第40話 北から来た男
翌朝、開幕前の学院庭園で、その男は待っていた。
待っていた、としか言いようがなかった。人気のない薔薇の小径、朝の散歩の体で立つ帝国士官は、セオが通りかかると当然の顔で歩調を合わせてきた。護衛も、案内役の学院職員も、なぜかそこだけ距離が開いていた。
「セオ・アトリー。十六席。ミルベル出身、写本屋の子。無紋」
挨拶の代わりに、経歴が読み上げられた。
「調べが早いですね」
「お前が有名なんだ。……北にもな、届いてる。無紋の特待生が、貴族の子弟を紋章ごと写して転がしてるって話は」
ヴォルク・シュタールは、庭園の薔薇を眺めるでもなく眺めた。
「王国は、お前みたいなのを百年飼い殺す国だ。百年前からそうで、百年後もそうだ。血で刻む紋章の国は、血の外にある才能の使い道を知らん」
「……勧誘ですか」
「事実の確認だ」
声に熱はなかった。それが、かえって効いた。この男は挑発をしていない。読み上げている。あの規格の文字と同じ、癖のない断定だった。
「あんたは」と、セオは半分の好奇心で聞いた。「北の生まれですか」
「……国境の、どっち側かによるな」
それきり、その話は閉じられた。閉じ方の速さが、頁の厚さを教えていた。
セオは三歩ぶん黙って、それから聞き返した。
「あんたの国は、体に機械を入れた奴を、何年使うんです?」
ヴォルクの足が、半歩だけ遅れた。
遅れて、笑った。声のない、目だけ細くなる笑い方だった。
「……行間まで読むのか、お前は」
答えは、なかった。答えないことが、行間の返事だった。
小径の出口で、士官は足を止めた。
「御前試合、観せてもらう。せいぜい読める姿を見せろ。——それと」
別れ際の一言は、忠告とも予告ともつかない温度で置かれた。
「次に会うときは、たぶんこんな庭じゃない」
* * *
庭園を出た回廊の角で、セオは一度だけ足を止めた。
渡り廊下の向こう、聖堂側の柱の陰で、グレゴアが使節団の文官らしき男と立ち話をしていた。内容は聞こえない。距離も遠い。ただ、別れ際の会釈の角度だけが、初対面の儀礼にしては妙に深かった。
教会と、帝国。
並ぶはずのない二枚の旗が、昨日から王都のあちこちで、静かに隣り合っている。
* * *
昼の鐘とともに、御前試合が開幕した。
大演習場は建て増しの観覧席まで満員で、貴賓席には国王が臨席した。遠目に見える玉座の人影は小さく、顔までは読めない。それでも開会の口上のあいだ、場内の千の頭が一斉に低くなる圧だけで、王というものの重さは十分に伝わった。
開会の式次第には、王家主催の祝別も組まれていた。代表十六名が壇の前に並び、王家祭祀局の祭官が順に聖油で額を祝ぐ。夏の再儀騒ぎの決着が、この形で実務に落ちている。額に引かれた油は温かく、そして——ただの、油だった。読める限り、何も仕込まれていない。王家の油はまっとうで、まっとうであることが、逆にいろいろなことを語っていた。
祝別を終えて、新入生の部、十六名の入場。
一席から順に白砂を踏む。アリシアの歩みに歓声が沸き、レナードの名に武門の席が湧き、十六席の名が読み上げられたとき——場内は、ざわめきとも歓声ともつかない音を立てた。
嘲笑では、もうない。値踏みと期待の混ざった、覚えのない音だった。
整列の解散後、最初の相手が歩み寄ってきた。
ユーグ・ラモット。十一席。細身で、目の奥に司書のような静けさがある男だった。彼は丁寧に右手を差し出した。
「光栄だよ、アトリー君。ずっと君と話したかった」
「……どうも?」
「君の全試合、三度ずつ観た」
握った手の温度は普通で、言葉の温度だけが普通ではなかった。
「三度、ですか」
「一度目は流れを、二度目は君を、三度目は君の目線の先を観た。君は僕を読めない——公式記録がないからね。僕は君を読める。この非対称、面白いと思わないか」
思わない、とは言えなかった。この男は、セオが五年間やってきたことを、紙と根気だけでやってのけていた。
「明日の一回戦、楽しみにしている。——君が僕を読む速さと、僕が君を調べた深さ、どちらが先に底を突くか」




