第6話 写した文字は
店に戻ると、父は写字台の前にいた。
学院、特待生、王都。ヴァンの話をそのまま伝えるあいだ、父は手を止めなかった。飾り文字の金泥が、窓の光でときどき鈍く光った。
「……で、おまえはどうしたい」
「分からない。けど」
けど、の先を探して、セオは店の中を見回した。インクの棚。積まれた反故。膠の鍋。初代の看板の下書きは額に入って壁に掛かり、二代目が工夫した折り畳みの筆架は、いまも旅の写本屋の定番として州都で売れている。三代目の几帳面な蔵書目録。四代目の——父の、金泥の飾り文字。
字の匂いの染みた壁。ここは嫌いじゃない。この仕事も嫌いじゃない。それでも。
「このままここにいたら、俺はたぶん、読めることを謝りながら生きていく」
父の筆が、初めて止まった。
長い沈黙のあとで、父は筆を置き、隣の写字台を顎で示した。座れ、の意味だ。セオが腰を下ろすと、父は台帳の下巻を自分の側へ引き寄せた。
「写本屋の流儀を言っておく。一言一句、違えず写す。それだけだ」
「知ってる」
「最後まで聞け。——違えず写し続けた者にだけ、いつか原本の癖が見えてくる。書き損じも、誤魔化しも、書いた人間の疲れもだ。うちの看板の字を見たか。初代はな、領主家の年代記を写していて、原本の誤りを三つ見つけた。当主の名の一字と、日付がふたつ。書いた本人の孫より、写した他人の方が、その本を読めていたわけだ」
それが、この町でアトリー写本堂だけが領主館に出入りを許されている理由だという。初めて聞く話だった。
「……その話、なんで今まで」
「自慢は字を曇らせる」
父はそれだけ言って、また少し黙り、それから思い出したというより、順番を待っていた話を出すように続けた。
「あの教官は、昨日この店に来た。おまえに声を掛ける前に、先に俺へ断りに来た。……順番を知ってる男だ」
それで父の腹はとうに決まっていたのだと、ようやく分かった。
「行くなら、その目は写本屋の目だ。学院とやらで何を写すことになっても、流儀は変えるな」
父は台帳を開いて、続きの行に定規を当てた。
「下巻は、俺が写す」
それが、行け、という意味だった。
その夜、親子は遅くまで並んで机に向かった。父は台帳を、セオは学院へ持っていく図鑑の綴り直しを。会話はなかった。頁をめくる音と、筆の走る音がふたつ、拍子の違うまま重なって、それがこの家の会話だった。
綴り直した図鑑は三冊になった。一冊は持っていく。一冊は屋根裏の床下へ。最後の一冊を、セオは黙って父の写字台の引出しに入れた。父は見ていないふりをして、引出しを少しだけ深く押し込んだ。
* * *
翌日の昼、セオは町外れの丘に登った。
母の墓は、丘の栗の木の下にある。墓石の名前は父の字だ。彫りの手本にした紙が今も店の引出しにあって、几帳面な父の字が、そこだけ少し乱れている。
セオは膝をついて、名前の彫りを指でなぞった。
母のことは、匂いと、あとは字しか覚えていない。家計の帳面の隅に残っている、癖の強い、走るような字。数字の七に余計な横棒を引く癖があって、几帳面な父は、あれを直さずに全部残している。
筆の持ち方は母に習ったのだと、父は一度だけ言ったことがある。それが本当なら、この目の始まりも、半分は母の筆ということになる。
丘の上からは町が一望できた。市壁、水路、結界石の環、皮紙工房の焼け跡。生まれてから十五年ぶんの世界が、掌に載るほど小さい。
「……無紋でも生きられる場所を、探しに行くんじゃないんだ」
声に出して、初めて自分でも輪郭が掴めた。
「この目のまま生きられる場所を、選びに行く」
栗の若葉が、頭の上でひとしきり鳴った。返事の代わりというには、少し賑やかすぎた。
* * *
出立までの二日は、荷造りよりも挨拶で暮れた。
と言っても、並んで見送られるような身分ではない。挨拶は向こうから、ばらばらに、それぞれの流儀でやって来た。
詰所の前を通ったとき、ガイは書き付けの山から顔を上げて、一言だけ言った。
「あのとき、信じてやらんで悪かった」
敬礼でも謝罪の口上でもない、言い訳も飾りもない言い方だった。セオも一行で返した。
「見回りを増やしてくれたのは、隊長です」
あれがなければ、初動はもっと遅れていた。嘘ではない。ガイは何か言いかけて、結局「達者でな」とだけ言って書き付けに戻った。
パン屋の前では、おかみが店先の掃除をしていた。目は合わなかった。合わないまま、セオが通り過ぎる寸前に、焼きたてのパンがひとつ、荷袋の上にぽんと載った。
振り向いたときには、もう店の奥に背中があった。礼は言いそびれた。言わないほうがいいのだと思う。
金物屋と粉屋は、店先の立ち話をセオが通る三歩手前でやめた。三歩過ぎたところで再開した。話の中身は聞かなくても分かる。良くも悪くも、町というのはそういう風にできている。
水場の脇には、帽子の子の待ち伏せがあった。
「なあ、またあの火、見せて」
「あれは借り物でな。持ち主に返した」
「ふうん。……じゃあ、今度は自分のを見せてよ」
自分の。その言い方に悪気はひとかけらもなくて、だから一番深く刺さった。セオは帽子のつばを軽く押し下げてやった。
「気が向いたらな」
「王都って、遠い?」
「歩いて十日だと」
「じゃあ走れば五日だ」
大した算数だった。訂正はしないでおいた。
* * *
出立の朝は、よく晴れた。
父は店の戸口までしか出てこなかった。見送りの言葉の代わりに、布に包んだ細長いものを押し付けてくる。開けると、携帯用の筆記具一式だった。折り畳みの筆架、旅用の硬いインク、小さな帳面が三冊。どれも店の売り物より上等な作りで、つまり父の手製だった。
一冊目の帳面をめくると、見返しに父の字が一行だけあった。
——一言一句、違えず。
それだけ。署名もない。この家の餞別は、最後まで道具と字でできている。
「インクは切らすな」
「うん」
「体もだ」
それで終いだった。四代ぶんの字の匂いに一度だけ深く頭を下げて、セオは店を出た。
街道門への道すがら、森側の結界石の前を通った。石の周りには足場が組まれ、州都から来たという教会の補修班が、欠けた節を彫り直している。壊れる前に来てくれれば、と思う。思うだけにして、通り過ぎた。壊れてから直すのは、随分と早い人たちだった。
街道門の前で、ヴァンが欠伸をしながら待っていた。昨日と同じよれた外套で、荷物は嘘みたいに小さい。
「済んだか」
「はい」
「よし」
ヴァンは歩き出して、三歩目で言った。
「王都まで十日。歩きながら最初の講義だ。——お前、剣は握れるのか?」
門を出て振り返ると、市壁の向こうに丘の栗の木が小さく見えた。セオは荷袋を背負い直して、前を向いた。
十五年ぶんの世界が、一歩ごとに後ろへ流れていった。




