第3話「慣れてしまうということ」
日高 恒一は、その夜のことを少しだけ「面白かった」と思っていた。
だが、それを認めるのはどこか抵抗があった。
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翌日。
会社。
いつも通りの朝。
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「おはようございます」
誰に言っているのか分からない挨拶。
返事も半分しか返ってこない。
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パソコンを開く。
メール。
資料修正。
期限の短い案件。
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何も特別なことはない。
それなのに、なぜか昨日の夜が頭に残っていた。
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(あの店、なんだったんだろう)
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仕事中に考えることではない。
分かっているのに、ふと浮かぶ。
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田辺の笑い声。
平岡の自信。
岡本の見栄。
そして、
真白の「分からないままでいい」という言葉。
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それだけが、少しだけ引っかかる。
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昼休み。
コンビニ弁当。
スマホを見る。
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田辺からメッセージ。
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> 「昨日どうだった?また行く?」
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その一文で、少しだけ迷う。
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(また行く?)
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普通なら断るべきだと思う。
昨日のあれは“たまたま”のはずだ。
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でも指が止まる。
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「また行くんですね」
気づけばそう返していた。
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既読はすぐについた。
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> 「当たり前だろ」
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その軽さが、逆に怖かった。
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夜。
再び同じ場所。
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エレベーター。
上昇。
数字が増えるたびに、現実から遠ざかる感覚。
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扉が開く。
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昨日と同じ光景。
なのに少しだけ違う。
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(慣れてる)
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そう思ってしまった瞬間だった。
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昨日の“異物感”が薄れている。
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「お、また来たじゃん」
田辺が笑う。
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平岡はすでに誰かと話している。
岡本も同じ席にいる。
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そして真白もいた。
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「こんばんは」
昨日と同じ声。
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でも昨日ほど緊張しない自分がいる。
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(あれ?)
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少しだけ違和感。
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昨日はあれほど緊張していたのに。
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今日は“普通”に入れている。
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それが少し怖かった。
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「飲み物、昨日と同じでいい?」
真白が聞く。
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「はい」
自然に返事が出る。
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その瞬間。
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(あ、もう慣れてる)
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自分で気づいてしまった。
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奥の席。
美玲がいる。
煙草。
視線。
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こちらを一瞬見て、笑う。
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「早いね」
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日高は返せない。
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美玲は続ける。
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「ハマる人ってさ」
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「最初の違和感が消える瞬間が一番危ないんだよね」
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言葉が刺さる。
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(違和感が消える)
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確かにそうだ。
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昨日は怖かった。
今日は少し落ち着いている。
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その差が何なのか分からない。
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真白が横から言う。
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「今日は少し余裕あるね」
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日高は曖昧に笑う。
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余裕なのか、慣れなのか分からない。
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ただ一つだけ分かる。
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昨日より“帰りたくない”気持ちが少しだけある。
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田辺が声をかける。
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「日高、こっち来いよ」
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またあの席。
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昨日より自然に立ち上がる自分がいる。
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(まあ、少しだけなら)
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その“少しだけ”が、少しずつ増えていくことにまだ気づいていない。
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帰り道。
夜風。
駅前。
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一人になる。
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スマホを見る。
特に通知はない。
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なのに、ふと思う。
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(また行ってもいいのかな)
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その問いに、自分で驚く。
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昨日までそんな発想はなかった。
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それでも。
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完全に否定できない自分がいる。
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第3話 終




