第31話 導かれる
手順どおりなら、話は簡単だった。
異常を見つけたら通信具で報せる。各班に配られた付与紋の信号器は、握って句を唱えれば巡回の教官の受け器に鈴を鳴らす仕組みだ。
ミナが信号器を握り、句を唱えた。
鈴の応答は、なかった。
三度やって、三度とも沈黙。ミナはその場で信号器を分解し、回路の付与紋を検め、眉間の皺を深くして組み直した。
「……壊れてない」
「電池切れとか」
「切れてない。飛んでる。ちゃんと、飛んでる」
工具を仕舞う手が、いつもより一拍遅かった。
「壊れてるのは、こっちじゃない。受け手が——応えてないだけ」
ノエルが、信号器とミナの顔を三度見比べた。
「で、でも、巡回の教官は受け器を常時携行って、要項に。決まりで、そう」
「決まりではね」
決まりを守る側で生きてきた子が、決まりの空白に落ちる瞬間の顔を、セオは初めて間近で見た。
三人の間に、本物の沈黙が落ちた。
機械の故障なら、直せばいい。だが受け手の沈黙は、直せない。巡回の教官が受け器を置いて離れているのか、鈴が鳴っても動かないのか、それとも——鳴る先が、最初からないのか。
「日暮れまでに、区域の入り口まで戻ろう」とセオは言った。「直接報せる。歩けば報せられる」
誰も反対しなかった。反対しない速さが、三人の共通認識を語っていた。
* * *
来た道は、半分までしか使えなかった。
沢沿いの道を下り、区域の入り口へ向かう吊り橋の手前で、それは立っていた。
——通行止め。杭補修中。迂回されたし。
学院印の札だった。木の杭に打ち付けられ、橋の入り口を塞いでいる。ノエルが素直に足を止め、ミナが迂回路を探して地図を広げかけ、セオだけが札の前から動かなかった。
読める。読めてしまう。
印影は学院のものだ。形は正しい。だが印の朱が、紙の繊維に対して浅い。本物の学院印は係が力任せに押すから、朱が滲んで裏まで抜ける。購買の受領印で百枚は見てきた。この札の印は、丁寧すぎる。写した印だ。
「この札、偽物です」
「……偽物?」と、ノエルの声が裏返った。「なんで、誰が、そんな」
「分からない。分かるのは、この橋を渡らせたくない誰かがいることだけ」
ミナが地図を広げ直した。
「迂回路は一本。沢を上流に遡って、谷筋を抜ける道」
「谷筋って、それ——」
ノエルが言いよどんだ先を、地図の等高線が語っていた。谷筋の道は、九番区の境をかすめて、森の深部へ寄っていく。
橋は塞がれ、通信は沈黙し、残された道は一本だけ。
一本だけ残されている、ということの意味を、セオは声に出した。出すかどうか、三歩ぶん迷ってから。
「……誘導されてる。この道へ」
「でしょうね」とミナが言った。
「だよね」とノエルが言った。
分かっていて、進むしかない。歩き出す三人の頭上で、梢が風もないのに一度だけ鳴った。
* * *
谷筋の道は、下るほどに霧が出た。
夏の夕方の、冷えた沢霧。視界が白く詰まり、音の輪郭だけが際立っていく。ノエルは三歩ごとに後ろを確かめ、ミナは発破筒の紐を確かめ、セオは読める限りの痕跡を読み続けた。
けもの道に、獣の気配が薄い。
それが一番、嫌だった。獣の濃い森より、獣の逃げた後の森の方が悪い報せだ。小さいものは、大きいものから先に逃げる。
やがて、鳥の声が消えた。
ミルベルの夜と同じ順番だった。鳥、それから虫。音の絶えた霧の中で、自分たちの足音と呼吸だけが、やけに大きく谷に響く。
遠くで、信号弾が上がった。
赤——ではなく、青。救援求む。方角は隣の八番区。続けてもう一発、これは遠い三番区の空。悲鳴は聞こえない。距離だけが、状況の悪さを教えてくる。
「うちの班だけじゃ、ない……?」
ノエルの呟きに、答えられる材料がなかった。
霧の谷底へ、道が開けた。
沢が広がり、岩が転がり、視界の白が薄れていく。その先——谷のどん詰まりに、それはいた。
最初は、岩だと思った。
苔むした灰色の巨岩が、谷の口を塞いでいる。そう見えた輪郭が、ゆっくりと上下した。
呼吸だった。
岩に見えたのは背中で、背中の主は、頭を低くしたまま眠っている。熊に似て、熊の倍——いや、野営の天幕を三つ並べても、あの背中の下に収まる。皮膚は岩塊のようにひび割れて、ひび割れの谷間で夏の虫が鳴いていた。寝息のひとつごとに、足元の砂利が微かに震える。
生き物の寸法ではなかった。地形が、息をしている。
〈岩皮〉。
古森の主。爺さまたちの語り話の、もう一段奥の頁にいる名前。
まだ、こちらに気付いていない。
三人は、息を殺して後ずさった。ミナの手が、発破筒の紐から音もなく離れた。あれは、起こしていい相手ではない。誰に教わらなくても、体の芯が知っていた。
後ずさりの三歩目で、ノエルの踵の下の石が、こと、と鳴った。
巨岩の寝息が——止まった。




