第35話 山の主
人影は、霧の中から欠伸をしながら出てきた。
「……揃って生きてるな。上出来だ」
ヴァン・オルローだった。よれた外套は泥だらけで、担当区域の三番区からここまで、どう歩けばこの速さで着くのか、考える気力も残っていなかった。
「先生、どうして」
「勘だ」
「……勘、ですか」
「信号の死んだ班が三つ揃えば、場所は絞れる。絞った先の橋が落ちてりゃ、道は一本だ。——勘だよ、これは」
勘の定義が世間と違う男だった。短い返事のあいだも、ヴァンの目は対岸の霧を見ていた。引き上げたはずの岩皮の気配は、まだ霧の奥にある。戻ってくる、と直感が言うより早く、霧が割れた。
岩の巨体が、増水の沢を——渡り始めていた。
水嫌いの習性を、縄張りの怒りが上回ったらしい。ミナが発破の最後の一本に手を掛け、ノエルが火矢の句を構え、セオは空の魔力を掻き集めようとして、めまいに膝を突いた。
「お前らは下がってろ」
ヴァンは、木剣一本で前へ出た。
木剣。本身ですらない。あの岩の皮膚に、木の棒。
岩皮が岸に上がり、前脚を振り上げ——その一撃を、ヴァンは半歩で外した。外して、木剣の先で獣の鼻先を、こつん、と突いた。
打撃ですらなかった。合図に近い、一突き。
岩皮の動きが、止まった。
次の一撃も、その次も、ヴァンは最小の半歩で外し続けた。避けるたび、木剣が急所の寸前で止まる。目の際。喉の付け根。前脚の腱。突かない。突けるぞ、とだけ、正確に教え続ける。
読める目に、ヴァンの体は今日も白紙のままだ。それでも、白紙の余白に書いてあるものが、今日は少しだけ読めた。あの半歩は、岩皮の重心の移りを「読んで」いる。紋章も魔力もなしで、対抗演習の日に王女の障壁の揺らぎを見抜いた、あの読み方で。読めない男なのではない。文字以外の全部を読む男なのだ。
五合目で、岩皮は前脚を下ろした。
山の主は、値踏みのできる獣だ。目の前の小さな生き物が、自分を五度殺せて五度殺さなかったことを、ちゃんと数えていた。
「……もう帰れ」
ヴァンは木剣を下ろして、静かに言った。
「お前の山は、誰も取らん。連れて行かれそうになったら、また暴れろ。ただし——境の内側でな」
岩皮は、長いこと動かなかった。
やがて巨体が向きを変え、増水の沢を渡り返し、霧の奥へ引き上げていく。地響きが遠ざかり、鳥の声が一羽ぶん戻ってきたとき、ようやく三人は息を吐いた。
「殺さないんですか」と、ノエルが震える声で聞いた。
「殺せば、来年は縄張り争いで若いのが三頭里へ下りる。主ってのは、いる方が安いんだ」
ヴァンは木剣を担ぎ直して、付け足した。
「それにな。こいつは敷居を越えてない。——越えさせられたんだ」
* * *
越えさせられた。
その一言の検分は、帰り道の結界杭の前で行われた。セオが見つけた、書き足しの三本線。ヴァンは彫り口を指でなぞり、顔を近づけ、匂いを嗅いだ。
「……聖油だ。それも、上物の」
「聖油? 彫りにですか」
「彫った線に聖油を引くと、紋章の馴染みが早くなる。教会の彫り師の基本だ。素人はやらん。やる理由も知らん」
ヴァンの目が、彫りの線を端から端までなぞった。教官の目ではなかった。もっと古い、何かを狩っていたころの目だった。
「丁寧な運びだ。手癖を消してある。それでも消し切れてないのが——」
独り言が、そこで止まった。
「先生?」
「……これは、祈りの書き方だ」
祈りの書き方。
彫りの一本に祈りの型が残るほど、書き手の体に祈りが染みている——そういう意味なら、書いたのは職人ではない。祈る側の人間だ。ミルベルの偽の護符は銭のための偽物だった。この三本線は、違う。信じている人間が、信じている手つきで、獣を招く文を彫った。
どちらが怖いかは、比べるまでもなかった。
それ以上は、聞いても答えなかった。答えない代わりに、ヴァンは書き足しの三本線を木剣の柄頭で正確に潰し、杭の文を「退がれ」の向きに戻した。読めないはずの男が、直す場所を寸分違えなかった。
* * *
収容は、その日の夕方までかかった。
全班が入り口の野営地へ集められ、点呼が取られた。負傷者は多数、ただし重傷者なし。八番区の班が崖で足を折りかけ、三番区の班が沼で立ち往生し、どの班も「妙な偶然」に追われた三日間だったという。八番区の崖では、道しるべの布が一本、正規の道から崖側へ付け替えられていたらしい——らしい、で止まるのは、誰もそれを異常と言い出さないからだ。偶然の顔をした仕掛けは、偶然と呼ばれているうちは存在しない。
死人が出なかったのは、結果だ。
出ても不思議のない仕掛けが、いくつも重なっていた。そして仕掛けの狙いがどこにあったのか——考えると、セオの思考はいつも同じ場所で止まった。九番区。生徒用に変わった、今年だけの割り当て。
医務の天幕で、セオは右腕に包帯を巻かれた。
二重の火脹れは、医務官を長いこと黙らせた。原因を聞かれ、「写しを重ねました」と正直に答えると、医務官はもっと黙った。
天幕を出ると、ヴァンが外に立っていた。
夕暮れの野営地に、飯の匂いと安堵のざわめきが流れている。生き残った側の音だ。その音の外側に立って、師匠は包帯の腕を一瞥した。
欠伸はなかった。叱責の顔でもなかった。代わりに、勘定を確かめる声が来た。
「二枚目の代償、自分で分かってるか」




