸から引き抜かれた刃は、白骨を薄く鋭く引き伸ばしたかのような異形――それこそが彼が胸に抱いていた『王国の剣』なのだった。

 

「俺の肋骨は、一本だけ多い」


 クレイは物言わぬ残骸にそう言い放つと、骨の剣を再び胸に納めた。

 王子だったものの下から這いずりだした数人分の影がさっと舞台を横切り、速やかに捌けていった。この瞬間、『王子クレイのための試練』がどちらであったのかが決定された。まさしく、ルウテトの思惑通りに。

 事態を傍観していたミヒトネッセの目は相も変わらず冷ややかだった。

 そんな侍女人形にコルセスカは優しく語りかける。


「ミヒトネッセ、先ほどあなたが言っていたように、ルウテトは人形たちが予想を超えた未知に挑むことを期待しています。未解放のエンディング条件の模索――『ここで生殖しろ』というメッセージは、『ここで生殖する運命を超えろ』あるいは『死ね』ということになる」


「どっちにしろ純度十割の悪意じゃない」


 うんざりした、と大げさに両手を広げて表現してみせるミヒトネッセ。

 だがコルセスカはそれに否定で返した。


「宿命は時に試練という形で主役たちの前に現れる。劇とは予定調和に満ちた物語ですが、同時にそれだけのものではない」


「何が言いたいわけ?」


「アマランサスによれば、結ばれることのなかった婚約者同士である王女アンティゴネと王子ハイモンは地下牢で共に死を迎えるのだそうです。彼らが自害するのは照明が当たらない地の底で、クレオン王は二人の死を伝え聞くのみ――台詞の上で言及される結末もまた舞台の一部ということですね」


 この地下牢は舞台の外部、廃棄された者たちの墓場だ。

 観客はいない――しかしそれでもまだここは再演劇の一部なのだという。


「じゃあやっぱり、『生殖』に反して死んでみせても予定調和ってこと?」


「ええ。ですがここは『死人の森』――既に私たちは冥府の底にいるのです。ならば死を迎えた『その後』を想像することができるはず」


 コルセスカの示した道は、単純にして明快だ。

 再演の先――未知なる結末を、新たに創造する二次創作行為。


「期待してくれていいですよ。私は原作の本来の意図とか余韻とかをぶち壊す強引なハッピーエンドだって平気な顔で創造できる悪い魔女ですので」


 そう言ったコルセスカの表情は、確かに悪い笑顔としか形容しようが無い、しかして素晴らしく晴れやかなものだった。





 私の心臓は、竜とお姫様のまなざしで出来ている。

 ひとみはかがみ。

 心に映るのは小さなお人形。

 名前はトリシル。アレッテ・イヴニル。そしてアマランサス。

 私を私たらしめる虚構の名を、トリシルシリーズと呼ぶ。


 女神たれと望まれた零号機から九号機までの十機。

 イツノ、リールエルバ、ピュクシス、イスビータ、エリシエル、ドルマール、アレッテ・イヴニル、アマランサス、ミヒトネッセ、そしてエルネアーズ。

 『星見の塔』で生まれた魔女人形たちは、あるとき一箇所に集められた。

 そこは『横倒しの塔』――ラクルラールの試験場である。

 

 苛酷な試験によって多くの『トリシル候補』たちが脱落していき、それでも己の価値を証明しようと足掻く中、たった一機だけがあっけなく命を散らし、何の意味も価値も示せなかった。その不良品が私、アマランサスだ。

 あまりに弱い私は、強く気高いアレッテに救われたことでその存在を彼女の中に残すことを許された。ラクルラールによって奪われた命のかわりに、アレッテは私にとても大切な宝珠(オーブ)――『バーガンディアの魔眼』と呼ばれる古代王国の秘宝を与えてくれたのだ。アレッテをアレッテたらしめる核、ガロアンディアンとラフディの王権を継承しながらも二つの王国を憎んでいるという証――この秘宝の呪力が私をもうひとりのアレッテとして規定している。


 胸に手を当てれば、心臓のかわりに竜の眼球が鼓動を伝えてくる。

 私の命はたった一人をまなざしている。

 ひとみのかがみに映ったアレッテの姿のなんて強くて美しいことか。

 けれど私が心に抱いた素敵な彼女は、私なんかじゃ再現できない。

 ずっとそのことを諦めていた。私はアマランサスなんてどうでも良くて、アレッテとして舞台に立てれば、それで満足だった。そのはずなのに。

 今はもう、それだけで満足してはいけないんだ。


「だから、私は死なない」


 一歩、踏み出す。

 死体同然だった私は、この舞台で人形姫という役として生きてみせる。

 次なる劇場はかつて私が敗北した地。

 『横倒しの塔』を再現した決闘の舞台。

 ラクルラールへの恐怖と心に染みついた盲従の習性が身体を竦ませる。未知なる末妹になれば、『人形』という根源種族として独立し自由を勝ち取れるだなんて、信じてもいない夢を見た。


 馬鹿馬鹿しい嘘だ。造物主の手のひらの上で幼稚なアイドルごっこをして、夢のような舞台でなら何かができるような気がしていた。

 たとえそれが嘘であったとしても、あの熱を――私はまだ覚えている。

 リールエルバの狂おしい渇望が、私にも微かに影響を与えていたのかも。

 絶対者に背く恐怖が前から吹き付けてくる。

 見えない操り糸、私を縛る世界の全てが逆風のように感じられた。


 それでも私は覚えている。

 アレッテ・イヴニルのことを。ミヒトネッセのことを。

 アマランサス・サナトロジーのドールズたちが今もなお私たちの勝利を待ち続けていることを――。

 そしてシナモリアキラの馬鹿げたアイドルグループに敗北を喫した忌々しい記憶を、まだ鮮明に覚えている!

 あいつ絶対に許さない、今は奴の傘下だけどいつか必ず『アマランサス・サナトロジー』として雪辱を果たしてやる、少なくともそれまでは絶対死ねない。


 震えが止まった。旧校舎の東端、三階の教室に侵入する。

 人気は無い。無人の世界を恐れずに更に進み、窓を開いて枠に足をかける。

 下も見ないで飛び降りた。

 瞬間的な浮遊感。

 それで十分。世界が鮮やかに切り替わる。

 重力から解放は気持ちが悪くて、死の予感に肌が凍える。


「私は、がらくたじゃない」


 ことばで自分を奮い立たせ、私は危地に飛び込んでいった。

 舞台における死とは何か。

 結ばれることが叶わぬ恋人との心中?

 宿命に弄ばれた末の悲しき自害?

 違う。セットや照明に潰されての死亡。迫りに挟まれての死亡。何より多いのが転落しての死亡――墜死こそがもっとも恐るべき舞台の危険。

 だからこそ塔は舞台となる。内包する死のかたちがとてもよく似ているから。


 高所から落下して、底の見えない真っ暗な奈落に沈んでいく。

 一面の闇が私を飲み込んだかと思うと、次の瞬間には場面が転換されていた。

 ここは舞台の下。

 多層構造の舞台を昇降装置で行き来して地上世界と地獄とを表現するのは『大断絶』以降の流行りだった。天獄と地獄、そして二つの世界を繋ぐ世界槍そのものを大掛かりな舞台装置で表現する手法。演劇が世界を演じる呪術であるならば、世界の変容と共に演劇も変わっていく。


 これまでの役者たちが天空の決闘場で戦っていた構図は今や反転していた。

 第二の地下舞台、地の底の冥府が今回の決戦の地だ。

 私の瞳がそれを捉えた。

 一面に広がる漆黒の中にひときわ目立つ純白がひとつ。

 漂白されたメートリアン、私が対峙すべき相手だ。

 埋葬された死者の向かう先は、とうぜん冥府に決まっている。


「なんて愚かな私。命惜しさに心を投げ捨て、あなたを埋葬する心優しいクルミをただ見ていることしかできなかった。罪を背負って愛と誇りに殉じた姉妹のため、私に何ができるのだろう」


 アレッテを託された私がアレッテとして、トウコとしてすべきことは何か。

 王権保持者として古き王国への復讐、第五階層の支配を行う?

