第2話 欠けた結界
翌朝のミルベルは、いつもより口数が多かった。
昨夜の角笛の正体は、街道で荷馬車が襲われたという報せだった。王都へ皮紙を運ぶ馬車が町を出てすぐの松場で襲われ、馬が一頭やられた。御者は荷を捨てて逃げ、朝方に衛兵へ駆け込んだ——狼に似ていたが、狼よりずっと大きかった、と。
店を開ける前の掃き掃除のあいだに、セオは通りを行く声からそれだけを拾った。
「物騒だねえ」と向かいの金物屋が言う。
「なに、町ん中は結界石があるからさ」と粉屋が返す。「石の内側にゃ、魔獣は一歩も入れやしないんだから」
話はそれで終いになり、市の後片付けの相談に移っていった。角笛は一度きり。一度なら様子見、続けて鳴れば襲撃。町の耳はそういうふうにできていて、昨夜のあれはもう様子見の側に片付けられたらしかった。
実際、通りの空気は祭の名残のほうへ戻っている。水場では子供らが棒切れで魔獣ごっこを始めていて、襲われる役は一番の年長だった。
店の中では父が変わらず飾り文字を進めていた。セオは台帳の下巻を三枚写し、それから皮紙工房への使いを言いつかった。切らした皮紙の受け取りと、注文帳の届け。町外れまでの道のりだ。
戸口を出るとき、パン屋の前を通った。戸板の上に、あの木札が釘で打たれている。おかみは店の奥にいて、こちらを見なかった。
* * *
皮紙工房は町外れの水路沿いにある。門をくぐる前から、石灰と鞣しの油の匂いが、挨拶より先に届く。塀の内では獣皮を晒す桶が水路に沿って並び、灰汁の面に浮いた皮が職人の長い竿でゆっくり沈められては、また浮かんでくる。竿を操る手は世間話のあいだも止まらず、止まらないまま正確で、皮の厚みを目でなく竿の重みで数えているのが分かる。町の者はこの道で鼻に袖を当てるが、セオには紙の生まれる匂いで、袖はもう何年も上がったことがない。
「昨日の今日でよく来たな」と親方は笑い、それでも受け渡しは手早かった。荷馬車の件で、外仕事の者はみな早仕舞いを決めているらしい。
帰り道、セオは街道側へ少しだけ足を延ばした。
結界石は町をぐるりと囲んで十二基ある。大人の背丈ほどの石柱で、面には守護の紋が深く刻まれ、夜はほのかに光る。教会の管理物で、触れることは禁じられている。子供のころは、触ると手が腐ると脅されたものだ。脅しの効き目は今も残っていて、石の周りだけ、道の草が輪のかたちに踏まれず残っている。
その、森側の一基の前で足が止まった。
読める——読めて、しまう。
刻まれた文は長い。十二基でひとつの文章になる型で、この石はその節のひとつを受け持っている。だが風化で線が浅くなり、節の繋ぎがふたつ、飛んでいた。欠けた文を欠けたまま読めば、意味の背骨が変わってしまう。命じる言葉が、呟きに変わっている。
退がれ、と言うべきところで、この石は口ごもる。
セオは帳面を出して、欠けた箇所を写し取った。隣の石まで歩いて見比べる。そちらは無事だ。もう一基先も無事。欠けているのは森側のこの一基だけで——魔獣が出たのも、森側の街道だ。
昼下がりの街道には誰もいない。石に晒された文章の欠けを、読める者がひとりだけ読んでしまって、立ち尽くしている。
* * *
衛兵の詰所は、昨日の騒ぎの残りで忙しなかった。
隊長のガイは机の上の書き付けと格闘中だった。腕の太さで剣を語る型の男で、字はその倍ほど苦手ときている。セオの顔を見ると、助かった、という顔をした。
「おう、写本屋の。ちょうどいい、この報告書な……」
「隊長。その前に、見てほしいものがあります」
帳面を開いて、結界石の写しを見せた。森側の一基のこと。守護紋の彫りが浅くなり、節の繋ぎがふたつ飛んでいること。魔獣の出た方角と重なること。順を追って、できるだけ落ち着いて話したつもりだった。
ガイは黙って聞いた。聞き終えて、帳面とセオの顔を見比べ、それから困った顔で頭を掻いた。
「あれはな、教会の管理物だ。俺たちでも手は出せん。第一——」
言いかけて、やめた。やめてから、結局言った。悪意はなかったのだと思う。ただ確かめるだけの、平らな声だった。
「……お前が、紋章の何を知ってる?」
セオは帳面を閉じた。知っている、と言うための持ち札が、この世のどこにもない。読める、は証にならない。刻めない者の言葉は、この町では文字にならない声と同じだ。
「見回りは増やしてある。荷馬車の件もあるしな。心配なのは分かるが、写本屋は写本屋の仕事をしてろ」
それがこの人なりの精一杯の親切だと分かってしまうから、余計に始末が悪かった。
* * *
