第9話 北棟の百席
北棟は、学院の敷地の一番端にあった。
案内の上級生は「昔の兵舎だ」とだけ言って、鍵を渡すと戻っていった。石壁は厚く、廊下は薄暗く、部屋は寝台と机で九割が埋まる広さしかない。それでも個室で、鍵が掛かる。屋根裏より上等だ、というのがセオの正直な採点だった。
支給品が寝台の上に積んであった。制服が二着、練習剣が一振り、教本の束、寝具。セオは荷を解く前に、まず全部を検めて帳面に付けた。
制服は型が古く、袖口がほつれている。前の持ち主の名札を剥がした痕があった。練習剣は刃こぼれが三箇所、柄糸が緩んでいる。教本は——揃ってはいた。ただ、どれも書き込みだらけの払い下げで、前の持ち主は字が汚い。
一式、中古。特待生の待遇は、品物の状態で言葉より雄弁に説明されていた。
北棟の住人は少ない。今年の特待生はセオを入れて四人、二年と三年を足しても十人に届かないという。廊下の扉の大半は空き部屋で、夜になると自分の足音だけがよく響いた。突き当たりには共同の湯場がひとつあり、竈の火は、たいてい誰かが先に落としてしまっている。窓からは丘の下の王都と、反対側の高みに王宮の灯りが見える。灯りと灯りのあいだの距離が、そのままこの学院の縮尺だった。
セオは針と糸を出して、袖口から繕い始めた。物に罪はない。それに、直しながら検めると、物は前の持ち主のことをよく喋る。この制服の前の主は左利きで、猫背で、三年間よく走ったらしい。膝の裏の布だけ、極端に薄くなっていた。
* * *
夕食の鐘で食堂へ出た。
長机が並ぶ大食堂は、席順まで身分でできていた。窓際の日当たりのいい列に貴族の子弟、中程に平民の合格組、末席の壁際に——特待生。誰かに教わらなくても、視線の流れを読めば座るべき場所は分かる。
皿の中身は、意外にもどの席も同じだった。麦の粥に腸詰め、豆の煮込み。食い物だけは、この学院で唯一身分の段がないらしい。もっとも、壁際の席まで運ぶあいだに浴びる視線の量は、席によってずいぶん違ったが。
壁際の席には、先客がひとりいた。
小柄な少女だった。赤茶の癖毛を作業用のゴーグルで押さえ、袖に焦げ穴がふたつ。年はセオと同じくらいで、皿の横に工具を広げ、食事の合間に何かの部品を磨いている。
セオが向かいに座っても、顔を上げなかった。
沈黙のまま食事が半分まで進んだころ、少女が出し抜けに言った。
「その剣、鳴いてる」
「……鳴いてる?」
「歩くたび、鞘の中で三箇所こすれてる。刃こぼれ。あと柄糸が死んでる」
顔は皿の横の部品に向いたままだった。目だけが、いつの間にかセオの腰の剣を見ている。人の顔より先に持ち物を見る目だ。読む対象が違うだけで、目の使い方はどこか身に覚えがあった。
「支給品なので。今度、砥石を借りられる場所を——」
「貸して」
少女は手を出した。理由も名乗りもなかった。セオは少し考えて、鞘ごと渡した。この目の持ち主が道具を粗末にするとは思えなかったからだ。
少女は剣を半分だけ抜いて刃を検め、眉間に皺を寄せ、「ひどい」と部品に向かって言った。
「これ、何ですか」と、セオは彼女の手元の部品を指した。
「知らなくていい」
即答だった。ただし手は止まらず、口だけが続いた。「……計量の秤の芯。市販のは狂うから」
知らなくていい、の三秒後に教える人らしい。彼女はそのまま剣を抱えて立ち上がった。
「工房、北棟の裏。ミナ・ハレット。研ぎ代は要らない——うるさいから研ぐだけ」
それだけ言って、行ってしまった。
セオは空になった腰の鞘に手をやった。学院に来て最初に口を利いた同期は、名乗るより先に剣を持っていく人だった。悪くない出会いだと思うことにした。
* * *
翌日は講義の始まる前に、敷地をひと回りした。
案内図の類いは特待生には配られない。ないなら作ればいい。講堂、演習場、聖堂、図書館、厩、購買。歩いた道順のまま、帳面に敷地図を写していく。写本屋は町の図面も写す——ここでは、学院の図面もだ。
聖堂は敷地の東の高みにあって、朝の礼拝を終えた学生が石段を降りてくるところだった。祭壇の星章が、開いた扉の奥で光っている。ミルベルの礼拝堂を五回りは大きくした造りで、セオは石段の下から眺めるだけにして通り過ぎた。あの匂いのする場所には、当分近寄る用事を作りたくなかった。
演習場は白砂の広場で、周りを石の観覧席がぐるりと囲む。的の藁束、組稽古の白線、勝敗を告げる鐘。ここが席次の動く場所だと、案内の紙にはあった。観覧席がこれだけ立派ということは、つまり決闘は見世物でもあるということだ。
購買では筆記具の値段を確かめて、静かに棚へ戻した。ミルベルの倍する。特待生の手当は月に銀貨四枚——この街の物差しでは、削れるものから削る暮らしになる。父の餞別の筆記具一式が、荷物の中でいっそう重みを増した。
中庭には名簿の掲示板と別に、席次の常設板があった。百枚の名札が席の順に差してある。差し替え式だ。つまり、動くことが前提の板だ。最下段の一枚だけ木の色が新しく、セオ・アトリーと几帳面な事務の字で書いてあった。
足が止まったのは、図書館だった。
三階建ての石造りに、窓が少ない。扉から覗いた書架の列は、奥が暗くて見通せないほど続いていた。写本の値段を知る人間の目に、あれは書架ではなく金庫の列だった。あの一棟で、ミルベルの町が丸ごと買える。
受付の司書に恐る恐る確かめると、特待生にも閲覧の権利はあるという。貸出は席次で冊数が変わるが、館内で読むぶんには百席も一席もない。奥の閉架には鉄の格子が見えたが、そこはまた別の話だ。
……この学院で一番いい場所を、初日に見つけてしまったかもしれない。
中庭の掲示板の前も通った。名簿の最下段、書き足した一字はそのまま乾いていて、隣の「白紙」の落書きもそのままだった。消す者も、増やす者も、まだいない。
* * *
三日目の朝、部屋の戸口に剣が立てかけてあった。
抜くと、刃こぼれが三箇所とも消えている。研ぎの筋は細かく揃い、柄糸は締め直され、鍔の緩みも手が入れてあった。安物の支給剣が、悔しいことに、うちの店の看板文字くらい仕事の顔になっている。値札の代わりに、小さな紙が柄に結んであった。
——まだ鳴く。そのうち鞘を作り直す。
署名はない。要らなかった。
セオは剣を提げて、教室棟へ向かった。今日から座学が始まる。教室の席は席次順で、百席の席は最後列の一番隅だと聞いている。上等だ。教室というものは、後ろの隅から一番よく読める。
その席に着いて、セオは机の上のものに気付いた。
教科書が一冊、置いてある。支給品の払い下げではない。新品だ。表紙に几帳面な字で「無紋用」と書いてあった。
教室のあちこちから、見ていない振りの視線が集まってくる。セオは表紙を撫で、装丁を確かめ、それから開いた。
全部の頁が、白紙だった。




