第9話「一人で来る夜」
日高 恒一は、その日いつもより早く会社を出た。
特別な理由はない。
ただ、少しだけ仕事が手につかなかった。
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田辺は別の予定があると言っていた。
平岡は残業。
岡本はすでに帰宅していた。
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つまり今日は、誰も誘わない日だった。
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駅前。
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いつもの道。
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日高は立ち止まる。
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(行くか)
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その判断に、もう迷いはない。
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ただ一つだけ違うのは、
今日は誰もいないということだった。
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エレベーター前。
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ボタンを押す。
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一人。
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上昇。
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静かな箱の中。
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(これでいいのか?)
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一瞬だけ、疑問が浮かぶ。
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だがすぐに消える。
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代わりに出てくるのは、
「もう慣れている」という感覚だった。
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扉が開く。
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音。
光。
人。
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昨日までと同じ世界。
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でも今日は違う。
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“一人”というだけで、少しだけ景色が変わる。
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真白がすぐに気づく。
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「こんばんは」
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少し驚いた顔。
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「今日は一人?」
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日高は頷く。
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「そうなんです」
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真白は少しだけ笑う。
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「ついにだね」
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その言葉の意味が分からない。
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「ついに?」
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真白は首をかしげる。
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「一人で来るようになると、もう“生活の一部”だから」
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その言葉が少し重い。
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奥から美玲の声。
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「ほらね」
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振り向くと、美玲がいる。
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煙草をくわえたまま。
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「言ったでしょ」
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「一人で来るようになったら、終わりじゃなくて“定着”」
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日高は言葉を失う。
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終わりではない。
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定着。
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その違いがよく分からない。
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真白が少しだけ日高を見る。
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「今日はどうする?」
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日高は少し考える。
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「いつも通りで」
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その言葉に、自分でも驚かない。
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田辺がいなくても。
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平岡がいなくても。
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岡本がいなくても。
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もう“いつも通り”が成立している。
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その事実が静かに怖い。
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席に座る。
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周りは知らない人間ばかり。
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でも違和感はない。
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真白が飲み物を置く。
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「慣れたね、本当に」
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日高は少し笑う。
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「そうですね」
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その“そうですね”に重みはない。
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ただの返事。
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奥の席。
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美玲がこちらを見る。
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「もう説明いらないね」
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小さくそう言う。
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日高は何も返さない。
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でも心のどこかで分かっている。
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(もう戻るという感覚が薄れている)
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帰り道。
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一人。
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駅前のネオン。
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スマホを見る。
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通知はない。
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その静けさが逆に不自然に感じる。
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(誰とも繋がってないのに、孤独じゃない)
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その矛盾に気づく。
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そして思う。
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(これ、どっちが現実なんだ?)
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答えは出ない。
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ただ一つだけ確かなのは、
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今日もまた“選ばなかった方の人生”が増えたということだった。
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第9話 終