 ラクルラールの人形としてルウテトと戦う?

 違う――きっとそうじゃない。

 それはアレッテを脱ぎ捨てたアルト・イヴニルの役割だ。

 多分、本物の彼女が私に期待しているのは、そういうことじゃない。

 アルト・イヴニルが捨てた弱いアレッテ――アマランサスの存在意義。

 多分わたしは、ミヒトネッセを託された。


「私は、置き去りにしてしまった後悔をそのままにはしたくない」


 アレッテ・イヴニルとミヒトネッセは役割に縛られた人形でしかない。

 自由意志は許されない。できないこと、できなかったこと、私はずっと諦めの糸で操られてきた。空っぽの心に残るのは、乾いた後悔の染みだけだ。

 アルト・イヴニルはアマランサスとミヒトネッセを置いていった。

 トウコはクルミほどには強くなれず、王国の法に立ち向かえない。

 だからせめて、トウコとクルミの物語くらいは『本当の私たち』から逸脱した解釈で演じたって構わない、そうでしょう?

 運命に従っている限り、舞台の上は自由なのだから。


 そのために私がすべきことは単純だ。

 裏切りの王権保持者を現世に蹴っ飛ばし、因果を遡ってやり直す。

 舞台の不整合を修正しなくてはならない――私とメートリアンのような端役ではなく、本当の主役たちを相対させるのだ。


 だってこれは外なる王国の法と内なる信仰の法が対立する舞台。

 この配役なら、罪人と王が対峙しなければおかしいのだ。

 クルミを救い出して、ルウテトを引きずり出す。

 どんな手段を使ってでも、本当の主役を影から助ける。

 それが今の私、端役で悪役、代役としてのトウコが演じられる役割だから。


「私もクルミと同じ罪を背負う。不死の娘よ、あの世における埋葬とは冥道に送り返すことだと知りなさい」


 『主役と仲良くなるパターンもある』とコルセスカは言った。

 ならばメートリアンの名誉のために埋葬を行い、生存のために現世に送り返したなら、その条件は満たせるはずだ。

 シーンが逆行するアクシデントに重ねて『主役の罪人』が一人増えるとなれば、今度こそ『王国の法』を体現するルウテトは舞台に上がらざるをえなくなる。

 上手く行くかはわからないけれど、賭けてみる価値はある。

 問題は女王の駒となったメートリアンとの決闘に私が勝てるかどうか。


 私の制服の胸元に鮮烈な紅紫の光。呪力で構築されたアマランサスが咲き誇る。

 対するメートリアンの胸元にも、紅紫のカラスノエンドウが花開いた。

 生命が躍動するような血の赤に近い私と、淡く可憐なピンクのメートリアン。

 死が満ちる暗黒の中で、命の糧を散らし合おうとする私たち。


 私の戦意に応えるように、対峙する無垢なる純白が肩に刻んだ呪紋を『解錠』して銀色の剣を引き抜いていく。私もまたこの時のために用意してきた小道具――大きなスコップを高く掲げた。

 すると天から光が降り注ぐ。

 明らかになったのは世界の形。

 観客席を引き裂くように交差した、十字を描く花道舞台。

 世界の壁を貫き抉る、高見を許さぬ事実の具現。

 私は舞台中央に進み出ると、四つ辻にスコップを突き立てた。


「私の心もまた火のように燃え上る。私は自分の出来ないことをしてみたい」


 そしてここから、私の決闘が始まるのだ。

 スコップを大きく振りかぶって走る。

 私がスコップを振り下ろし、メートリアンが銀色の剣で迎え撃つ。

 狭い舞台で交錯する影、甲高い効果音、消える照明。

 勝敗は一瞬で決した。

 闇の中、メートリアンとすれ違いながらスコップを真下に振り抜いた私は、かすかに響いてきた囁き声に目を見開く。女王の傀儡であるはずの、白い少女の言葉。

 

「気を付けて。本命の操り人形はあなたです」


 真意を問い質す猶予は無く、明るくなった舞台の上でメートリアンは倒れ伏す。その身体は舞台に拘束されて物言わぬ屍と化していた。私はこの少女を冥府にて再び埋葬し、現世に送り返さねばならない。スコップで舞台の中央に墓穴を掘りながら、メートリアンの言葉を反芻する。

 あれはルウテトの撹乱? それとも一瞬だけ自由意思を取り戻したメートリアンの助言だったのだろうか。あるいは、最初からメートリアンは意識を漂白された演技をしているだけだった?


 わからない。この舞台の何が真実なのか、なにが信じられるものなのか。

 私自身すら不確かなのに、確定できる事実などどこにもないように思えた。

 それでも、私はさきほどの言葉の意味を考えなくてはならない。

 『操り人形はアマランサスである』というメートリアンの言葉の意味を。


 メートリアンを生き返らせて、演劇儀式の構図を書き換えて、『女王』を表舞台に引きずり出して――けどそこまでがルウテトの思惑通り?

 こちらの手は全て読まれている。私は未だ巨大な女神の手のひらの上。

 絶望感が私の身体を満たしていく。

 身体の中に溜まっていく重く冷たい水で溺れてしまいそう。

 その時、視界の隅で赤と青が不気味に蠢いた。


「落ち着いて。冷静に考えればわかるはずだよ。クレイは最初からルウテトの駒だからその行動は全てが彼女の思惑通り。けどアマランサスやミヒトネッセはラクルラールの駒だよね? ルウテトは敵の駒を奪って自分の戦略に組み込もうとしているだけ。『駒の奪い合い』が神々の盤上遊戯の基本なんだ」


 小さな視界隅の人形、マゼシューラが囁いてくる。

 だからどうしたというのだろう。超越者たちの思惑なんて、私に推し量れるはずもない。この状況がもうどうしようもないってことは変わらないのに。

 それでも、私の悲観的な思考を妄想妖精はにっこり笑って打ち消した。


「今はルウテトが優勢だけど、基本的にラクルラールとルウテトは同格で対等のプレイヤーなんだよ。だから、ラクルラール側の駒がする反撃は『予想は出来ていても基本的にやられたくないこと』なんだ。だからこそ価値のある駒は積極的に奪っていきたいわけだよね」


 そうだ――私はメートリアンの言葉を正確に思い出した。

 『本命の操り人形はあなたです』と彼女は言った。

 本命の――つまり他にも駒として利用したい操り人形は複数いるけれど、ラクルラールを『詰める』ために必要な最後の鍵、それが私ということ?

 

「そんなに難しく考えないで。ラクルラールもルウテトも最初から遠大な計画を立ててそれを完璧に進めていたわけじゃない。お互いの手を妨害し合ってきたんだから、アドリブで対策を講じたり反撃したりとその攻防はぐねぐねとした手筋になっていったんだよ。ぐちゃぐちゃになった終盤の局面では駒の価値は時機と状況に応じて激変していく。アマランサスはいま、ここに必要なんだよ」


 ここに来て、なぜ私なのか。本物のアレッテが去ったから?

