第33話 雨の底
雨は、助けの顔をして降ってきた。
夕闇と一緒に落ちてきた本降りが、匂いを流し、足音を消し、追撃の地響きを遠ざけていく。ミナが雨音の向こうを指した。
「岩皮、水音が嫌いみたい。沢を二本越えてから、追い方が鈍ってる」
「習性か。……なら、水の近くで雨宿りだ」
見つけた岩窟は、奥行きが天幕二つ分。入り口が狭く、背後は岩盤。三人と荷物を入れると、ちょうど埋まった。
火はミナの点火具が三秒で起こした。濡れ木も選ばず火を点ける自作の道具に、ノエルが「それ、購買で売るべきだ」と本気の声を出し、「売ると教会の検定料で足が出る」と即答が返った。道具の世界にも、教会の判子は貼ってあるらしい。
濡れた上着を絞り、ノエルの足首を診る。腫れは膝下まで来ていた。添え木を締め直すあいだ、彼は歯を食いしばって、うめき声を一度も外に出さなかった。
「……すまない。僕が挫いたせいで、進みが」
「囮のおかげで二手に分かれられた。差し引きは黒字です」
「君の帳簿は、甘くないか」
「写本屋の帳簿は正確が身上です」
ノエルは添え木の足を火の方へ伸ばして、天井の岩を見上げた。
「……あのさ。今日の僕、たぶん、家の兄たちより速く走った」
「でしょうね。あの囮は、速くないとできない」
「家の物差しだと、僕はずっと遅い側だったんだ。でも今日のは——火矢の速さじゃなくて、僕の速さだった」
彼はそれきり黙って、少しして寝息を立て始めた。自分の物差しを一本手に入れた人間の、いい寝息だった。
火の周りに、湿った沈黙が下りた。悪くない種類の沈黙だった。
* * *
火の番の順が回って、ミナと二人になった。
彼女は火を突きながら、手元で信号器をもう一度分解していた。直すところのない機械を、それでも触っていないと落ち着かないらしい。
「……ねえ。あんた、帝国の機械紋章って知ってる?」
出し抜けだった。
「噂だけ。体に機械を入れるって」
「兄さんの手紙にあった。北の国境で、向こうの兵を遠目に見たって」
ミナの兄——トビー・ハレット。家計のために国境警備へ徴用された、二つ上の兄。手紙は月に一度来るという。
「書き売りに出てたでしょ、大演習。……兄さんの手紙ね、先月から墨が増えた」
「墨?」
「検閲。塗り潰し。前は月に一、二箇所だったのが、先月は五箇所。今月のは、まだ来ない」
塗り潰された手紙、という言葉に、外套の下の灼け痕が重なった。読めなくされた文というのは、どこの世界でも、ろくでもない報せの印らしい。
「体に鋼の板を埋めて、そこに紋章が刻んであるんだって。授紋の儀も、血筋も関係ない。工場で作って、兵隊に配る紋章」
火が爆ぜて、彼女の手元の影が揺れた。
「あたし、それ読んで最初に思ったのが『怖い』じゃなかった。『すごい』だった。誰でも使える紋章を、人の手で作れる。教会なしで、血筋なしで——道具として」
ミナは信号器の蓋を閉じ、火を見たまま続けた。
「……ひどいと思う? 兄さんはそれと戦うかもしれないのに、あたしは、それが羨ましい」
答えの持ち合わせは、なかった。
あるのは、似た形の身に覚えだけだ。読めるだけの目を、意味がないと言われ続けて、それでも写すのをやめられなかった五年間。仕組みに焦がれる気持ちと、仕組みの使われ方への怖さは、同じ胸の中に同居できてしまう。
「……ひどくは、ない。ただ」
「ただ?」
「道具の話は、道具を握る手の話と、いつか必ずぶつかる。ぶつかったとき、ミナがどっちを取るかは——俺は、見てから決める」
「何それ」
「保留の欄に書いておくって意味です」
ミナは短く息だけで笑って、火に薪を足した。
「あんたの目と、あたしの手があれば、大抵のものは作れる。……いつか、教会も血筋も関係ない道具を作ろうよ。誰が使ってもちゃんと動く、まっとうなやつ」
「それは」
いい目標だ、と言いかけた言葉を、セオは一度呑んで、言い直した。
「——請けます。納期は聞かないでください」
職人と写本屋の契約は、火の前の口約束で結ばれた。書面はない。ないが、この手の契約ほど、破られない。
* * *
明け方前に、手札の棚卸しをした。
発破筒、残り二本。信号弾、赤青一発ずつ。食料一日分。ノエルの足は、走れて短距離。セオの魔力は満タンだが、写せるのは一枚きり——守りに使えば逃げられず、逃げに使えば守れない。
帳面に書き出した盤面は、どこから読んでも詰みの形はしていない。していないが、綺麗な逃げ筋も書かれていなかった。
「雨、弱くなってきた」とノエルが呟いた。
岩窟の外で、雨音がまばらになっていく。雨がやめば、匂いが立つ。水音が引けば、あの巨体の億劫の理由が消える。
火を消し、荷をまとめ、耳を澄ませた。
雨だれの音の間に——水たまりを踏む音が、ひとつ。
またひとつ。
規則正しく、近づいてくる。




