第3話 牙は柵の内から
悲鳴で目が覚めた。
一拍おいて、角笛。二度、三度——鳴りやまない。様子見ではない。襲撃の符牒だ。
窓に取りついて森側を見た。屋根の切れ間に数えられる淡い光——十二のうち、森側のひとつが、無い。
昨夜までは点っていた、あの一基だ。
セオは寝間着の上に上着だけ引っかけて梯子を滑り降りた。店では父がもう灯りを点けて、雨戸の閂に手をかけている。
「森側だ」と父は窓の外へ顎をやった。「悲鳴が、中から聞こえる」
中から。その言葉の意味を、頭より先に胃が理解した。石の環の内側で、人が襲われている。
「父さん、水路側の裏道なら広場まで通れる。粉屋の倉の脇から堰板を渡れば、大通りを使わずに済む」
「分かった。並びの年寄りはそっちへ逃がす」
父は壁の鉤からランプを外し、ほんの一瞬だけ迷ってから、セオの肩に手を置いた。
「おまえは森側の連中を裏へ回せ。……深追いはするな。読むだけにしておけ」
読むだけ。この父は、息子の目の使い道を誰より正しく知っている。
通りへ出ると、夜明け前の闇のあちこちから悲鳴と犬の声が上がった。遅れて、礼拝堂の鐘が乱れ打ちに鳴り始める。避難の合図。行き先は広場と、石造りの礼拝堂。町がその手順を使うのは、セオの知る限り初めてのことだ。
* * *
森側の通りは、逃げる者と家族を迎えに走る者の流れがぶつかって詰まりかけていた。
大通りは駄目だ。市の後片付けが終わっておらず、露店の骨組みと空き箱が道の半分を塞いでいる。あそこに人が雪崩れ込めば、転んだ者から折り重なる。
「こっちだ! 水路沿いへ!」
セオは声を張った。写本屋は町の図面も写す。去年、領主館の改修で町割図を三枚。どこの路地が抜けられて、どこが袋小路か、線の一本まで頭に入っている。
「粉屋の倉の裏、堰板を渡って広場へ! 大通りは物で塞がってる、使うな!」
角で若い衛兵見習いが「大通りへ!」と叫びかけて、セオと怒鳴り合いになった。手順ではそうなっている、と見習いは言う。手順の道は今夜に限って物置だ、とセオは返す。三呼吸ぶんの押し問答の末、見習いは自分の目で大通りの口を覗き、それから何も言わずに誘導の向きを変えた。
誰も、セオの顔なんか見ていなかった。見ていないから、従った。声の中身だけが通る夜が、この町に来るとは思わなかった。
パン屋のおかみが、子供をふたり抱きかかえて流れてきた。目が合う。おかみは何か言いかけて、言わないまま、セオの示す路地へ折れた。今夜は、それでいい。
布団袋を引きずる男には捨てさせた。袋小路へ逃げ込みかけた金物屋の女房は、襟を掴んで引き戻した。荷と足の速さは両立しない。行き止まりと命も、両立しない。
やがて路地の流れが、ようやく一方通行になった。
走りながら、崩れた露店の骨組みから樫の棒を一本引き抜いた。気休めでも、両手が空っぽよりはいい。
悲鳴が近くなった。
通りの奥、投げ捨てられた松明の火の中に、それはいた。
狼——に、似ている。だがひと回り大きく、首から背へかけて骨の板が鬣のように重なって、火明かりを鈍く照り返した。〈鎧鬣〉。爺さまたちが冬の炉端で語る、森の眷属。
それが二頭、石の環の内側を我が物顔で歩き、やがて衛兵の呼子の鳴る方へ、揃って首を向けた。
物陰に年寄りをふたり押し込んで、息を殺す。骨の板の軋む音が、壁一枚向こうをゆっくり過ぎていく。炉端の語り話が、生きて歩いている。
過ぎた。吐いた息が、指先まで震えた。
* * *
「引けっ、引けっ! 盾を落とすな!」
ガイの声だ。広小路の入り口で衛兵が四人、長柄と盾で壁を作っている。壁と言っても薄い。鎧鬣が一頭ぶつかるたび、四人まとめて半歩ずつ削られていく。
ガイは盾を持たず、長柄を横に構えて怒鳴り続けている。下がる衛兵を蹴り戻し、自分は半歩も引かない。字は苦手でも、こういう文法の男だ。
三頭目が横の路地から加わって、壁の腰が浮いた。もう保たない。
壁の後ろには避難の列がまだ続いている。破られれば、列まで一息だ。
セオは物陰に張りついた。手の中は樫の棒が一本きり。足は動く。目も動く。今のところ、それだけだ。
——蹄の音。
