第11話 記録係
「断る」
荷物持ちをやれ、という要求への返事は、一語だった。
ダリオ・クレメルの顔から笑いが半分だけ剥がれ、残り半分が意地で持ち堪えた。
「……身の程の話をしてるんだ、白紙。誰の庇護もなしに、この学院でやっていけると思うか?」
「庇護の値段が荷物持ちなら、高すぎる」
帳面を閉じて、セオは席を立った。背中で舌打ちが鳴る。舌打ちの主の名前は、もう書いてある。
その日から、仕掛けの質が変わった。
教本の束が水路の脇で濡れていた日。演習の見学席に、砂がまいてあった日。購買での注文が「品切れ」で通らなくなった日。どれも決定的ではなく、どれも証明しにくい、うまいやり方だった。ダリオは性格が悪いが、頭の出来まで悪いわけではないらしい。
セオは全部を帳面に付けた。
日付、刻限、出来事、居合わせた者。写本屋の帳簿の書式は、こういうとき感情の逃げ場がなくて助かる。悔しさは行間に置けない。置けないから、字が乱れない。
——記録はいい癖だ。だが紙は盾にならん。
朝稽古で帳面の話をしたとき、ヴァンはそう言った。
「盾にする方法は、ひとつだけある。正しい机に載せることだ。載せる机は、選べ」
正しい机。教官室の机は、たぶん違う。あそこに載せれば「無紋が告げ口をした」という新しい頁が増えるだけだ。セオは頷いて、帳面の紐を締め直した。机は、まだ選ばない。
* * *
朝稽古は、入学の三日目から始まっていた。
きっかけは部屋の戸口に立てかけられた木剣で、結んだ紙に「夜明け、旧練兵場」とだけあった。署名はない。署名の要らない筆跡というものが、世の中にはある。
旧練兵場は北棟のさらに裏、雑草の生えた古い稽古場だった。ヴァンは先に来て、欠伸をしながら待っていた。
「学院の朝は混む。ここなら誰も来ん」
稽古の中身は、ミルベルからの十日間と同じだった。見る、立ち位置、呼吸。木剣はまだ、半分は杖だ。
「写しの稽古は」
「禁止。学院でもだ」
「……実技は見学なんですが」
「知ってる。ちょうどいい。見学ってのはな、俺が受けた教育の中で二番目に上等なやつだ」
「一番は」
「殴られることだ」
その日の打ち込みは三本で終わった。三本とも、ヴァンの木剣は打つ寸前で止まり、止まった位置をセオに確かめさせた。首、手首、膝裏。「今日のお前が死んだ場所だ。覚えて帰れ」
「……見学で強くなった人間なんて、本当にいるんですか」
「一人知ってる。性格は悪くなったがな」
「誰です」
「散歩の続きだ」
答える気のない答えと一緒に、ヴァンは欠伸をした。
稽古は、それきり口を利かない日も多かった。それでもセオの足運びから、少しずつ余計な音が消えていった。夜明けの白い空の下で、足音のない男の足音を、目で写し続けた成果だった。
* * *
放課後は、ミナの工房に入り浸るようになっていた。
きっかけは剣の礼だったが、続いた理由は別にある。ここでは魔導具という形で、紋章が仕事をしているのを間近で読めるからだ。
付与紋の光を帯びた小さな回路が、秤を動かし、灯りを保ち、砥石の回転を揃える。ミナの手が配線を組み替えるたび、同じ一枚の紋章が違う文章に読み替えられていく。
「その繋ぎ方、さっきと逆ですね」
「逆にすると出力が絞れる。……なんであんた、見ただけで分かるの」
「見るだけの人生だったので」
「ふうん」
ミナの相槌は大抵ふうんで、そのくせ手元の道具はいつの間にかセオの使いやすい位置に増えていた。壊れた魔導灯の芯の交換を任された日は、我ながらどうかと思うくらい嬉しかった。
工房の棚には、作りかけの品が並んでいる。中でも一番奥の布掛けの下は、彼女が半月かけて組んでいる「携行の計量炉」の試作だという。秤と小さな炉をひとつの付与紋で回し、出先で合金の配合を確かめられる道具——工匠科の年度課題で、これが通れば来年の設備費が出る。
「一枚の紋で二つの器械って、できるものなんですか」
「できないって教官は言った」
「言われたから作ってるんですね」
「……あんた、たまに嫌なくらい話が早い」
その晩は結局、配線の下拵えを手伝って消灯の鐘まで居た。手伝いながら盗み読んだ彼女の設計図は、字こそ荒いが、無駄な線が一本もなかった。
「触るな、とは言わない」とミナは言った。「あんたは、触っていいものといけないものの区別がつく手をしてる」
職人の言う最上級の何かだと、受け取ることにした。
* * *
その帳面が目に留まったのは、七日目の食堂だった。
いつもの記録を付けているところへ、ダリオの一団が通りかかった。奪い取られる前に、セオは帳面を閉じもしなかった。開いたまま、好きに見せた。
日付。刻限。人名。ダリオの名前が、頁の上に整然と並んでいる。
「……なんだ、これは」
「日記です」
「ふざけるな。誰に見せる気だ」
「読まれて困る字なら、最初から書かない主義で」
ダリオの耳が赤くなった。取り上げようと伸びた手は、セオが半歩引くだけで空を掴んだ。見る、立ち位置、呼吸。朝稽古は、こういう半歩のためにある。
ダリオは声を落とした。落とした声のほうが、よほど本音の温度をしていた。
「いい気になるなよ、白紙。おまえの居場所なんて、この学院のどこにもないんだ」
その日の記録の最後に、セオはその一言も書き足した。誰かの本音は、資料として上等だからだ。
* * *
翌朝、北棟の裏で、ミナが立ち尽くしていた。
工房の戸が、開いたままだ。
中は、ひと目で分かる有様だった。倒れた棚。撒き散らされた工具。引き千切られた配線。そして作業台の下——布掛けの中にあったはずの計量炉の試作が、床で踏み砕かれていた。半月ぶんの、彼女の来年が、部品に戻って床に散った。
ミナは、泣かなかった。
しゃがみ込んで、一番小さい歯車を拾い、油で汚れた指でそれを拭いた。
「……直せる」
声は平らだった。平らすぎた。
「全部、直せる。設計はここにあるから」
自分のこめかみを、彼女は工具の柄でこつんと叩いた。それから二個目の部品に手を伸ばした。
セオは隣にしゃがんで、一緒に拾い始めた。拾いながら、頭の中はもう別の作業をしている。
昨夜は小雨だった。床の泥は乾き切っていない。靴跡は二人ぶん、爪先はどちらも戸口から作業台へ一直線——物色ではない。壊しに来た足取りだ。北棟の見回りは夜半に一度きり。それも帳面に書いてある。
錠は今夜、ミナと二人で作ればいい。壊された分は、作って返す。それがこの工房の流儀なら、こちらにも写本屋の流儀がある。
帳面が、今夜で一冊終わる。
次の一冊の一頁目に何を書くかは、もう決めてあった。