 いや、ルウテトにとってはそうじゃない。

 そもそも、彼女の正体から考えれば何に拘っているのかは自明だ。

 私がシナモリアキラになったからに決まっている。


「ルウテトの狙いは、私を通じてシナモリアキラを手にすること――」


「ご明察の通りです。直接的なお誘いは前に断られてしまいましたので」


 声と共に舞台が鳴動する。

 既に私は墓穴を掘り終えていた。

 メートリアンは奈落の底へ真っ逆さま。

 私もまた十字の中に吸い込まれ、消えた照明の中で昇降機に連れられて地上の舞台に引っ張り上げられる。

 私の狙いは上手く行った。

 後悔に苛まれたイスメネによる、アンティゴネへの贖罪。

 『埋葬の罪』を背負った私は『外なる法と対峙する者』という役割を得て王国の主と相対する資格を手に入れた。けれど、その試みのなんと浅はかなことか。


 ルウテトの舞台を狂わせる私の一手。

 それは確かに女王を表舞台に引っ張り出すことに成功した。

 でもそこから先は? このあまりにも強大な呪力にどうやって抗えばいいのか、正直なところ全く見当がつかない。

 私は参照された劇の結末を知っているけれど、そんなものは救いにもならない。

 何故って、この物語は権力が個人を圧殺して終わる悲劇なのだから。


「ああ、なんという罪深さでしょう。そしてなんという素晴らしさでしょう。いいですねアマランサス、及第点です。あなたはイスメネの葛藤を正しく捉え自らの血肉として解釈した。『内なる法』と『外なる法』――『わたし』と『せかい』がせめぎ合う苦しみ、弱き人の罪深さこそ私が愛するもの」


 天上からゆっくりと女神がその姿をあらわす。

 結い上げられた蜂蜜色の髪と長い耳、緑色の血管が透き通るような白い肌は妖精種族そのものだが、それ以外の全てがことごとく人間離れしていた。

 左右非対称の生と死を体現する美貌、禍々しく広がった妖精翅と骨翼の威容、そして死者の皮と骨というおぞましい素材を用いながらも退廃的な美と艶を両立させたドレス――両翼をはためかせながら女王は舞台に降り立った。

 私は大きく息を吸って、挑みかかるように台詞を口にする。


「ルウテト、あなたはアンティゴネよりもイスメネが好きなのね。『内なる法』に殉じて死んでいった気高い姉のようになれない、弱い妹が」


「あなたも同じでしょう? 弱者ゆえに苦しむ罪人イスメネ=アマランサス、役者としてのあなたはシナモリアキラに近い」


 女王が発する言葉の端々まで濃密な神話が充溢している。

 次の瞬間には無数の国が滅び、英雄が軍勢を滅ぼし、時代が幾つも下っていてもおかしくないような――時空が容易くゆらいでしまいかねない、そんな世界になっているという確信があった。

 ここは既に神々の領域。

 語りと空想が自然界を脅かす、まっさらな石板の上だ。

 一歩前に進み出て、自己像を強く意識する。鎧われた左手と凍てついた右手、その姿を捉えた冬と死の瞳が歓喜に染まる。 

 私はいま、シナモリアキラ役を演じる役者でもあった。

 私の中に俺の存在を感じたルウテトが蕩けるような声で言う。


「アキラ様、私は貴方が狂おしいほどに欲しいのです。だってそうでしょう。トロフィーを欲しがらない競い手がおりましょうか?」


「なら少しは俺の好感度を稼ぐプレイングを心がけるべきじゃないのか?」


 シナモリアキラとして対峙しているこの女神を、俺はコルセスカの未来とは思えない。それが可能性の一つであるとしても――オルヴァが幻視するような閉じられた可能性の環は個人的な世界観の形でしかない。

 ルウテトの主観的な時空とコルセスカの主観的な時空――二つはきっと交わらないという確信が俺にはあった。


「俺の知っている『冬の魔女』は丁寧に攻略を進めてくる奴だった。ゲームとしてであってもそこには真剣さがあった。お前のクレイへの期待はただの身勝手だし、愛情と呼ぶには虐待が過ぎている。効率優先で使い捨てるにしても露悪が過ぎる。ルウテトお前、本気で俺の存在を勝ち取るつもりがあるのか?」


 かつてコルセスカがトリシューラと競い合った使い魔獲得合戦での振る舞いと、ルウテトの行動が結びつかない。

 だってそうだろう。誰かを攻略しようというプレイヤーが、暗躍する黒幕のような振る舞いをするものだろうか。コルセスカの好みはどちらかと言えば格好良く自分が活躍するヒロインみたいな立ち位置のはずだ。

 彼女が理想とする『神話の魔女』は、この女神とはかけ離れている。

 何よりも、その目が。

 冷ややかな灰色に、褪せてしまっていた。


「どうして私が、たかがトロフィーの意を汲んでやらねばならぬのでしょう」


 ルウテトが俺を見るまなざしは、恋のように熱く、愛のように冷え切っていた。

 彩度の無い瞳が『お前には何も期待しない』と言葉よりも明瞭に告げている。

 女神は俺の罪と苦痛こそ尊いと言った。

 俺を愛し、赦し、抱きしめると両手を広げた。

 そうした甘やかな態度は、つまるところこういう意味でもあるわけだ。

 諦め。

 この既視感だらけの再演世界は、諦観が作り出す檻だ。


「自分の拡張身体(こども)をどう扱うかについて、他者からとやかく言われる筋合いはありません。自分の足を思いやれ、手の気持ちになって考えろだなんて――まるで医師か競技の指導員みたいですわね?」


 馬鹿げている。役と役者の感情が同期した。今、シナモリアキラはアマランサスという人形にぴたりと嵌まっている。

 よりにもよってこの俺に拡張身体の扱いについてご高説を垂れるか。

 この人形(わたし)にそれを言うのか。

 二重の思考が冷えていく。

 物と人に差異などない。

 都合の良い切り分けなど許容してはならない。 


「『この木はいい面構えをしている』とか『この煉瓦は正直だ』とか、たとえば職人が暗黙知から対象を擬人化するのはありふれた呪術的ふるまいだろう。そこには誇りと価値があり、たとえ無意味でも否定はできない。まして呪力があるこの世界で、擬人化された道具や手足への思い遣りはそんなにおかしなことか?」


 これはシナモリアキラの言葉だが、同時に人形としての言葉でもある。

 二つは矛盾せずに並存できる。

 これもまた、シナモリアキラとして内包可能な論理なのだ。


「――いいえ。正しい反論です。流石はアキラ様、いわゆるジャパニーズ付喪神の精神ですわね」


「いやそれは良く知らない。お前は俺に対して何か妙な偏見を抱いてないか?」


 ルウテトは小さく笑った。嘲弄や軽侮が混ざっていたかもしれない。

 俺とまともに会話をする気が最初から無いのだろう。


「主人公の物語には逆境が必要です。ほら、昔話では意地悪な母親に虐待されている子供がよく出て来るでしょう? そんな苦しみがあるからこそ、這い上がった時の輝きはより大きくなる」


「俺が知っている話では、意地悪なのは継母って相場が決まってるんだがな」


「そうですか? ならそれはきっと配慮して実像をねじ曲げたのでしょう。事実の醜さから、血の繋がりという幻想を守ったのです」


 醜さ――ルウテトは人知を超えた美貌を持つが、同時に人知を超えた醜悪さも併せ持つ。俺は彼女がどのように醜いのか、正しく理解できていなかった。

 おぞましい、という言葉をただ記号として認識していた。『どのようにおぞましいのか』という点について思考することをしてこなかったのだ。 

 ルウテトは遙か遠くを見るように言葉を連ねていく。


「私は末妹選定に敗れて主役の座を逃した敗北者です。キュトスの姉妹の五女(ディスペータ)という『別の道』は価値ある役でしたが、頂点で輝く一番星ではない。私の心には未だに後悔が残っています」


 がらくた、残骸、打ち棄てられた失敗作。

 ベルトコンベアで未来に運ばれていくゴミの川。

 生まれてから死んでいくまで、無価値を積み上げる灰色の世界。

 現在の第五階層は、ルウテトの灰の瞳を映す鏡だ。


「だから今度は『作る側』に回ったのです。私の子が私の舞台で今度こそ夢を掴む。私の代わりに、私のために、私の夢を叶えてくれる。子供は親の自己実現の道具。『私にできないのなら、できるものを作ればいい』――末妹選定とは、そもそもこの思想に基づいて計画された儀式。私は間違っていますか、アキラ様?」


「一貫性はある。傲慢で邪悪であるという点に目を瞑れば理解はできるよ」


「それが神、それが邪視者というものです」


 言葉を交わすたび、相手との間に断絶が広がっていくような気がした。

 だが同時に、こうも思うのだ。

 紀神ルウテトの在り方を、紀人シナモリアキラは理解しなくてはならないと。

 俺の耳元で聞き慣れた声が囁く。

 

「気を付けてアキラくん。憎悪を煽って悪役の類型に嵌まろうとしてる。何か狙いがあるんだよ。多分、ルウテトはクレイもアキラくんも、普通にキャラとして好きだし愛してるはずだもの」


 ちびシューラはこう言っているが、どうだろう。

 戦術として用いた呪文なのだとしても、形にしたそれが全てまやかしであると断じてしまってもいいものだろうか。

 『子供を自己実現の代償や道具として利用する邪悪な母親』みたいな、ある種の紋切り型な悪役ロールはいかにもな演技に見える。だが彼女を『母性』の神と見るならば、この邪悪さも『母なる女神』の一部なのでは?

