第43話 二層の棚
準々決勝の一日目と二日目のあいだには、試合のない中日が挟まる。
その中日を、アリシアは待っていたらしかった。
「二層へ入るわ。付いてきなさい」
禁書庫。図書館の奥、鉄の格子の向こう。閲覧には司書長の立会いと、しかるべき身分の申請が要る。王女の研究と、その研究係——申請の書式は、共犯条約の三条目が初めて公式の紙になった瞬間でもあった。
司書長は、ウォレンという名の枯れた老人だった。
彼は申請書を検め、二人の顔を検め、それから分厚い入庫記録に日付と氏名を書き付けた。王女が相手でも手順をひとつも飛ばさない筆の運びに、司書という人種の背骨が見えた。
「二層の決まりを申し上げます。素手で頁に触れない。書見台から持ち出さない。写しは鉛筆のみ。——本を傷めたら、殿下でも出入り禁止です」
「結構よ。その決まりが、この棚を五百年守ってきたのだもの」
老人の眉が、ほんのわずかに緩んだ。本を大事にする者への態度だけは、身分と関係なく動くらしい。
「二層は書架二十列。三層は——」
ウォレンは、奥の暗がりの鉄格子を目で示した。
「王家と教会の合同封印。王女殿下でも、あそこから先は開きません」
二層に入ると、紙の匂いが変わった。
古い、重い、乾いた匂い。写本屋の鼻には、匂いだけで書物の年代が二百年は遡ったと分かる。書架のあいだの灯りは魔導灯で、火気は一切持ち込めない。燃えたら、二度と作れない紙の並びだった。
書架のあいだは、音の質も違った。
足音は棚に吸われ、頁の擦れる音だけが灯りの下に立つ。二十列の背表紙を目でなぞっていくと、ところどころ、綴りの高さの揃わない場所がある。抜かれて、詰められた棚の癖だ。写本屋の目は、本より先に本の抜け跡を数えてしまう。五百年守られた棚にも、抜けた歯はある。誰が抜いたのかは、書架は言わない。
その静けさは、嫌いではなかった。ただ静けさの底に、勘定の合わない何かがひとつ、横たわっている気がした。
* * *
アリシアの調査対象は、王家の記録の列にあった。
婚姻記録。出生記録。系譜の註解。彼女は迷いのない足取りで一冊を抜き、卓に開いた。
「祖母の代の、婚姻の記録。——ここから、教えて」
「教える?」
「あなたの目で、この綴りを読んで。中身ではなく、物としての本を」
写本屋の読み方をしろ、という意味だった。セオは頁をめくり、紙を検め、綴じを検め——手が、止まった。
「……この帳、直されてます」
「どこ」
「綴じ糸。紙も装丁も年代どおりの古さなのに、糸だけ新しい。それも売り物の麻糸じゃなく、書庫の補修用の蝋引き。一度ばらして、綴じ直してある」
頁を透かすと、さらに見えた。綴じ穴が、二重。元の穴と、わずかにずれた新しい穴。
折丁の印も検めた。写本は紙を折り重ねた束——折丁を綴じて作る。折丁の隅には職人が順番の印を振る決まりで、この帳の印は、祖母の代の前後だけ、振り直しの跡があった。
この綴りは一度解体され、頁を「入れ替えられて」から、元の顔で棚に戻されている。
差し替えられた頁がどれかまでは、紙からは読めない。読めないが、差し替えという行為そのものは、糸と穴が正直に喋っていた。
「五年前から、ずっと引っかかっていたの」
アリシアの声は、書庫の静けさに合わせて低かった。
「わたくしの血が『薄い』のはなぜか。七紋が飾りになるほどの薄まりが、系譜のどこで起きたのか。記録を遡ると——祖母の代だけ、妙に、綺麗なのよ。綺麗すぎる。あなたの言い方を借りるなら」
「……完璧すぎる文は、偽物」
「ええ。誰かが、何かを消した。消して、上から綺麗に書き直した」
彼女の五年間の問いは、七紋の嘘の維持ではなかった。嘘の、原因の方だった。自分の体に飾りを彫らせた「薄まり」の出どころを、この人はずっと一人で掘っている。
卓の上の古い帳は、静かに口を閉じたままだ。差し替えの主の名は、糸も穴も知らない。知っているとすれば——抜き取られた頁の、行き先だけだ。
* * *
帰り際、セオは別の棚の前で足を止めた。
二層の最奥。三層を仕切る鉄格子の、すぐ手前。
格子の錠は、ふたつ並んでいた。星と天秤の意匠の教会錠と、王冠の意匠の王家錠。造りからして、二つの鍵が同時に揃わなければ開かない仕掛けだ。王家と教会が、互いに互いを信用していない形が、錠前の設計にそのまま彫ってある。
格子の向こうの暗がりに、台座に並んだ書物の背が見えた。
読める——はずの、目が。
背表紙の文字が、読めなかった。
学院の正門。門柱の、一番古い一筋。王女の七枚目。そして今、格子の奥の背表紙の列。同じ感触の「読めない書体」が、封印区画の暗がりに、何十冊ぶんも並んでいる。
川の上流が、そこにあった。
歴史のどの教科書にもない頁が、鉄格子一枚の向こうに、埃を被って積まれている。
「アトリー?」
アリシアの声で、我に返った。格子から一歩下がり——下がった鼻先に、匂いが引っかかった。
紙の黴でも、埃でもない。
もっと鋭い、湿った匂い。写本屋が毎日嗅いで育った、間違えようのない匂いだった。
——インクだ。
それも、乾いていない。
五百年封じられた棚の奥で、誰かの文字が、まだ乾いていない。




