2章ー7 「新しい風」
「死ねよ、クソ野郎━━」
「ひッ、ひぃッ」
蕾が猫手を男の喉笛に突き立てようとした、その瞬間。
蕾の腕が何者かによって掴まれた。
その衝撃で男への攻撃が止まり、狂気と殺意に染まっていた彼の瞳が、微かに揺れる。
猫柳が涙に濡れた目を向けると、そこにはいつの間にか、一人の人物が立っていた。
「……ッ! なんで止めるンだよ、姉さンッ!」
蕾を制止した人物━━葉牡丹は、蕾の激しい気迫に気圧されることもなく、静かに二人を見下ろしている。その佇まいは、荒れ狂う嵐を凪へと変えうるような、不思議な落ち着きを持っていた。
『━━お前を人殺しにしたくないからだ。』
ノートに書かれた言葉で語りかけてくる。
「……ッ、でも、コイツは……!」
蕾は悔しげに歯噛みし、掴んだ男の襟から手を離そうとしない。その小さな身体は、まだ怒りで小刻みに震えている。
『言いたいことは分かる。それに、お前の言う通りだった。今、助けられるのに見捨てるのは傲慢なことだ。お前が正しい。すまなかった。━━だが、それとこれとは別だ。そいつの命を奪えば、お前自身がそいつと同じところに落ちることになるんだ。そんなくだらない男のために、お前の手を汚す必要はない。』
人を救うための手で、誰かを傷付けてほしくない。
その言葉は、蕾の頭を冷やすための氷水のようでもあり、彼の正義感を優しく包み込むようでもあった。
諭すような静かな正論に、蕾はしばらく男を睨みつけていたが、やがて「チッ……」と忌々しげに舌打ちをして、掴んでいた手を乱暴に放した。
壁からずり落ち、床にへたり込んで激しく咳き込む男。
蕾は猫手を静かに懐へと収めると、まだ荒い息を吐きながら、ゆっくりと猫柳の方を振り返った。その瞳からは先ほどの狂気は消え去り、深い青が戻っていた。ただ、その眼差しには、どこか切なさが残っていた。
「……大丈夫?」
その一言に、猫柳の胸の奥がまたツンと痛んだ。
自分を売り飛ばし、罵倒し続けた大人たちとは、何もかもが違う。
自分なんかのために怒ってくれた少年と、その少年が取り返しのつかない一線を越えるのを止めた人物。
暗闇に住んでいた少女に、今、新しい風が吹き込もうとしていた。




