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{脱出}

夜、いつもの時間になっても女がやってこない。一時間経ち、二時間が経過して……確信する。今日がその日だと。続いて考えるのは、今日実行すべきかどうかという点。体の調子は悪くない。不安がないわけではないが、来年という言葉がどこまで信じられるかもわからない。


体調に問題ないなら、実行は早い方がいい。ルゼは今日実行することを決意し、もう少し夜が更けるのを待つことにした。


さらに三時間が経過し、もうそろそろいいだろうと動き出そうとした。するとギィッと音を立てて、この檻に続く部屋の扉が開いた。扉の前にはここに以前ここに食事を運んできていた手下のうちのひとりが立っていた。


(チッ、なんでこいつが……)


内心計画が狂ったと舌打ちをするが、もう僅かでも男が来るのが遅かったら首輪を破壊していたかもしれない。そう考えれば、まだマシなタイミングだったと自分を納得させた。


女にかわり食事を運んできたのだろうと思ったが、おかしなことに気づく。男がルゼの食事を持っていないのだ。それどころかどうも様子がおかしい。ルゼの下まで香ってくる酒精の臭い。明らかに酒に酔っている様子で、顔は赤いし興奮でもしているのか息が荒い。


なんとなく嫌な予感がして、できる限り男と距離を取るため後方に下がる。その間にも男はお構いなしに檻の鍵を開け、足早にルゼの目の前までやってくると無造作に右腕を掴んだ。間近で見た男の目は、薄汚い欲に塗れていた。


これから何が起こるのか。最悪の想像が頭の隅をよぎり――――――気づいた時には、目の前に血だまりが広がっていた。


飯運びの男はその中心に倒れ、頭から血を流している。見開かれた目も血で真っ赤に汚れており、ぴくりとも動かない。明らかに死んでいる。


ルゼは呆然と自身の左腕を見る。竜晶化された左腕には、男の血と肉片がこびり付いていてた。


耳に届く雑音が自身の呼吸の音だと気づくのに、しばし時間がかかった。荒い息をなんとか抑えて、竜晶化を解除する。


生まれて初めて人を殺した。――――()()()()()()()も、手を出してしまった以上、今逃げなければまずい。早ければ明日の朝には、この死体が見つかってしまう。下っ端とはいえ、人が一人消えて気づかないなんてことはないだろう。


ルゼは右手人差し指をナイフのように鋭い竜晶で覆い、首輪に手をかけた。のこぎりで切るような感覚で首輪に指をスライドさせると、弄することなく指が首輪に食い込んでいく。ルゼを縛り付けていた首輪は、おおよそ五分ほどでその役割を終えた。


外れた首輪を打ち捨てて、男が開けた檻から出て外へと続く扉に耳を当てる。物音は聞こえない。慎重に、ゆっくりと扉を開き、誰もいないことを確認する。扉の先は上へと続く螺旋状の階段になっていた。


人がひとり通れるくらいの広さしかなく翼を展開するだけの余裕がないので、仕方なく自分の足で階段を上っていく。三年間、ほとんど動いていない体は体力などあるわけもなく、一段上るごとに息が上がる。

いや、体力だけの問題ではないだろう。この階段は一本道。窓等はなく他に逃げ場はない。


もし今上から誰か下りてきたら確実に殺される。極限状態の中で吐きそうになりながら、なんとか階段を這うように上る。


休憩を挟みつつ上っていくと、階段の先に一枚の扉が見えた。待ち望んだ終着点だ。これだけ下から上にあがってきたのだ。地上のどこかにはつながっているはず。扉を開けた先に窓があれば、そのまま飛んで逃げられる。


希望で逸る気持ちを抑えながら、手を伸ばしドアノブを握る。瞬間、離した。


「……ッ!」


ルゼは数歩、後ろに下がった。扉の向こうから、数人の話し声と足音が聞こえてきたからだ。


(来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな…ッ!)


