第34話 二枚目
岩窟の入り口の向こうに、夜明け前の灰色を塞いで、それは立っていた。
岩皮。雨上がりの湯気を背中から立てて、ひび割れた皮膚の谷間から、小さな目がこちらを見下ろしている。
春の主獣の目とは、違う目だった。あれは獲物を数える、値踏みの目だ。これは数えない。縄張りを侵したものを、地形から除く。岩が落ち、川が流れるのと同じ顔で、この山はこちらを「除く」つもりでいる。
入り口は狭い。あの巨体は入れない。入れないと分かっているのに、誰も安堵しなかった。前脚の一撃が岩盤ごと入り口を広げにかかるまで、たぶん数呼吸もない。
「裏は岩盤。出口はあそこだけ」
ミナの声は低く、正確だった。
「あたしが発破で目を引く。あんたはノエルを連れて——」
「足の遅いのが二人になる案は却下です」
「じゃあどうすんの!」
どうする。
盤面は昨夜のままだ。写せるのは一枚。守れば逃げられない。逃げれば守れない。ノエルは走れない。ミナは道具を捨てない。捨てろと言っても捨てない。この工房の流儀ごと、彼女は彼女だ。
守るか、逃げるか。
一枚では、二択のどちらかしか書けない。
——なら。
岩盤を殴る音が、世界を揺らした。入り口の縁が砕け、石の粉が降る。
セオは右の袖をまくった。
「……なら、二枚書く」
「は!?」
誰に許可を取る話でもなかった。理屈は単純で、乱暴だ。一枚で足りないなら、二枚。守りの一枚と、逃げの一枚。同時に。
書けるかどうかは、知らない。試した者の記録を、どの本でも読んだことがない。
ただ、賭けの条件だけは読めていた。初見の紋章では、絶対に無理だ。一枚書くだけで精一杯の集中を、二枚同時に割るのだから、画の一本まで体に入っている字でなければ、手が保たない。
だが、材料はある。
障壁紋——週課の個室で、何十回も読んだ。張り替えの拍を校正するために、画の一本まで検分した。あの紋なら、体が覚えている。
瞬脚紋——十五合の被弾で、骨に刻まれた。レナードの脚の紋を、あの決闘でこの目は擦り切れるほど読んだ。
借り物の盾と、借り物の脚。
どちらも、ただの手札ではなかった。人から借りた字だ。
「ミナ、発破は俺の合図で入り口の外へ! ノエルは俺の背中に掴まれ!」
一枚目。障壁の画を、右腕に引く。
焼けた針の痛み。知っている痛みだ。歯を食いしばって、書き切る。
二枚目。瞬脚の画を——その上に、重ねて引く。
世界が、白くなった。
痛みが倍ではなかった。掛け算だった。二本の疑似回路が腕の中で軋み合い、干渉し、互いを焼く。視界の端が明滅し、奥歯の噛み締めだけでは足りず、膝が落ちかけた。
それでも、手順だけは狂わせない。
写本屋は、一字も違えない。二枚でも、違えない。
書き上がった右腕で、二つの文字が同時に光った。
* * *
「——今だ!」
発破が入り口の外で爆ぜ、岩皮の顔が一瞬だけ仰け反った。
「障壁よ、立て——瞬脚よ、疾れ!」
二重の起動句。
光の壁が体の前に展開し、脚に借り物の加速が宿る。ノエルを背負い、ミナの襟首を半ば掴むようにして、セオは砕けた入り口から夜明けの外へ跳んだ。
岩皮の前脚が、横薙ぎに来た。
正面から受けたら、光の壁ごと潰される。受ける角度は週課で覚えた。彼女の障壁は、受け止める壁ではなく、逸らす壁だ。
障壁が、受けた。
アリシアの障壁より薄く、歪で、それでも読んだとおりの張りが、岩の一撃を斜めに滑らせる。衝撃で骨まで軋んだ。壁は砕けた。砕けながら、致命の一撃を「掠り」に変えた。背中のノエルが悲鳴を噛み殺し、それでも掴んだ手を離さなかった。
借り物の脚が、地を蹴る。
沢へ。増水した流れへ。岩皮が水を嫌う——ミナの読んだ習性に、全部を賭けて。
浅瀬の位置は、初日の踏査で帳面に写してある。増水しても石の頭が沈み切らない、渡り石の一列。借り物の脚は、その一列を正確に拾った。
三人分の重さごと、セオは濁流の浅瀬を三歩で渡り切った。四歩目で加速が切れ、五歩目で膝から崩れ、それでも対岸の砂利の上だった。
振り返る。
岩皮は、沢の手前で止まっていた。
増水した流れを前に、二度、三度と足踏みをし、苛立ちに岩の皮膚を軋ませ——やがて、踵を返した。灰色の巨体が霧の奥へ引き上げていくのを、三人は砂利に転がったまま見送った。
誰も、しばらく口を利けなかった。
最初に出た声は、ミナの「腕、見せて」だった。
セオの右腕は、二枚の写しが沈んだあとも、火脹れの帯が二重に走っていた。写し一枚の痕は、いつも夕方には沈む——見えなくなるだけで、消えはしない。二枚重ねの痕は、沈む気配すらなかった。
「……馬鹿でしょ、あんた」
「他に、書ける手がなかった」
「馬鹿でしょ」
二度目の馬鹿は、声が湿っていた。彼女は薬箱を開けて、それきり口を利かずに手だけを動かした。
視界の端が、まだ明滅している。魔力は空で、体は鉛で、それでも三人とも岸の上にいる。帳簿は、黒字だ。
——霧の奥で、人影が動いた。
敵か、救助か。判別する力が、もう目に残っていない。滲む視界の端に、足元だけが見えた。
軍靴でも、生徒の靴でもない。履き潰した旅装の長靴——そして、足音がしない。




