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紋章なしの紋章師  作者: 西棟
第一部 学院編 第1章 無紋の少年
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第1話 白紙の写本屋

市の立つ日のミルベルは道の幅が半分になる。露店の呼び声と荷車の軋みと焼き菓子の匂いのあいだを、セオは写本の束を胸に抱えて歩いていく。納品先は市壁沿いの領主館。寄り道の理由はないが、近道の理由ならある。広場を突っ切れば角ふたつ分早い。


その広場の真ん中で行商人が声を張っていた。


「さあさ、女神アステルの加護入りだ。本物の紋章(シグナ)護符、今日だけ銀貨三枚! 魔獣避けに戸口へ一枚、旅のお守りに懐へ一枚だよ」


台の上には焼き印で模様を入れた木札が並んでいる。セオの足はその前で勝手に止まった。


読める——いや、読めないが正しい。木札の模様は紋章のようでいて文になっていない。三画目が逆さだから、魔力を流したところでどこにも流れ着かない。字の形だけ真似た、意味のない落書きだ。


買い手の列に見知った丸い背中があった。パン屋のおかみだ。銀貨を数える指が迷っては、また数え直している。銀貨三枚はパンが四十個。


「……やめとけって言ったら、怒ります?」


気付けば声をかけていた。おかみが振り返り、行商人も振り返る。その目がセオの顔を確かめてから、思い出したように口の端を上げた。商売人は町の顔ぶれくらい調べてくるものらしい。


「おいおい」と声が一段大きくなる。広場に聞かせるための声だ。「無紋(ブランク)の坊主が、女神様の加護にケチをつけるのかい」


笑い声はすぐに集まった。安い見世物だ。おかみは俯いたまま銀貨三枚を台に置いた。


セオは頭を下げて列を離れた。頬が熱い。慣れた熱さだった。それより抱えた写本を落とさないほうが大事だ。こっちは本物の、意味のある文字だから。


角をふたつ曲がって、それでも一度だけ振り返る。木札の偽紋が西日で光っていた。


あれが偽物だと知っているのは、この町でたぶん俺だけだ。


* * *


領主館は市壁の内で一番大きな屋敷だが、写本屋が入るのは裏路地の通用口と決まっている。呼び鈴を鳴らすと顔なじみの家令が現れて、包みを黙って受け取った。


検品は毎回長い。家令は台帳の写しを一頁ずつ原本と突き合わせ、数字の列を指の先でなぞっていく。写本の商いは疑われてからが本番だと父は言う。疑われ、検められ、一字の違いもないと知られて、それでようやく金になる。


「今日はやけに細かいですね」

「上巻は州都へ回る。恥は掻かせられん」


家令の指が最後の頁を離れるまで、セオは通用口の土間で半刻近く立っていた。館の奥からは食器の音と、階段を駆ける足音。屋敷というものは外から見るより、いつも忙しない。


「相違なし。次は下巻を」


布包みの原本と手間賃の銀貨が二枚。家令は銭を渡すとき、セオの掌に触れないよう少し高いところから落とした。悪気はないのだろう。この町の大人の半分は、無紋に触れると験が悪いと本気で信じている。残りの半分は信じていないが、わざわざ逆らうこともしない。


辞去の間際、中庭で領主家の騎士が稽古をしているのが見えた。打ち込みに合わせて籠手の上の紋章が淡く光る。起こしの句が短い型。三画目の跳ねが浅いのは刻んだ手の癖か、それとも使い手の魔力の癖か。


稽古相手の従士が打たれて転がり、中庭に笑い声が上がる。ああいう紋章の籠手ひとつで、写本の手間賃の何年分になるのだろう。


目が勝手に読んでいく。読んだところで何にもならないのに、これだけはやめられたためしがない。門番に睨まれる前に、セオは目を伏せて路地へ出た。


* * *


水場の広場では子供らが騒いでいた。


春の授紋を終えたばかりの年頃だ。十になったばかりの子の襟元で、真新しい民紋が誇らしげに覗いている。ひとりが襟を握って短く唱えると、掌の上に豆粒ほどの火が灯って歓声が上がった。種火の紋。竈と灯りの、暮らしの魔法だ。


「セオだ」


誰かが言って、歓声が半分の大きさになる。子供らはセオを知っている。触ると紋章が消える、と上の子に教わったのもいる。そんな訳はないのだが、訳のなさと噂の強さは別の話だ。


