第5話 紋章のない男
——女神の御名において。
——州都の座へ、ミルベルの町司祭コルムが申し上げます。五年前の春、当町の授紋の儀にて、聖油の一切乗らぬ子が、一名ございました。
* * *
領主館の客間に通されるのは、生まれて初めてだった。
いつもの通用口ではなく、正面の扉から。案内に立った家令は廊下の途中で一度だけ足を止め、妙な間を置いてから「……昨日は、ご苦労だった」と言った。銭を高いところから落とす人の、それが精一杯の言い直しらしかった。
寝台のロランは、上体を起こすことをまだ医者に禁じられていた。それでも顔色は死人の側から生きている側へ戻っていて、セオを見ると、包帯の上から脇腹を軽く叩いてみせた。
「開いた口は、ふさがったとさ。……来たな、坊主」
「お加減はいかがですか」
「悪い。だが借りた命の利息くらいは払える程度だ」
ロランは寝台の上で、できる限りの角度まで頭を下げた。騎士が写本屋の息子に下げる頭ではなかった。セオが慌てるより先に、騎士は顔を上げて笑った。
「借りた命だ。名を覚えておく。セオ・アトリー」
それから、自分の前腕を撫でた。包帯の下の、あの紋章のあたり。
「で——どうだった、俺の字は」
一瞬、意味を取り損ねた。咎める声を待っていたからだ。無紋のくせに、騎士の紋を勝手に写した。教会に知れたら何と言われるか、昨日から考えなかったわけではない。
「……三画目に、癖があります。跳ねが浅い。多分、疲れると火が右に逸れる」
「はっ」とロランは短く笑い、それから真顔になった。「当たりだ。教官にも言われた。おっかない目だな、お前」
おっかない、の言い方に棘はなかった。実戦の人間は、使えるものの値段を知っている。
「王都に戻ったら、この借りは俺の名前ごと覚えてもらう。困ったら騎士団でロラン・ヴェイルを訪ねろ」
それから騎士は、寝台の脇の卓を目で示した。討伐の届け出の写しが載っている。
「主獣の骸の話は聞いたか。あの骨鎧は武具の素材で、州都に持ち込めばいい値がつく。仕留めた者の獲物だ——つまり、お前のものだ」
「俺の?」
「規定ではな。無紋だろうと関係ない。獲物の権利に紋の数は書いてない」
規定、という言葉の心強さを、セオは昨日から二度目に噛みしめた。少し考えて、答えは決まった。
「なら、皮紙工房の親方に。油置き場を焼いたのは俺なので」
「はっ。焼け太りだな、あの親方」
ロランは笑い、笑った拍子に脇腹を押さえて呻いた。医者が飛んで来て、面会はそこで打ち切りになった。
廊下へ出る間際、背中に声が届いた。
「お前さんの行き先は、もう決まってるような気もするがな」
* * *
町を歩くと、視線の質が変わっていた。
昨日までの視線は、上から落ちてくるものだった。今日のは違う。横合いから刺さって、目が合う前に逃げる。恐れと好奇が半々の、落ち着きの悪い視線だ。
パン屋の前を通ると、店先にいたおかみが、セオに気付いて奥へ引っ込んだ。戸板の木札はもう外されている。代わりに何を掛ける気なのかは、知らない。
皮紙工房の前では、親方が焼けた壺の数を数えていた。セオに気付くと、太い眉を吊り上げてから、骨鎧の件をもう聞いたらしく、結局笑った。
「油代は獣の骨で釣りが来るとよ。……ったく、燃やすなら次は空の壺にしろ」
次、があるような言い方だった。ないことを祈っていてくれる言い方でもあった。
詰所の前では、あの衛兵見習いとすれ違った。見習いは周りを気にして、それでも足を止めて、短く頭を下げた。昨日、袖を引かれて口を閉じた側の人間が、今日は誰にも引かれずに礼をした。
通りの向こうでは帽子の子が手を振りかけて、母親に腕ごと引き下ろされた。それでも子供は、引かれながらもう一度だけ振った。
二度目のぶんだけ、昨日より上等だと思うことにする。
* * *
練兵場の隅に、あの外套の男は立っていた。
手には木剣が二本。一本を無造作に投げて寄越す。