 それは『役の性質』であると同時に『紀なる本質』ということでもある。

 ルウテト個人と切り離せない宿命的な悪性。


 たとえばそれは、ツールとしての紀人シナモリアキラが容易く弱者への暴力や無軌道な暴走、差別や迫害からの虐殺を引き起こしかねないような。

 純粋な力として顕現した俺たちは、本質的には邪悪なのではないか?

 女神は俺の思考を見透かしたように微笑む。


「母と女、男に踏みつけられた弱き者にも権力はあります。それこそが子供に対する権力。誕生したものの『生存』に対して及ぼせる力――生まれてきたものは全て母によって支配されるのです」


 ルウテトの言葉は一つの真理だ。

 だがそれは同時に母と子も父によって支配されるということでもある。

 が、父もまた母から生まれた子供だ。

 人の営みは父と母と子とが権力を突きつけ合う血腥い闘争。

 ルウテトの乾いた世界は、そんな無慈悲な力学に支配されているのか。

 

「泥人形(クレイ)は、私の意のままにできる未来の父でもあります。空っぽの器に愛への飢えを植え付けて思考基盤を単純化させ、男たちが奪い合うトロフィーを求め、嫉妬し、父を憎む。そのように設計された、女権によって支配される暴力の剣。母を守る、ただそれだけの道具」


 ルウテトの支配はラクルラールのように微温的ではない。

 冷酷さにして残忍、母と女の戯画化された悪辣さを併せ持つ。

 粘ついた愛憎と支配欲こそ彼女が築き上げた魔女の顔。

 ルウテトはクレイを『六王』や『運命の夫』に対抗する武器として創造したが、確かに愛情を注いでいる。悪意の籠もった、嗜虐的な情熱を。


「愛は不可解に、情は迂遠に――焦らして焦がして、虐めてあげます」


 あえて知識を与えず、突き放し、手を差し伸べず、放置し、苦しみもがくように誘導して苦難と試練を乗り越えさせた。その様子を楽しみながら成長を促していたのだ。母の愛、あるいは調教師の辛抱強い計算さながらに。

 眉目秀麗なのは彼女の趣味だった。

 気が強く周囲と打ち解けない性格も彼女の思うがままだった。

 美しい方が、悔しそうに歪む顔が一層輝く。

 苛烈な気質の方が、屈辱を与えたときに素敵に震えて涙を堪えてくれる。


 ルウテトは『邪悪な女神』という形をなぞっている。

 ならば対峙する俺は『善なる英雄』という正しさを保証されるのだろうか。

 俺がこのままルウテトを打倒する物語の流れ。望まれた結末。

 ルウテトの登場に引き摺られるようにしてアマランサスの全面に立った俺は、自らの意思ではなく単に彼女の演技に引き摺られただけなのではないか。


「それでも、ルウテトは止めなきゃいけない。上を見てアキラくん。世界はもう、取り返しのつかない所まで変質してしまっている」


 赤青二色のちびシューラが俺の視線を誘導する。

 薄暗い演劇空間の虚構を無視して実際の世界を直視してしまえば、第五階層の異常は明白だ。改変されたドーム状の天蓋はこれまでの透き通るような大空を映すことはもはや無い。

 その代わりに空間的な広がりを埋め尽くす夥しい雪が空を覆っていた。

 だがそれは降り注ぐ天候ではない。

 あの雪は、この世界の空にびっしりと貼りつき、根を張っている。


「冬の森、なのか?」


 理解を超えた光景を前に、俺はそう呟くしか無かった。

 第五階層の天蓋に逆さまに生えた無数の木々――おそらく糸杉だろう――は真冬さながらの雪化粧に染め上げられているが、それらが重力に従って墜ちてくることは無かった。そしてこの逆さまの森はただ不可解なだけではない。

 中央に一際目立つ大樹がある。

 その威容は世界を貫かんとする槍、あるいは天を支える柱、それともどこまでも伸び上がる塔、いずれにせよ何かしらを象徴する呪術的構造物を思わせる。

 そしてその大樹は天から地へと、徐々にこちらに迫ってきているように見えた。

 間違い無く、あれは何かの時限爆弾、切迫した窮地を示す何かだ。


「あれはティリビナの第八世界槍のコピー? 生命を象った信仰基盤? ルウテトはラクルラールと人形のゲーム中、狙いはアキラくん、未来再演――」


 ちびシューラも同様に困惑しながらも高速で思考を巡らせているようだ。

 あらゆる呪術の知識を総動員して可能性を洗い出していたちびシューラは、やがて何かに気付いて鋭く叫んだ。


「『根源人種浄化』の呪術だよアキラくん! ルウテトは再生者や『死人の森』をそのまま現世に復活させるなんて反動の大きいことは企んでいない。既存の『弱く虐げられた者たち』の信仰基盤を乗っ取って現代風に調整された新しい再生者と更新された『死人の森』をこの地に甦らせるつもりなんだ!」


 人形の屍から誕生した無垢なる幼子、天使たちが森から降り注ぐ光の梯子に向かって飛び立っていく。空を舞う白い羽、生命の躍動を感じさせる赤子の歓喜、吹き鳴らされる喇叭が世界を神聖な空気で浄化していく。

 不安そうに異変が続く世界を眺めていた第五階層の住人たちは、驚異の光景に我を忘れているようだった。恍惚とした表情で空に手を伸ばしている者さえいた。

 たとえ階層掌握者がルウテトに変わっても、彼らはずっとそこにいた。

 そして、これからもこの場所で生き続ける。


「ティリビナ人をはじめとする第五階層に逃げてきた少数種族、主に見捨てられた人形、祖神を失った大地の民、滅びに瀕したカシュラム人、生贄に捧げられた吸血鬼の王族――全てをガロアンディアンは受け入れ、サイバーカラテが弱さを補う」


 その全てが俺がこれまで関わり、対峙し、俺の中に受け入れてきたものたちだ。

 俺は彼らにツールとして使われる便利な機能でしかない。

 だが、もし悪意ある何者かが『サイバーカラテ道場』を乗っ取り、ユーザーたちの行動をそれと分からないように誘導できるとしたら?

 統計的な最適行動の提示と誘導、価値判断と動作補助、フィードバックと個々人に合わせた調整――俺たちの価値を保証するものは、究極的には信用と実績、更には契約と信仰だ。そしてそれは紀神ルウテトの領分でもある。


「そして第五階層(シナモリアキラ)はあらゆる役者の器として拡張されていく――ルウテトが完成した紀人シナモリアキラを手にすれば、それは」


 ちびシューラが予想する最悪の結末を、俺は自らが口にすべきだと判断した。

 それは俺の責務、俺が正しく認識しなくてはならない悪性だからだ。


「俺による種族統合と信仰上書き――呪的な民族浄化が成立する」


 目の前の女神は、にこりと笑った。

 優しい女教師が正解を口にした生徒に対してするような、華やかな表情だった。


「『人類・シナモリアキラ』。やがてアキラ様は全ての眷族種を飲み込み、終末以後の根源人種を束ねる最終始祖に回帰するでしょう。その時こそ、私の瞳から流出した視座は未知なるエンディングに到達するはず」


 ルウテトを止めなければならない。

 ちびシューラはもちろん、俺とアマランサスの利害もまた完全に一致した。

 たとえこの対立が女神の思惑通りなのだとしても、ここで戦わなければ俺という存在は俺としての制御を失う。シナモリアキラはツールだが、だからこそ俺が制御不能になることだけは絶対に許してはならない。

