第41話 丸裸の百席
一回戦の朝、観覧席の賭けの帳場では、初めて「無紋の勝ち」にまとまった銭が積まれたという。ミナが偵察してきた相場は、ほぼ五分。春からの半年で、世界の相場は確かに動いていた。
白砂に立った瞬間から、その動いたばかりの相場は早くも軋み始めた。
いつもと、勝手が違う。
ユーグ・ラモットは、袖をまくらなかった。
紋章を、見せない。構えも中段の教本型のまま、起動の気配を欠片も出さない。読もうにも、読む対象が白紙のままだった。
「君の目は強い」
開始の鐘のあと、ユーグは動かずに言った。
「強すぎて、皆が見せすぎた。ダリオ君は撃ちすぎ、ロデル君は幻を盛りすぎ、ギルフォード君は正面から全部見せた。——だから、見せなければいい。単純な話だろう?」
初手は、ただの剣だった。
紋章なしの、正確な打ち込み。受けると、二の太刀も剣。三の太刀の途中で、初めて起動が来た——句を限界まで殺した、遅らせ撃ちの風斬。読んでから避けたのでは間に合わない拍で、頬の横を風が抜けた。
——起動を、こちらの読みの「後」に置いてくる。
それだけではなかった。セオが写しの構えに入る素振りを見せた瞬間、ユーグは必ず間合いを切って撃ち合いを拒否した。火矢、剛力、風斬、雷刃。こちらの手札を全部知っていて、全部の間合いを外してくる。
帳面の男が、帳面で殴り返してきていた。
「ちなみに」と、間合いの外からユーグが言った。「君は写す前に、小さく息を吸う。吸って、半拍止める。——三度観れば分かる」
背筋が冷えた。自分でも知らない癖を、他人の口から教わる。読まれる側というのは、こういう心地だったのか。ダリオも、ルシアンも、レナードも、この寒さの中で剣を握っていたのだ。
* * *
中盤、観覧席には「番狂わせ」の空気が流れ始めた。
例の無紋が、読めていない。写せてもいない。攻め手のないまま削られていく展開は、誰の目にもそう見えたはずだ。
セオも、削られながら認めていた。この対策は、完璧だ。
完璧——過去のセオ・アトリーに対しては。
ユーグの研究は、公式記録と観客の目撃談でできている。決闘の記録。御前の場の立ち回り。噂の帳面。全部、表の記録だ。
なら、記録にないものは何だ。
夜明けの旧練兵場。見学席の帳面ではなく、体に積んだ二月ぶん。木剣の下を潜った一合目。皮膚も目のうちだと言われ続けた朝々。
——制度の外で積んだものだけが、調べられない。
セオは、写しの構えを捨てた。
袖を戻し、棒立ちに近い自然体で、ただ間合いを詰め始めた。ユーグの遅らせ撃ちが来る。読まない。読む代わりに、体で受け流す。足運びで軸を外し、剣の腹で殺し、また半歩詰める。
「……っ、」
ユーグの呼吸が、初めて乱れた。
対策の網は、写しと読みに張ってあった。何も使わずにただ詰めてくる無紋は、彼の研究帳のどの頁にもいない。完璧な対策が、対象を失って空回りする。
詰めながら、わざと剣の柄へ視線を落とした。写しの前触れと読める仕草を、読ませるために。
——情報が出ないなら、出させる。対抗演習の夜の宿題が、ここで一枚仕事をした。
ユーグは餌を拾った。写しを潰す遅らせ撃ちの起動——そのために、彼の足が半拍だけ止まる。
最後は、拍子抜けするほど静かだった。
止まった半拍へ、体術の一撃。刃引きの剣が籠手を打ち、ユーグの得物が白砂に落ちた。
「——勝者、十六席セオ・アトリー!」
* * *
ユーグは、落ちた剣を拾わずに、まずセオの顔を見た。
悔しさより先に、灯りの入った目だった。
「……写しを、一度も使わなかったね」
「使わせてもらえなかったので」
「違うな。使わずに勝てる君を、僕が研究していなかった。つまり——」
彼は指を折って、何かを数え始めた。
「全部作り直しだ。楽しいな、君」
敗者の台詞ではなかった。研究者の、次の頁の台詞だった。この学院の負け方の見本市に、また新しい型がひとつ増えた。
観覧席へ戻る通路で、ヴァンとすれ違った。
師匠は欠伸まじりに、一言だけ寄越した。
「今日のは、俺の稽古の卒業試験だ。……及第」
写しを使わない勝ちを、この人はたぶん、最初から今日のために仕込んでいた。
掲示板の次戦の欄には、もう名前が入っていた。
二回戦——ルシアン・ロデル。
掲示の前で、当人が手袋を締め直しながら待っていた。
「見事だったよ、写本屋君。……さて」
侯爵家の三男は、九十日ぶんの重さを乗せて微笑んだ。
「宿題の答え合わせといこうか」




