第8話「“戻らない日常”が完成していく」
日高 恒一は、ある朝ふと気づいた。
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財布の中身より先に、予定が埋まっていた。
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会社。
朝の会議。
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上司の声は遠い。
資料の数字は頭に入らない。
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それでも問題は起きない。
いつも通り流れていく。
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田辺が隣で欠伸をする。
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「昨日さ、結構良かったわ」
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「そうなんですか」
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「お前もいたじゃん」
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日高は一瞬考える。
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(そうだったか)
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記憶が曖昧になっている。
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楽しかったのか、普通だったのか。
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もう境界が薄い。
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昼休み。
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田辺が笑う。
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「お前、完全に生活変わったな」
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「変わりましたか?」
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「変わっただろ」
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田辺は軽く言う。
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「前より落ち着いてる」
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その言葉は褒め言葉にも、警告にも聞こえた。
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夜。
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ハプニングバー。
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エレベーターに乗る動作は、もはや習慣。
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考える前に足が動く。
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扉が開く。
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音。
光。
人。
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真白がいつも通りいる。
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「こんばんは」
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日高も同じように返す。
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「こんばんは」
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その“同じ”が怖いのに、もう違和感は薄い。
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真白は少しだけ笑う。
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「ほんとに日常になってきたね」
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日高は少し考える。
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「そうですね」
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その返事は軽い。
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だが中身は重い。
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奥の席。
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美玲が煙草を吸っている。
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こちらを見て、ため息のように言う。
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「もう説明いらない顔してるね」
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日高は何も返さない。
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美玲は続ける。
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「人ってさ」
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「慣れたものを“現実”って呼ぶんだよね」
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その言葉に少しだけ引っかかる。
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(ここが現実?)
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会社か。
家か。
ここか。
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どれが“本物”なのか分からなくなる。
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田辺が呼ぶ。
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「日高、来いよ」
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日高は立ち上がる。
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もう迷いはない。
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その動作は速い。
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考える時間がない。
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席に座る。
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会話。
笑い。
距離。
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すべてが“普通”になる。
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そしてその瞬間。
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日高は気づいてしまう。
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(戻る日常って、どこだ?)
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会社にいても。
ここにいても。
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どちらも“普通”に感じている。
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つまり。
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戻る場所が、もう曖昧になっている。
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帰り道。
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田辺が言う。
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「もう一人で来れるな、お前」
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日高は少し間を置く。
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「そうかもしれないですね」
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その言葉が、思った以上に自然だった。
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電車。
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窓の外。
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ネオンが流れる。
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(どっちが日常なんだろう)
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その問いは、
もう誰にも投げられない。
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第8話 終




