第7話 十日の道
最初の講義は、歩き方だった。
「剣より先に、まず見ろ。相手を、地面を、風の向きを。次に立ち位置。斬り合いの半分は、立った場所で終わってる。呼吸はその次だ」
ヴァンの教えには順番があった。見る、立ち位置、呼吸。技の名前はひとつも出てこない。木剣を持たせてもらえたのは三日目で、それも「杖代わりだ」と言われた。
稽古は歩きながらだった。すれ違う旅人を顎で示して、ヴァンが出し抜けに問う。
「今の行商、利き手は」
「左。荷の紐の結び目が左絞りでした」
「三人組の親分は」
「真ん中……いや、後ろの小柄なの。二人とも、曲がる前にあいつを見た」
「上出来。じゃあ、なんでお前は今、俺の右側を歩いてる」
それには答えられなかった。ヴァンは自分の右目の脇を指で叩いた。「俺の目の古傷は右だ。見えにくい側に立つな。守られてるみたいで癪だろうが、守る側の癖で言ってる」
立ち位置の講義は、そういう調子で轍の選び方から日向の背負い方まで続いた。剣の振り方は、十日で一度も教わらなかった。
「あの、写しの稽古は」
「禁止と言ったはずだ」
「紙でならいいですか」
「紙はいい。腕はまだ駄目だ」
理由を聞くと、ヴァンは珍しく二つ返した。体が出来ていないうちに書き癖がつくと直らない、が一つ。もう一つは、焚き火に薪を足しながら、こうだった。
「便利な手は、お前の目を曇らせる。写せると思って見るのと、写せないと思って見るのとじゃ、目の彫りの深さが違う」
分かるような分からないような理屈だったが、夜営のたび、セオは言われたとおり紙にだけ写した。昼に見た旅人の民紋。護符売りの偽紋。ヴァンはそれを覗きもしないくせに、綴りが増える速さだけは把握しているらしかった。
* * *
五日目に、最初の関所があった。
街道をまたぐ石の門で、槍を持った検問の兵が、通行証と体の紋章を突き合わせている。貴族は袖をまくって家紋章を見せ、平民は襟元の民紋を見せる。列は、体に証明を刻んだ人間たちの列だった。
検問には列がふたつあった。徒歩の列は長く、馬車の列は短い。紋章入りの扉章を掲げた貴族の馬車は、短い列すら素通りしていく。列に並ぶという行いにも、身分の段がある。
セオの通行証は、判のあるべき場所が白い。
白判、と兵は言った。書類を二度ひっくり返し、セオの顔と白紙の欄を三度見比べ、それから隣の同僚を呼んだ。同僚は上役を呼んだ。上役は面倒そうに歩いてきて、開口一番「歩き巫女の類いか」と言った。
「王立紋章騎士学院の入学審査に向かう。俺の連れだ」
ヴァンが外套の内から小さな章を出した。剣と羽根筆を組んだ意匠——学院教官の身分章だという。上役の背筋が伸び、白判の通行証は急に丁寧な手つきで返ってきた。
門を抜けてから、セオは一度だけ振り返った。
「……あの章がなかったら?」
「半日は絞られたな。運が悪けりゃ留め置きだ」
「白判って、そんなに」
「珍しいからな。珍しいものは、疑うのが役人の仕事だ」
道は誰にでも通じている。ただし、通り方の値段が違う。町の外に出て初めて分かる種類の勘定だった。
* * *
七日目の夜営で、セオは訊きたいことを五つまで貯めていた。
「席次って何ですか」
「序列だ。新入生は百人、百席まで番が付く。上がり方は二つ、決闘と評点」
「決闘って、誰とでもできるんですか」
「月例の席次戦なら、自分より上の十席以内。月に三件まで。……ひとつ覚えとけ。上から下へ仕掛ける指名戦ってのもある。潰したい相手がいる奴の使う手だ」
「潰したい相手」
「たとえば、目障りな特待生とかな」
焚き火が爆ぜて、話はそこで一度切れた。
「特待生って、実際どういう扱いですか」
「北棟」
「北棟?」
「行けば分かる」
「御前試合っていうのは」