残る宛先は、ひとつしかない。
町の礼拝堂は広場の北にある。石造りの小さな聖堂で、扉の前まで来ると、隙間から香と聖油の匂いが流れてきた。
甘くて、少しだけ焦げたような匂い。
五年前と、同じ匂いだ。
* * *
十歳の春だった。
白い装束を着せられ、同じ年の子らと聖堂の床に並んだ。祭壇には聖油の鉢と女神アステルの星章。授紋の儀は町の一大事で、堂の後ろには親たちがぎっしりと詰めていた。
ひとりずつ名を呼ばれる。司祭が祝詞を唱え、聖油を額と腕に引く。油は温かい。祝詞が終わると、腕なり襟首なりに光が浮いて、細い線が肌の上を走り、紋章のかたちに結ばれていく。そのたび、堂のどこかで押し殺した歓声が上がった。
セオの番が来た。
油は温かかった。祝詞も、他の子と同じ長さだった。
何も、浮かばなかった。
司祭は祝詞を二度繰り返した。聖油をもう一度引いた。三度目の祝詞の途中で、油が腕を滑って落ちた。石の床に、油の粒の弾ける音がした。堂の中は、それが聞こえるほど静かだった。
コルム司祭の目を、覚えている。
最初は哀れみだった。それは分かる。子供にも分かる、見慣れた種類の目だ。けれど祝詞を打ち切る間際、その目が一度だけ、別のものに変わった。哀れみでも侮りでもない、もっと乾いた——帳簿を検めるときの家令の目に、いちばん近い。
あの目の意味は、五年経った今も読めないままだ。
帰り道、父は何も言わなかった。ただ肩に手を置いて、その手は家に着くまで一度も離れなかった。
* * *
扉を押すと、香の匂いが濃くなった。
コルム司祭は祭壇の燭台を磨いていた。振り向いてセオの顔を認めると、手は止めないまま、眉だけをわずかに寄せた。
「……珍しい顔だ」
「結界石のことで、お伝えしたいことがあります」
帳面は開かなかった。開く前に、言葉で通る道を探した。森側の一基の彫りが浅くなっていること。教会の目で、一度検めてもらえないかということ。写しを見てくれとは言わなかった。無紋の写した紋章など、この人の前に出さないほうがいい。それくらいの分別は、五年で身についている。
コルムは最後まで聞いた。聞き終えると燭台を置き、初めてまっすぐにセオを見た。
「女神の御業に、欠けなどない」
静かな声だった。怒ってすら、いなかった。
「石が守るのではない。女神が守られるのだ。案ずることそれ自体が信心の欠けだと、そうは思わんかね。……アトリーの子よ。おまえが案ずるべきは石の彫りではなく、おのれの身の置きどころだ」
接ぎ穂はどこにもなく、セオは頭を下げて踵を返した。
扉を閉める間際、振り返った視界の隅で、司祭が胸元から小さな手帳を出して何かを書き付けているのが見えた。燭台磨きの途中で思い立つ書き物が、この世にどれだけあるだろう。
* * *
夕餉は市の残りの川魚で、塩が皮の下まで効いていて、身をほぐすたび、舌の先で川の匂いが小さく立った。
その席で、セオは父に全部を話した。
石の欠け。ガイの返事。司祭の返事。父は匙を置いて、最後まで口を挟まずに聞いた。この家では珍しく長い、セオひとりの持ち時間だった。
「……俺の見間違いなら、それでいいんだ。でも」
「見間違いじゃないんだろう」
父はそう言った。疑いも慰めもない、写しの検品と同じ声だった。合っているものは合っている。ただそれだけのことのように。
胸の詰まりがひとつ、それで抜けた。信じてもらえることがこんなに呼吸に効くとは、知らなかった。
「だが、教会の石は教会にしか直せん。彫りに手を入れれば、それこそ罪に問われる」
「うん」
「明日、親方衆には俺から話しておく。夜の戸締まりくらいは固くさせよう」
それが精一杯だった。この町で、写本屋の父子にできることの全部だった。
屋根裏に上がってから、セオは図鑑の綴りに今日の写しを清書した。欠けた節は欠けたかたちのまま、余白には日付と、隣の石は無事、と書き添える。直せない者にできるのは、正しく記録しておくことくらいだ。それでも、いつか誰かが読む日のために、字は丁寧に引いた。
寝る前にもう一度だけ、屋根裏の窓から森の方を見た。結界石の淡い光が、屋根の切れ間に飛び飛びで数えられる。森側の一基も、今夜はまだ点っている。
明日の朝、もう一度見に行こう。そう決めて、セオは灯りを消した。
* * *
夜半の街道には、誰もいなかった。
月が雲に入り、森の際がひとつづきの黒になる。虫の声が、途切れた。
十二の淡い光の輪のうち、森側の一基が——音もなく、消えた。
それを見ている者は、どこにもいなかった。




