1章ー1 「騒がしい朝」
━━子守の陽光が優しく世界を照らし、無垢な鳥達の囀りが朝の訪れを告げる時。
その深い青の瞳が、静かに開かれた。
少年は薄い布団の上で大きく身体を伸ばし、背筋を反らせる。寝起きの身体に残る気怠さを追い払うように、もう一度、ぐぐっと蹴伸びをした。
(うん。今日も身体は問題なし。)
お世辞にも寝心地が良いとは言えない、雑魚寝という劣悪な環境。だが、五年も続けていれば慣れるものである。人間の適応力というものは恐ろしい。
少年は布団を畳み、手早く着替えを済ませた。最後に左手へ革手袋をはめる。生まれつき潰れた小指を隠すための、いつもの一手間だ。
そうして少年は、隣で深い眠りについている同居人を起こさないよう、そっと寝室を抜け出した。
もっとも、あの人物がこの程度の物音で起きるとは、最初から思っていないのだが。
小屋の外へ出ると、視界いっぱいに緑が広がっていた。
右を見ても森。左を見ても森。振り返っても、やっぱり森。人里どころか、まともな文明の気配すらない山の奥地。
そんな、山の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、少年は最寄りの小川へと走った。風を切る勢いで駆け抜け、川辺で顔を洗う。冷たい水が頬を叩き、眠気が一気に吹き飛んだ。
水面を覗き込めば、濃い紫色の髪が揺れている。少年は濡れた前髪をかき上げた。
「……よしッ!」
ペチンッ、と両頬を叩く。
これにて朝のルーティン、完了。
過去五年間、一日たりとも欠かしたことのない習慣である。
━━さて。ここまで聞けば、随分と規則正しく、しっかりした少年に思えるかもしれない。
実際、その通りだ。
ただし、この少年はこの国では異常だった。
少年の名は、蕾。
ごく普通であってたまるかと、周囲に言わせる九歳児である。
なぜなら彼はわざわざ文明を捨て、山奥で自給自足の生活を送っている。袖口には多種多様な『暗器』を仕込み、それらを寸分の狂いもなく扱う。頭の回転は速く、口も達者なのだ。
『彼が普通なのだとしたら、今この日本で暮らす人々は、狂った土壌でただ朽ちていくだけの雑草である。』
━━これは、例え話としてのつもりだったが、そうでもないようだ。
彼のように、冷たい雪の下で春を待つ、美しい『蕾』と呼べるものなど、
───この国のどこを探してもいやしないだろう。
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「……姉さん。起きてよ」
山小屋へ戻った蕾は、寝室の中央に鎮座する布団の塊を見下ろしていた。
返事はない。
「姉さん?」
「…………ん〜……」
お。反応あり。
「朝だよ。起きてってば」
「…………あと五分……」
「昨日も聞いたッ!」
即座にツッコミを入れる。
毎朝、毎朝、よくもまあ飽きずに同じことを言えるものだ。しかも、この人物の場合、五分後に起きるどころか、下手をすれば昼まで寝ている。
十九歳、成人済み。にもかかわらず、朝ひとりで起きることすら満足にできない。
「姉さん、朝ご飯の準備も掃除も終わってるんだから、いい加減起きてよッ!」
「ん〜……」
「聞いてる!?」
「…………すぅ……」
「寝るなッ!!」
蕾は布団をひっぺがした。
しかし、相手も負けてはいない。布団の端をしっかり抱え込み、何が何でも惰眠を貪ろうとする。九歳児と十九歳児が、朝っぱらから布団を引っ張り合う。
なんとも情けない光景である。
「……姉さン」
「ん〜?」
「今日こそは、絶対に起こすからね!」
「……うん……頑張って……」
「人ごとみたいに言うなッ!」
もう我慢ならない。
蕾は拳を握りしめ、布団の上から思い切り叩いた。
「二度寝すンなッ!」
「いったぁっ!?」
布団の塊が跳ね上がった。
ようやく姿を現したのは、真っ白な癖っ毛を寝癖で派手に跳ね散らかした女性。金色の目を白黒させ、頭を押さえながら蕾を睨みつける。
それこそが、蕾の唯一の同居人であり、全てにおいての師匠。そして、最愛の義姉━━葉牡丹であった。
「うわっ、良くないわ〜! 頭叩くとか良くないわ〜!」
「うるさいなぁッ! 姉さんがさっさと起きないのが悪いんだろッ!」
「暴力反対! 年長者を敬え!」
「十九歳にもなって弟に起こしてもらってる人が言うことじゃない!」
「BOOBOOBOOBOO!!」
「うるさッ!」
朝一番から、十歳も年下の家族に盛大なブーイングをかます十九歳。そのあまりの傍若無人ぶりに、蕾は額を押さえた。
この人は本当に、どうしてこうなのだろうか。
戦闘になれば、蕾が何をしようと敵わない。暗器の扱いも、身体の動かし方も、相手を出し抜く方法も、彼女から教わったものばかりだ。師匠としては、文句のつけようがない。日常生活さえ除けば。
「はぁ……」
蕾は盛大に溜め息をついた。
「姉さん、顔洗ってきて。朝ご飯、冷めちゃうから」
「え〜。蕾が持ってきてよ〜」
「自分で行け!」
「弟が冷たいっ! 姉をいたわる心はないのか!?」
「姉さんをいたわってたら、一日が終わるんだよッ!」
言い返すと、葉牡丹は「ひどい!」と大げさに叫び、再び布団へ潜り込もうとした。
「ちょ、待て待て待て! なんでまた寝ようとしてんの!?」
「だって、まだ眠いんだもん」
「知らないよッ!!」
朝から元気なことである。否、元気なのは蕾だけかもしれない。葉牡丹はただのアホだ。
こうして、山奥の小さな小屋では、今日も騒がしい朝が始まった。
『戦争のない、平和で素晴らしい日本』
少なくとも、表向きはそういうことになっているこの国の片隅で、九歳の少年は今日も暗器を袖に忍ばせ、十九歳の義姉を叩き起こす。
この国の狂気を知る日は、まだ少し先のことだった。