「年に一度の大祭りだ。国王陛下がお出ましになる。……ああ、それとな」
ヴァンは五つ目を待たずに、焚き火の薪を組み直した。
「学院で最初に殴られるのは、腕じゃない。居場所だ。教室の席、食堂の席、演習の組。お前はまず、座る場所がないところから始まる」
「……脅しですか」
「地図だ。殴られる場所が分かってりゃ、殴られ方を選べる」
五つ聞いて、返ってきたのは二つ半。それでもこの男の半分は、他人の全部より役に立つ。セオは焚き火の明かりで、聞いたことを全部帳面に写した。ヴァンはそれを見て、初めて少しだけ笑った気がした。
* * *
十日目の昼、丘の連なりの向こうに、王都ヴェルカが見えた。
市壁が三重。川が街を割って流れ、橋の上まで家が建っている。ミルベルの市壁が犬の柵に思えるような、石の海だった。
門をくぐって、セオは早々に足を止めるはめになった。
うるさい。
音ではない。目が、うるさい。行き交う人の襟元、袖口、露店の軒、荷車の側板、酒場の看板——紋章、紋章、紋章。本物の家紋章、量産の民紋、装飾だけの偽紋、質の悪い護符。読める文字が、道の端から端まで一斉に喋っている。ミルベルの市の日の百倍の文字量が、目の中へ流れ込んでくる。
橋の袂には人だかりがあって、壁に大判の紙が貼り出されていた。書き売り、と呼ぶらしい。週に二度、写本屋が書いて貼る王都の壁新聞だという。北の国境、穀物の値、御前試合の日取り。セオは職業柄、内容より先に字を見た。速いが、荒い。この速さで週二度なら、書き手は三人。癖からすると、うち一人は左利きだ。
読み終えて、我に返った。こんな街で目を全部開けていたら、一日で頭が擦り切れる。
「顔色が悪いな」
「……ここの人は、よくこれで暮らせますね」
「誰も読んでないからだ」
ヴァンの返事は端的で、そして多分、正確だった。
大路の先が騒がしくなった。人垣ができて、歓声が波になって近づいてくる。王家の馬車列が通るのだという。セオの位置からは、人の頭と振られる小旗しか見えなかった。歓声だけが通り過ぎ、白い馬の尻尾が一瞬だけ見えて、それきりだった。
「見えたか」
「尻尾が」
「上出来だ。王族なんてのは、大抵尻尾しか見えん」
* * *
学院は、王都の奥の丘の上にあった。
三重の壁のいちばん内側、王宮を望む高台に、石造りの校舎が塔ごと並んでいる。坂道は制服の学生で埋まり、門前では門番が持ち込みの武具をひとつずつ検めていた。
ヴァンの顔つきが、坂の途中で変わった。よれた外套は同じでも、歩き方から旅の男が抜けて、教官の輪郭が入る。すれ違う学生が次々に頭を下げ、ヴァンはそのたび面倒そうに手を振った。サボりの名人、という自己紹介は、少なくとも半分は嘘らしい。
正門は古い石の門柱が二本、扉は開け放たれている。
その門柱の前で、セオの足が止まった。
刻印がある。門柱の膝の高さから目の高さまで、古い文が幾筋も彫られている。建学の言葉だろう、大半は古語で、これは読める。歴代の学院長の名、これも読める。
——一番下の、一番古い一筋だけが、読めなかった。
文字であることは分かる。線の運びに文法がある。なのに、意味がどの棚にも収まらない。図鑑の何百枚のどれとも、系統ごと違う。強いて言うなら——ミルベルの礼拝堂で読めなかった、何かに似ている気がした。気がするだけで、思い出の方も輪郭が霞んでいる。
「どうした」
「この一番下の刻印、なんて読むんですか」
「読めん」とヴァンは即答した。「教官の誰もな。建学より古い石をそのまま使ってるだけだと。——行くぞ」
ヴァンは先に門をくぐった。
セオはもう一度だけ、読めない一筋を目でなぞった。なぞった線は、いつもの癖で頭の図鑑に写った。意味の欄だけが、白いまま。




