第6話「境界線が、消えていく音」
日高 恒一は、ある変化に気づいていた。
それは劇的ではない。
むしろ、ほとんど気づかないほど静かだった。
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「行くかどうか悩まない日」が増えた。
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以前は迷っていた。
行くか、行かないか。
それが今は、
「今日は行く日」という感覚に変わっていた。
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会社。
午後の会議。
資料の数字が頭に入らない。
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田辺が横であくびをする。
平岡はスマホを見ている。
岡本はぼんやりしている。
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誰も真剣ではない。
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でも誰も辞めない。
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日高は思う。
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(みんな、どこに向かってるんだろう)
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答えは出ない。
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夜。
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ハプニングバー。
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エレベーターに乗る時、
もう緊張はない。
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むしろ少し安心している。
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扉が開く。
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音。
光。
人。
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“慣れた景色”。
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それが一番危険だとまだ気づいていない。
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真白がすぐに気づく。
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「こんばんは」
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日高も自然に返す。
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「こんばんは」
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そのやり取りに、もう違和感はない。
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真白は少しだけ笑う。
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「ほんとに慣れたね」
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日高は軽く笑う。
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「そうですね」
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その瞬間。
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奥の席から美玲の声。
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「それ、もう戻れないやつだよ」
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日高は振り向く。
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美玲は煙草をくわえている。
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目は笑っていない。
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「戻れないって何ですか」
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日高は聞いてしまう。
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美玲は少しだけ沈黙する。
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そして言う。
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「境界線ってさ」
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「気づいた時にはもう曖昧になってるんだよね」
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日高は分からない。
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でも“分かりたくない”気持ちもある。
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真白が間に入るように言う。
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「日高くん、飲み物取ってくるね」
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その場が少しだけ静かになる。
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美玲は日高を見る。
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「ここ、楽しい?」
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日高は少し考える。
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「楽しいというか……落ち着きます」
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その言葉に、美玲は少しだけ目を細める。
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「それが一番危ない」
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短い言葉。
でも重い。
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その時、田辺が手を振る。
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「日高ー、こっち来いよ」
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日高は反射的に立ち上がる。
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もう迷わない。
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その動きが“当たり前”になっていることに、
まだ気づいていない。
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席に戻る。
笑い声。
会話。
距離の近さ。
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すべてが自然になる。
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そしてふと気づく。
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(ここ、会社より喋ってるな)
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その事実が少しだけ怖い。
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帰り道。
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夜風。
ネオン。
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田辺が言う。
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「日高、お前もう完全にこっち側だな」
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冗談のような言葉。
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でも日高は笑えなかった。
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電車の中。
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窓に映る自分を見る。
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少しだけ、顔が変わった気がする。
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(俺、何か変わってるのか?)
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答えは出ない。
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ただ一つだけ分かる。
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“戻る場所”が、少しずつ薄くなっている。
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そして同時に。
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“ここ”が現実に近づいている気がしていた。
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第6話 終