「ヴァン・オルロー。王立紋章騎士学院で教官をやってる。……一応な」
「一応?」
「サボりの名人という意味だ。構えろ」
それが挨拶の全部だった。
最初の打ち込みを、セオは見もしなかった振りの途中で木剣ごと弾き飛ばされた。二本目は拾う前に足を払われた。三本目は、構えた形のまま、いつの間にか喉元に切っ先が触れていた。
読めない。
動きが速いのではない。読む場所がないのだ。紋章の起こしも、魔力の膨らみも、この男には何もない。五年間、人を見るときはまず紋を探してきた。その手順の一行目から、この男には通じない。
「どうした。昨日の坊主はもっと粘ったぞ」
「……昨日のは、相手の字が読めましたから」
「だろうな」
四度目は、少しだけ粘った。
読めないなら、読まなければいい。木剣の先ではなく男の爪先だけを見て、踏み込みの逆へ半歩逃げる。狙い澄ました一撃が、初めて空を切った。
「ほう」
その声と同時に世界が回って、五度目を数える前に、セオは組み伏せられて頬で土を噛んだ。逃げた半歩ごと読まれていた。それでも押さえ込む男の力が、さっきまでより少しだけ丁寧になった気がした。押さえ込まれた至近で——見えた。
はだけた襟の奥。鎖骨の下から胸へかけて、皮膚の色が違う帯が走っている。古い火傷に似て、火傷ではない。文字の並んでいた場所を、上から黒く塗り潰したような——頁ごと墨で消された、写本の検閲の痕に似ていた。
読めない。読めないが、「読めなくされた」ことだけは読める。
ヴァンはセオの視線に気付いて、襟を直した。何も言わなかった。セオも何も聞かなかった。聞いてはいけない種類の頁が、人には綴じられている。
「立て。……その目だ」
男は木剣を担いで、練兵場の縁石に腰を下ろした。
* * *
「王立紋章騎士学院。王都の、騎士と紋章使いの学び舎だ。特待生の枠がある。俺の推薦で、お前を審査に掛けられる」
前置きなしに、ヴァンはそう言った。
「言っておくが、甘い話じゃない。学院はお前を歓迎しない。教官も生徒も、たぶん門番の犬もだ。無紋の特待生なんて前例はないし、前例のないものを貴族は塵より嫌う」
「……審査っていうのは、何をやるんですか」
「行けば分かる」
「受かったら、金は」
「特待生は学費なし、寮と飯つき、小遣いまで出る。王国もたまにはまともな銭の使い方をする」
「落ちたら?」
「歩いて帰れ」
三つ聞いて、返ってきたのは一つ半。この男の返事は、どうやらいつもこの縮尺らしい。
「……なら、どうして」
「昨日の手順を、百回同じにやれる奴は職人だ。うちで飼うべきなのは、そっちでな」
ヴァンは練兵場の土を、爪先でひと撫でした。
「それにな、坊主。お前は昨日、往来のど真ん中で紋章を使った。町の連中は忘れん。教会も——忘れん」
教会、の一語だけ、他より半音低かった。
「学院はお前を歓迎しない。だが、外にいるよりは——たぶん、安全だ」
安全。その言葉の周りにだけ、妙な余白があった。読めない余白だ。この男の言葉には、書かれていない行間が多すぎる。
「返事は明日でいい。親父さんと話せ」
ヴァンは立ち上がり、思い出したように付け足した。
「ああ、それと。腕の写しはしばらく禁止だ。……体が出来てないうちに、書き癖がつくと直らん」
サボりの名人は、そう言って足音もなく練兵場を出て行った。
* * *
その夜、町の礼拝堂には遅くまで灯りが点いていた。
コルム司祭は文机に向かい、短い手紙を書き終えたところだった。読み返し、一箇所だけ言葉を直し、丁寧に折る。急いで書いたものではない。五年前から書き出しだけは決まっていた手紙を、ようやく本文まで書いた——そういう手つきだった。
封筒の表書きは、州都の大聖堂気付。
蝋燭を傾け、緋色の蝋を垂らす。祭壇の星章の影が、文机の上で微かに揺れた。
星と天秤の印章が、柔らかい蝋の上に沈んで、固まった。