運命とは、とかく残酷である。ルゼの必死の願いもむなしく、足音が扉の前で止まった。


そこからの一連の出来事すべてが、ルゼにはとてもゆっくりに感じた。無常にも回るドアノブに開かないでくれと願うように震える右手を突きだす。ほとんど無意識だった。否、あるいは本能からの行動だったのだろう。


右手に急速に魔力がうねりをあげながら収束を始めた。驚く間もなく、ついに開かれた扉の前に立つ三人の見知った男たちと目が合った。全員、ルゼの下に食事を運んだことがある下っ端の男たちだ。


男たちはそこにいるはずのないルゼの姿を見てぎょっと目を見開くが、すぐに眦を釣り上げて罵声でもあげようとしたのだろう。口がひどく歪む。が、その言葉が発せられることは永遠になかった。


男たちは見た。ルゼの金色の目が縦に割けるのを。それはまさしく竜の眼。


ルゼの右手に圧縮された魔力が、カッと閃光を放ちながら弾けた。ゴウッとうなりをあげ、緑黒色の極光が射線上にいた男たちの体を一瞬で吹き飛ばし、面積を拡大しながら周囲の建物も破壊する。


光が止む。目の前には破壊された屋敷の天井と、その隙間から除く満天の夜空。三年ぶりの空だ。だが浸っている暇はルゼにはない。周囲から人々の怒号が聞こえてくる。先ほどの極光から逃れた者たちの声だ。


ルゼは知らないが、ルゼのいた檻は屋敷の西側の端の地下に作られた場所だった。螺旋階段を上り扉を開けると、ちょうど屋敷の東側をまっすぐ向くような形となる。ルゼの放った極光は、屋敷を横断し東側の壁を突き破って屋敷を囲む外壁を破壊した。


なお屋敷の者たちが宴会会場としていたのは、一階中央にある広い食堂。ルゼの極光の射線上ではあるものの、広いためギリギリ射線に入らない箇所が存在し、そこにいた者と他数人だけが生き残っていた。


「テメェ、家畜のガキ! なんでここにいやがるッ!?」


正面の瓦礫の隙間から、見たこともない男が顔を出した。その手には、赤い玉のようなものを持っている。力を持たないはずの結晶竜がこの事態を引き起こしたとは考えていないのだろう。無遠慮に近づいてくる男を睨み、腕を振る。空中に無数の杭が生まれた。


「はッ!?」


突然空中に現れた無数の杭に一瞬、動きを止める男。ルゼは訓練で何度も繰り返した通り、すべての杭を高速回転させるとひとつ残らず男に向けて発射した。


男に当たる直前、男の持つ玉が輝き男と杭の間に瞬時に結界を展開した。ガァンッと鋭い音が響き、すべての杭の動きがとまる。男の口元が笑みの形に歪むが、それも長くはもたない。杭は結界にぶつかってもなお回転を続けており、徐々に結界にひび割れを生じさせていく。


「く、くそがッ!」


玉が輝く。ほんの少し結界のひびが修復されるものの、次の瞬間には結界は無残にも砕け散り、障害物のなくなった杭は問答無用で男の体を穿った。倒れた男には目もくれず、そばに転がった玉を拾い上げた。


魔力を込めると、自身の周囲一メートルほどに球体上の結界を展開した。先ほどの男の使い方を見る限り、玉に込めた魔力量によって強度が変わるのだろう。結界の右側面に、火の玉が着弾した。続いて雷の玉が飛んでくるが、結界を破ることができずぶつかって霧散する。顔を向けると、二人の男が杖のようなものを構えていた。杖から、先ほどと同じ火の玉と雷の玉が次々と飛んでくるが、いずれも結界の強度を超えるものでなく、ひび一つ入らない。


「ひィ…ッ」


男は見てしまった。攻撃の隙間から見えたルゼの目を。どこまでも暗く深い憎悪の宿る竜の眼を。


男は裏組織の人間。これまでに数えきれないくらいの恨みを買ってきたが、ここまで憎悪に濁った目を向けられたことはない。魔法の展開速度が若干遅くなる。自分たちが家畜と虐げてきたものが、どのような存在であるかこの時になってようやく理解し始めていた。頭の中で必死に逃げた方がいいんじゃないかと思考を巡らすが、考えている時点ですでに手遅れだ。


