第22話「境界線が消えていく音」
日高 恒一は、朝起きた瞬間に少しだけ迷った。
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今日は会社だ。
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それは分かっている。
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でも一瞬だけ、
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「今日はどっちだっけ」と思ってしまう。
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その違和感を、すぐに押し流す。
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(普通に会社だ)
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そう言い聞かせる。
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会社。
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会議。
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資料。
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田辺が小声で言う。
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「昨日さ、結構遅かったよな」
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日高は少しだけ間を置く。
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「そうでしたっけ」
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田辺は笑う。
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「覚えてねぇのかよ」
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冗談のようで、
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冗談に聞こえない。
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昼休み。
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平岡が言う。
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「最近さ、日高って安定してるよな」
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岡本が続ける。
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「余裕出てきた感じある」
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日高は少しだけ違和感を覚える。
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(余裕?)
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むしろ逆だ。
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自分の中の輪郭は、
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少しずつ薄くなっている。
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夜。
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駅前。
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雨が降り始めている。
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傘を開くか迷う前に、
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足が動く。
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エレベーター。
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上昇。
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その時間が、
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最近少しだけ長く感じる。
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なぜか分からない。
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扉が開く。
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音。
光。
空気。
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その瞬間、
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胸の奥が静かにほどける。
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真白がいる。
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「こんばんは」
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「こんばんは」
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真白は少しだけ首をかしげる。
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「今日は、なんか静かだね」
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「そうですか?」
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「うん。考え事してる顔」
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日高は少し黙る。
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考え事。
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何を?
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分からない。
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ただ最近、
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自分の中に“空白”が増えている気がする。
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奥では美玲が煙草を吸っている。
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こちらを見て言う。
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「境目なくなってきてるね」
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日高は反射的に笑おうとする。
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でもできない。
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その言葉が、
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正確すぎた。
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会社とここ。
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昼と夜。
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自分と他人。
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どれも少しずつ混ざっていく。
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区別がつかない。
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席に座る。
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会話。
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笑い声。
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その中にいると、
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安心する。
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同時に、
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何かが削られていく気もする。
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その正体が分からないまま、
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時間だけが過ぎていく。
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帰り道。
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終電。
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田辺が言う。
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「お前、最近ほんと“こっち”だよな」
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日高は少しだけ笑う。
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「どっちですか」
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田辺は笑い返す。
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「どっちでもいいだろ」
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その言葉が妙に軽い。
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でも一番重かった。
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電車の窓。
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自分の顔が映る。
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どこにも属していないような顔。
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(俺、どこにいるんだろう)
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その問いは、
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もう答えを求めていない。
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ただ流れていくだけだった。
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第22話 終