いや、蹄じゃない。長靴だ。人がひとり、通りの真ん中を駆けてくる。
「王国騎士ロラン・ヴェイル、助太刀する!」
旅塵まみれの甲冑が、衛兵の壁を飛び越えた。
「——剛力よ、宿れ」
短い句だった。籠手の紋章が白く起こり、光が腕を駆け上がる。着地ざまに振られた剣の腹が、先頭の鎧鬣を横なぎに吹き飛ばした。骨の鬣が板ごと割れる音がして、獣が土壁にめり込む。
一撃。たった一撃だ。
残る二頭が左右へ割れる。騎士は退がらず、半歩踏み込んで右の一頭の顎を柄頭で跳ね上げた。教本の手本のように正確——ではない。教本より、半拍ずつ速い。
セオの目は、剣より紋章を追っていた。起こしの句。光の走り順。二画目で膨らむ魔力の癖。読むだけにしておけ、と言われた——読むだけなら、いくらでもできる。目が勝手に写していく。
指が疼いた。紙が欲しい。この場で綴りに取りたいほど、あの紋は綺麗な字をしている。
左の一頭が跳んだ。ロランは剣を返す間を捨てて、左手を突き出す。
「火矢よ、征け!」
掌の前で火が束ねられ、矢のかたちに絞られて放たれた。火矢は宙の獣の胸を打って着地を崩し、そのまま通りの外へ追い立てる。
……そうか。束ねてから、絞るのか。
遠目ばかりで写し損ねてきた紋章の、欠けていた節が埋まっていく。夜明け前の修羅場で、セオの中の何かが場違いなほど静かに頷いていた。
「壁、二列に組み直せ! 通りを窄めろ、一頭ずつ通せば俺が受ける!」
ロランの号令で衛兵の壁が立ち直り、避難の列が最後の詰まりを抜けていく。騎士がひとり増えただけで、通りの呼吸がまるごと変わった。
潮目が変わったのは、そのときだ。
広小路の詰まりが緩み、避難の列が流れ出す。衛兵の壁が息を吹き返す。ロランは追い打ちに、通りの奥の闇へ向けてもう一度句を唱えた。
「火矢よ、征け!」
闇の中で火が何かに当たり、弾けた。
一拍おいて、低い唸り。炎の名残に照らされて、それが出てくる。
群れの倍はある図体だった。骨の鬣は古傷だらけで、いま受けたばかりの火傷が左の肩で煙を上げている。
主獣。群れを従える側の目が、通りをゆっくりと舐めた。
「囲め! 大物だ!」とガイが吠える。
だが主獣は、壁には突っ込まなかった。横の路地へ、すっと消えた。
——回り込む気だ。
誰よりも先に、セオには分かった。あの目は数えていた。壁の人数と、路地の口と、避難の列の尻尾を。獣のくせに、こいつは町を読みながら歩いている。
「隊長! 裏へ回られる! 水路側の路地です!」
言い終わるより早く、悲鳴の方角が変わった。
列の最後尾。堰板の手前で、流れから零れた小さな影がひとつ、立ちすくんでいる。
帽子。あの、水場の帽子の子だ。
路地の口から、鎧の影が音もなく現れる。
最初に届いたのはロランだった。剣を捨てる勢いで駆け込み、子供ごと転がって牙をかわし——かわし切れなかった。爪の一薙ぎが脇腹の継ぎ目を裂き、騎士の体が石畳を転がる。
「ヴェイル殿!」
ガイが折れんばかりに長柄を叩き込んだ。柄は実際に半ばから折れ、返しの一撃で隊長の体が壁まで飛ばされる。落ちた腕が、変な向きに曲がっていた。
通りから、音が引いた。
帽子の子は腰が抜けて、堰板の手前から動けない。ロランはうつ伏せのまま指先だけが動いて、籠手の紋章が弱く、規則正しく明滅している。起こしの句を唱えようとして、血の混じった咳だけが零れた。
立っているのは、セオだけだった。
下がれば列に追いつかれる。左は水路、右は塞がった大通り。頭の図面に逃げ道の線を引いて、引いたそばから消していく。どれもこれも、背中の誰かを置いていく線だ。
主獣の足が一歩、石畳を踏んだ。爪先が石を掻く音まで聞こえる。堰板の手前で、帽子の子が小さくしゃくり上げた。
樫の棒が一本。無紋の写本屋。それでも背中の後ろには、逃げ足の遅い年寄りと、腰の抜けた子供が残っている。
朝焼けの最初の赤が、通りの石畳を薄く染め始める。
主獣が、こちらを向く。
読める、とはとても言えない目だった。獣に文字はない。あるのは、値踏みだけだ。
煙の上がる左肩をわずかに浮かせた立ち方で、群れを使う目が、まっすぐにセオを見た。




