3章ー2 「言うは易く行うは難し」
───ウゥゥン、ウゥゥン、と濃霧の奥から一定の周期で不気味な電子音が響いている。
『……どうやら、相当の量の監視カメラが設置されているようだ。』
すでに男装の仮面を被り、完璧な無表情に戻った葉牡丹がノートを差し出す。
「……うン。どう侵入しようかッ」
大和領を囲む鋼鉄の巨壁。その直下にまで身を潜めた蕾は、手袋をはめていない右手の指先で壁の感触を確かめた。
『よし!蕾を囮にして僕だけ侵入しようっ』
名案とでも言いたげに筆を走らせる葉牡丹。
「…………その場合、俺はどうなるッ?」
『うーーん……十中八九、捕まるだろうけど、お前なら問題ないだろ! たぶん。おそらく。運が良ければ。』
「問題大アリじゃンッ!ふざけンなッ!」
親指を立ててグッドサインをする義姉に、蕾は呆れてため息をつく。そして深く青い瞳で頭上の霧を見つめた。
「……姉さン、上を見て。あの不気味に回転してる全方位レーダー、濃霧の水分でほんのわずかに波形が乱れてる。一分四十秒ごとに、三秒くらい死角ができるンだよ」
葉牡丹が驚きを隠すようにわずかに目を丸くした。
『よくそんな一瞬のバグを見抜いたな!さすがは僕の相棒だ。それで、どうやって登る?』
「俺の鋼線を使う。死角ができた瞬間に上部へ撃ち込む。そこから一気に駆け上がるから、姉さンも俺の身体にしっかり掴まっててよッ」
そう、快活に言ってみたものの、怖い。
まさに『言うは易く行うは難し』だ。
制限時間は約三秒。
一つのミスもしてはならない。一瞬の躊躇も許されない。
失敗すれば、自分も義姉も捕まってしまう。
そうしたら、猫柳を、みんなを、救えない。
そンなの、駄目だッ
失敗すれば、義姉に失望されるかもしれない。
そうしたら、もう笑ってくれないかもしれない。
そンなの、嫌だッ
失敗すれば、国家反逆罪で
殺されるかもしれない。
━━そンなの、怖い
考えれば考えるほど、マイナスな思考になっていく。
いつもより、鼓動が早い。気づけば手が震えていた。
━━怖い。やめたい。出来ない。
「━━━出来る。」
突如、耳に響いた銀鈴。それに驚いた蕾が思考を捨てて振り向くと━━そこには、バンダナを外して素顔になり、こちらに優しく笑いかける葉牡丹の姿があった。
「ッ……!」
女がこちらを見据え、真摯に告げる。
「━━お前の実力は、この僕が保証する。」
「だから大丈夫。お前なら出来る。」
その言葉は、蕾の心を支配していた冷たい恐怖を、一瞬できれいに融かしていった。
この人が保証してくれる。自分の実力を、誰よりも近くで見てきた憧れの義姉が、そう言ってくれている。なら、怯える必要なんてどこにもない。
なにより、この、世界一カッコいい女性の期待に、応えたい。
「……うン!」
蕾の深い青の瞳に、鋭い光が戻る。手が震えはピタリと止まっていた。
葉牡丹はニシシと悪戯っぽく笑うと、再び男装姿に戻った。
蕾は右の袖口に仕込まれた特製の暗器機構に触れた。
蜘蛛の糸よりも細く、強靭な特製鋼線。その先端のフックが、主の意思に応えるようにカチャリと小さな音を立てる。
呼吸を整え、頭脳の中でカウントダウンを開始する。
五、四、三、二、一。
━━今だッ!
シュッ!と、霧を切り裂く極小の風切り音とともに、蕾は鋼線を巨壁の頂点へと射出した。先端のフックが見事に鋼鉄の縁を捉えた手応えが伝わる。
「掴まってッ!」
蕾が短く命じると同時に、葉牡丹が少年の小さな身体を背後から力強く抱きしめた。
刹那、蕾は左手の仕込み機構を作動させ、凄まじい速度で鋼線を巻き戻す。二人の身体が、重力を無視して垂直の壁を一気に駆け上がっていく。
「グッ……!」
あまりの勢いに苦悶の喘ぎが出る。
急激な加速による強烈な重力が、九歳の小さな身体に容赦なくのしかかる。背中に感じる義姉の体重も合わさり、全身の骨が軋むような痛みが走った。
だが、蕾は歯を食いしばり、鋼線の手応えを死守する。一瞬でも気を緩めれば、制限時間を超えてゲームオーバーだ。
視界を猛スピードで流れ去っていく白濁の霧。頬を打つ冷たい風。
脳内で刻まれる、残り時間はあと一秒もない。
二人の身体は霧のカーテンを突き抜け、音もなく巨壁の天辺へと到達した。蕾は即座に機構を解除し、慣性を殺しながら、軽やかにその内側へと着地してみせた。
「ハァーーーーーッ!!」
足の裏に大地の感触を得た瞬間、蕾の口から一気に熱い息が吹き出す。
バクバクと暴れる心臓。 国家の法律すら侵入を拒む、あの『天空の要塞』の防壁を、自分の頭脳と暗器術だけで、攻略出来たのだ。
恐怖に打ち勝ち、義姉の期待に応えられた。その事実が、九歳の少年の胸にかつてないほどの熱い達成感を湧き上がらせる。
それと同時に、年相応のよろこびとうれしさという単純な感情で、ニンマリとした表情になる。
隣を見ると、完璧な無表情のはずの葉牡丹が、金色の目をこれ以上ないほどキラキラと輝かせていた。
彼女は何も言わず、蕾に向かって、勢いよく右手のひらを差し出してくる。
蕾はニカッと誇らしげに笑うと、その手のひらに自分の小さな手を思いきり叩きつけた。
パシィンッ!と、霧の中に響いた気持ちの良いハイタッチの音。
声を出さずとも痛いほど伝わってくる、最高の相棒からの最大級の称賛。やってやった。大和領の土を、今、確かに踏み締めている━━。
━━まさに、その最高の瞬間のことだった。
『━━ピピッ。異常熱源、感知。未登録の生体反応を確認━━』
壁の天辺に隠されるように設置されていた、熱源センサー。
濃霧によるレーダーの乱れすら計算に入れて張り巡らされていた、二重の防衛網。蕾の鋭い頭脳をもってしても、霧の中に完全に隠蔽されていたそのトラップまでは見抜けなかった。
━━ビーーーーーーーーーッ!!!!!
━━ビーーーーーーーーーッ!!!!!
次の瞬間、鼓膜を容赦なく震わせる、鼓動が止まるほどの大音量の警告ブザーが、静寂の濃霧を乱暴に引き裂いた。
同時に、複数の駆動音がこちらに向かって急速に近づいてくる気配がする。
「……ッ、チッ! 最後の最後で引っかかったかよッ!」
苦々しく顔を歪める蕾。
しかし、隣に立つ男装の葉牡丹は、無言のまま、その薄い唇をわずか不敵に吊り上げた。
━━見つかったのなら、もう隠れる必要はない。