ルゼが右手を振った。再び無数の杭が生まれ、間髪入れずに二人の男の額に風穴を開けた。男たちの体がくずおれて、動かなくなる様を無表情で見つめたルゼは、徐に翼を広げた。


見つめるのは、屋敷西側の奥。そこから人の声が聞こえるのだ。


―――この屋敷の主、ルゼの両親を殺し、ルゼを三年間も檻に繋いでいた男は、自室だろう居室で血まみれの状態で死んでいた。


傍らにはいつもルゼのところに食事を運んでいた女がおり、手には小さなナイフを握っている。ナイフは血にまみれていた。そして、それを握る女の体も血だらけだ。


女はルゼのほうをちらりと見ると、口の端をほのかに持ちあげた。笑っている。いつもずっと無表情で何を考えているのかわからなかった女が、皮肉気な笑みを浮かべている。


「あんた、遅かったね。遅かったから、こいつはあたしが殺しちまったよ」


初めて聞く女の声は、低すぎず高すぎず、柔らかな声色だった。そしてどことなく疲れ切っているように聞こえた。女の手からナイフがするりと落ち、床に突き刺さる。


女はふらふらと覚束ない足取りで歩き始めた。ルゼの周囲に杭が出現した。女は肩越しに振り返ると、ルゼの周囲に浮遊する杭を見てふっと楽し気に笑った。


「…結晶竜ってのは、竜種の中で最弱の種族だって話だけど、どうやら何か裏がありそうだね。刺したきゃ刺しな。あたしはそれでもかまわないよ」


女はそう言うと、浮遊する杭を気にすることなく崩れかかった壁にかけられた大きな絵画に手をかけた。

絵画を外し、現れたのはダイヤル式の金庫だ。近くに大型の見るからに高級そうな金庫もあるので、おそらく隠し金庫だろう。


女がダイヤルを操作すると、程なくカチッという音がして扉が開いた。女はルゼの前まで戻ってくると、金庫の中に入っていたものを差し出した。


「――――――」


それは竜玉だった。淡く波打つかのように柔らかな緑色の光を発する、ところどころ枝分かれした円柱状の竜玉。三年前まで、この優しくも穏やかな輝きを間近でずっと見ていた。大好きな、輝きだった。


「お父さん……」


見間違うわけがない。その竜玉はルゼの父のものだ。震える手で、女から竜玉を受け取る。


あの頃見たときは、大きな角だと思っていたのに、今ではこんなにも小さく感じる。愛しさ、懐かしさ、悲しみ、怒り、憎しみ…様々な感情が胸に渦巻いて言葉にできない。どうしようもない感情の発露が、涙となって流れ落ち、竜玉をまだらに染めるのをルゼは呆然と見つめた。


「……他の竜宝は、あの男が全部売っちまった。残ったのはこれだけさ。これを持って、どこか遠くへ行きな」


ルゼは涙に濡れた目で、女を見上げた。女は優しさと罪悪感、そして大きな悲しみに揺れる目でルゼを見つめていた。


「……なんで、あの男を殺したんだ?」

「そんなこと、あんたには関係ないだろう」


そっけなく回答を拒否する女だが、じっと見つめてくるルゼの視線に根負けしてぽつりと呟くように言った。


「……あたしの旦那と子供を殺されたからさ」


女はもともと旦那が経営する料理屋で給仕として働いていた。二人の間にはルゼと同じくらいの年の子供もおり、裕福ではないが家族三人で幸せに暮らしていた。


だがなんの運命のいたずらか、いつも利用している料理屋が定休日だったため、たまたま女の旦那が営む料理屋にやってきた男、この屋敷の主であり今そこで事切れている男、ゲルドに女は目をつけられてしまった。女はとても美しい容姿をしていた。旦那と結婚する前は、よく街中の若い男たちから求婚されたものだと自嘲気味に言う。


女を自分の物にしたいと思ったゲルドは、手下の男たちを使って女の旦那と子供を夜盗の仕業に見せかけて殺し、料理人を失った料理屋はすぐに借金まみれとなって潰れてしまった。その借金の方に、女はゲルドに売られたのだ。