 制御されることと、支配されることは違う。

 ゼオーティアにおける『サイバーカラテ道場』の師範代理として、俺はこの一線だけは何としても守り抜く。それこそが今の紀人シナモリアキラの存在基盤でもあるからだが、なによりそんな企みは道義にもとる。


「カーインに言わせれば流派の誇り、法に照らし合わせればコンプライアンス。何にせよ、紀人の名にかけてここでお前を倒すぞ、紀神ルウテト」


 宣戦布告と同時、舞台の上手と下手から同時に新たな役者が飛び込んできた。

 一人はコルセスカ、硝子窓を割るように空間を突き破って豪快に登場した冬の魔女が俺の横に並んでルウテトに氷の槍を突きつける。

 もう一人はゼド。床を這う無数の影が集合してひとかたまりの闇となって立ち上がる。テンガロンハットに薄汚れたコート、腰のガンベルトから巨大な拳銃を抜いて構えたガンマンは、今やルウテトの使い魔だった。

 奇しくもかつてルウテトと交戦したメンバーが揃っている。ゼドがルウテト側についている点が決定的に異なるが、思えばあの時点で奴はルウテトと密約を交わしていた可能性が高い。


「さあ、俺と遊んでくれ、シナモリアキラ」


 ルウテトの死神となったゼドは、欲望にぎらついた目で俺を舐め回すように見た。盗賊としての性なのか、奴は俺と習合して同一の存在になろうとしている。

 ルウテトはどちらでもいいのだろう。

 自分の『使い魔ユニット』がどういう『見た目(スキン)』になるか、どういう『性格』を獲得するか、どういう『名前』で『合成』されるか。

 女神にとっては全てがゲーム。

 俺たち矮小なユニットが持つひとつひとつのパラメータもゲームの進行と共に取捨選択を重ねていくべきものでしかない。

 リソースの適切で冷徹な管理こそがゲームの本質であるとすれば、女神はその匙加減を間違えない。必要であれば『序盤の思い出深いユニットの個性』などスクショでも撮った後であっさり切り捨てるだろう。

 奴にしてみれば、強力なユニット同士を掛け合わせた『強化合成』の結果を楽しみに待っているだけなのだ。


「コルセスカ、クレイたちは?」


 隣のコルセスカに問いかけると、彼女は沈痛な表情で言った。


「二人は死にました。ミヒトネッセは全てを諦めて自らを縛る操り糸で首を括り、クレイはその後を追うようにして自刃を――」


「そうか」


 脳内でちびシューラとは繋がっているものの、コズエ役のトリシューラ本体は行方不明。現世に送り返されたメートリアンやイツノたちの姿も見えないまま。

 つまりいま戦えるのは俺とコルセスカだけだ。


「やれるか?」


「勝てます」


 力強い断言は、紛れもない英雄コルセスカのもの。

 視線を合わせて頷き合い、それぞれが眼前の脅威を見据えて立ち向かう。

 ルウテトとゼドもまた、これ以上の問答は無用とこちらに戦意を向けていた。

 やがて、一瞬の静寂を銃声が引き裂く。


 開戦の号砲は「発勁用意」の声によって掻き消された。

 俺が口にしたのではない。それは俺の頭上から発せられた叫びだった。

 ゼドが撃ち出した弾丸、それを俺が認識するより速く『髪の毛』が迎撃していたのだ。シナモリアキラの現在の肉体であるアマランサスが髪に宿す亜竜グレイシス。のたうつ頭髪が大蛇のように大口を開き、咆哮による音速の呪文で弾丸を叩き落とす。糸状の竜はそのまま宙をうねりながら真っ直ぐにゼドに襲いかかる。


 同時に走り出していたコルセスカが撃ち出した氷柱と併走しながらルウテトに迫る。泰然と構えたままの女神は灰色の瞳で氷の視線を抑え込み、両手を合わせてからゆっくりと広げて見せた。その手の上から広がっていくのは、


「宇宙?!」


 『創造(クラフト)』、いや小規模な浄界なのか?

 女神が展開した無限の広がりを持つ闇と星々の光が舞台を覆い尽くし、一瞬にして世界の全てを制圧していく。俺とコルセスカは不可視の力によって一瞬にして弾き飛ばされてしまう。

 体勢を立て直す。眼前のルウテト、その周囲を十の星々が巡っていた。

 どこからともなく聞こえてくる大勢の声。

 死を奉じる信徒たちが女神を称えて合唱する。


「見るがいい、これこそ周回軌道の地獄、森羅万象あまねく煌めきを統べる女王のセレスティアル・オーブ、『責め苦の全天』!」


 世界が支配者の望むままに作り替えられていく。

 舞台が迫り上がり、燃えさかる炎が屹立する柱を取りまいて辺りを照らす。

 女王の威光を知らしめるため、死の天使たちが輪唱する。


「恐れよ罪人、裁かれるべき基幹罪は七つ! 不敬、密通、殺人、偶像崇拝、強姦、偽証、詐欺、いずれの罪を犯したとしても地獄の責め苦がお前を待つ!」


 絶対的な力によって俺とコルセスカは翻弄され、異界巡りの物語という形式にあてはめられていく。ありとあらゆる呪術、邪視による抵抗は意味をなさない。

 俺たちが放り込まれたのは罪人が辿る運命、その渦の中心なのだから。


「第一の責め苦、火炎の柱」


 舞台を横切るようにして大地を焼き尽くす光が迫る。

 吹き付ける熱波に顔をしかめながら俺とコルセスカは左右に分かれて回避するが、続く敵意が俺たちに反撃の機を掴ませない。


「第二の責め苦、俯せ釘付けの獄」


 天上から無数の釘が降り注ぐ。危なげなく回避するコルセスカと髪で防御する俺だったが、本番はここからだった。


「第三の責め苦、仰向け釘付けの獄」


 理解不能な力に操られて俺たちは自分から舞台に倒れ込む。

 既に女神の行使する呪術の『流れ』の中にいるのだ。

 儀式が完遂されるまで、俺たちはこの責め苦の宿命からは逃げられない。

 降り注ぐ釘が次々と俺たちの胴体に打ち込まれていく。

 衝撃に次ぐ衝撃。

 首から伸びる呪力の経路を伝って、二人分の激痛がコルセスカを襲った。


「第四の責め苦、全身釘打ちの獄」


 更に、舞台の天井のみならず床下、観客席、舞台袖など四方八方から釘が飛来して俺たちの肉体の全てを貫通していく。完全な致命傷にも思える攻撃も、『責め苦』を目的とする呪いであるためかただ苦しみだけが蓄積され続ける。


「第五の責め苦、拷問万般の獄」


 爪、皮膚、眼球、舌、鋭敏な感覚を責め立てるありとあらゆる拷問器具が『創造』されては苦痛の宇宙で踊り出す。コルセスカの絶叫が強まるごとに俺の思考は冷えていく。反撃の機会があるとすれば、この地獄巡りが終わった瞬間だ。


「第六の責め苦、炎の車輪」


 燃える鉄の車輪に貼り付けにされてぐるぐると転がされる。

 平衡感覚があやふやになる中で、そういえばコルセスカはまだ二つの切り札を温存したままだと思い出す。女神の権能は生前の罪を裁き罰を与えられるほどに強大だが、王権による裁きは法に基づくがゆえに法に縛られている。


「第七の責め苦、釜茹での獄」


 灼熱の釜に煮られながら、俺は確信を深めていく。

 これは前時代的な慣習法、人々の古い想像力に基づいた地獄の光景だ。

 死と地獄を支配し、その全てを思うがままにできるとは言っても、ルウテトは生きている者たちの想像した死と地獄しかその瞳に映すことしかできない。

 『無』を見ることなどできないからだ。

 ルウテトの全能性とその限界は『死人の森の女王』という名が示している。


「第八の責め苦、北風と凍てつく山」


 吹きつける極寒の大気は、俺たちに『参った』と言わせるための幻だ。

 運命に支配されているのはこちらだけではない。

 運命を定め、強要する神もまた自らが生み出した運命に従うことになる。


「第九の責め苦、火炎を吐く井戸」


 コルセスカは想像を絶する痛みによって意識を何度も途絶させている。

 瞬間的な蘇生を可能とするコルセスカをしばらく行動不能にするためにルウテトはこのような拷問を続けているのだろうが、そのくらいは彼女も予測済だ。

 俺の痛みを全て引き受けているのも、この地獄が終わった瞬間に自分以外が即座に動けるようにするためだ。

 恐らく、彼女たちはこの近くで待機しているはず。

 どのタイミングでも奇襲に合わせられるように、俺は自分の中にいる『マレブランケ』たちに臨戦態勢をとらせる。俺が命ずるまでも無く、グレンデルヒとオルヴァの呪力は既にゼドを射程圏内に収めていた。


