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紋章なしの紋章師  作者: 西棟
第一部 学院編 第1章 無紋の少年
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第36話 事故処理

——本件、結界杭の経年劣化による偶発の事故と認む。人為の関与、これを認めず。


処理の結論が紙の上でそう固まるより先に、聴取があった。


事情聴取は、帰院の翌日に行われた。


呼ばれたのは学院長室だった。入るのは初めてだ。壁一面の書架、使い込まれた大机、茶の盆がふたつ——ひとつは来客用で、もうひとつは飲みかけだった。応接の作法より昼寝の続きが似合う部屋の主が、机の向こうにいた。


学院長オズウェル。恰幅のいい老人で、目は半分眠っている。式典の壇上でしか見たことのなかった人が、間近では、昼寝の途中の狸に見えた。


「楽にしなさい。……さて、アトリー君。三日間の顛末を、聞かせてもらおうかの」


セオは、帳面を開いた。


時系列で、全部を話した。結界杭の書き足しと、その文意。応答のなかった信号器。偽の通行止め札の印影。切断されていた吊り橋の、ふた太刀の断面。日付と刻限と、確かめた手順ごと。


オズウェルは、口を挟まずに聞いた。眠たげな目は最後まで眠たげなままで、それでいて、一度も逸れなかった。


質問は、ひとつだけだった。


「杭の文を、君は読める、と」

「……はい」

「ふむ」


反応は、それで終いだった。驚きも、疑いも、聞き返しもない。読める、という申告を、この老人は初耳の顔で聞かなかった。誰から、どこまで聞いているのか——眠たげな目は、その問いごと呑み込んで揺れなかった。


話し終えると、老人は長いこと黙り、それから机の上で指を組んだ。


「見事な記録じゃ。写本屋の躾というのは大したものよの」

「……恐れ入ります」

「本件はな、アトリー君」


声の温度は、変わらなかった。


「結界杭の経年劣化による、事故として処理される」


部屋の空気が、一段沈んだ。


「劣化……ですか。あれは」

「書き足しじゃった、と君は言う。わしもそう思う。じゃがの——それを『事故でない』と書いた瞬間、次の問いが立つ。誰が、と。その問いの矛先が向く先を、君はもう分かっておろう」


教会。


口に出さなかった言葉を、老人は眠たげな目のまま受け取った。


「学院が教会と正面からやり合えば、負けるのは学院じゃ。授紋の儀を握られておる限りな。……そしてやり合いの火種にされた生徒は、勝ち負けの前に消える」


老人は飲みかけの茶を一口含み、続けた。


「わしの仕事はの、アトリー君。正しいことをすることではない。この塀の内側で、生徒を卒業まで生かすことじゃ。正しさは、生きておる者にしか使えん道具でな」

「じゃあ、真実は」

「預かる」


オズウェルは机の引出しを開け、セオの帳面を——聴取の初めに提出させられた写しの綴りを——その中へ仕舞った。


「廃棄ではない。預かりじゃ。帳簿というものはな、アトリー君、付けた瞬間より、出す瞬間の方が値が張る。出しどきは、わしが計る」


引出しの錠が、小さな音を立てて閉まった。


守られたのか、封じられたのか。たぶん、両方だった。退室の間際、老人の声が背中に届いた。


「学院の外壁は、君が思うより薄い。——壁の内で、強くなりなさい」


* * *


演習の評点は、後日掲示された。


セオの班は討伐数と踏査記録で学年二位。一位はレナードの班で、彼は掲示の前で「不服か」と聞いてきた。


「いえ。うちの記録の半分は、評点に出せない中身なので」

「……らしいな。無事で何よりだ」


それ以上は聞かないのが、この男の礼儀だった。


ノエルは足首の治療で医務室に三日通い、四日目に松葉杖で教室へ戻ってきた。席はいつの間にか、セオの隣が定位置になっていた。


「家に手紙を書いたんだ」と、彼は照れ隠しの早口で言った。「演習で挫いた、って話のついでに——友人ができた、って」

「三頁目の?」

「うるさい」


帳面の三頁目は、その日のうちに線を引いて閉じた。清算済みの頁がまた一枚増えるのは、悪くない帳簿の育ち方だった。


* * *


その夜、学院聖堂の奥の司祭室では、灯りがひとつ点いていた。


グレゴアは机に向かい、大聖堂への定期報告をしたためている最中だった。演習の顛末。事故としての処理。関係者の氏名。そして一行——「対象、写しの二重展開を実行。生還」。


筆は淀みなく走り、最後の段で、一度だけ止まった。


少しの間ののち、司祭は結びの二行を書き足した。


——裁定は保留を具申する。


——器は本物である。


封蝋の星章が、蝋の上に沈んで固まった。


灯りは、それからも長いこと消えなかった。


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