第10話 見学席
白紙の教科書は、机の中へ仕舞った。捨てなかったのは、紙が上等だったからだ。白紙なら白紙で、図鑑の続きにでも使えばいい。
誰の仕業かを探す素振りは見せなかった。教室のどこかで、その無反応に舌打ちした者がいる。舌打ちは音でなくても読める。頬の動きで足りる。
一限は基礎紋章学だった。
壇上の老教授は、出席も取らずに黒板へ環をひとつ描いた。
「では初回の問いじゃ。——紋章の環は、なぜ閉じておらねばならん?」
教室は静かだった。答えを知らない静けさではない。最初の授業で目立つ損得を測る、貴族の子弟の静けさだ。
教授の目が教室を一周して、最後列の隅で止まった。
「そこの。百席」
悪意のない指名かどうかは、分からなかった。分からないまま、セオは立った。
「環が閉じないと、魔力が文の外へ漏れます。……ただ、わざと半環で組んで漏らす紋もあると読みました。古い治水紋は、漏れで水位を測ると」
教授の眉が、ゆっくり持ち上がった。
「……ほう。どこで読んだ」
「写本屋なので。仕事で通った本の中に」
嘘ではない。読んだ場所が紙か人の腕かの違いは、今は誰の得にもならない情報だ。
「では重ねて問う。環を閉じ損ねた紋は、どうなる」
「灼けます。軽ければ一時、深ければ焼失」
「見たことでもあるような口ぶりじゃの」
「……本で」
教授は、ふぉっふぉ、と喉で笑って板書に戻った。あの笑いの意味は読めなかった。読めない大人は、この学院にもいるらしい。
教授は「治水紋の半環など、三年の座学でやる話じゃ」とだけ言って、板書に戻った。教室のざわめきは、さっきまでと質が変わっていた。値踏みのざわめきだ。無紋のくせに、の後ろに、初めて別の言葉が続きかけている。
座学は、戦える場所だった。五年間、読むことしかできなかった時間が、ここでは全部弾になる。
* * *
その評価は、二限で裏返った。
実技演習。演習場に整列した新入生の前で、実技教官は名簿を確認し、セオのところで一度だけ顔を上げた。
「アトリー。規定により、紋章を持たぬ者は実技を見学とする。……端の席へ」
規定により。今週二度目に聞く言葉は、今度はセオを弾く向きで使われた。規定は剣より硬い。硬いものは、味方にも敵にもなる。
見学席は演習場の隅の石段だった。日陰で、砂埃を被り、教官の声はよく届くのに、こちらの声はどこにも届かない位置にある。よくできた席だと思う。この席を決めた誰かは、席の意味というものを知っている。
組分けの列が白砂の上にできて、セオの前だけを避けて流れていった。実技教官は名簿に何かを書き付け、それきりこちらを見なかった。悪意ではない。処理済みの書類を見ないのと同じことだ。
そこから、百人の実技が始まるのを見た。的に向かって、順に紋章を起こしていく。火矢、風斬、剛力、障壁。育ちのいい起動句が、春の演習場に次々と響く。
屈辱だろう、と思う。思うそばから、目が仕事を始めてしまう。
三列目の火矢は環の右が痩せている——魔力を急かしすぎだ。五列目の風斬は絞りの前で必ず息を止める。癖だ。七列目の障壁は起こしの句を半分噛んだ。あれでは張りが薄い。
帳面が、勝手に埋まっていく。
見学席。なるほど、確かに見学の席だ。演習場の全員を、遮るものなしに読める席。この学院で二番目にいい場所も、早々に見つけてしまった。
* * *
演習の終わり際に、その一団は通りかかった。
中心にいる長身の生徒は、歩き方だけで分かった。二席、レナード・ギルフォード。名簿の上から二行目の名前。金茶の髪、琥珀の目、姿勢は教本を立てたようにまっすぐで、制服の着こなしまで正確だった。
襟元に、家紋章が二つ覗いている。
読める。雷の系統と、脚の強化。二つの紋の組み方が——美しかった。別々に刻んだ紋ではない。最初から対で使うために、画の向きを揃えて刻んである。設計された二枚。ああいうのを、家伝と言うのだろう。
レナードは見学席の前で足を止めた。取り巻きが三人、笑いを噛んで後ろに控える。
「君が、特例の」
声は静かで、丁寧ですらあった。