「第十の責め苦、冥府の川と試練の橋」


 最後の刑罰だけは、俺もかつて見たことがあった。

 『女王』の浄界、ステュクス。

 悠久の大河には舞台の大橋が架かり、その上に俺たちは立たされている。

 そうか、とちびシューラが理解を示した。

 これまでの無数の責め苦は、ステュクスを完全な形で展開するための下準備。

 かつて俺たちに見せたのは即席の不完全な姿であり、こうやって順番に責め苦を味わわせてから展開する最後の地獄こそステュクスの真の姿なのだ。


 橋の中央で十字架に貼り付けにされたコルセスカはぐったりとしてしばらく動けそうに無い。一方の俺も自慢の髪と両腕が熱と圧力で千切れて破損している。

 全身ぼろぼろのアマランサスの身体は、しかし遅延動作アプリが設定した通り強制的に走り出すことを強制される。この鬼畜男っ絶対に殺してやるから、という自分自身の涙声を無視しつつ新たな左腕を『創造』する。


 瞬間、ルウテトの死角となった背後から氷の盾と燃えさかる斧を手にした重装甲の戦士が唐突に出現する。熱光学迷彩――トリシューラの技術によって隠れ潜んでいたアルマ・アーニスタの一撃は振り向くことすらしないルウテトの骨翼に受け止められる。直後――というべきか、その光景が巻き戻り軌道を変えた斧が今度こそルウテトの背中を両断し、肉と骨を焼きながら女神を斜めに二分してみせた。

 舞台を上から照らす照明、それが吊られているバトンの上に氷の弓を持った射手がいる。冬の魔女第一の使い魔であるサリアはその背後に半透明のハエのビジョンを浮かび上がらせながらルウテトの『成功する未来』を撃ち抜いている。


 その二人をもってしても女王に致命打を与えることはできない。

 即死級の攻撃を受けたルウテトは肉体の再生をしようともせず、両断され、血と肉と骨と内臓をぶら下げたまま平然とそこに立ち続けている。

 幾度アルマの斬撃が物理的実体を破壊し、サリアの矢があらゆる可能性を撃ち抜いて妨害しようとも、死ぬことが無い女神を殺せるはずもない。


 だからこそ、ルウテトの『紀』に干渉して神としての性質を揺らがせる必要があった。かつて俺が有効打を与えられた唯一の義肢、キュトスの長姉ヘリステラの転生力であれば、あるいはルウテトの世界観と衝突を起こせるかもしれない。

 左腕に義肢を具現化した俺は『マレブランケ』たちにゼドを任せて疾走する。

 しかし。


「――解宝、『トバルカイン』」


 あろうことか、ゼドは俺の手持ちの戦力を全て押し退けてみせた。

 重々しい足音と犬の唸り声のような駆動音。

 骨を加工した呪動装甲がゼドの肉体を隈無く覆い尽くしている。

 見間違えるはずがない。

 あれは盗賊王が俺から盗み出した骨犬の力。奪われたトバルカイン――俺が背負うべき罪の象徴を纏って、ゼドはこちらに突進してくる。


「どうだアキラ、似合うだろう? これが俺とお前の『赦しの鎧』となる」


 既に奴は銃など捨てている。

 俺の戦闘スタイルを真似したつもりなのか、左右非対称の構えから陰と陽の気を練り上げ拳に伝達させるという呪的発勁を俺の義肢にあえて合わせてくる。

 『俺と遊ぼう』という言葉の通り、こいつは俺と殴り合いを楽しむつもりなのだろう。冗談じゃ無い、まともに付き合っていられるか。

 奪われたトバルカインを誇示するように見せつけながら大振りの拳打を繰り返すゼドだが、隙だらけの動きは明らかに誘いだ。


 湧き上がる怒りと憎しみを全て遮断しつつ、冷たくなっていく思考でゼドへの戦意を全て切り捨てる。こいつは相手にしなくていい。

 素早く身を躱し、残った髪の毛の一部を手刀で切り捨てて身代わりにする。

 呪的逃走の術により創造された俺の分身がゼドを惑わせているうちに復帰した『マレブランケ』たちが参戦してくる。足止めを任せて俺はルウテトの下へ走った。大事な髪を勝手に切られた挙げ句ショートヘアにされたアマランサスが悲鳴を上げているが謝罪は後。


 サリアとアルマが奮戦しているがまだ足りない。

 ルウテトは俺が近付いているのにも、『ヘリステラ』による打撃を狙っていることにも気付いているだろう。今の俺はアマランサスの肉体だから、人工乳房などなくとも『魔女の呪力』を再現して放つことができる。

 だが同じ攻撃が通用する相手ではない。あと一手、何かが必要だ。

 俺の願望に応えるように、白馬に乗った王子様は颯爽と現れた。


 出し抜けに響いた馬の嘶き声と共に、鮮血を撒き散らしながらその男は現れた。

 手刀によって女神の腹を内側から切り裂いて、飛び出したのは騎乗した美貌の剣士。その凛々しくも鋭利な美貌はかつてルウテトに侍りその手足として忠節を尽くしてきた冥府の王子、クレイのものだ。

 生まれ変わったクレイは馬から飛び降りるとその手刀の切っ先を主に向けた。


「陛下、偉大なる我らが再生者の女王よ。貴方が不要と命じたならば俺は骸となって眠るつもりでした。ですが陛下の真意が俺の奮起にあるならば、貴方の意を汲んで造反の刃を御身に向けましょう。それこそが真の忠義であると信じて」


 そして、白馬と思われたものの形が崩れていく。

 幻像が霧散し、伸縮自在のマフラーを取り払って再び首に巻き付けたのは黄色い砂色の髪をした侍女人形ミヒトネッセだ。

 コルセスカが言った通り、二人は確かに死を遂げたのだ。

 自死による冥府の聖婚――脚本に沿って地の底で最期の時を迎えた二人は死によってルウテトの胎内に移動した。与えられた役割を演じきることで『その後』が生まれる余地を作りだしたのだ。


 甦った二人はアマランサスがメートリアンを復活させたのと同じような強引な理屈で世界から世界へと転生を果たし、冥府の女王が有する権能を利用して出産されたのだろう。ルウテトが有する神話観に沿った流れであったため、クレイの刃は女神の腹を割ることができていた。ミヒトネッセもその手に血塗れの物体を握りしめており、恐らく『あれ』を盗み出すことに成功しているはずだ。

 全てを馬鹿にしきったかのような視線がこちらを貫く。

 ラクルラール派が使用する秘匿回線で短い通信が入った。


「どう転ぶにしても、第六階層で次の準備をしているアルト・イヴニルのために時間稼ぎが出来ればそれでいい。アマランサス、あんたが今後シナモリアキラに肩入れしたとしても、この目的だけは共有できるって信じるから」


 ミヒトネッセがこちらに走る。

 侍女人形が手にした血塗れの球体――宝珠、あるいは果実、それとも野菜?