「最初はあの男が仇だとは知らなかったが、偶然知っちまってね。それから四年、ずっと殺す機会を窺ってた。本当に長かったよ……」


そう言う女の顔は疲労によるものか、それとも精神的なものか、あるいはその両方だろう。十歳は老けてしまったように見えた。旦那と子供の仇であるゲルドを殺したことで、生きる気力もなにもかも失ってしまっているように感じる。


「あんた、もう行きな。ここは亜人にとっちゃ生きにくい世界だろうが、それでも生きられないわけじゃない。詳しくは知らないが、亜人の村があるって話だ。なんとかそこを目指しな」

「おまえはどうするんだ」

「あたしのことを気にしてる余裕があんのかい。くだらないこと気にしてないで、とっとと……ッ! 伏せて!!」


突然、女はルゼの体を思いっきり突き飛ばした。


倒れる直前にルゼは見た。今しがたルゼがいた場所に、風の弾丸が通り過ぎるのを。


そしてルゼを庇ったことで、女の胸に弾丸が命中し、床に転がる女の姿を、その目で見た。


弾丸が飛んできた場所に素早く視線を向けると、男がひとりおり、瓦礫に隠れながら次の魔法の詠唱準備に入っていた。ルゼは片膝立ちになると、右手を突き出した。


緑黒の魔力の渦が右手に集中し、直後、極光となって男に降り注ぐ。瓦礫など、この光の前には盾の代わりにもなりはしない。案の定、光が止んだ後、男の姿は瓦礫ごと消滅していた。


だが、それよりも


「おい、大丈夫か!?」


ルゼは女に駆け寄った。女は胸に穴をあけられながらも、かろうじて生きていた。


だが、明らかに致命傷。生きていることのほうが奇跡だろう傷だ。


「人間は魔法が使えるんだろう!? 治癒魔法とかないのか!? それか薬は!?」

「……い、いい…の……これ、で……」


女は力なく首を振った。口からこぽりと血の塊が零れ落ちる。ルゼはぐっと唇を嚙み締めた。


「……名前は?」


助からないとわかってしまった。ならば、せめて名前を、命の恩人の名前を憶えておこう。


女はほんのわずかに目を見開くと、眦を少しだけ下げた。


「イ…レナ……」

「イレナ、旦那と子供の墓はどこだ?」

「……ッ!」


女の、イレナの目が大きく見開かれた。亜人族の少女が、人族の墓に行こうというのか。


人間に父母を殺され、三年間も家畜のようにこんな場所に囚われていたというのに。


ゲルドは亜人族など獣と変わらないと言っていた。街に住んでいた頃、亜人族の奴隷を何度も見たことがある。でも何も感じなかった。そういうものだと思っていた。


だが、実際にはどうだ。

欲望に塗れた人のほうが、よっぽど獣ではないか。


イレナの目から涙があふれだす。その気持ちだけで、もう十分だった。


「…い……の……し、ら……いの……」


旦那も子供も満足に葬式もあげることもできず、すぐに借金の方に売られてしまったイレナには、二人がどこに眠っているのかわからなかった。おそらく街の共同墓地に入れられたとは思うのだが、明確な場所は知らない。


それに罪のない二人と違い、イレナは仇とはいえゲルドを殺した。二人と同じ場所には行けない。会わせる顔もない。


「……それは、どこでも大丈夫ということだな」

「…………な…に……?」

「墓の場所。旦那と子供の名前は?」

「――――――」


今度こそイレナは絶句した。

だがすぐにその言葉の暖かさに、涙がとめどなく零れ落ちていく。


「ダ…ン……と、エ…イ……ミー……」


イレナの右手が、ルゼの頬に触れた。イレナは微笑する。それは常に見せていた隙のない女の表情ではなく、母親が子供に見せる優しいほほえみだった。


「あ……り、が……と………ごめ……な……さ……」


手が力なく、床に落ちた。


ルゼは指を竜晶化させ、女の髪を少し切り、適当な紐で縛ると父の竜玉と一緒に布に包んで背負った。


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