第8話 白紙の答案
「では規定どおりに。課題——的に対する紋章の行使。型は問わない。三十数える間に始めなさい」
無紋に紋章を使えという課題。規定どおり、の一言が嫌味の形をしていた。使えなければ落ちる。使えるはずがない。書類の上では、そういう詰みだった。
セオは、書類の上の詰みには慣れている。
* * *
審査は、翌朝いちばんに組まれていた。
本来の入学試験は春先に終わったあとだ。これは教官推薦による特例の臨時審査で、通れば即日、編入も同然の入学になるという。受付の事務官は書類のセオの欄を三度読み返し、三度目に上役の判を仰ぎに奥へ消えた。白判の通行証のときと、同じ速度の困惑だった。
講堂は石造りの半円形で、声がよく通る。演壇に的の藁束が三つ。壇の下の長机に、審査官が三人並んでいた。中央に痩せた教官、左に丸眼鏡の書記官、右に白髪の年配教官。ヴァンは壁際に立って、早くも欠伸を噛み殺している。
「セオ・アトリー。ミルベル出身、写本業。……紋章の欄が、白紙だが」
「無紋です」
講堂の空気が、書類のこすれる音ごと止まった。
痩せた教官が書類を置き、初めてまともにセオを見た。値踏みですらない、片付け物を見る目だった。
「オルロー教官。私は多忙でね。あなたの道楽に付き合う時間はないのだが」
「道楽かどうかは審査で分かる。そのための審査だろう」
ヴァンは壁から答えた。痩せた教官は嘆息をひとつ挟み、事務の声に戻った。
——詰みの課題が、そうして読み上げられた。
「始める前に、お願いがあります。審査規定の全文朗読を」
「……何?」
「受審者は規定の確認を求められる、と入学案内にありました。写本屋なので、文書は読んでから信じる質です」
丸眼鏡の書記官が、規定の綴りを棚から下ろした。羊皮紙のめくれる音が、静かな講堂に響く。
第一条、受審資格——王国籍を有し、推薦者一名を立てること。無紋を除く、とはどこにも書いていない。書く必要を、誰も思いつかなかったからだ。
第二条、課題の範囲。痩せた教官の指が、机の上でこつこつと拍子を取り始める。
そして第三条。
「——課題紋章は、審査官が実演して示すものとする」
書記官の声が、そこで少し遅くなった。読み上げた本人が、意味に気付いた速度だった。
セオは頭を下げた。
「実演をお願いします。規定どおりに」
* * *
痩せた教官の顔から、嫌味の形が剥がれ落ちるまで三呼吸あった。
第三条は、課題の手本を示すための条文だ。受審者は皆それぞれ自分の紋章を持ってくるから、実演など何十年も形骸だった。白髪の年配教官が、そう言って初めて口を開いた。言ってから、面白がる側に椅子を傾けた。
「だが条文は生きておる。実演なさい、バルロ教官」
「……この者に紋章はありません。手本に何の意味が」
「意味の有無は条文の管轄外じゃよ」
痩せた教官のバルロは、憤然と立って演壇に上がった。袖をまくる。前腕に三つの紋章が並び、そのひとつに魔力が走る。
読める。
風の系統。起こしは二節、環がひとつ、絞りの画が鋭い。跳ねの癖は浅く、教本のように行儀のいい字——。
「風よ、斬れ」
見えない刃が唸って、藁束の一番目が斜めに裂けた。
講堂に風の名残が舞う。バルロは袖を戻し、席へ戻りかけて、義務のように付け足した。
「これが風斬紋。……以上、実演終わり。では改めて、三十数える間に——」
「ヴァン教官」
セオは壁際へ声を投げた。外套の男は、面倒くさそうに頷いた。
「ああ。——見せてやれ」
禁止令の、解除だった。
右の袖をまくる。指先に魔力を集める。