 曖昧な輪郭を目にしたルウテトの表情、常に余裕を絶やさないままだった絶対者の顔がわずかに引き攣った。

 その手が持ち上げられる。

 大河の底から出現したのは異形の神々。

 おぞましい唸り声を上げながら、夥しい数の神罰がミヒトネッセを襲った。


「運命軌道(サテライトオーブ)・『イヴァダスト』」


 侍女人形の指先から展開された呪文の帯が渦巻いて球形となり、情報構造体の衛星として周回し始める。膨大な量の情報を処理しながらミヒトネッセは雨霰と降り注ぐ呪いの数々を次々に回避してみせた。


「予定調和よ、全部ね!」


 未来予測でもしているのか、ミヒトネッセは妨害をものともせずに俺、というよりアマランサスの下に走り寄って手にしたものを受け渡した。

 ぞっとするほどに重い。

 冷たく、熱く、血の臭いよりも濃密な呪いの重力に飲み込まれてしまいそうだ。

 当然のように、危険を冒してそんなものを女神の胎内から盗み出してきたミヒトネッセは呪いによってぼろぼろだった。

 かつて彼女は女神の髪を盗んで逆に操り人形にされてしまった。

 今度もまた、神の至宝を盗んだ罪はその身を致命的に傷つけていた。


「後、おねがいね。言っておくけど、そこのクズ野郎に塗りつぶされたら許さないから。あんたは、レッテの大事な、もう一つ――」


 力尽きたのか、そう言い残してミヒトネッセは倒れ伏した。

 シナモリアキラとしてここに立つ俺は、何も言わずにするべき事を実行した。

 ここでの感情はアマランサスが代行していることだろう。俺は機能を果たすだけだ――血塗れの盗品が放つ呪力を義肢で押さえ込み、握り潰さんばかりの力で持ち上げるとそのまま口の中に放り込み、何度か咀嚼して嚥下する。


「なるほど、最初からそれが狙いでしたか――浅はかな」


 ルウテトの冷ややかな声には、明確な苛立ちがあった。

 つまりはこの手は正解――女神にとって不快な行動だったのだ。

 いける、と思った。

 勝利するためにはこの方向で正しいのだという確信が心を奮い立たせる。

 力の差は絶望的だが、絶対に勝てないなどということは無いのだ。

 ここまでの俺の思考は正しい。

 だが、苦痛を遮断する俺の欠点として、『実感』を思考の中に噛ませたアプリに代行させているために大きめの遅延が発生するというものがある。

 痛みの無い俺にも生の実感はあるが、原理的にどうしてもそれは遅い。

 そのラグが、判断を甘くさせていた。


「ちょっと舐めプが過ぎました。セルフ縛りはこの辺で終わりにしましょうか」


 ルウテトがそう言った直後、彼女の右手に何かが出現していた。

 いや違う、そうではない。

 ずっとその手に握られていたそれを、今まで俺たちは誰ひとりとして認識できていないかった。

 正確には今もその全容を把握できてなどいない。

 ルウテトが握る氷の槍――その長さときたら、天を衝き地の底を貫くほどなのだから。遠近感や縮尺が狂って見えるほどの存在規模が、正確なスケールを認識出来ないようにしているのか。

 まるで遠くの風景に見える山を手の上に乗せようとしてみたり、彼方に聳え立つ世界槍を掴んでみせたりといった『お遊び』だが、事実としてルウテトは世界を支える軸のひとつをその手に握り、振るおうとしていた。


「第九世界槍、展開」


 女神はこの世界を握りしめ、意のままに振り回す。

 それで終わり。

 俺たちは全滅した。

 まず結果が確定し、事後的に過程と原因が生成されていく。


 アルマの氷盾は砕け散り、サリアの矢は自分の矢羽根を追いかけてぐるぐると回転し、半透明のハエは腹に抱えた時計が狂ってしまったためか右往左往して何もできずにいる。氷槍から放たれた荒れ狂う呪力の風は二人を飲み込み、青く流れる大河の底に叩き落とした。


 俺が右腕として構築した氷腕とその周囲に展開した氷鏡も同様に無力化され、氷槍から放たれる呪力によって同様に橋から吹っ飛ばされて――いや、違う。

 途中で過程と結果が書き換えられた。

 氷槍が振るわれたことで、いつの間にか俺はゼドに敗北して倒れ伏したことになっている。異様なことに、奴と正面から壮絶な戦いを演じたという記憶が確かにある。事象の改竄、時空の操作、そういった超越的な呪術が行使されたのだ。

 サリアの氷弓、オルヴァの色号――そうしたものよりも上位の権限。

 九氷晶の中でも氷槍だけは何かが違う。

 世界槍という性質のためか、根本的な出力が桁違いであるように思われた。

 ルウテトはゼドに完敗した俺を見て、それすら赦すと笑って見せた。


「アキラ様、あなたはゲームオーバーです。でも大丈夫、また悪夢を見ればいいのですよ。あなたがこの世界にやってきたばかりの時みたいにね」


 何を。

 ルウテトは、何を言っている?

 歌うように紡がれる女神の言葉を、俺は不快な既視感と共に噛みしめる。


「浮かび上がる深層意識の泡、終わりの無い迷宮で産声を上げたあなたはひとりきりで彷徨い、誰とも出会わないままに生と死を繰り返して勝利を模索する。繰り返す始まりの夢を再演し、真実の歴史として書き換える。あなたの尊い苦痛と罪を永遠に観賞し続けられる――それはなんて素敵な劇場なんでしょう」


 ループする悪夢。

 俺がたったひとりで第五階層を彷徨っていた頃に何度も見ていた夢の牢獄。

 まるで――いや、それこそが死の女神が作り出す本物の地獄なのだ。

 俺はあの時からルウテトに呪縛されていた?

 いや、それよりも前、魔将エスフェイルと戦ったあの森。

 まさかあの時点からなのか。

 それともたったいま、氷槍が振るわれた瞬間にそういう事実が確定したとでも言うのか。全てをほしいままにするルウテトの手によって、これから俺がどのような結末を辿るのか。想像すらできない。彼女こそ悪夢そのものだ。


 そして、女神が下す裁きは自らの被造物に対しても容赦をしない。

 クレイもまた氷槍の前には為す術も無く、見事な仕立ての服を無惨に引き裂かれてしまっていた。女王の趣味なのか、上半身だけが露わになった美しい王子は氷の穂先で頬を突かれながら暗い目で詰られていた。

 我が子の成長を望んでいた母親は、その成果が『この程度』と知ってひどく落胆していた。彼女の理想は更なる高みにあり、クレイは未だ届いていない。


「淫らなクレイ。王への忠誠、母への愛、そう謳いながら妄想に耽っていたのでしょう? 私への態度の端々に期待が見え隠れしていましたよ。卑しい男。盛りのついた犬のようで見るに耐えません」

 

 まるで精通を迎えた我が子を見て嘔吐する潔癖性の母親だ。子を愛するとしながらも、ルウテトの言葉からは男児への強烈な軽蔑と忌避の感情がにじみ出ていた。

 シナモリアキラに恋い焦がれつつ、その愛情に激しい憎悪と侮蔑を重ねているこの女神は、男性の意思と欲動を認めていない。至高の女神はただ愛する主体であれば良い。そこに対象の意思が入り込む余地は無い。あってはならないのだ。


「私が愛おしい? それとも憎らしいのかしら」


 完成し損なった我が子に自らの槍を向け、最後の機会とばかりに試すような問いかけをする『死人の森の女王』。彼女にとって邪悪な母親の役を演じることも優しい慈母の役を演じることも等しく遊びだ。