「座学で治水紋の講釈をしたそうだね。大したものだ。……だが、ひとつ教えておく。君がどれだけ覚えても、刻めない者は騎士になれない。それがこの国の形だ」
嘲りの調子は、どこにもなかった。それが一番堪えた。この男は事実を読み上げている。国の形。制度の条文。彼にとってセオの存在は、悪でも敵でもなく、ただの誤記なのだ。
「席次百番は、伊達ではないという意味だよ」
一礼すらして、レナードは踵を返した。取り巻きの一人——癖のある赤毛が、去り際にわざと帳面を覗き込んで鼻を鳴らす。
「落書き帳か? 白紙」
「よせ。品がない」
レナードは振り向きもせずに言った。赤毛は首をすくめて後を追う。
ダリオ・クレメル。名簿の三十七席。主の叱責ごと、癖の悪い笑い方まで、帳面はもう覚えている。あの主従は、同じ侮蔑でも書体からして違う。
* * *
夕方、ミナの工房に寄って、研ぎの礼に購買の焼き菓子を置いてきた。
ミナは礼の言葉の代わりに「甘いのは手が汚れる」と文句を言い、文句を言いながら二つ食べた。工房の壁には工具が寸法順に掛かり、作業台の上だけが良い意味で戦場だった。彼女はここで、付与紋ひとつを電池にも刃にも灯りにも化けさせている。
「あんたの字は、経済的だな」
「……は?」
「付与の紋。一画で三役やらせてる。ああいう書き方、初めて見た」
ミナの手が止まった。初めて、部品でなくセオの顔をまっすぐ見た。
「あんた、今の見て分かるの」
「見るのだけが取り柄なので」
「ふうん」
会話はそこで途切れたが、帰り際、彼女は棚から古い砥石を出して寄越した。「自分でも研げるように」だそうだ。道具をくれる職人の意味を、写本屋の息子は正しく知っている。
工房を出るとき振り返ると、窓の奥で魔導灯がひとつ、まだ明るい。貴族の贅沢のはずの明かりを、彼女は自分の手で作って灯している。北棟の裏の物置が、夜のあいだだけ、この学院で一番豊かな一角になる。
* * *
北棟の湯は、竈がひとつしかない。先に沸かした者から使い、残り湯の順は銅貨で売り買いされる——寮則のどこにも書いていない、書いていないから消しようもない仕組みだ。特待生に順を売る者はいないから、セオの湯はいつも夜半の水に近い。
その夜、竈の前にいた大柄な生徒が、セオを見て顎で湯殿を指した。
「先に入れ」
「……順番が」
「俺の順だ。俺の順をどう使おうと、寮則の管轄外だろう。早く入れ。冷める」
本科三年のオーウェン・ダントという人だった。北棟に住む数少ない本科生で、部屋はセオの並びの端。夜ごと壁越しに聞こえる、革の軋む規則正しい音の主でもある。剣帯の手入れの音。毎晩同じ刻限に、同じ回数。音だけで、几帳面な人だと読める。
消灯前の廊下で行き合ったので、湯の礼を言った。オーウェンは手の革帯から顔も上げず、そうか、とだけ言った。それから、思い出したように付け足した。
「隊で一番偉いのは、人数を減らさない奴だ——受け売りだがな。学院じゃ教えん」
誰の受け売りかは、言わなかった。セオは帳面の隅にその一行を写した。意味は、まだ半分も読めない。
* * *
翌朝、教室の自席から椅子が消えた。
二日後には、白紙の教科書の二冊目が届いた。今度の表紙には「読める字で書いてやったぞ」とある。皮肉のつもりらしいが、白紙に読める字も何もない。論理の破綻した嫌がらせは、帳面に書くとき少し困る。
三日後、演習の組分けで、セオの名前だけがどの組の札にもなかった。
五日後、剣の鞘に泥が詰められた。研ぎ直されたばかりの刃は、幸い無事だった。これだけは帳面の字が少し尖った。
六日後、食堂の壁際の席に、先客の鞄が置かれるようになった。置いた者は決まって遠くの席で笑っている。
セオは、そのすべてを帳面に付けた。日付、刻限、人名、証人、損害の額。写本屋の帳簿の書式で、感想の欄だけがない。怒鳴りもせず、訴えもせず、ただ記録した。
一週間で、帳面は五頁埋まった。反応らしい反応を返さない的というのは、投げる側の癇に障るらしい。仕掛けの間隔は、日ごとに短くなっていた。
五頁目の隅にダリオ・クレメルの名を書き足しているところへ、当人の声が頭の上から降ってきた。
「おい、白紙。明日から俺たちの荷物持ちをやれ」