いま見たばかりの字を、見たとおりに。二節の起こし、環、鋭い絞り。火矢が「束ねて放つ」字なら、風斬は「研いで走らせる」字だ。系統が違えば、力の入る画も違う。この紋の命は絞りの一画——そこだけは、震えてはいけない。
焼けた針の痛みは知っている。知っていても、奥歯は要る。一画、二画。講堂の静けさの中では、自分の呼吸だけがやけに大きい。三人の審査官の視線が、書きかけの腕の上に集まっているのが、見なくても分かる。
書き上がった。腕の上で、借り物の風が細く光る。
「——風よ、斬れ」
見えない刃が唸った。
藁束の二番目が、一番目とそっくり同じ角度で裂けて、遅れてばらばらと床にこぼれた。
講堂は、風の音が消えたあとも静かなままだった。
丸眼鏡の書記官は、規定の綴りを抱えたまま固まっている。バルロは立ち上がりかけた中腰のまま動かない。ヴァンだけが壁際で、欠伸の続きをしていた。
白髪の教官が、ゆっくりと手を叩いた。二度だけ。
「——別室で待ちなさい」
* * *
別室の椅子は硬く、待ち時間は長かった。
壁越しに、言い合う声が切れ切れに届く。前例がない、規定は満たしている、教会に諮るべきだ、学院の自治はどこへ行った、責任は誰が。単語だけ拾えば、会議というより押し問答だった。教会、の一語が出るたび、声の温度が一段下がるのが壁越しにも分かった。
セオは待ちながら、膝の上で帳面を開いた。今朝の風斬紋を、忘れないうちに紙へ写しておく。腕の写しは消えても、紙の写しは消えない。五年間、そうやって溜めてきた。今日からは、それが取り柄という名前になるのかもしれなかった。
半刻ほどでヴァンが出てきた。
「通った」
短い。セオが立ち上がるのを待って、続きが半分だけ来た。
「条件付きだ。騎士科、特待生、席次は最下位の百席から。それと——観察期間がつく」
「観察?」
「素行と、その目の使い方を、当面は見張らせてもらう、だとさ」
誰が見張るのか、は言わなかった。言わない、ということが答えの半分だった。会議の壁越しに聞こえた単語の中に、教会、があったことをセオは思い出し、それ以上は考えないことにした。考えても、今日の椅子は変わらない。
「規定違反はどこにもない——それで通した。覚えとけ、坊主。ここじゃ規定が剣より硬い。硬いものの使い方を、お前は今日ひとつ覚えた」
ヴァンはそう言って、廊下の先を顎で示した。
「掲示板を見てこい。今日から、お前の名前が学院の書類に載る」
* * *
中庭の掲示板には、新入生百名の名簿が貼り出されていた。
掲示の前は人だかりで、セオが近づくと、さざ波の引くように空間ができた。噂はもう走っているらしい。あれが例の、と誰かが言い、特例の無紋だと誰かが返し、あとは扇と袖の内側に消えた。
席次は審査と試験の評点順だという。最上段の一行に、目が引っかかった。
——一席 アリシア・ヴェルクレア。
王家の姓だ。周りの人だかりは、その一行を見上げるときだけ声の色を変える。今年は第三王女殿下がいらっしゃる、御前試合が今から楽しみだ、と。
へえ、と思う。それ以上の感想は、まだ何もない。ただ名簿の一番上と一番下は、ずいぶん遠く見えた。
最下段。百席、セオ・アトリー。
名前の綴りが、一字欠けていた。書き写した事務方の誰かが、聞き慣れない姓を写し損ねたらしい。そしてその隣には、もう誰かの落書きがある。
——白紙。
墨も乾き切っていない、真新しい二文字だった。
セオは備え付けの筆を借りて、掲示の前に立った。周りの新入生が、遠巻きにこちらを見ている。見られたまま、名前の欠けた一字だけを、丁寧に書き足した。
落書きの二文字は、そのままにしておいた。