「私を抱きしめてはくれないの? あなたの忠誠と愛情は全て偽りだったの?」


 表情と態度で露骨なまでに息子への嫌悪感を示しながら、ルウテトは哀れっぽく問いかけてみせた。

 抱きしめなければ愛を疑われるだろう。

 抱きしめれば拒絶を示されるだろう。

 どのような選択をしても、クレイには苦痛しかあり得ない。

 母親は我が子を苦しめるためだけに愛を注ぐ。

 痛みを教えるためにこの世に産み落とし、愛によって死への道を示す。

 理不尽な暴君が統治する王国で、愛の法は民草を虐げ続けていた。

 だが、それでも王子は希望を捨ててはいない。

 子供の瞳は、純粋な世界を映したままだ。


「陛下――俺の剣は、常に貴方に捧げられております」


「一番つまらない答えですね。このタイプのクレイが一番ありふれている」


 あまりにも無造作に、槍の穂先がクレイの胸を貫いた。

 存在の終焉という結果が最初に確定し、事後的な滅びがクレイを終わらせる。

 彼はまた失格した。『クレイだったもの』になった彼は無名の残骸に過ぎない。

 ルウテトはこれから何度でもクレイを作り直し、失敗するたびに同じように廃棄を繰り返していくのだろう。

 だが、どうしてだろう。自分が終わっていくのを理解しながらも、母親を見る子供の瞳は絶望に曇ってなどいなかった。

 彼は、母の言葉を聞いて安心した様子だったのだ。


「良かった――俺は何度生まれても、こうして貴方に剣を捧げられるのですね」


 大量生産された泥人形、使い捨てられるクレイの最もありふれた個性。

 そんな彼の核は常に同じなのだと知って、彼は安心したのだ。

 自分という存在が終わっても、女王を守る剣はまた生まれる、と。

 ルウテトはそれを聞いて、呆れたように小さく嘆息した。

 そのとき、酷薄な色に染まった灰色の瞳が、滅ぶ寸前のクレイからすぐ近くに転がっていた別の残骸を捉えた。


 彼女は氷槍でそれを貫くと、わざわざクレイの前に運んで致命傷を与えていく。何も出来ないクレイに見せつけるように、最大限の悪意を込めて。力尽きた人形の首を断ち、胸を抉り、腹部を開く。クレイの口が侍女人形の名を呼ぼうとする寸前、ルウテトは消滅寸前の我が子と人形の骸を槍で薙ぎ払い、川底に叩き落とす。

 そして、冷淡な視線が再びこちらに向けられる。


「これで今回は私の勝ちです。その駒は既に諦めていますし、私も次の遊戯盤を準備しなくてはならない。あなたはアルト・イヴニルにでも第六階層の攻略を進めさせていればいい。決着は第五階層対第六階層の領域戦で着けるとしましょう。まさか、手駒を失った状態で私に勝てるとは思っていないでしょう、ラクルラール?」


 俺は――肉体に引き摺られて意思が暗い水底に沈んでいくのを感じていた。

 ルウテトが『私』を通じて誰に話しかけているのかすらどうでもいい。

 シナモリアキラの演技など既に放棄していた。

 私は目を覆い、弱いアマランサスとして朽ちていくだけだ。

 そして墜ちていく。逃避の闇、無限に広がる自己の内面に。


 駄目だった。

 せっかくレッテに、ネッセにだって託されたのに、負けてしまった。

 何もできないまま、ひどい光景が繰り広げられるのを見せつけられるだけ。

 見たくない、見たくない、見たくない、見たくない。

 私はこんな景色を見たくない。

 邪視が己の世界観を拡張するものなら、私はそんな目は閉ざしてしまいたい。

 見ないことを選び、逃避することを望む。


 運命は残酷だ。

 そもそも、自由意志なんてものが、本当に大切なのだろうか。

 私は諦観を抱く。

 私は運命を諦めている。

 

 宇宙を構成する因果の糸、神の定めた天命。

 それらの前に、人の心はあまりにも無力だ。

 愛する姉アンティゴネのために奮い立ったはずのイスメネは、やはり本質的には弱い妹のままなのだ。

 私は力によって翻弄されるばかりの、ちっぽけな人形でしかない自分が悲しい。

 けれど、悲しさは何かを生んだりはしない。諦めが強まるだけ。

 諦めは、徒労感と絶望に根ざした私の価値観なのだと思う。

 諦観が私の世界観。諦めることが私の意思。

 自由の無い自由意志だなんて、どこまでも弱い私らしい。

 

「お前は筋がいい、アマランサス。サイバーカラテの極意は諦観から始まる」


 ふと、閉ざした瞼の闇に声が響いた。

 嫌いな声、聞きたくない声、この世で最も頭にくる男の声だ。

 私ごとこいつが死ねばいいのに。

 ああでも、ルウテトはこれを使おうとしている。

 なら私は、これからもずっとこいつと一緒に扱き使われるのだろうか。


 いやだなあ、本当に気持ち悪い。

 何もかもいやになるけれど、これはとりわけ最悪な運命だと思う。

 いやいや、うんざりだと思うから苦しいんだ。

 シナモリアキラなんてどうでもいい。

 気にしない気にしない、私にとって何の価値も無いから何も思わない。

 そんなふうに現実逃避していると、私を煽るような言葉が届けられる。


「俺もお前の事が心底どうでもいい」


 は? 何こいつ、こっちの台詞なんだけど?

 ていうか何様、どんな立場から口きいてるわけ、信じらんない死んで。


「だがそれは何の感情も抱いていないという意味ではない。感情を切り離し、評価と分析の対象に変えて行動の指針にするように努めているだけだ。俺から言わせればお前の諦めは不完全だ。自他を適切に評価し、検証し、そして受け入れろ」


 私は生まれてからこの時まで、自分がこんなにも誰かのことを嫌いになれるだなんて考えたことも無かった。

 気高く強いアレッテ・イヴニルの片割れとして清く正しく誇り高い魔女として振る舞ってきた私は、戦意や敵意を高めてみせることはあっても、憎悪や嫌悪を露わにするような品の無い振る舞いは良くないことだと信じていた。

 けれど――違う。そうじゃない。シナモリアキラとかいう超うっとうしい男を嫌うことが間違っているはずが無い。あまりにも上から過ぎる目線、腕組みとかしてそうな態度が本当に生理的に無理。こんなのの一部とか恥ずかしくて死にたい。


「説教してやるアマランサス。新興現人神にして教祖、異界からやってきた宣教師さまのありがたいお言葉だ。真の意味で諦めを心に根付かせろ。お前はまだ何もかもを諦めようとしていない。捨てきれない感情と仲間への思い入れが深すぎる」


 痛々しいにも程がある台詞から、シナモリアキラは本当にお説教をし始めた。

 確かにこいつはサイバーカラテ宣教師と言えばそうだけど――戸惑いを通り越して本気で引いている私に構うこと無く、彼は一気に捲し立てる。

 いや、真面目に聴く気、無いんだけどね?


 ――いいか、心を静謐に保て。困難な状況には柔軟な思考で対応しろ。柔らかく、しなやかな精神。諦めによってお前が得るものはそれだ。現実を受け入れるというのは必ずしも受動的であることを意味しない。お前は能動的に動き、先手を打とうとしてもいい。観察と分析を絶やすな。諦観は怠惰な思考放棄ではなく間断のない思考の連鎖だ。素早く諦め、閃光の速度で見切りをつけろ。訓練で神経系に刻み込んだ諦観であらゆる苦痛から目を逸らせ。適度に脱力し、都合良く足を踏み出せる場所にだけ意識をフォーカスさせろ。想定外の最悪が幾つもある? どうせ予測演算のリソースは足りないんだから、いいんだよそんなの適当で。


「適当でいいの? 今の雑な説教を聞き流してもいい?」


 首を傾げ、瞼の中にいる二頭身の師範代に問いかける。

 すると彼は厳かに頷いて言った。


「ああそうだ、それが俺に必要だったものだ。そしてアマランサス、お前が最初から持っていたものだ」


 その物言いは相変わらず鬱陶しかったけれど。

 私は一つの事が腑に落ちて、今までよりもずっと心が軽くなるのを感じた。

 沈んでいく暗い水底に、ミヒトネッセが運んでくれたものが確かな形をもって存在しているのを感じる。私たち人形は、それぞれが同じでは無いけれど、それでも似た想いを抱えている。だからきっと、私たちは同じ気持ちだ。


「――これはレッテの諦めだけど。そっか、私はこれを持って行けるのね」


 諦観が私の視座。

 宿命に縛られた風景こそが人形が見る世界。

 いままでずっと、それを呪いだと思っていた。

 だからこそ、なのかもしれない。


「私はアンティゴネにはなれない。だけど」


 ひとみはかがみ。

 映るのは自分、小さな人形。

 反射する心の形を両手に感じながら、私は運命に身を委ね、全てを諦めた。




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