第32話 撤退戦
寝息は、十を数えてから戻った。三人が谷底を離れるまで、誰も瞬きをしなかった。
谷を戻った岩陰で、作戦会議は三分で済んだ。
「勝たない。通り抜けさせてもらう」
セオの方針に、異論は出なかった。相手は山の主だ。倒す倒さないの盤面に、最初から乗らない。
地図を岩の上に広げる。主の縄張りは、たぶん谷のどん詰まりを中心にした円だ。円の縁をなぞるように迂回すれば、区域の入り口側の尾根へ抜けられる。
荷の仕分けも三分で済んだ。天幕と食料の半分を置き、水と薬と発破と信号弾は持つ。ミナは自分の工具袋を背負い直した。
「工具は置いていけば」
「置かない」
即答だった。「道具を捨てた職人は、次に自分の手を捨てる。それに——この山で何かが壊れたとき、直せるのはこの袋だけよ」
反論の材料は、例によってなかった。
「縄張りの境目なんて、読めるの?」
「読める……と思う。あの手の獣は、境に印を残す。木の幹の高い位置の爪痕、岩の匂い付け。印の並びが、そのまま境界線だ」
実際、迂回を始めると印は見つかった。太い幹の、人の背より高い場所に、四本爪の古い痕。それが点々と、谷を巻く弧を描いている。爪痕は獣の書き置きだ。文字ほど親切ではないが、読めないほど無口でもない。
印の外側を、風下を選んで進む。
半分まで進んだところで、風が変わった。
山の風は夕方に向きを変える。分かっていたはずの変化が、想定より半刻早かった。三人の匂いが、谷の奥へまっすぐ流れる。
谷底で、岩の動く音がした。
眠りから覚めた主が、立ち上がる音だった。
* * *
逃走は、静かに始めて、すぐに静かでなくなった。
岩皮は速くない。だが、止まらない。斜面も倒木も藪も、進路にあるものを迂回せず、踏み潰して直進してくる。背後の森が一定の拍子で砕けていく音は、速さよりよほど神経に悪かった。
「発破、使う!」
ミナが走りながら叫び、返事を待たずに投げた。
三数える前に、岩肌の斜面が爆ぜた。土砂と石が崩れ、獣の進路に小さな山を作る——効いたのは、五呼吸だった。土砂の山が内側から割れて、灰色の巨体が何事もなく這い出してくる。皮膚の岩塊に、傷ひとつ見えない。
「岩皮って名前、飾りじゃないんだ……!」
「二本目は温存! 効かない的に使う道具じゃない!」
走る。読みながら走る。荷が肩に食い込み、呼吸が焼け、それでも足だけは乱さない。朝稽古の足運びは、逃げるときにも仕事をした。
縄張りの印はもう越えたはずだ。越えても、追ってくる。縄張りを侵した者への追撃か、それとも——考えるのは後だ。
前方に、沢の細い支流。その向こうが尾根への登り。
そこで、ノエルが足を止めた。
「僕が、引きつける」
「は?」
「三人でまとまって逃げたら、追いつかれるのは荷の重い順だ。ハレットさんの装備は捨てさせられない。なら、身の軽いのが囮になって二手に分ける——僕の火矢は遅いけど」
ノエルは、震える声のまま、笑ってみせた。
「逃げ足だけは、学年一だ」
議論の時間はなかった。それでも一秒だけ使って、セオは帳面の三頁目の男の顔を見た。見張り役だった男が、囮を志願している。人の帳簿は、めくり方でずいぶん違う本になる——めくったのは、彼自身だ。
「支流を渡って上流へ。火矢は威嚇だけ、絶対に当てるな。怒らせたら終わりだ」
「分かってる!」
ノエルは駆け出し、火矢を斜め上へ放った。細く正確な火が獣の鼻先をかすめ、巨体の進路がわずかに逸れる。その隙にセオとミナは支流を渡り、荷を担ぎ直し、上流側の岩場でノエルの合流を待った。
二度、三度、火矢の光が霧の中で瞬く。
四度目の光のあと、ノエルが支流を跳んで渡ってきた。転がり込むように岩場へ上がり、足首を押さえて呻く。
「渡りで、挫いた……走れる、けど、速くは——」
「上出来です。……礼は」
言いかけて、口をつぐんだ。礼の言葉の在庫を探すより先に、ミナがノエルの足首へ添え木を当て始めていた。礼より添え木。この班の優先順位は、いつも正しい。
* * *
退路は、あと一本だった。
支流沿いに下れば、区域の入り口の吊り橋に出る。偽の札があろうと、橋は橋だ。渡ってしまえば、あの巨体は付いてこられない。
霧の向こうに、橋の輪郭が見えてきた。
見えて、三人とも足が止まった。
吊り橋が、落ちていた。
谷に垂れた橋板が、対岸の岩で力なく揺れた。橋を吊っていた綱は、ほつれても千切れてもいない。断面が、平らだった。
セオは崖際に膝をつき、垂れた綱を引き上げて検めた。切り口はふた太刀。高さは大人の肩口。刃の入りは深く、迷いの跡がない。獣の爪はこんな字を書かない。これは、人の手の書いた文字だ。
刃物の仕事。それも、切り口の乾き方からして——今日だ。
獣は、橋を切らない。
背後の霧の奥から、規則正しい地響きが、また近づき始めていた。