それでも帽子の子がひとりだけ、水場の縁から身を乗り出してきた。


「なあ、ほんとになんにも無いの? 見せて」

「なんにも無いのを見せるのは、難しいんだけどな」


袖をまくって腕を出してやる。


「……儀式、痛かった?」

「痛くはないさ。聖油があったかくて、それで終わりだ」

「ふうん」と帽子の子は言い、それから少しだけ声を落とした。「おれ、ちょっと怖かった」


十歳の告白に、セオは笑わないでおいた。帽子の子は真剣な顔でつるりとした肌を眺め、自分の襟元と何度も見比べて、それから友達に呼び戻されていった。水場の火はもう消えて、子供らは次の遊びに移っている。


* * *


アトリー写本堂は市場から路地を三本入った角にある。看板の字は初代の手で、百年近く雨ざらしでも今も読みやすい。


戸を引くとインクと膠と古い紙の匂いがした。父のジェラルドは窓際の写字台に向かったまま顔を上げず、おかえり、とだけ言う。手元では祈祷書の飾り文字が半分まで進んでいる。


「相違なしだって。下巻も、って」

「そうか」


父は原本の包みを検めて台の端に置き、代わりに折り畳んだ紙を寄越した。明日の仕事の割り振りだ。下巻の写し、セオ、と几帳面な字で書いてある。台帳の下巻は数字ばかりの退屈な仕事で、そのくせ一字の間違いも許されない。店の一番の若手に回す類のものではないはずだ。


「……市場のこと、聞いた?」

「聞いた」


それきりで、父は飾り文字の続きに戻る。


竈に火を入れ、二人分の皿を出す。背中越しに写字台の灯りが揺れている。あの背中が口を開くのは字が乱れたときだけで、今日も何も言われなかった。つまり今日の字は、乱れていなかったということだ。


夕餉は麦の粥と塩漬けの川魚で、会話は塩の壺を回すくらいのものだった。片付けを終えると、セオは店の写字台の端を借りて台帳の下巻を広げる。


数字の列は退屈で、退屈は嫌いではない。行の頭に定規を当て、原本の癖のある字をひとつずつ、癖のない字に置き換えていく。三枚写して、しくじりはなし。指先のインクを拭って原本を閉じたとき、父の写字台の灯りはまだ点いていた。


先に寝ろ、と背中が言う。声ではなく、頁をめくる音の調子で。


* * *


夜が更けてから、セオは屋根裏の自室に上がった。夏は焼けて冬は凍える部屋だが、梯子を上がってくるのは自分と、年に一度の煤払いの父だけだ。


寝台脇の床板を一枚外すと油紙の包みが出てくる。中身は紙の束だ。市場で、街道で、祭の人混みで、これまで盗み見てきた紋章を写し溜めた手製の図鑑——束は三つに分けてあり、ここに置くのは一番新しいひと綴りだけ。梁の上にひとつ、あとのひとつは店の外に。誰に見せるつもりもないものほど、置き場所には気を使う。


めくれば五年分が出てくる。始めたころの、線の震えている頁。州都から来た徴税官の、名前も知らない複雑な環。祭の日に遠目で追いかけて、半分で見失った誰かの紋。分からなかったところは分からないまま、余白に印をつけて残してある。


紙は店の反故を貰い、インクは自分の銭で買う。書き味の悪い安物だが、線が掠れるぶん手が丁寧になるから、これはこれで師匠のようなものだ。


ランプを寄せ、新しい紙を一枚出した。


まず昼の騎士の紋。記憶のとおりに、見た線をそのまま引いていく。起こしの句が短い型、三画目の跳ねは浅く。癖の見当は余白に小さく書き添える。


それから、あの護符だ。


こちらは別の綴りに描く。表紙に「偽」とだけ書いた薄い束で、出来の悪い偽物ばかり集めてある。逆さの三画目を写し、隣に正しい形を並べ、どこが噓かを線で結ぶ。写本屋は誤字を集める。父が本の誤りを帳面に付けるのと同じで、たぶんこれは習性だ。


おかみの買った一枚は、今ごろパン屋の戸口に釘で打たれているだろう。何も守らない木札でも、打たれた夜は少しよく眠れる。偽物の効能はそこまでで、値段はパン四十個ぶんだ。


逆さの三画目をなぞる線が、いつもより濃くなった。


描き終えて束の厚みを指で測ると、いつの間にか指二本分になっていた。


刻めない者に紋章の知識は要らないと、司祭も町の大人も言う。まったくそのとおりだと思う。それでも写さずにいられないのだから、しかたがない。


ランプの灯りの下、机の上にだけ、紙の紋章が何十と広がっている。


窓の外で羽音がした。


灯りを消して覗くと、月明かりの空を鳥の群れが横切っていく。一群れではない。二つ、三つ——森の方角から、次々と。鳥は夜に、群れて飛ばない。


遠くで衛兵の角笛が一度だけ鳴って、やんだ。


セオは窓枠に手をかけたまま耳を澄ませる。


二度目は、鳴らなかった。


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