第2話「夜の扉の前で、少しだけ立ち止まった」
その場所は、ビルの間に埋もれていた。
看板は小さい。
光も弱い。
注意して見なければ気づかない。
日高 恒一は、その前で一度足を止めた。
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「ここだよ」
田辺が先にエレベーターへ向かう。
平岡は慣れたように後に続く。
岡本は何も言わず、そのまま乗り込んだ。
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日高だけが、少し遅れていた。
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エレベーターの中は静かだった。
上昇する数字だけが、時間の流れを示している。
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(本当に行くのか、これ)
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そう思っているのに、誰も止めない。
止める理由もない。
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扉が開く。
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その瞬間。
空気が変わった。
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音。
笑い声。
グラスの音。
距離の近い会話。
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日高は一歩遅れて中に入る。
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「お、来た来た」
田辺が笑う。
「ビビるなって」
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平岡はもうカウンターにいる。
岡本は誰かと話していた。
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日高だけが、完全に“外側の人間”だった。
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「飲み物どうする?」
スタッフらしき女性が声をかけてくる。
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一瞬、反応が遅れる。
普通の居酒屋とは違う空気。
距離感が分からない。
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「えっと……」
言葉が出ない。
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「緊張してる?」
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振り向くと、女がいた。
白い服。
落ち着いた目。
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さっきまでいなかったはずなのに、そこにいた。
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「初めて?」
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日高はうなずく。
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「やっぱりね」
女は軽く笑う。
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「真白って言うの。よろしくね」
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名前を名乗られた瞬間、少しだけ空気が柔らかくなる。
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「日高です」
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「知ってる」
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その返事に、少し驚く。
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「さっき聞いたから」
真白は何でもないように言う。
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その自然さが、逆に落ち着かない。
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カウンターに座る。
周りはすでに“慣れた人間”の空気だった。
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日高だけが、まだ観察者だった。
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「こういう場所、苦手?」
真白が聞く。
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「……よく分からないです」
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正直な答えだった。
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真白は少し頷く。
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「分からないままでいいと思うよ」
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その言葉が、少しだけ意外だった。
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普通なら、
慣れればいい
楽しめばいい
そういう言葉が来ると思っていた。
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でも違った。
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「みんな最初は“分からない”から始まる」
真白は続ける。
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その時、後ろから声がした。
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「真白〜、また初心者捕まえてるの?」
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振り向くと、女がいた。
黒い服。
煙草を指に挟んでいる。
目が鋭い。
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真白は少し困った顔をする。
「美玲さん」
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美玲と呼ばれた女は、日高を見る。
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「その顔、危ないね」
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「……え?」
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「ここにハマる顔」
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ストレートだった。
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日高は何も返せない。
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美玲は笑う。
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「こういうとこってさ」
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煙草を軽く揺らしながら続ける。
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「現実がしんどい人ほど、居心地よく感じるんだよね」
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その言葉に、少しだけ引っかかる。
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(現実がしんどい)
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否定できなかった。
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仕事。
パチンコ。
帰宅。
繰り返し。
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それが“普通”だと思っていた。
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でも、どこかで思っていた。
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(これでいいのか?)
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美玲は視線を外す。
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「まぁ、すぐ分かるよ」
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「ここが天国か地獄か」
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その言い方が妙に残った。
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真白が話題を変えるように言う。
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「日高くん、パチンコするの?」
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「します」
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「楽しい?」
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その質問に詰まる。
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楽しいのか。
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勝てば少し嬉しい。
負ければイライラする。
でもまた行く。
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「……分かんないです」
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真白は軽く笑う。
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「それ、正直だね」
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その時だった。
奥で田辺が手を振る。
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「日高ー!こっち来いよ!」
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日高は少し迷う。
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真白は何も言わない。
ただ見ている。
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美玲も見ている。
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その視線の中で、日高は立ち上がる。
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(別に、ちょっと見るだけだ)
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そう思いながら。
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その一歩が、
まだ“軽い選択”だと信じていた。
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第2話 終




