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紋章なしの紋章師  作者: 西棟
第一部 学院編 第1章 無紋の少年
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第42話 完璧な幻

前夜、対幻惑の布石を三つ考えて、三つとも捨てた。


幻惑そのものを写し返す案は、最初から数に入れない。あれは読めても、侯爵家の体でなければ立たない字だ。


音で探る策は、向こうが同期を仕上げていたら裏目に出る。読み比べで本物を探す策は、前回死にかけた土俵だ。目隠しの再演は論外。結局、帳面に残ったのは一行だけだった——現地で読む。それが通らなければ、負ける。


二回戦の白線に立つと、ルシアンは前置きなしに袖をまくった。


「幻よ、惑え」


開幕と同時に、世界が増えた。


五人のルシアン。前回と同じ——ではなかった。五人ぶんの足音が、砂を踏んで別々に鳴っている。五人ぶんの衣擦れ。五人ぶんの呼吸。剣気の薄い膜まで、五人分。


音と気配の同期。宿題は、確かに仕上がっていた。


セオは、目を閉じかけて——やめた。


閉じても、逃げ場がない。耳も皮膚も、五人ぶんの偽情報を拾ってしまう。前回の解は、初手から潰されている。


「目を閉じるかい?」と、五人が同時に言った。「どうぞ。今回の幻は、耳にも肌にも描いてある」


火の礫が、五方向から来た。


どれかが本物で、どれかが幻。皮膚の温度で選り分けようとして、選り分けの前に頬を掠めた。本物は、いつも答え合わせの後に来る。


試しに風斬を一枚写し、五人まとめて薙いでみた。四人が「避けた」。幻が、避ける芝居までする。反応で本物を炙る策も、同期の網の内側だった。腕環の窓がひとつ暗くなり、写しの燃費だけが正直に減っていく。


正攻法の棚は、これで空になった。


* * *


削られながら、セオは読み続けた。


読む——読みの物量で負けた前回と、同じ入り口へ。ただし今回は、量を読まない。質を読む。


五人のルシアンの紋章を、一枚ずつ、書き手の顔を探しながら。


一人目。完璧な幻惑紋。起こしの環、画の運び、教本の見本のような——見本の、ような。


二人目。完璧。


三人目。完璧。


……完璧、すぎる。


気付いたのは、演武の日の記憶のおかげだった。ヴォルクの規格の文字。誰の癖もない、誰のものでもない字。読み終えて書き手の顔が浮かばない、あの気味悪さと同じ匂いがする。


皮肉な話だった。帝国の鋼の文字が、王国の御前試合で、こちらの目に物差しを一本足していった。


本物の紋章の発動には、揺らぎがある。呼吸で線が細り、疲れで環が歪み、気負いで画が走る。生き物の書く文は、必ず乱れる。ミルベルの騎士も、レナードも、王女ですら。


幻は——幻だけは、乱れない。


使い手が「完璧な自分」を想像で描くから、想像の癖のなさが、そのまま写ってしまう。


五人のルシアンを、もう一度読む。


完璧。完璧。完璧。完璧——


——揺れた。


五人目の幻惑紋の、環の右下。疲労で線が細る、生き物の乱れ。九十日の研鑽と、二試合ぶんの消耗が、そこにだけ正直に書いてあった。


「あんたの幻は」


セオは、五人目へ真っ直ぐに踏み込んだ。


「——綺麗すぎる」


四人の完璧をすり抜け、乱れたひとりの懐へ。刃引きの剣が細剣を弾き、返しの柄打ちが決まった。


四人のルシアンが、砂に触れる前に光の粒へ解けていった。


* * *


「……完璧を描いた私の負けか」


白砂に座り込んだまま、ルシアンは長いこと自分の掌を眺めていた。


やがて立ち上がり、乱れのない礼をして、乱れのない声で言った。


「次は、下手な幻を描くとしよう」

「それ、たぶん一番難しい宿題ですよ」

「だろうね。だから、やり甲斐がある」


侯爵家の三男は手袋を締め直し、今度こそ晴れた顔で白線を出て行った。二敗して二度磨かれる男の背中は、初戦の日より大きく見えた。


観覧席の最前では、ノエルが拳を振り上げて何か叫び、その隣でミナが「うちの籠手は今日も無事」という顔で頷いていた。応援の形は人それぞれで、どちらも据わりがよかった。


観覧席の音も、変わっていた。


もう誰も「無紋のまぐれ」とは言わない。ざわめきの中身は、次はどう勝つのか、という一点に寄っていた。期待という名の圧は、嘲笑より重く、そして少しだけ、あたたかかった。


貴賓席では、国王が初めて動いた。


玉座の人影が、隣の侍従へ何かを短く問うたのだ。侍従が身を屈め、答え、王はそれきり口を閉じた。


遠すぎて、唇は読めなかった。


読めなくても、分かることがひとつだけあった。問いのあいだ、王の顔は——真っ直ぐに、白砂のセオへ向いていた。


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