第10話「気づかないまま、線を越えている」
日高 恒一は、朝の電車で違和感に気づいた。
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それは体調でもなく、気分でもない。
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もっと曖昧なものだった。
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(昨日、何してたっけ)
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一瞬、思い出せない。
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会社に行って、仕事をして、帰って、そして──
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そこから先が、ぼんやりしている。
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記憶が曖昧なわけではない。
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むしろ“繰り返しすぎて区別がつかない”状態だった。
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田辺が隣に座る。
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「おはよ」
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「おはようございます」
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いつも通りの挨拶。
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田辺は少し日高を見る。
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「お前さ」
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「はい」
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「最近ほんと落ち着いたよな」
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その言葉は何度目か分からない。
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だが今回は少しだけ意味が違う気がした。
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昼休み。
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田辺がスマホを見ながら言う。
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「今日どうする?」
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その質問に、日高は一瞬だけ止まる。
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(今日?)
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会社の話ではない。
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分かっている。
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「いつも通りでいいです」
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そう答えた瞬間、
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自分でも少しだけ違和感があった。
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“いつも通り”
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その言葉が、どこを指しているのか分からなくなってきている。
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夜。
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ハプニングバー。
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エレベーターに乗る。
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一人ではない。
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田辺もいる。
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平岡もいる。
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岡本もいる。
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もう“誘い”ではない。
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“集合”になっている。
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扉が開く。
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音。
光。
人。
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真白が軽く手を振る。
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「こんばんは」
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日高も自然に返す。
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「こんばんは」
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その自然さが少し怖い。
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美玲が奥から言う。
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「もう完全に住人だね」
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日高は何も返さない。
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でも否定もできない。
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田辺が笑う。
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「ほらな、言っただろ」
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平岡も頷く。
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「慣れるもんだな」
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岡本は何も言わないが、落ち着いている。
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全員が“ここ”を知っている空気。
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日高だけがまだ、少しだけ外側にいる気がする。
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だがその“外側”も、薄れている。
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真白が飲み物を渡す。
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「日高くん、今日どうする?」
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その問いはもう確認ではない。
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形式になっている。
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「いつも通りで」
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日高はそう答える。
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その瞬間。
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美玲が小さく笑う。
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「それ言える時点で、もう境界ないよ」
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日高は意味を考えようとする。
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だが、深く考えられない。
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考える必要がなくなっている。
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席に座る。
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会話。
笑い。
流れ。
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すべてが“自動”に近い。
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そしてふと気づく。
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(俺、選んでないな)
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選択しているようで、
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ただ流されているだけ。
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でも不思議と嫌ではない。
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むしろ少し楽だ。
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帰り道。
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田辺が言う。
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「日高、お前もう完全にこっちだな」
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その言葉に、今度は笑えた。
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「そうかもしれないですね」
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自然に出た返事。
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その後、少しだけ沈黙。
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夜風。
ネオン。
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電車の窓に映る自分を見る。
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(どこからが“こっち”なんだ?)
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その問いは、もう答えを必要としていない。
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なぜなら、
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すでに線は越えているからだった。
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第10話 終




