第4話 写映(トレース)
主獣は、すぐには来なかった。
火傷の煙る左肩をこちらへ向けない立ち回りで、半円を描いて間合いを詰めてくる。焦げた毛の匂いが薄明の通りに流れた。賢い獣は火を覚える。火を持つ者から、目を離さない。
セオは樫の棒を握り直した。効かないことは知っている。それでも構えの形をしているあいだは、獣の目がこちらを測り続ける。測らせている時間のぶんだけ、背中の列が遠くへ逃げる。
その目が、ふいに逸れた。
見ているのはセオではない。堰板の手前、腰の抜けた帽子の子。群れを使う獣は、獲物も選ぶ。一番弱いところから、列を崩す気だ。
間に合う脚はない。間に合う武器もない。
あるのは——
セオは、倒れた騎士の傍らに膝をついた。
ロランの前腕で火矢の紋章が明滅していた。
消えかけの文字。だが読める。起動句は二度聞いた。構文は頭に入っている。問題は、それを書く紙が自分の腕だということだけだ。
「に……げろ、……坊主」
掠れた声には応えなかった。応える息が惜しい。代わりに、騎士の籠手へ目で断りを入れた。借ります。あんたの字を、一枚だけ。
セオは右の袖をまくった。魔力を指先に集める。図鑑に写した何百枚と同じ手順で。ただし今度は紙ではなく、皮膚の上に。
一画目。
焼けた針で引かれたような痛みが走った。歯を食いしばる。二画、三画。腕の内側で何かの灼ける匂いがする。それでも手順は狂わせない。写本屋は一字も違えない。
視界の端で、主獣の足が石畳を蹴った。
最後の一画が閉じた。腕の上で、文字が光る。
「——火矢よ、征け」
掌の先で炎が弾け、薄明を裂いて飛んだ。狙いは大きく逸れ、倉の壁で散る——それでも、跳びかかる寸前の獣の鼻先で、壁は爆ぜた。
主獣が跳ねて退がった。子供から、火を持つ者へ。値踏みの目が、作り直される。
外した。息が上がる。腕が痛い。それでも緩みそうになる口を引き結んだ。
飛んだ。俺の腕から、本物が。
外れたのは震えのせいだ、と頭の隅が検分を済ませている。線は正しかった。構えが浅かった。次は——次があるなら、両腕で据える。
視界の端で、衛兵見習いが帽子の子を抱え上げて堰板の向こうへ消えた。それでいい。これで通りに残る餌は、俺ひとりだ。
地響き。主獣が瓦礫を踏み越えてくる。左肩の毛皮の下、古い傷の縫い目が呼吸に合わせて引き攣れているのが見えた。
二射目の余裕はない。写しの光はもう薄れ始めている。
なら、当てられる場所まで引きずり込むだけだ。
セオは背を向けて走った。皮紙工房の、油の匂いのする方へ。
* * *
水路沿いの道は一本きりで、曲がりが三つある。
選んだのはそのためだ。まっすぐの追いかけっこでは勝てない。だが鎧鬣の骨の板は重い。曲がりのたびに爪が石で滑って、半歩ぶんの隙間が生まれる。半歩を三度。それで工房まで保つ——頭の図面の上では。
一つ目の曲がり。背後で骨の板が壁を擦る音がした。
二つ目。吐く息が焼ける。腕の上で、借り物の文字が細くなっていく。
走りながら頭の棚を下ろす。町割図で写した工房の庭。壺の列は南の壁沿いに十二、床の勾配は水路向き。使えるものを並べ、順番を付ける。恐怖に場所を貸すな。頭は手順で埋めておけ。
保持がどれだけ続くのか、数えていなかった。数える余裕がなかった。三つ目の曲がりを切ったところで——腕の光が、ふつりと消えた。
火が、消えた。
うなじの毛が立つ。振り向かない。振り向く半歩が、そのまま牙との距離になる。
工房の柵が見えた。開けっ放しの木戸、晒し桶の列、その奥に並ぶ油の壺。
セオは壺の陰に転がり込んで、右腕をまくり直した。
二度目。
分かっていても、悲鳴を噛み殺すのに奥歯が要った。同じ画を、同じ順で。だが線が揺れる。魔力の残りが薄いことが、引いている指から分かる。書き上がった二射目の文字は、自分の目にも歪んで見えた。
腕の内側では一度目の線がまだ熱を持っていて、その上へ重ねる二度目は質の悪い焼き印と変わらない。汗が目に入る。壺の陰で自分の腕を書き物机にして、それでも指だけは止めなかった。
それでいい。歪んだ火でも、油は選ばない。
木戸の向こうで、足音が止まった。鼻が鳴る。匂いを読んでいる。罠を書いたこちらの手を、獣は獣の文字で読みに来ている。
セオは樫の棒を壺の腹に当て、体重ごと押し倒した。
一つ、二つ。土器の割れる音がして、鞣しの油が石敷きに黒く広がっていく。足元から木戸までは緩い下りだ。それも知っている。この床は雨の日、油が水路へ流れるように切ってある。
木戸が、弾け飛んだ。
骨の鎧が突っ込んでくる。一歩目で油を踏み、重い体がわずかに泳いだ。泳いだ足が晒し桶を蹴り砕いて、石灰の白い粉が舞う。それでも獣は止まらない。止まらないことも、計算のうちだ。
「火矢よ、征け」
歪んだ火矢を、獣ではなく足元の黒い広がりへ落とす。
音より先に、熱が来た。
油の面が一息に燃え上がり、爆ぜた炎が獣を包む。骨の板の隙間で毛が燃え、主獣が吼えた。吼えて、威嚇に鬣の板を大きく開いた——開いた。
左肩。古い槍傷の縫い目と、今朝の火傷。板の欠けたその一点が、炎の明かりの中でよく見えた。
傷は読める。どこが浅くてどこが深いか、皮の下の文字は嘘をつかない。
残った魔力を全部、右腕の歪んだ文字へ流し込む。
「火矢よ——征けッ!!」
至近、一点。
火の矢は炎を割って飛び、開いた鎧の内側、縫い目の中心へ吸い込まれた。
主獣の体が大きくのけぞり、燃える油の上へ横ざまに倒れる。二度、脚が空を掻いて、それきり動かなくなった。
炎の音だけが残った。骨の板の爆ぜる音が、間遠になっていく。セオは壺の陰から動けないまま、それをずっと聞いていた。倒した、という言葉が体に届くまで、ずいぶんかかった。
腕の文字が、細って、沈んだ。
消えたのではない——皮膚の下に、字の幅のままの熱が薄く残っている。膝が石を打つ。痛みより先に、体が空だと分かった。インク壺を最後の一滴まで振ったあとの、あの軽さだ。
それでも倒れなかったのは、意地というより、倒れ方を知らなかったからだと思う。
* * *
火は長くは保たなかった。油の広がりは水路への切れ込みで途切れ、燃え残りは駆けつけた男たちが桶の水で叩き消した。
通りの方から、戸板に乗せられたロランが運ばれていくのが柵越しに見えた。生きている。籠手の指が動くのが、遠目にも分かった。
気付けば、工房の柵の外に人垣ができている。
衛兵見習い。鞣しの職人。避難帰りの女たち。人垣の後ろの方には、パン屋のおかみの丸い背中もあった。
誰も、何も言わなかった。
歓声はない。労いもない。人垣とセオのあいだには燃え残りの煙より濃いものが一枚張っていて、老婆がひとり、胸の前で小さく聖印を切った。
見習いの衛兵が何か言いかけて、隣の職人に袖を引かれて口を閉じる。助けられた礼と得体の知れないものへの怯えが、同じ顔の上で場所を取り合っていた。
——無紋が、紋章を使った。
声にならない声が、それでも読める。読めてしまう。唇の形、引いた爪先、合わない目線。五年間読まされ続けてきた種類の文章が、今朝は町ぶんの厚さで積んである。
焼けた獣の匂いの中で、セオは立っていた。本当は座り込みたかった。けれど今ここで崩れたら、この人垣は俺を「哀れなもの」の棚に戻して安心する。それだけは、腕の火脹れより我慢がならない。
——と。
音がひとつ、鳴った。
手のひらの音だ。ひとつ、またひとつ。人垣の後ろ、街道門の方から。
人垣が割れる。外套の男が、拍手をしながら歩いてくる。履き潰した長靴、泥の跳ねた裾、無精髭。大きな体のくせに、足音がしない。
拍手は、嘲りの速さではなかった。納品の枚数を検めるときの、一枚、また一枚の速さだった。
男は焼け跡と、倒れた獣と、セオの腕の火脹れとを順に眺め、それから初めて、セオの目を見た。
「——今の手順、最初からもう一度説明できるか?」




